14話 汚泥の中を歩いていく
ヘンゼルはしばらくするとひょっこりシャルロッテの元に帰ってきた。顔は晴れやかで、笑みも柔らかい。ヘンゼルがどのようにしてエルフリーデに復讐したかはわからないが、エルフリーデが修道院で大人しくしているからか、エルフリーデを支持する派閥がハインリヒと復縁させようとする動きは下火になっていった。
「シャルロッテ、もう大丈夫ですよ。あの女はもうあなたに何もできない」
車椅子に座るシャルロッテに視線を合わせて膝をついたヘンゼルは優しく手を握った。ヘンゼルの顔の清々しさにはシャルロッテの手足としての役割を全うしたという感慨が滲んでいた。
「これからもわたしがあなたの手足となって償い続けますから」
動かない足に縋り付くヘンゼルの頭をシャルロッテは優しく撫でた。
「償うだなんて…あなたのせいじゃない。それに、王太子の関心を引けるなら、足の一本や二本安いものだと思ったの」
階段から飛び降りたあの時、シャルロッテは悪魔に魂を売ったのだ。かつては鉄鋼業で、繁栄を極めた男爵家も、鉄の採掘量が減ってくると王家から見向きもされなくなっていた。
シャルロッテは屋敷から逃れたくて伝手を探していた。王家からの関心が戻れば領地はまた活気付く。王家からの目があるということは、父はあまり好き勝手にはできなくなる。ベルク公爵が娘可愛さに揉み消せなかったみたいに。
求婚までされるのはちょっと出来すぎだったが。でも、そうして伝手を得られて逃げ道を作れればヘンゼルを連れ出せると思ったのだ。シャルロッテは自分一人でも生きていける、いや、ヘンゼルと二人きりで生きていける力が欲しかったのだ。
それを野心と言われてしまえば、何も言い返すことはできない。母を、父を、ヘンゼルを、エルフリーデを、ハインリヒを、周りにいる人を壊していった道のりなのかもしれない。
それでもシャルロッテは自分の動かない足を後悔することはない。あの時、精一杯の選択をした。
「シャルロッテ、あなたは今幸せですか」
ヘンゼルはシャルロッテを見上げながら尋ねてくる。その瞳には不安の色があった。
「汚泥の中を彷徨っているみたいだった」
もがけばもがくほど沈んでいく。口にも耳にも泥が入って、それでも天に向かって手を突き上げている。主よ、どこにおられるのですか。こんなにも苦しんでいるのに。
「ねぇ、ヘンゼルの故郷の花畑に行きましょうよ。小屋を建ててそこで暮らすの」
シャルロッテの言葉にヘンゼルは昔した約束を思い出したのだろう。もうここにはいられない。たとえ終わりが見えている逃避行なのだとしても、行かなければならなかった。
「ええ、いいですね。行きましょう」
ヘンゼルは立ち上がると、シャルロッテを抱えた。離さないようにシャルロッテもしっかりヘンゼルにしがみ付く。
「私を抱えて汚泥の中を歩いてくれる?」
シャルロッテは甘えるように頬を擦り寄せながら尋ねた。
「どこまでも」
ヘンゼルの答えは迷いがなかった。考えるまでもなく決まっていることのようだった。わたしたちはおかしいのだろうかとシャルロッテは考える。とても自分勝手で、周りを振り回すというより壊してきた。
でも、それが何だというのだろう。たとえ誰に批判されようとも、もうそこにシャルロッテたちはいないのだから。ヘンゼルが知っていた使用人の通路を使って夜中にこっそり王宮を出た。一人分の足跡と、二人が寄り添っているような人影は濃霧の中に消えるだろう。
***
ハインリヒはベルク公爵から謁見を申し込まれ改めて謝罪されていた。
「王太子殿下、せっかくの機会をいただいたのに申し訳ありませんでした」
「それで、エルフリーデは今もまだ反省する様子はありませんか」
道を踏み外してしまったが、婚約者だった人だ。多少の情は残っている。間違いを認めて新たに歩き出して欲しいと願わずにはいられなかった。
エルフリーデの謝罪はシャルロッテのためでもあるし、エルフリーデのためでもあった。謝罪だけでシャルロッテの足が不自由になったことは許せない。シャルロッテも恨んでいないと言っていたが複雑だろう。しかし、エルフリーデが更正する機会を与えなくてはならないと思っていた。
ベルク公爵はエルフリーデの名前を出すと明らかに動揺して視線を逸らした。
「実は…エルフリーデはもう反省することはできないかもしれません」
妙な言い方だった。ハインリヒは訝しみながら理由を尋ねた。
「それが、エルフリーデはおかしくなってしまったんです」
「おかしく…?」
確かに彼女から「おとめげーむ」「あくやくれいじょう」といった珍妙な言葉が漏れることはあったが、それ以外は普通だったのであまり気にしていなかった。
「娘は金髪の人を見ると酷く怯えて…。わたしも金髪ですから話もできなくなりました。娘が急にこんなことになって、修道院を調査したのですが何も変わったことはなかったと」
ベルク公爵は修道女たちに聞き込みを行ったが、何も成果は得られなかったらしい。エルフリーデがおかしくなった時期に新入りの修道女見習いがいたが、戒律が厳しくてすぐに逃げ出してしまったという話しか出てこなかった。
「お恥ずかしいですが、こんな状態なので罪を反省させることができないかもしれません」
ハインリヒはエルフリーデが自分の罪の重さに耐えきれなくなって狂ってしまっていた方が良かったと酷いことを考えた。反省せずに狂ってしまったら、こちらには感情の行き場がない。
ため息を吐きたいのを我慢しながらハインリヒは部屋を出た。侍従たちを付き従えながら、シャルロッテに与えられた部屋へ向かっていた。彼女に会いたい。そして安心したかった。
車椅子姿のシャルロッテを初めて見たとき、ショックだった。自由で溌剌とした女性だったのに、すっかり弱々しい印象になっていた。彼女の足を奪ったエルフリーデが許せなかった。
エルフリーデがこんなことをしなければ、ハインリヒはシャルロッテへの想いを封じてエルフリーデと結婚する未来もあったかもしれないのに。だが、階段から人を突き落とすような本性を隠し持った女性と結婚しなくて済んだことに安堵していた。
だがこうも思ってしまったのだ。足が不自由なシャルロッテは自分から逃げることはできないと。仄暗い欲望が湧き上がってくるのを感じた。王宮に大切に大切に囲い込んで、もう彼女を傷つけるような外界と接触させたくなかった。
シャルロッテの部屋にたどり着くと、侍従たちが慌てていた。
「どうした」
ハインリヒが話しかけると、メイドが上擦った声で答えた。
「王太子妃殿下のお姿が見えず…! 従者の方が付いているから大丈夫かとは思うのですが、我々には何も言わずにいなくなって」
嫌な予感がして、ハインリヒはシャルロッテを捜索するように命じた。王宮では見つからず、首都、郊外と捜索の範囲を広げていった。そしてハインリヒは彼女が実家に帰ったのではないかと思い、アイゼン男爵領へ向かった。
男爵邸では老齢の家政婦一人が迎えてくれた。
「お嬢様はこちらには来ておりません」
家政婦は困惑したように頭を下げるだけだ。
「アイゼン男爵に会わせろ。彼なら娘がどこに行ったか知っているかもしれない」
「旦那様はお会いになれるような状態ではございません!」
家政婦はハインリヒを止めたが、焦っていたハインリヒはそれを無視して男爵の寝室へと入った。そこで見た光景にハインリヒは言葉を失った。アイゼン男爵──ダミアンは階段から落ちたというより明らかに人間から殴打された痕が残っていた。
家政婦も最低限の世話はしていただろうが床ずれが酷く膿のような臭いを発していた。
「王太子…殿下…」
国王である父からダミアンはハンサムだと聞いていたが見る影もなく、顔は歪んでいた。骨が折れたのに治療をしなかったのか鼻が折れたままになっている。
「シャルロッテはどこにいるんだ。従者と共に消えた。あなたはどうしてこんな怪我を」
ハインリヒは思わず口元を押さえながら尋ねた。
「わたしは、罪を犯しました」
ダミアンの口から語られたのはおぞましい罪の数々だった。みなしごを私利私欲のために拾い、虐待し続けたこと。自分から逃げないように可愛がって洗脳したらしい。
妻が精神を病んで死に、車椅子になった娘に妻を重ねて手を出そうとしたところ、慰み者にしていた青年はいつの間にか執着の先をダミアンからシャルロッテに移しており、反撃され動けない体になった。
家政婦の女には遺言状が残されていた。当主ダミアンが死に、シャルロッテが姿を消したら、アイゼン家の資産を給金として譲る。アイゼン家の領地は親族の隣の辺境伯領と併合されることを望むと綴られていた。これはシャルロッテが王宮に来る前に書かれていたものだった。
「父として最後にあの子に出来ることがあるのだとすれば」
ダミアンは喘ぐように掠れた声を絞り出していた。
「王太子殿下、シャルロッテが姿を消したなら、もうあの子を探さないでやってください」
ダミアンの言葉を聞いて、ハインリヒはシャルロッテが一度でも自分を好きだと言ってくれたことはあったかと考えて、そんなことは一度もなかったと思い至った。自分の気持ちを押し付けていたから、彼女は離れたのだと気づき、ハインリヒはその場に崩れ落ちた。




