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3話

【3話;夜のファッションビルと、ひつじの誘惑】



 それは、まだ彼女が「背景の少女」ですらなかった頃の、遠い記憶。夕暮れ時。村の端にある家のバルコニーで、幼い凛は祖母の膝元に座っていた。目の前に広がる森は、沈みゆく太陽に照らされて、黄金色と深い影の境界線を曖昧にしている。


「いいかい、凛。あの森の奥にはね、大昔から『精霊』が棲んでいると言われているんだよ。おばあちゃんもね、若い頃に一度だけその姿を見たことがあるんだ」


おばあちゃんの穏やかな声に凛は身を乗り出して目を輝かせた。


「精霊? どんな姿なの? やっぱりキラキラしてて、とっても優しい存在なの?」

「ふふっ。どうだろうねぇ。精霊というのはね、凛。鏡のような存在なんだよ。彼ら自体に『聖』も『魔』もない。ただ無垢なだけの力が関わった人間の心に同調して、その色に染まってしまうんだ。優しい人が触れれば救いの光に淀んだ心が、触れれば災いの闇に。

精霊がどう見えるかは、それを見る人間がどんな『物語』を生きているか次第なんだよ」

「鏡。なんだか難しいけど私もいつか会いたいなぁ!」


無邪気に笑う凛の頭をおばあちゃんは、少し寂しげなそれでいて慈しむような手つきで撫でた。


「いつか、きっと会えるよ。その時はね、凛。おばあちゃんの目がもう一度あなたの笑顔を見られるように、お願いしてくれるかい?」

「うん! 私、絶対にお願いするよ!」


指切りを交わした温かな手の感触。

その約束を交わしたはずの少女が、今――。



ーーーー



おばあちゃんの指先の残像が、のぶの掌の熱へと溶けて消えていく。エスカレーターの駆動音とビルの隙間を吹き抜ける風の音が冷たく、そして鋭くのぶの意識を研ぎ澄ませた。


ーーーー


のぶ:

(落ち着け。今はアニメの知識も勝手な考察もいらない。見ているのは目の前の彼女だけだ。ここで判断を間違えれば二度とやり直しはきかない。一発勝負だ)


のぶは、凛を引く自分の手の感覚に全神経を集中させた。どろりとした闇のような震えはまだ収まっていない。だが、彼女の呼吸は先ほどよりも少しだけ整い、歩調にも確かな実感が戻り始めていた。


凛:

「ん、……ぁ。のぶ? ごめんなさい、私少し、寝ちゃってたみたい」


凛がゆっくりと顔を上げる。その瞳は仮眠を取ったおかげか、先ほどまでの濁りが嘘のようにスッキリとしていた。何か大切な夢を見ていた気がする。

懐かしくて温かい、何か――。

でも、その中身を思い出そうとしても、すり抜ける砂のように指の間からこぼれ落ちてしまう。ただ、繋がれた手から伝わる確かな温もりだけが、現実のいかりとして彼女の心に深く刺さっていた。



凛:

「あ! のぶ、見て! ひつじさん! ひつじさんがいるわ!」


凛が不意に声を上げ、パッと手を振りほどいて走り出した。彼女が吸い込まれるように向かった先は、ファンシーな雑貨が並ぶ一角。


のぶ:

「え? ひつじ?ああ、ひつじのショーンのキャラグッズか。って、待てよ。あんなに緊迫してたのに、ショーンに全部持っていかれたのか?」


のぶはポカーンと立ち尽くし、無邪気にモコモコのぬいぐるみを眺める凛の背中をゆっくりと、それでいて一瞬も目を離さずに追った。



ーーーー



子供たちの騒ぎ声が一段と高く店内に響き渡る。

「あはは、待ってよー!」

追いかけっこをしていた一人の小さな女の子が、勢い余ってバランスを崩し、ぬいぐるみの棚に突っ込みそうになった。

「あっ!」

凛がとっさに手を伸ばそうとした瞬間、それより早く一人の少年が少女の体をがっしりと受け止めた。

「危ないだろ、気をつけろよ」

ぶっきらぼうだけど温かいお兄ちゃんの声。妹は守られるのが当たり前だと言わんばかりに、お兄ちゃんの顔を見てニッコリと笑うと、また元気よく友達の輪へと駆けていった。それを見送る凛の横顔は慈しむように優しかった。けれど、その瞳の奥には深い深い寂しさが滲んでいる。


「いいな。私も、会いたいな、おばあちゃん。

おばあちゃんのあったかいふかし芋。また、食べたいな」


凛が小さく呟いたその瞬間、世界の温度が急激に凍りついた。



のぶ:

(っ!? なんだ、今の!)

店内の空気が物理的に『捻じれた』。魔力なんて感じられないはずの俺の肌に、正体不明のどろりとした漆黒の波動が叩きつけられる。それは、さっきまでの『サワサワ』なんてレベルじゃない。深淵の底を覗き込んだ瞬間に目が潰れるような圧倒的な「個」の重圧。風もないはずの店内で、凛の聖衣が狂ったようにバタバタと舞い上がる。凄まじい波動の直撃を食らい、のぶはたまらず腕で顔を覆い目を閉じた。

数秒後、嵐のような静寂が訪れ、のぶが恐る恐る目を開けたとき――。


「……え……?」


そこに、おっとりした少女の姿はなかった。凛が立っていた場所。そこには床を削り、周囲の色彩を飲み込むような禍々しい漆黒の虎が、低く唸り声を上げて鎮座していた。



目の前に鎮座する圧倒的な絶望。凛のいた場所に現れたその漆黒の獣は、のぶの知るどんな「原作知識」にも該当しなかった。ただの黒い虎ではない。その毛並みは夜を切り取ったかのように深く、瞳からは黄金色の魔力が溢れ出している。荒々しくも侵しがたい神聖さを纏ったその姿は、属性反転というバグが引き起こした、最凶にして最古の「何か」の顕現であると、のぶの脳が勝手に演算を弾き出す。


「……グ、……ル、ルル……ッ!!」


黒虎が低く地響きのような唸り声を上げる。凄まじい殺気が津波のように押し寄せ、のぶの皮膚がピリピリと裂けるような錯覚に陥った。――来る。そう確信した瞬間、不思議と体から力が抜けていくのを感じた。



のぶ:

(ああ、終わったな。原作第1話で、主人公をかばって消えるモブの気持ちが、今ようやくわかったよ。でも、せめて元の凛に戻してやりたかったな。ふかし芋の思い出に泣いて笑える、あのお喋りな彼女に)


世界がスローモーションのように動き出し、静寂が訪れる。そのクリアになった意識の片隅でずっしりと重い「ある感覚」が蘇った。


のぶ:

(待てよ。店長が言ってた『効果は保証する』っていうあの包み!)


死の淵に立たされたのぶの手が、震えながらもコートのポケットに突っ込まれたままだった「それ」を力強く握りしめた。のぶが包みに指をかけた瞬間、正面からの重圧が爆発的に跳ね上がった。


「……っ、が……あ……!」


慌てて顔を上げたのぶは目の前の光景に絶句した。そこにいたのは、もう虎ですらなかった。空間を侵食する泥のような闇が、巨大な『黒い手』の異形となってのぶの頭上を覆い尽くしていたんだ……



のぶ:

(おい、待て。こっちはまだ一歩も動いてないしダメージも与えてないぞ。何の前触れもなく第二段階に変身とか、無理ゲーを通り越してもはや意味不明だろ!イベントスキップもできない、救済措置もない。これが現実の『初見殺し』ってやつかよ!)


その悪魔のような手が、何かを貪り食おうとするように、ゆっくりとのぶへ伸ばされる。死の冷気が肌を刺したその時、のぶの脳裏にあの店長の顔が浮かんだ。



のぶ:

(あの覇気、そして迷いなくこれを俺に託した判断力。まさか、あり得ない。あのアニメの歴史に刻まれた、伝説の始祖レオ。あのステーキ屋の油にまみれたおっさんがまさか、本人なのか!?)


「――だとしても今はこれに頼るしかないんだ!」


のぶは焦る指先で包みを力任せに引き裂いた。

眩い銀色の閃光が闇を貫く。現れたアーティファクトは、魔力を持たないのぶの手の中でまるで生き物のように激しく熱を放ち始めた。



その悪魔のような巨大な黒い手が、のぶを貪り食おうと迫る。死を覚悟したのぶは、店長から託された銀色の輝き――その包みを、震える手でむしり取った。



のぶ:

(店長、あんたは先回りでこの世界に潜んでいた勇者の始祖レオなんだろ。この伝説のアーティファクトの力、信じさせてもらうぞ!)

厚手の紙を破り銀色に光る『その物体』を掴んだ瞬間。のぶの手に伝わってきたのは、竜を両断する聖剣の鋭利な魔力……ではなかった。



のぶ:

(熱い。いや、これ、魔力の熱じゃなくて物理的な温度だ。それに、なんだこの手に馴染む丸くて柔らかい、それでいてずっしりとした『ホクホク感』は!?)

銀紙の中から現れたのは、真っ二つに割れた中心から、とろりとしたバターが溶け出し、立ち上る湯気が闇を優しく切り裂く――究極のふかし芋だった。



のぶ:

(……あ。これ、さっきの店で凛が睨んでた『北海道産ジャガイモのホイル焼き』。店長、これ冷めないように銀紙で包んで、さらに厚紙で二重包装してくれてたのか!? 相手の二段階変身に、こっちも二重構造で対抗……って、感心してる場合かよ!)


だが、その瞬間。のぶに向かって振り下ろされようとしていた巨大な黒い手が、ピタリと静止した。闇の奥から聞こえてくるのは、喉を鳴らすような切実で、どこか懐かしい「音」。



のぶ:

(そうか。この『黒い手』が欲していたのは、俺の命じゃない。凛の中の属性反転して暴走した『食いしん坊な本能』が、あの時食べられなかった『因縁の芋』を求めて顕現したのか!?)


のぶは覚悟を決め手に持った「銀色の聖アーティファクト(芋)」を、迫り来る闇のど真ん中へと突き出した。のぶが突き出した「銀色のアーティファクト(ふかし芋)」に巨大な黒い手が触れた瞬間。店内の照明を吸い込んでいた漆黒の波動が、キラキラとした光の粒子となって弾け飛んだ。どろりとした闇が霧散し、その中心で「何か」が急速に小さくなっていく。



のぶ:

(え? 縮んでる? 浄化されて消滅するのか!?)


だが、そこに残ったのは消滅した光の残滓ではなかった。のぶの足元、銀紙の上に転がったホクホクの芋に一生懸命かじりついている手のひらサイズの毛玉。



「みゅうっ!」



愛らしく鳴いたそれは黒い虎でも悪魔の手でもない、つぶらな瞳をしたハムスターに似た小動物だった。



のぶ:

「は? ハ、ハム……太郎……?」



凛の声:

「……んん、ぷ、プー? だめよ、そんなに急いで食べたら喉に詰まらせちゃうわ」


背後から聞こえてきたのは、いつものおっとりとした凛の声。振り返れば聖衣のバタつきも収まり、寝ぼけ眼で目をこすっている彼女が立っていた。



のぶ:

(そ、そういうことかよ!!こいつ、凛と一緒にこっちの世界に紛れ込んでた、あの『害のない魔物』のプーちゃんだったのか!?凛がメニューの芋を睨んでた時、服がポコポコ動いてたのは、中のこいつが芋の匂いに反応して暴れてただけだったのか!)


のぶのこれまでの「属性反転」だの「最凶の黒魔術」だのといったシリアスな考察が、ガタガタと音を立てて崩れ去っていく。すべては「お腹を空かせた食いしん坊の居候」が引き起こした、盛大な勘違いだったのだ。



ーーーー



 嵐が去った後のような静かな脱力感が、ファッションビルの一角を包み込む。のぶの目の前では正体不明の毛玉が、銀紙の上でホクホクのジャガイモを幸せそうに頬張っていた。


「よかったぁ。プーちゃんお腹空いてたのね」


寝ぼけ眼の凛に「プーちゃん」と呼ばれたその生き物は、満足げに鼻を鳴らす。あんなに禍々しく見えた漆黒の波動も、今はただの『猛烈な空腹感』の余韻にしか見えない。結局、俺の生存本能を削っていたのは、この小さな同居人の「食欲」だった……ということなのか。


「ねえ、のぶ。なんだか私も、もっと甘いものが食べたくなっちゃった。あっちにすごくいい匂いのするお店があるわよ?」


促されるままのぶはまだ震えの止まらない足を動かし、夜の街へと踏み出した。たどり着いたのは、暖かなオレンジ色の照明が漏れる今どきのパンケーキカフェ。メープルシロップの甘い香りが、さっきまでの死闘(?)を嘘のように塗り替えていく。

ふわふわのパンケーキを前にようやく人心地ついたのぶは、覚悟を決めて口を開いた。





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