2話
【2話;獄炎のバッファローと、沈黙のジャガイモ】
カウボーイハットを被った牛の看板が、夕闇の中で怪しく点滅している。
目指すステーキハウスの重い扉を開ける直前、俺はまた、正体不明の違和感に襲われていた。
隣を歩く凛は、相変わらず「このエリアの魔素配置が……」と、おっとりした声で物騒な独り言を並べている。
それ自体は、もう聞き流せばいい。……はずなのに。
さっきから、襟足のあたりがムズムズする。それだけじゃない。首筋を冷たい指で撫でられているような、サワサワとした不快な感触が、脳の奥まで浸食してくる。
背景に溶け込んでいたはずの、あの素朴な「村娘A」だったはずの彼女。なのになぜ、今の凛からは、深淵の底を覗き込んだ時のような、逃げ場のない『厚み』を感じるんだ?
このムズムズとサワサワの正体は、彼女が隠し持っている『何か』への、俺の生存本能が鳴らす警笛なのか。
「のぶ? どうしたの、早く入りましょう。私の魔力残量が、もう枯渇寸前みたいなの」
ただお腹が空いているだけの少女に、俺は何を怯えているんだろう。俺は自分に言い聞かせるように息を吐き、店内のボックス席へと彼女を促した。
ーーーー
凛:
「見て、のぶ。このメニュー、信じられないわ。
この『特選厚切りサーロイン』これ、あっちの世界の北方領土にしか現れないネームド級の魔物『獄炎のバッファロー』の肉質に酷似しているわね。
これを摂取すれば、私のマナは全盛期をも超える再構築が可能になるはずよ」
のぶ:
「へぇ、獄炎のバッファロー……。すごいんだね。
じゃあ、そのマナを増幅させるために今日はそれを頼もうか。俺がご馳走するからさ」
凛:
「ええ、当然の投資だわ。」
(そう言いながら凛は、メニューの隅にある『ジャガイモのホイル焼き』を親の仇でも見るかのような鋭い眼光で睨みつけた。その殺気はもはや深淵の魔物と対峙した聖職者のそれだ。
そして、鋭い視線で店内の四隅を走らせた。空調の微かな振動に眉をひそめ、店員の足音のテンポを測るようなその異様なまでの警戒心。
のぶの目には、彼女がこの空間に潜む『不純物』を一つ残らず弾き出している、熟練の観測者のように映っていた)
のぶ:
(……優しい口調で頷いてはみたけど、今のあの目、やっぱり普通じゃない。原作第212話で白魔術士が周囲の魔素を読み取っていたシーン、あれを彷彿とさせる圧倒的な集中力だ。背景モブだなんて思ってたけど、彼女は今、俺たちには見えない『世界の境界線』と戦っているのかもしれない。
それにしても。なんでだろうな……俺の頭の片隅には、またホクホクの『ふかし芋』がチラついてる。いかん、失礼すぎるだろ俺。よし。凛がマナを回復させるなら、俺も全力でサポートしなきゃな)
凛:
「ぷはぁ、美味しかった!
ねえ、のぶ。あっちの村ではね、手のひらサイズの小さな魔物がたくさんいて、いつも子供たちの周りをちょこちょこ走り回ってたの。みんなで一緒に泥だらけになって遊んで、あはは、あの時の空気今でも思い出せるわ」
(そう言って笑う凛の表情は、どこまでも無垢だ。そのあまりに眩しい微笑みは、背景モブのそれというより、過酷な世界を慈しむ聖女のようにさえ見えた)
のぶ:
(今、なんて言った?魔物と子供が一緒に遊んでた? 普通ならありえない。原作設定なら、どんなに小型の魔物でも人間への敵意は消えないはずだ。それを『仲良く遊んでた』なんてさらっと言えるのはまさか彼女、無意識に周囲の悪意を浄化する、最上位の『聖域化』を持っているのか?
彼女はやっぱり、俺が思っている以上にとんでもなく高い次元にいる存在なんじゃ)
だが、その時だ。
のぶの襟足に、これまでで最大級の『サワサワ』とした感覚が走った。ふと視線を上げると、さっきまで賑やかだった店内の空気が一変している。隣の席の客は青ざめた顔で胸を押さえ、足早に伝票を掴んで席を立った。厨房の方では、ベテランのはずの店員が震える手で皿を落とし、怯えたような視線をこちらへ――正確には無邪気に笑い続ける凛の方へと向けている
のぶ:
(おかしい。店内の客もスタッフもみんな具合が悪そうだ。『浄化』どころか今の凛から漏れ出しているこの『圧』は、周りの人間を物理的に蝕み始めてる。凛、君のその笑顔の裏に一体何が隠れてるんだ!?)
のぶ:
(待てよ。まさかそんなことがあり得るのか?あらすじや裏設定でたまに語られる、異世界転移に伴う『属性の反転』。もし、向こう側の世界で彼女が自称通りに高位の白魔術士だったとしたら。この『魔力のない世界』に放り出された反動で、その純粋な善意や魔力が、真逆の性質へと変貌してしまったとしたら?)
のぶの視線の先で凛は、まだ昔の村の楽しかった思い出を慈しむように優しく微笑んでいる。だが、その背後から立ち上る空気はもはや『サワサワ』なんて生易しいものじゃない。
すべてを拒絶し、飲み込み、塗り替えてしまうような漆黒の重圧。聖なるはずの微笑みが深淵の底から響く呪詛のように見えてきて、のぶの生存本能が激しく警鐘を鳴らす。
のぶ:
(白が黒に、善が悪に。もし目の前にいる彼女が、無意識に『最凶の黒魔術』を振りまく存在に変質しているのだとしたら。この店内に満ちる吐き気を催すほどの瘴気の説明がついてしまう。いや、でも……
ただの現実世界の人間である俺が、そこまで影響を受けずに済んでいるのはなぜだ?単に俺に耐性があるのか、それとも、この世界には魔力がないから暴走が食い止められているだけなのか?)
凛:
「どうしたの、のぶ? 顔色が悪いわよ。
せっかく美味しいお肉を食べたんだからもっと元気出しなさいよ?」
のぶ:
(凛、君は本当に自分が何を放っているのか気づいていないのか?それともこれも全部計算ずくの『演技』なのか!?)
凛:
「それでね、村一番の力持ちだったゴンザっていう人が、お祭りのたびに『今日は死ぬほど食べるでガンスよー!』って叫びながら、山積みの芋を平らげて……ん、……っ、……ぅう……」
(楽しそうに語っていた凛の肩が、急に不自然に跳ね上がる。彼女は自分の異変を喉の奥に押し込むように『……ッ、……ハァ、……ぁ……』と、湿り気を帯びた奇妙な吐息を漏らし始めた)
のぶ:
(今の、ただの呼吸じゃない。そういえば原作の第702話、高位の術者が闇堕ちする直前、作画の背景がドロリと歪んでこんな感じの不気味な効果音が入ってた気がする。あの時は演出だと思ってたけど、生で聞くとこれ、生存本能が全力で逃げろって叫ぶレベルの音だぞ。
でも、それ以上に衝撃なのは『~でガンス』だ。やっぱり向こうには本当にいるんだ、ガンスって言う人。
……感心してる場合じゃない。もしこの震えがアニメでも描かれなかった『白魔術士・凛の完全黒化ルート』の予兆だとしたら、俺はどうすればいいんだ!?)
凛:
「んん。ねえ、のぶ。ふわぁ。お腹いっぱいになったなんだか、すごく眠くなってきちゃった。あはは、だめだよ。そんなに甘えないで、よしよし……」
(凛はうつらうつらと、夢の中で小動物たちと戯れているかのように微笑んでいる。だが、その穏やかな寝顔とは裏腹に、彼女の白い聖衣が内側からボコボコと不気味に波打ち始めた。背後からは、ゆらゆらと鎌首をもたげる『漆黒の影』が色濃く溢れ出している)
のぶ:
(聖衣が、変質してる?そういえば原作の裏設定資料集に書いてあった。高位の術者は意識を失いかけると魔力の制御が解ける。眠気で自我が緩んだせいで属性の反転が加速してるのか!? あの純白の聖衣が今まさに禍々しい何かに書き換えられている。このままじゃおそらくこの店が、いや、この辺り一帯が取り返しのつかないヤバいことになるぞ!)
のぶ:
「あ、あの、凛! ちょっと気分転換にあそこの服屋さんに寄っていかないか? ほら、せっかくのデートだし新しい服も見てみようよ!」
(震える声で提案し、のぶは凛の腕を引いて出口へ急ぐ。そこに、一人の男が立ち塞がった。白髪混じりの短髪に、深い傷跡が刻まれた分厚い胸板。ただの店長とは思えない元S級冒険者のような凄まじい威圧感だ)
店長:
「これ以上、店内で『それ』を暴走させるな。」
のぶ:
(店長! あんたもしや始祖の軍勢の生き残りで、彼女の変異を見越してここに潜伏していたとか?だって胸の傷とかないよね、普通の店長は。)
店長:
「待て、これを持っていけ。……効果は保証する。」
男は、ずっしりと重い謎の小包をのぶに握らせた。のぶは店長が実は伝説の勇者ではないかという妄想を膨らませながら、異様な雰囲気を纏い始めた凛を連れて、夜の街へと駆け出した。
ーーーー
背後で重く閉ざされたステーキハウスの扉。肉の焼ける香ばしい匂いは消え、代わりに鼻を突くのはひりつくような冬の夜気と、凛から漏れ出す濃密な『何か』の気配だ。
「ふふっ、のぶ、急ぐことないわ。……っ、……ぁ、……世界が、回っているみたい」
寝ぼけた声で属性反転の濁流に呑まれかけている少女。その手を引きのぶは眩いネオンの海へと逃げ込む。手の中にあるのは店長から託された謎の小包。
そして目指すは不夜城の如く光り輝く駅前のファッションビル。原作の知識が俺の耳元で最悪の結末を囁き続けている。だが、今の俺にできるのは彼女のその禍々しい『聖衣』を、一刻も早く脱ぎ捨てさせることだけだ。
逃げ場のない夜が、二人を飲み込もうとしていた。




