シーン3 お祭り騒ぎの中にある日常(後編)
その数分後、各クラスの模擬店が軒を並べる学園敷地の一画。
休憩スペースとして開放された職員駐車場で、先ほど楽屋すなわち生物実験室から大挙して出て行った演劇部員たちが談笑していた。
制服のエンブレムの色からすると、2年生が2人、1年生が3人である。
「フユヒコどうすると思う?」
模擬店で買ったリンゴ飴を食べ切って、それを文化祭用に設置された臨時ゴミ箱の「燃えないゴミ」にちゃんと分別して放り込んだ2年生が、にやにや笑いながら後輩に聞いた。
「さあ……あれまずいっすよ先輩」
そういう1年生の顔も笑っている。
だが、もう1人の後輩は気まずそうだった。
「見に行ってやった方がいいんじゃないですか?」
そこへ、他の2年生が同意する。
「あいつはともかく、亜矢センパイの最後の舞台なんだからさ」
だが、最初に口を開いた2年生は言い返す。
「部長が何とかするだろ」
それを聞いていた1年生のひとりが「さっき放送で呼ばれてましたよ」と報告したが、「開演が押すようなことはしないさ」と再び言い返された。
なあ、と同意を求められたもう1人の2年生は「ああ」とあいまいに答えて聞き返した。
「集合まであと何分?」
「30分ぐらい」
そろそろ、と一同が重い腰を上げたところで、1人の中等部生徒が、手提げ袋を持ってやってきた。
いくつもあるうちの1つを取り出して、演劇部員たちに差し出した。
「先輩がた、どうぞ」
そのセンパイがたは、互いに顔を見合わせる。
誰一人としてこの中等部生徒と面識がないらしい。
さっきリンゴ飴を食べていた2年生が尋ねた。
「なにこれ?」
「シナモンドーナツです」
1年生たちは単純に喜んだが、もう1人の2年生が怪訝そうに尋ねた。
「見たらわかるよ。なんで俺たちに?」
もっともな答えがあっさり返ってきた。
「OBからの差し入れです」
袋から出された箱の蓋が開けられると、歓声と共に高等部生徒たちの手が伸ばされた。
誰一人、きっかり人数分あるドーナツを不審に思う様子はない。
箱の底には、戦場ジオラマでもつくるのかというほど敷き詰められた茶色い粉が積もっている。
5つの手が1つずつドーナツを掴んだとき、突然、中等部の生徒が叫んだ。
「失礼します」
その瞬間。
大きなくしゃみと共に、高等部の生徒たちの掴んだドーナツが次々に破裂した。
辺り一面、大量のシナモンパウダーが舞い散り、茶色の霧となって漂った。
熱帯にあるクスノキ科の常緑樹その樹皮から作られる甘みのあるスパイスだが、当然辛みもある。
確かに「シナモン」と横文字で言えば洒落た感じがするが、漢字で書けば「肉桂」である。
漢方でも薬として使われるものだ。
薬は多用すれば毒にもなるのだから、これが至近距離で目や鼻に入ったのではたまらない。
ドーナツを手に、各々が顔をしかめてむせかえった。
シナモンの煙の中、その顔面に、クリームパイが次々に叩きつけられた。
モンティ・パイソンのコントばりに、ぶるしゅるという音を立てて泡が飛び散る。
その泡がかかった制服の表にはストリングスプレーがたっぷりとかけられた。
まるで、人間の大きさをした出来損ないのケーキがずらりと並んでいるかのようである。
その背中はと見れば、「私はサル」「たっぷりなめて」といったステッカーが貼りつけられていた。
倫堂学園文化祭サプライズ・パーティは最後の仕上げに入る。
茶色の霧が晴れると、目を固くつむった高等部の生徒5人は、一人残らず蹴たぐり倒された。
音だけで煙の出ないクラッカーが高らかに鳴り渡る。
それを聞いて、模擬店の客がなんだなんだと大挙してやってきた。
彼らが駐車場で見たのは、、げほげほやりながらアスファルトの上に立ち上がった少年たちである。
余りにもみっともない姿に、どっと哄笑が上がった。
5人はしばし呆然としていたが、そこは伝統ある倫堂学園高等部の演劇部員である。
既に1年生とも2年生ともつかない姿で、大騒ぎを始めた。
「兄上!」
「おお、そこにいるのはパイ之介ではないか!」
「お懐かしゅうございます!」
2人が久闊を叙すると、それを妨げる悪党が現れた。
「残念だったなパイ之丞、兄弟の再会もそこまでだ」
パイ之介が誰何の声を上げる。
「何者だ!」
「貴様等に名乗る名などない!」
どこかのロボットアニメで聞いたセリフを吐いて振り向いた背中には、「私はサル」と貼ってある。
「サルだそうです兄上」
「ウッキー! って違うわ!」
ノリツッコミと共に振り向いた悪党を、パイ之丞は知っているようだった。
「久しぶりだなパイ太郎」
「うるさい! その名で呼ぶな!」
パイ太郎は名前にコンプレックスがあったらしい。
そこへパイまみれになった他の1人が駆け付けた。
「パイ太郎様!」
「その名で呼ぶなというに、おパイ」
いきなり情けない声を出した悪党パイ太郎、恋人がいたようである。
崩れた表情を繕うや、キッと兄妹に向き直る
「わが父を殺したパイ之進が一族、あ、皆殺しにしてくれるわ!」
大見得を切った目の前に、パイ之丞が立ちはだかる。
「父の名を汚す不届き者、この場で成敗いたす!」
「兄上!」
「手を出すなパイ之介、こ奴は私が片づける」
パイまみれの2人の決闘が始まった。
といっても丸腰のパイ男たち、どうやって戦う気か。
だが、そこへおパイが立ちはだかった。
「いけませんわパイ太郎様」
「だからその名前で」
「この方たちはお父様の敵ではありません!」
「何! おパイよ、それでは真の仇はどこに……」
そこへ高らかなイヤし笑いが響き渡った。
「オーッホホホ、オーッホホホ、バレちゃあ仕方がないわ」
腰を振って現れたパイまみれは、片手の甲を顔の反対側に押し当てる。
ステレオタイプのオカマポーズだ。
パイ之介が再び誰何する。
「何者だ!」
オカマは腰を振り振り名乗りを上げる。
「アタクシこそは暗黒パイ魔神パイドロリン女王ですことよオーッホホホ」
パイ之介は怒りに震えて襲い掛かる。
「名前長いから略させてもらうぞパイ女王!」
「ああら、あなたとっても可愛いわ」
パイ之介は美形だったらしい。
何をどうしたのか、パイ女王の手招きでくるくる回って引き寄せられる。
「ちょっとなめてもいいかしら」
「やめてください」
「だって背中に」
たっぷりなめて、と書いてある。
「兄上!」
「パイ之介えええ!」
「やめんか貴様らあああ!」
ストーリーの流れを完全に無視して乗り込んできたのは、真っ赤なジャージ姿を着て校内を巡回していた、生徒指導部の女性教員だった。
手に持った競馬新聞を丸めて、5人の頭を続けざまにしばき上げる。
パイ太郎が弁解する。
「すみません先生、まだパイ太郎の決め台詞が」
「まだ言うか!」
一喝されて、パイまみれで騒いでいた問題児たちが5つの頭を一斉に下げる。
小芝居の中断で文化祭の客たちがぞろぞろ帰る中、生徒指導部に連行された演劇部員たちは、顧問が頭を下げ続ける前で、悪ふざけにもほどがあるとたっぷり説教を食らった。
中等部の生徒がどうのこうの言っても、信じてはもらえない。
そもそも、ドーナツが破裂するなどということ自体があり得ない。
言い分が通らなくても、倫堂学園の先生方が頑固なわけでは決してない。
仮に事情を詳しく調べたとしても、かえってこの「小芝居」は事前に仕組まれものであると疑われただろう。
なぜなら、使われたものは全て、文化祭で揃うものだった。
シナモンドーナツは模擬店の屋台で売っていた。
クリームパイはストリングプレー同様のパーティグッズで、教室内のイベントに準備されていたもの。
ステッカーは模擬店の射的屋台で取れる残念賞だった。
煙の出ないクラッカーは、ステージのクラス発表で大量に持ち込まれたもの……。
さて、生物実験室から演劇部員たちが出てきてから、中等部の生徒が現れるでまで十数分しか経っていない。
その間にこれらをかき集め、なおかつドーナツを買って怪我をしない程度の仕掛けをしたのは何者か。
倫堂学園内に、冬彦のためにそんな復讐を実行できる者は一人しかいない。
結果として彼を傷つけてしまったことに気が咎めたのであろう。
その名は、白堂玉三郎(自称:獣志郎)という。
そんなドタバタが文字通り「演じられていた」頃。
1人の女子生徒が、生物実験室へやってきた。
机に突っ伏した男子生徒を無視して制服を脱ぎ捨てる。
紫色の下着一枚の曲線豊かな肢体が惜しげもなく晒された……かと思うと。
そこには瞬く間に、布を縫い合わせただけの簡素なジュリエットの衣装をまとった黒髪の少女の姿があった。
葛城亜矢である。
「菅藤君……」
冬彦は机に伏したまま答えた。
「今度は何ですか?」
「今度?」
亜矢は眉をひそめて問い返した。
抑揚のない声は、それには応じなかった。
「その手には乗りませんよ」
きょとんとして歩み寄った亜矢は、一方的な非難を加えてくる冬彦の隣に座り、曖昧な笑顔で釈明した。
「私、何も……」
「卑怯だとは思いませんか」
突き放す口調は冷たい。
いつもの亜矢に対する、おどおどと照れる冬彦のものではなかった。
年上の美少女の顔から、笑顔が消えた。
一瞬溜めた低い声で、非を認める。
「……そうね」
冬彦は更に畳みかけた。
「僕が何にも知らないとでも思ってたんですか?」
「何を?」
ゆっくりと問い返す声には、隙を見せるまいとする張りつめた響きがあった。
冬彦の声は、震えながら抗議の言葉を続ける。
「いつも顔は笑っているくせに、本当は僕の不器用さを見下してたんでしょう? 知ってます、みんなそうだって」
亜矢は豊かな胸の前で腕を組んだ。
机に伏したままの冬彦を、文字通り「見下ろす」と、不敵に微笑した。
「……分かってるんじゃない」
「でも、僕は負けません」
強く言い切る冬彦に、ふうん、と相槌が返された。
その興味深げな声の問いに、冬彦は間を置かずに答えを返した。
「勝つ自信はあるの?」
「勝ち負けだけが闘いじゃありません」
「勝ち負けのない闘いって、どんなの?」
「負けることを恐れない闘いです」
亜矢はため息と共に感想を漏らした。
「私には分からない世界ね」
そこで冬彦は顔を上げた。
近眼でぼやけた視界でも、ジュリエットの衣装の輪郭くらいは分かるはずだが、さっきの風船の一件がある。
容易には亜矢本人とは信じられまい。
まっすぐに顔を向けて言い切ることができたのも、そのせいだろう。
「負けても、それがどうしたって、笑ってればいいんです」
亜矢も、真剣なまなざしで見つめ返す。
「勝ったヤツはあなたを笑ってるでしょうね」
冬彦の口元に、笑みが浮かんだ。
「本当の負けは、心が折れたときですから」
亜矢は、窓のある方に目をやった。
ブラインドの向こうを見ようとでもするかのように、遠い目をする。
その唇から、皮肉が漏れた。
「幸せね」
「働くしか取柄のない父と、学ぶしか取柄のない僕を受け入れてくれた母と妹が、それを教えてくれました」
いつになくはっきりと答える冬彦の方へ、亜矢は流し目と共に微かに首を傾げて言った。
「じゃあ、私も教えてあげる」
「何を?」
そのまなざしを受けて細められた目には、不信の色が浮かんでいた。
亜矢は天井を仰いで嘲笑った。
「あなたは、この世で最低の男」
それを(たとえぼんやりとした視界ではあっても)唇を一文字に見つめる冬彦から目をそらしたまま、亜矢は中傷の言葉を放ち続けた。
それが、まるで急な放物線を描いて天井から降ってくる刃であるかのように。
「意地も見栄もない、開き直ってるヤツに女が興味を持つかしら?」
膝の上に置かれた冬彦の手が震える。
しかし、その顔は無理に笑おうとして歪んでいた。
亜矢はとどめの一言をまっすぐ上に向けて発する。
「憐みと愛を一緒にしないで」
冬彦の満面が朱に染まる。
だが、その瞬間、黒髪の少女は貧弱な身体をした長身の少年を抱きしめた。
その胸に冬彦の顔を埋めて、耳元で囁く。
「ついてきなさい。待ってるから」
目を見開いてぽかんと口を開けたままの冬彦を椅子に残して、ジュリエット姿の亜矢は音もなく消えた。
生物準備室の扉が動いたかどうかも分からない。
ラベンダーの香りが漂う中で放心状態になっていた冬彦が我に返ったのは、部長が駆け込んできたときである。
「なんて顔してるんだ! 開演30分前集合って言ったろうが!」
引き戸まで駆け戻って、「ちょっと待っててくれ」と叫ぶ。
女子部員のブーイングが、外の廊下に反響した。
部長は再び冬彦の傍まで戻ってきたかと思うと、何やらきょろきょろ探す。
やがて、なぜか扉のそばにあった化粧道具箱を手に提げていそいそと戻ってきた
ドーランとスポンジを出して手早くメーキャップを直し、まだ部屋の隅っこにかけてあったポンチョ持ってきて着せた。
最後に、机の上に置かれたままだった黒縁の眼鏡をつきつける。
「ほら、かけろ!」
「14世紀にこんな眼鏡は……」
顔をしかめて眠たそうに答える冬彦の髪をもう一方の手で掴んでワシワシやりながら叱りつける。
「だからお前は頭が固いんだ! そういう発想をほぐすのがこの芝居なんだよ!」
「でも、こんなのウソです」
しつこい愚図りを、部長の強い声が断ち切る。
「ウソだって分かってて見るのが芝居だ」
冬彦の肩を叩いて励ます。
「信じろ、お客様の想像力を!」
ほら、と再び差し出された眼鏡を、冬彦は受け取った。
明らかに時代考証に合っていないが、よく似合う眼鏡がジョン修道士の鼻の上に載せられる。
なだれ込んでくる女子部員と入れ替わりに生物実験室を出た冬彦は、部長と共に体育館へ向かった。
そろそろ模擬店の撤収が始まったらしく、コンロだの風船釣りのビニールプールだのを片づける生徒たちがお互いに掛け合う声が聞こえてくる。
ステージに着くまで、部長も冬彦も何一つ話すことはなかった。
体育館の中には、ちらほらと客が入り始めている。
客席の向こうにある音響効果および照明席へ部長が走っていったところで、冬彦は舞台袖に入った。
そこには、もう亜矢が待機している。
冬彦はおずおずと話しかけようとしたが、スポットライトの振りを見つめている亜矢は振り向きもしなかった。
やがて、衣装を着けた女子部員たちがやってきて、冬彦は二人きりで亜矢と話す機会を失った。
冬彦が満員になった客席をそっと覗くと、その真ん中あたりには夏の白いセーラー服を着た瑞希が座っている。
そこでようやく本番前の緊張感を覚えたのか、ごくりと喉を鳴らして唾を呑み込む。
音響効果担当による着席のアナウンスの中、今更ながら亜矢ににじり寄った冬彦は、ぼそぼそと囁いた。
「あの……さっきは……」
出番を待つジュリエットは、ステージを見たままジョン修道士を突っぱねる。
「私語厳禁。3年の最後の晴れ舞台よ」
「すみません……」
小さくなる冬彦の横を、兄弟子役の部員がすり抜けて舞台の中に入る。
亜矢は主役が縮み上がっているのがもどかしいとでも言うように、その背中を強く押した。
「部長に言いなさい、面倒見てもらったんだから」
よろけながら振り向くと、亜矢が冷たいまなざしで見つめている。
その唇が微かに動いて、こんな囁きが聞こえた。
「恩も義理もない男は、私、大っ嫌い」
その衣装の胸の辺りには、24Pのメーキャップがうっすらとついている。
まるで、自分でヨゴシをかけたかのように。
冬彦は、舞台への一歩を大きく踏み出した。
まだ、上演を予告するベル(1ベル)は鳴っていない。




