シーン1 日常を忘れた非日常の空間
文化祭は、やがて最後の全体会を迎えた。
演劇部公演は大トリである。
瑞希が体育館の中に駆け込むと、「1ベル」と呼ばれる(これは冬彦に教わった)着席のブザーが鳴る所だった。
最後部の席は空いていたが、瑞希は敢えて座らなかった。
観客の様子を見渡すためである。
携帯電話を切るようにという指示と、飲食厳禁、緊急避難時の誘導に関するアナウンスが入り、やがて「2ベル」と呼ばれる(これも冬彦に教わった)開演のベルが鳴る。
瑞希はなんとなく背筋を伸ばした。
幕が上がる。
そこはもう、体育館のステージではなく、中世ヨーロッパはヴェローナの一軒家だった。
――舞台は滞りなく、台本通り進む。
兄弟子とジョン修道士が、2人並んでテーブルに向かい、頬杖を突いている。
兄弟子は、情けない声で謝る。
「すまなかったな、ジョン」
「そうなる運命だったんですよ、兄者」
そう慰めるジョンの声も、ため息混じりである。
兄弟子は言い訳がましくつぶやいた。
「流行り病に苦しむ者たちを見ては、放ってはおけなかった」
それでこそ神の御心に叶います、と威勢よく答えるジョンの声は、かえって嘘っぽい。
兄弟子は話を変えた。
「お師匠様からの手紙は?」
ここに、と差し出された兄弟子は、師匠の手による表書きを懐かしそうに見つめる。
「神父ロレンスよりモンタギュー家のロミオ様へ……これか」
ジョンは慌てて口を挟んだ。
「決して中を見てはならぬ、と」
要らぬ心配だったようで、兄弟子はうんうんと頷いて手紙を懐に収めた。
「人に知られてはならぬことを謀っておられるのだ」
兄弟子が封を切るのではないかと疑ったのをごまかそうとでもするかのように、ジョンは大げさに嘆く。
「ああ、こうしている間にもロミオ様は……」
「マンチュアへ追放になったとか」
その問いに、ジョンがキャピュレット家の若い者が喧嘩で殺されてしまったことを語ると、
兄弟子は顔をしかめた。
「キャピュレット?」
ご存じない、と尋ねるジョンは、呆れ気味である。
実はモンタギューも、と気まずそうに答える兄弟子に、ジョンは二つの家がヴェローナで相争う古い家柄であることを説明した。
突然、兄弟子は咳払い。
真面目くさって、おもむろに尋ねる。
「何が原因なのです?」
「それを知ってどうなさいます?」
訝しげに尋ねるジョンを、兄弟子はもっともらしく諭す。
「原因が分かれば仲裁のしようもあるだろう」
ジョンは言葉を選ぶように、たどたどしく尋ねる。
「兄者が仲裁を?」
体裁を繕ったのが仇となり、そこではじめて兄弟子はうろたえた。
「私が?」
はい、と何の疑いもなく答えるジョンに、兄弟子はそらっとぼける。
「何を?」
仲裁を、と言わずもがなのことを答えるジョンに、兄弟子は追い詰められる。
「誰と誰の?」
モンタギューとキャピュレットに決まっている。
分かり切ったことを淡々と答えるジョンに、兄弟子は「誰が?」と更にシラを切る。
ジョンが「兄者が」と帰れば、兄弟子は「何を?」と聞き返す。
こうして、らちの明かない問答が延々と続く――。
瑞希は静かに体育館の壁に沿って歩き、爆笑する観客の顔を眺めた。
男も女も、同じように相合を崩している。
やがて舞台では、二人がようやくロミオにロレンス神父の手紙を届けに行くことで意見が一致した。
――ところが、それは兄弟子を追って現れた町役人に阻まれた。
一軒家に踏み込んだ町役人が「待たれよ」とジョンを通せんぼする。
急用でございます、と駆け抜けようとすると、更に「待たれよ」と押し返される。
ジョンが「ですから急用でございます」と突進すれば、町役人も「だから待たれよと言っておる」と舞台端まで突き飛ばす。
文字通りの押し問答が続き、さしものジョンもムキになった。
「一刻を争います!」
そんなことは町役人の知ったことではなく、「おぬしらはここにおれ」と頭から言い渡す。
そこへ、割って入った兄弟子が尋ねた。
「ヴェローナから出てはならぬと?」
見当違いの問いに、町役人は激昂する。
「この家からじゃ!」
ジョンは平身低頭、私どもを待っている方がおられます、と訴えるが、町役人は「病を迎えてまで会おうとはなさるまい」と耳を貸さない。
兄弟子が静かに説明する。
「私どもは待ち人の話をしております」
町役人はむっとして言い返す。
「わしは病の話をしておるのだ」
それでは何もお話しすることはございますまい、と不満を言うジョンに、町役人は再び怒りだす。
「あるから引きとめておるのだ!」
それを兄弟子がなだめる。
「病が私どもで、私どもが病でない限り、それは道理に合いません」
「病がおぬしらでなくとも、おぬしらが病なのだ!」
かえって逆上した町役人から、ジョンはそそくさと逃げようとする。
「病どころか、これから大いそぎで……」
それを兄弟子に制止されたジョンを、町役人は「どこに行くと申すか」と怒鳴りつける。
兄弟子はへいこらとごまかした。
「どこへも参りません。大掃除をするところです」
もちろん町役人は信じていない。
「大いに結構じゃ。手伝おう」
お努めに障ります、とゴマをするジョンを押しのけて、町役人は「これも仕事のうちじゃ」と一軒家にずかずか踏み込んでくる。
兄弟子は後じさりながら、町役人を抑えようとする。
「そんなことまでしていただかなくとも」
「疫病にかかっておるやもしれぬ。少しでも清潔にさせねばのう」
お前らの企みなどお見通しだ、と言わんばかりに横柄に振る舞う役人の前で、兄弟子はいそいそと服を脱ぎ始めた。
「それでは水を汲んできてくださいませぬか。身体を洗いますので」
そう切り返された町役人は言葉に詰まったが、「よかろう」と頷き、のっしのっしと家を出ていく。
その隙を突き、兄弟子は裸で脱出するが、置いて行かれたジョン修道士の元には、ロレンス神父からの手紙が服ごと残される――。
瑞希は笑いが起こるたびに、観客の表情や微かな動作に目を配る。
だが、不自然な動きをする者はない。
いや。
たったひとりだが、いた。
動きはしないが、不自然な人影が、ひとつ。
白いセーラー服を着た、ボブカットの少女。
限りなく、瑞希によく似ている。
瑞希のほうを見つめて、微かに笑った。
……ように見える。
暗い会場に舞台照明しか光源がないのでは、遠目に微笑んでも分かるはずがない。
逆に、冷ややかに見つめるだけでも笑っているように見える。
この、瑞希そっくりの少女はいったい何者なのか。
まさか、迦哩衆?
自分の姿を写し取られた吉祥蓮の忍者は、セーラー服に仕込んだ隠しポケットにしなやかな指を這わせる。
ふたたび、舞台上のやりとりに視線を戻して大笑いを始めた相手が座っている位置は、少なくとも流星錘が届く距離ではない。
では、鍼を投げれば?
届かないこともない。
瑞希にも、命中させる技ぐらいはある。
だが、客席は満員である。
万が一にでも外したり、相手にかわされたりすれば、関係のない一般人を傷つけることになる。
迦哩衆ならともかく、それは吉祥蓮のすることではない。
身構えた瑞希をちらりと横目で見た生き写しの少女は再び、今度は皮肉な笑いをはっきりと浮かべてみせた。
彼女が顎をしゃくる先には、ジョン修道士として芝居を続ける冬彦がいる。。
さて、その舞台はというと、兄弟子が間違いに気付いて何度となく帰ってきたが、そのたびに町役人にとがめられ、手紙を忘れて逃げ出す羽目になっていた。
――兄弟子が、一軒家に慌てて駆け込んでくる。
てっきりヴェローナを出て、ロミオのいるマンチュアに手紙を届けに行ったと思っていたジョンはきょとんとする。
「何故お帰りに?」
息せき切って、兄弟子は手紙のありかを尋ねる。
ジョンは唖然として聞き返す。
「お持ちになったのではないので?」
兄弟子は答えもしないで、ここじゃここじゃ、と服を着始めるが、そこへ戻ってきた町役人に詰問される。
「身体を洗うのではないのか?」
一瞬、お互いの間に緊張が走るが、兄弟子は服を着ながら平然と答えた。
「それはもののたとえでございます」
町役人は鼻で笑う。
「では、本当は何を洗うのじゃ?」
兄弟子は即答する。
「魂でございます」
町役人の顔つきが険しくなった。
「魂などというものが洗えるのか?」
「命の洗濯というものがございます」
一歩も引かない兄弟子だが、町役人も負けてはいない。
「それは命であって魂ではない」
兄弟子は議論をすり替える。
「命は魂によって支えられますが、命が魂のためにあるのではありません」
「だからといって命と魂が同じものだと言えるか?」
食い下がる町役人に、さらに議論はすり替えられる。
「では、卵とニワトリは違うものだと言い切れますか?」
「卵とニワトリは同じではない」
頑としてゆずらない町役人に、兄弟子は屁理屈を滔々とまくしたてる。
「では、ニワトリはアヒルの卵を産むかもしれないということですね?」
こんな具合で、らちの明かない会話は延々と続く――。
ドラマでもCMでも、くだらなければくだらないほどつい見入ってしまうものだという。
この芝居も例外ではないようで、瑞希は会場いっぱいの観客と共に舞台を見つめていた。
延々と続く不毛な議論の隙に、兄弟子は懐の中にある手紙をジョン修道士に渡そうとするが、気づいてはもらえない。
手を差し出せば脈を取られ、服の裾をつまんで持ち上げれば、弟分がせっせと針や糸を通して繕いものを始める。
どっと笑いが起こったところで視線をもとの方向に戻すと、そこにはいつのまにか、高校の制服を着た女生徒が座っていた。
瑞希は人知れず、隠しポケットから鍼を引き抜いた。
手首がくるりと回ると、しなやかに揃えられた指の微妙な動きで、鍼は軽く握った拳の中にぎりぎり隠れる。
あのセーラー服の少女はどこにいるのか。
それとも、どうやって高等部の制服に着替えたか考えたほうがいいのか。
瑞希は客席全体を見渡して息を殺した。
舞台上では兄弟子に小突かれたり、町役人にどやされたりと、冬彦のドタバタ芝居が続いている。
誰もが、その一挙手一投足に注目している。
各々がセリフのひとつひとつに耳をそばだてているのは、話の節目節目でどっと笑いが起こることからも見て取れる。
だが、瑞希が見つめる先には、「誰も」「各々」に含まれない者たちがいた。
まず、瑞希そっくりの中等部生徒と入れ替わったか着替えたかした高等部の女生徒は、まっすぐ舞台をみつめたまま身じろぎもしない。
唇は一文字に引き結ばれ、眉をひそめて目を細めたまなざしは厳しい。
体育館のギャラリーの上では、腕を組んで客席を見下ろしているハイヒールの女教師がいる。
その首には、ビニール製と思しき名札が照明の光を鈍く照り返している。
席を探しているのか、うろうろと歩き回っている中年の女性もいる。
会場いっぱいに舞台を見つめる観客の間で背を曲げ、その視線の間を済まなさそうに歩く長身の身体はひょこひょことふらついている。
舞台上では、兄弟子が町役人をようやく追い払ったところだった。
――ジョンが兄弟子をねぎらう。
「とんだ災難でございましたな」
兄弟子はふんぞり返って謙遜してみせる。
「なんのあれくらい、ロミオ様のご苦難に比べれば」
ジョンも、本来の目的を思い出したかのように色めきたった。
「その通りでございます、ささ、お急ぎを」
「何を?」
そう言う兄弟子はしげしげとジョンの顔を見つめる。
ジョンもまた、兄弟子の鼻先に自分の鼻を寄せた。
「もう出かけませんと」
「分かっておる」
いそいそと兄弟子が旅支度を始めると、ジョンも家じゅうを引っ掻き回し始める。
その様子を邪魔臭そうに見ていた兄弟子は言った。
「そのように慌てふためいてはなくすこともあろう」
差し出された手のひらに、ジョンは自らの手を重ねた。
兄弟子はきょとんとする。
「何の真似じゃ」
ジョンは厳かに答える。
「苦しき時も悲しい時も、何があろうと共に参りましょう」
兄弟子は気色悪そうに、手を払いのけた。
不満そうな言葉が返ってくる。
「私は足手まといですか?
「うむ……いや、そうではない」
慌てて打ち消す兄弟子に、ジョンは食ってかかる。
「何でございますか? 私が何かお気持ちを害するようなことをいたしましたか?」
「した。たった今した。二度とやるな気色の悪い」
目をぱちくりさせた悟りの鈍い修道士に、兄弟子は勿体をつけて尋ねた。
「手紙じゃ」
ジョンは怪訝そうに聞き返す。
「何の?」
兄弟子は机をばんばん叩きながら不満げに答える。
「ロレンス神父の」
ああ、と納得したジョンは、真顔で答えた。
「存じ上げません」
兄弟子にしてみれば、ロレンス神父からロミオに宛てた手紙は、町役人をはぐらかしている隙にジョンが懐から持って行ったはずである。
ジョンを追及しても、ないものは出しようがない。
身ぐるみ剥いで探そうとすると、ジョン修道士は身悶えして抵抗する。
兄弟子は、たいしてセクシーでもない素肌を露出させて床の上に横たわる男の姿に、思わず吐いて正気に返った。
まだ自分手紙を持っているなどとは夢にも思わず、ジョンが掻きまわしたあとの家を余計に見苦しく散らかして探し始めた――。
そこでどっと笑った周囲と違うそれぞれの姿を、瑞希の目が追う。
合図を送ったり、アイコンタクトしたりしている様子はない。
だが、瑞希の身体は一瞬だけ強張った。
3人で2つずつ、合計6つの目が、座席から、立った高さから、見上げる位置から、会場のさまざまな場所で瑞希の目を見たのである。
セーラー服の半袖からしなやかに伸びた両腕が、リボンを結んだ胸元で交差した。
掌に隠された鍼を投げる直前の構えである。
瑞希を見つめる者のうちで誰かひとりでも動けば、そのまま電光石火のクイックモーションで放つことができる。
だが、瑞希の飛び道具が観客たちの間を縫って、またその頭上を斜め上に一閃することはなかった。
目の前を、一人の少女が通り過ぎたのである。
中等部のセーラー服を着た、瑞希とよく似た背格好の小柄な生徒。
瑞希は、見開いた目が横目で見るのとほぼ同じ高さにある、壁に向かって傍らに立った少女の顔を見た。
彼女自身の横顔が、そこにあった。
観客が一瞬、静まり返る。
瑞希が逆手に持った鍼が自分自身の分身の首筋を襲う瞬間に、息を呑んだわけではない。
ドタバタ喜劇の真っ最中、突然に登場人物が死んだからである。
机の上で足を滑らせて転倒した、ジョン修道士の兄弟子であった。
その沈黙の中で、瑞希もまた硬直していた。
拳の中に隠した鍼を握った手は、その先端を目の前にあるセーラー服の襟もとに突きつけたまま動かない。
相手も動かなかった。
瑞希の顎の下には、拳から突き出た鍼が、どの方向からも見えない長さと覚悟で鋭く狙いを定めている。
会場には、張りつめた雰囲気が漂い始めた。
瑞希は動けない。動こうともしない。
暗がりの中で突きつけられた鍼は、お互いの急所を狙っている。
どちらかといえば、瑞希に分がなかった。
ほぼ間違いなく、相手は迦哩衆である。
人を傷つけることなどなんとも思わない、女忍者の集団である。
だが、瑞希は吉祥蓮の忍者として、それだけはできない。
従って、この満員の会場で観客を巻き添えにすることなどできはしなかった。
身動きひとつできない瑞希のそんなジレンマとは関係なく、ジョンは嘆き悲しみながらも、ひとりでロミオを探し当て手紙を届けにいこうと決断する。
その背後で、ジュリエットの不本意な結婚、そして自殺用の毒薬を買い求めるロミオの暴走がじわじわと進んでいく、というのが、本来の台本だった。
それが冬彦の「アドリブ」により、兄弟子を待ちくたびれたジョン修道士と背後のジュリエットの痴話喧嘩が途中で始まるという筋書きになったわけであるが……。
本番もまた、予定通りには行かなかったのである。




