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俺の妹は忍者なんだが13歳  作者: 兵藤晴佳
第4幕   1場 大バトル「シェイクスピア&モリエール」前の静けさ
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シーン3 お祭り騒ぎの中にある日常(前編)

「14世紀にそんな眼鏡はないんじゃないかな」

 文化祭公演の演劇部楽屋となっている生物実験室で、倫堂学園高等部の演劇部員が一人、ぼそっとつぶやいたこの一言で、全てが始まった。

 そんな眼鏡、というのは、1時間後に迫った文化祭公演を前に、主役の菅藤冬彦がかけている黒縁の四角い眼鏡のことである。

 女子が着替える前に準備を超特急で進めようと、男子部員がキャスト・スタッフを問わず集まったのだが、そこは冬彦のこと。

 着替えのためにブラインドを下ろした特別棟の1階で、衣装を着ける前のメーキャップに最後までもたついていた。

 なぜなら、冬彦は近眼がひどい。

 黒縁の眼鏡は度が強く、これを外されるとほとんど何も見えないのだった。

 その場で小道具を運搬用の段ボールから出して点検している1年生の一人がアドバイスする。

「コンタクトにすればいいのに」

 確かに、コンタクトレンズという手もある。

 見かけは容貌の整った美少年であるから、眼鏡を外しても見栄えがすることだろう。

 だが、女子の衣装をそこいらの棚にハンガーでかけている2年生男子が冷ややかに言った。

「落としたら、探すの俺たちだぜ」

 その指摘は当たっている。

 平日の朝は義理の妹が全力疾走で弁当を届けなければならないような粗忽者である。

 落としたり割ったりなくしたり、その度に(物理的にも精神的にも)周囲が見えなくなる。

 探したり、探してもらったり、周りが見えないのに無理に歩き回ってあちこちに頭をぶつけたり。

 問題となっている張本人が自虐的につぶやく。

「トラブルの種を自ら撒くようなもんですから」

「お前が言うな」

 少年たちの一人が悪態をつく。

 その通り。

 そんな自己管理が強いられるものを与えておくことはないのだ。

 だから、冬彦本人も家族も、コンタクトレンズが必要だとは口にしない。

 かくして、近視が進んだ中学生時代から、ごつい黒縁の眼鏡が愛用されることとなったわけである。

 冬彦は淡々と反論する。

「だって、眼鏡外せって指示もありませんし」

「だけどな」

 誰かが言ったところで「おい」という別の誰かの囁きが続きを遮った。

 ひそひそと良からぬ相談が始まるのを、冬彦は聞いてもいないようだった。

 手提げのついた化粧道具入れから出したクレンジングクリームの瓶を掴んで、固い蓋を開けようと踏ん張っている。

 

 さて、冬彦が主演する『走れ! ジョン』はシェイクスピア『ロミオとジュリエット』を下敷きにしている。

 どちらも、作品の舞台は14世紀のヴェローナである。

 14世紀というのがどういう時代であったのかといえば。

 それまでの時代はというと、神の教えを信じていれば万事丸く収まった。

 学校に校則が生まれるのと同じ理由である。

 校則があれば違反も生まれるのは当然のことで……。

 この楽屋でもそれが起こった。

 一人の部員が咎めると、たちまち部内の抗争が始まる。

「あ、お前スマホ触んなよ」

「メール入ったんだよ」

「電源も入れるなって」

 何事も起こらぬように、生徒にさせたくないことを予め罰則付きで決めておくわけである。

 だが、「それじゃあ納得いかないことがたくさんある」という情熱と衝動にかられた人々が現れた。

 ルネサンスの時代である。

 ヴェローナ(ベネチア)はその中心地の一つだった。

 まさにその地で相争う家の少年と少女が「お互いをもっと深く知りたい」という気持ちが高じて分別ある大人を散々に振り回し、真っ赤に燃える若い命を露と散らしたわけであるが……。

 冬彦が演ずるのは、その振り回された大人の一人である。

 もっとも。

 振り回されていた方が万事丸く収まったかもしれない。

 

 そんなキーマンなんだか脇役なんだかよく分からない主役を演ずるために、冬彦は楽屋の鏡に向かっている。

 といっても、正確には高等部の実習棟にある生物実験室の大きな長机に、スタンド付きの小さな鏡をいくつも据え付けただけのものだ。

 それぞれの鏡の下には、各キャスト用にメーキャップ用の似顔絵が置いてある。

 鼻やら頬やら額やらに書かれた番号とアルファベットは、メーキャップに使うグリースペイント(いわゆるドーラン)の色を示すものだ。

 このドーランを塗り伸ばすのに使った手や、メイク落としのクレンジングクリームがついた顔を洗うのに、目の目に蛇口と流しのある生物実験室は便利であった。

 円い回転椅子に掛けた下半身は僧衣とおぼしきものをまとっているが、上半身はフレンチスリーブのシャツ一枚である。

 これは、ドーランで衣装を汚さないためである。

 僧衣っぽく見せるためのポンチョみたいなものは、実はマジックテープで留められるようになっていた。

 冬彦は眼鏡を外した。

 別に「時代考証に合わない」との指摘を受けたからではない。

 メーキャップの邪魔だからである。

 その手順の最初として、両掌で包めるくらい大きいクレンジングクリームの容器に手を伸ばす。

 先に顔に塗っておくと、終演後にドーランを落としやすいからである。

 もっとも、デメリットはある。

 汗でドーランが流れ落ちやすくなり、目に入って痛い思いをすることがあるのだ。

 これはべっとりと顔に塗ったところで、ティッシュで拭き取らねばならない。

 だが、そこは近眼の冬彦のこと、目の前にあるティッシュ箱を取るのさえも難儀する。

 冬彦の手が机の上を二度、三度さまよったところで、部員の一人が手渡してやった。

「お前ホントに眼鏡外すと何も見えないのな」

 呆れたようにぼやく声に、冬彦は泣いているようにも見える情けない笑顔を見せて頼んだ。

「そうなんです、人の顔も分かんないんです。なんとか、装置の位置は分かるんですが」

 あっぶねえな、という非難に、冬彦は困り果てる。

「困りました、眼鏡がダメだなんて指示、部長の演出では無かったもので」

 おまえが忘れてるだけだろ、と別の声が突っ込んだ。

「すみません、そこは確認しますんで……21P塗ってください」

 色の識別はおろかドーランのある場所さえ分からない冬彦が頼んだのは、地塗り(肌色のメーキャップ)用のドーランだった。

 だが、渡された薄いパッケージの色は4(ホワイト)だった。

 塗りたくられた色は、冬彦の顔を納涼オバケ屋敷の幽霊かと思うほどに真っ白にする。

「24Pお願いします」

 両頬に塗られたのは5B(赤)だった。

 紅白のめでたい頭をした巨大なコケシが、神妙な顔をして鏡に向かっている。

 声を殺しながらメーキャップ用のスポンジで冬彦の顔を撫でていた男子部員が、こらえきれずに大笑いを始めた。

 周囲にいた作業中の部員たちも、わざわざ手を止めて冬彦の周りを取り囲み、どっと笑った。

 ほとんど前が見えない近眼の目をしょぼつかせながら、冬彦はあたりをきょろきょろ見まわす。

 やがて事態が呑み込めたのか、周囲に合わせて笑い出したが、その声は力なく乾いていた。

 抵抗できない相手をからかうのに各々が飽きて辺りが静まり返ったところで、ようやく冬彦は頼むことができた。

「あの、すみません、時間がないのでメーキャップをすぐ……」

 急いでクレンジングクリームを顔に塗りたくり、ティッシュで拭き取る。

 机伝いに流しへとひょこひょこ歩いて、顔を洗う。

 押し殺した笑い声と共に、その場にいる全員がこっそり部屋を出て行こうとする。

 冬彦は、椅子に戻って顔をタオルで拭きながら、情けなく力の抜けた声で言った。

「ひとりでやりますけど、開演遅れますよ」

 舞台を大事にしましょうよ、と似顔絵の色指定を指で叩いて示す。

「悪かったよ」 

 一人が戻ってきて丁寧にメーキャップを施し、やがてその場をいそいそと去った。

 部屋の引き戸がカラカラと鳴って閉ざされる。

 そこに残されたのは、白地に赤や青で目鼻を派手に隈取った、サーカスのピエロが座っていた。

 確かにジョン修道士は道化役だが、いくらなんでも目立ちすぎる。

 背後で動くロミオやジュリエット(すなわち亜矢)たちの芝居が霞んでしまう。

 それでは、三年生引退公演の意味がない。

 メーキャップのいたずらに気づいていないのか、冬彦はクレンジングクリームを再び手に取ることもしない。

 手を膝に置き、背筋をまっすぐ伸ばして椅子に座ったまま、ぴくりとも動かない。

 だが、彼一人しかいない部屋の引き戸が再びカラカラと音を立てて開いたとき、冬彦は情けない声を出した。「勘弁してくださいよ、もう」

 返事はなかった。

 無言で入ってきた長身の若者は、逞しい手で手早くクレンジングクリームの蓋を開けた。

 冬彦の顔にべっとりと塗りながら、ひとり吐き捨てる。

「あいつら悪ふざけが過ぎる」

 立ったりしゃがんだり、出て行った部員とは比べ物にならない速さで、指定された色が顔の上に置かれていく。

 顔全体の24P(薄い肌色)、頬や鼻筋の21P(こげ茶に近い肌色)、目の周りの1番(黒)……。

 色の生白い、頬のこけた彫りの深い修道士の顔に眼鏡をかかる。

 だが、それは役者自らの手で外された。

 きょとんとして目を見開いた若者は、くぐもった声で言う。

「それないと見えないだろ」

「時代考証に合わないので」

 冬彦がそう断ると、メーキャップに手慣れた若者はきっぱりと言い切った。

「それは演出が決めることだ」

 眼鏡をかけようとしたては振り払われた。

「もういいんです」 

 頑なにうつむく冬彦を若者はなだめる。

「眼鏡なしじゃ舞台装置も上がり框(舞台の客席側の端)も見えないだろ」

「そのときはフォローしてもらえるって、信じてますから」

「危険だって言ってるんだよ!」

 意地を張る冬彦を怒鳴りつける若者の顔を見もしないで(どのみち見えはしないのだが)、冬彦は冷ややかに反論した。

「僕に何かあったら、舞台どころか部活もおしまいじゃないんですか」

 若者は天を仰ぐ。

「性格悪いな、君」

「脅してるんじゃありません。信じてますから」

 深く息をつく冬彦に、若者は呆れたように言った。

「あいつらの何を」

 冬彦は、ふっと笑った。

「信じてないんですか」

「いや……」

 言葉に詰まる若者を、急にハイトーンになった声が追い詰める。

「でしょう? みんな、なんだかんだ言って舞台が好きなんです」

 だが、若者はまじめな顔で逆襲した。

「君は?」

「もちろん」

 しれっと受け流す冬彦の前に、若者は傍らの椅子を引き寄せて座った。

 説教を始める。

「だったら舞台を大事にしろ。一つのことにこだわるのはいい。でも、こんなことは」

「性分ですから」

 目を合わせずに(合わせても相手の顔は分からないのだが)口答えをする冬彦に、若者はぼやく。

「友達、いないんじゃないか」

「ほとんど」

 こたえるなり、冬彦は明らかに場違いな笑顔を見せた。

 若者はいささかムキになる。

「じゃあ、数少ない友達を大事にしろ」

 そこで初めて、冬彦は力なく言った。

「こっち来てから、疎遠になっちゃって」

 こっちというのは「高等部」という意味であるが、これは倫堂学園の生徒なら暗黙の了解となっている。

「……分かるよ」

 皮肉のこもったコメントに、冬彦も皮肉っぽく返した。

「やっぱり」

 だが、そこで若者が抑えていた怒りは頂点に達したようだった。

「いい加減にしろ! 君を見てるといらいらする。バカにされてるっての分かるだろ? 」

「あなたも?」

 再び冷ややかに返した冬彦に、若者はバネで弾かれたように立ち上がって、頭からどなりつけた。

「ああ、バカにしてるよ!」

「やっぱり」

 暖簾に腕押しというか糠に釘というのか、冬彦は全く応えない。

 若者もさすがに疲れたようだった。

「分かってたんだろ」

「ええ、バカですから」

 その自虐が許せなかったのか、若者は冬彦の肩を掴んで揺さぶった。

「バカじゃないよ! 何ヘラヘラヘラヘラ笑ってんだ! 闘えよ!」

「嫌いなんです、喧嘩するの」

 首をガクガクやられながら、そう言う冬彦は抵抗もしない。

 若者は手を止めて顔を寄せた。

「喧嘩しないと守れないものもあるんだ!」

「僕は人を守れるほど強くありませんから」

 顔を背ける冬彦を、若者は突き放した。

「勝手にしろ!」

 冬彦は、何事もなかったかのように尋ねた。

「ところで、誰ですか? もう、みんな袖に行っちゃったんじゃ……」 

 若者は答えず、部屋の戸をカラカラと閉めて出て行った。

 座ったまま、ふたたび一人で取り残された冬彦は肩を落とし、じっと動かないでいる。

 うつむいたその目からは、とめどなく涙がこぼれていた。

「母さん……」

 手提げつきの化粧道具入れがいつの間にかなくなっていたが、眼鏡を外したままでは気づくこともできなかったのであろう。

 その手提げは、しばらく経ってから戻ってきた。

 持ってきたのは、すらりとした少年である。

 模擬店で買ったのであろう、オペラ座の怪人「ファントム」とおぼしきマスクをしている。

 音もなく開けた扉の傍にそっと化粧道具入れを置いて立ち去ろうとしたが、机に顔を伏せて肩を震わせている冬彦を見て立ち止まった。

 音もなく扉を閉めて、その場でなにやら小細工を始める。

 ポケットの中から出したのは、模擬店の駄菓子屋かなんかで買ったらしい風船である。

 これを二つ膨らませて胸の辺りに入れると、静かに冬彦の背後に歩み寄った。

 震える肩にかけた手は、鋭い拒絶の言葉で引っ込められる。

「触るな!」

「ごめん……お邪魔していいかな?」

 その声は、あろうことか冬彦が恋い焦がれる葛城亜矢センパイのものであった。

 冬彦は、ティッシュで顔を拭いて向き直る。

「どうぞ」

 せっかくのメーキャップが、また乱されている。

 勧められた椅子に座った少年は、亜矢の声でためらいがちに尋ねた。

「泣いてるの?」

「いいえ」

 だが、涙声はごまかしようがなかった。

「嘘」

 亜矢の声が、からかうようにたしなめる。

 冬彦は、正直に認めた。

「泣いてます」

「……つらかったでしょうね」

 言葉が省かれたのは、少年も事情を察しているからか。

 だが、冬彦はこの日までの思いを笑顔で口にした。

「楽しかった」

 それは、パリスの剣を浴びて、机の上から真っ逆さまに転落しそうになったことも含む。

 少年は、亜矢の声で叱った。

「大怪我するところだったのよ」

 それでも冬彦は明るく礼を言った。

「助けてくださってありがとうございます」

「やられっぱなしでいいの?」

 亜矢の声は、いささか腹立たしげである。

 だが、冬彦は気に留める様子もない。

「そういうキャラですから」

「それは、人から与えられたあなたでしょう?」

 先輩面して上からものを言う口調に、拗ねたような答えが返ってきた。

「本当の僕なんかもう、いません」

「じゃあ、いつまでならいたの?」

 売り言葉に買い言葉とはこのことで、間髪入れずに詰問される。

 だが、冬彦は一拍の間も置かずに切り返した。

「母がガンで逝くまで」

 しばし言葉もなかったのであろう、亜矢の声は深い溜息の後、穏やかに問うた。

「……あなた、どんな子だったの?」

 そこには、同情と憐みと、いささかの疲れがあった。

 一方、答える冬彦の声には、ある種の諦めがあった。

「今とおんなじです。でも、もっと怒ったり泣いたり、忙しかった」

 冬彦が力なく笑う。

 ふふ、と亜矢の声も力なく笑った。

「叱られたでしょう」

 ええ、と答えた冬彦は、子どものように目を輝かせて答えた。

「母も一緒に騒いでましたから」

 無論、目の前にいるのが誰かは分かりはしなかっただろうが、いろんな意味でここまで近づくと、さすがに目を細めてじっと見つめないではいられないだろう。

 当然、不審な点に気づくことはある。

「あれ……あなた」

 そう尋ねる冬彦を、亜矢の声をしたオペラ座の怪人は、いきなり抱きしめた。

 膨らんだ胸が、押さえつけられて歪む。

 ごほっとむせた冬彦がもがくと、互いの胸にかかる圧力も限界に達する。

 高らかな破裂音が、生物実験室の冷たく光る床に響き渡った。

 呆然とする冬彦を残して、オペラ座の怪人はぺしゃんこになった胸を抱えて、その場から消えた。

 化粧道具入れが置かれた辺りにある引き戸が音もなく閉まる。

 やがて、部屋の中には乾いた笑いがこだました。

「やられたあ……」

 天井を仰ぐ冬彦の目から流れた涙で、シャツには幾筋もの汚れが茶色い線を残した。

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