私の願いを、私の言葉で
第3話 私の願いを、私の言葉で
シリウスが別邸を訪れてから、スピカの日々は少しずつ変わり始めた。母を診ていた女医に手紙を送ると、数日後には本人が屋敷へ足を運び、使える設備と新しく必要なものを一緒に確かめてくれた。王宮の薬師からも紹介状を受け取り、薬の仕入れ先と保管方法について話を聞くことができた。
思っていたより修繕費がかかるとわかって、計画を書き直した日もある。最初から病人を泊めることは難しく、当面は診察と薬の処方だけに限ることになった。それでも、できないことが明らかになるたびに、今できることも具体的になっていった。
シリウスは、報告を聞くために何度か時間を取ってくれた。スピカが見積書を広げると、彼は数字を確かめながら質問し、知らないことは知ったふりをせずに尋ねた。彼女自身では判断できない項目があれば、誰に相談するのがよいかを一緒に考えてくれる。
その合間に、二人は本を交換した。スピカが持参したのは、幼いころ母に読んでもらった旅の物語だった。シリウスが選んだのは、各地の暮らしや風習を記した紀行書で、何枚かの頁には古い栞が挟まっていた。
「この町には、実際に行ったことがある。著者は料理を褒めているが、私はここの果実酒のほうが好きだったな」
彼が指した頁を読みながら、スピカは母の物語に登場する旅人の話をした。好きな場面を説明すると、シリウスは翌週、そこを読んだ感想を返してくれた。彼が覚えていた一節は、スピカが何度も読み返したところと同じだった。
診療所について話す時間と、ただ本の感想を交わす時間の境目が、いつの間にかわからなくなっていた。彼に会う前には見積書をそろえるだけでなく、借りた本に挟んだ栞の位置まで気になる。そうした自分の変化を、スピカはまだ誰にも話せずにいた。
*
王宮の慈善事業に関わる人々が集まる昼食会に、スピカが招かれたのは、それから十日ほど経ったころだった。診療所の計画について、出席者の前で説明する時間を設けたいと、王宮から申し出があったという。シリウスは招待状を渡すとき、まず彼女の意思を確かめた。
「医師や薬師だけではなく、支援に関心のある人にも話を聞いてもらえる。君の計画を知ってもらう機会になると思うが、どうだろう」
「私が、ご説明するのでしょうか」
「そうしてもらいたい。私からも話せるが、君の言葉で聞くほうが伝わるはずだ。引き受けるなら、準備には付き合おう」
スピカは招待状に目を落とした。王宮で人々を前に話すなど、これまで考えたこともない。けれど、診療所を開くには、母を知っている人だけでなく、自分の計画を初めて聞く人にも理解してもらう必要がある。
「お引き受けします。うまくお話しできるかわかりませんが、準備をしてみます」
シリウスは頷き、説明に使える時間と、出席者について教えてくれた。何を話すかは彼女に任せたまま、聞く人が知りたいであろうことを整理してくれる。その夜、スピカは診療所の計画書とは別に、母の屋敷をもう一度開きたい理由を書き始めた。
当日の朝、父は馬車へ乗る前に、彼女の手元を見て眉を寄せた。
「殿下の顔を潰すことのないようにしなさい。慈善事業の話は、聞こえのよいことを並べれば済むわけではない」
「承知しています。費用や運営についても、ご説明するつもりです」
父はそれ以上答えず、先に馬車へ乗り込んだ。スピカは書類を入れた鞄を抱え、何度も練習した冒頭の言葉を心の中で繰り返した。
王宮の会場には、すでに多くの人が集まっていた。長い窓から明るい日差しが入り、白い卓布の上には花と食器が整えられている。スピカが到着すると、シリウスは話していた相手に断りを入れ、彼女のところへ歩いてきた。
「来てくれてありがとう。資料は、予定通りそろっただろうか」
「はい。医師の先生にも見ていただきました。ただ、こんなに大勢の方がいらっしゃるとは思わなくて……」
彼は会場を見渡し、それからスピカの顔へ視線を戻した。少し考えるように間を置き、声を落とす。
「説明は、昼食のあとだ。まだ時間があるから、一度席に着こう。話す順番が来る前に、もう一度確認すればいい」
彼は鞄を奪うように持とうとはせず、席までの道を示してくれた。スピカは頷き、その隣を歩く。彼がいつも通りに話してくれたおかげで、会場に入ったときから浅くなっていた呼吸が、少しだけ落ち着いた。
ところが、席に着く前に、父と話していた年配の侯爵夫人が声をかけてきた。父の知人で、長年、王宮の慈善行事に寄付をしているという人だった。
「あなたがスピカさんね。診療所を作るお話、聞いていますよ。お母様の屋敷を残したいなんて、優しいお嬢さんですこと」
「ありがとうございます。屋敷を残すだけでなく、町の方々に使っていただける場所にしたいと思っています」
「でも、殿下とのご縁がまとまったら、ご自分で出向く必要はないでしょう。王弟妃のお立場なら、資金を出して名を添えるだけで、十分な支援になるもの」
侯爵夫人は、助言を与えるような柔らかい口調で続けた。そこに悪意があるとは思えなかったが、スピカは返事に迷った。彼女は開設後も診療所へ通い、医師や薬師と相談しながら運営に携わるつもりでいる。
「現場のことは、それに慣れた人に任せるべきです。病人のいる場所へ通って、王宮に病を持ち込むようなことになっても困るでしょう」
父が頷き、スピカの代わりに口を開いた。
「私もそう申しているのですが、娘はまだ理想ばかりでして。殿下にお認めいただいたものですから、すっかりその気になってしまいました」
父の言葉に、スピカは鞄の持ち手を握り直した。ここで言い返せば、父に恥をかかせることになるかもしれない。そう考えてしまう一方で、黙って頷けば、自分が望んでいることとは違う説明が、そのまま皆に伝わってしまう。
隣のシリウスが、彼女へ目を向けた。スピカが顔を上げると、彼は小さく頷く。それから侯爵夫人へ向き直り、静かに口を開いた。
「安全については、協力してくれる医師と相談している。運営の仕組みも含めて、今日は本人から説明してもらう予定だ。まずは、その話を聞いていただけるだろうか」
彼はスピカに代わって計画を語り始めなかった。父の言葉を責めることもなく、彼女が話すための時間を残してくれた。そのことに気づくと、スピカは鞄の持ち手から、少しだけ力を抜くことができた。
*
昼食のあと、司会役の侍従から名を呼ばれ、スピカは立ち上がった。用意した資料を開く指先が震え、最初の頁をうまくめくれない。顔を上げると、少し離れた席でシリウスがこちらを見ていた。
彼は何も言わず、彼女が話し始めるのを待っている。スピカは一度息を吸い、机の上へ両手を置いた。
「私が診療所にしたいと考えているのは、母から相続した東の別邸です。母はそこで療養しながら、近隣の方々の手当てをしていました。私は、その場所をもう一度開きたいと思っています」
母がどんな人を迎え、どんな相談を聞いていたのかを話すとき、用意していた文章を少しだけ離れた。医師に診てもらうことをためらっていた職人が、母の勧めで治療を受けたこと。薬の扱いを教わった家族が、その後も庭へ苗をもらいに来ていたこと。幼いスピカが母のそばで見ていた出来事を、思い出しながら言葉にした。
「母が亡くなってから、あの場所は閉じたままです。けれど、診療を必要としている方々がいなくなったわけではありません。病気になれば困るのに、病気になる前から治療費を用意しておける家ばかりではないのです」
会場を見渡すと、こちらへ顔を向けて聞いている人がいた。スピカは次の頁を開き、開設後の計画を説明した。最初は週に二日の診療から始め、入院は受け付けないこと。医療上の判断は医師と薬師に任せ、自分は会計や設備、支援者との連絡を担当することを、順に伝えていく。
侯爵夫人が気にしていた安全についても、医師から助言を受けていた。診察する部屋と待つ場所を分け、発熱のある患者を受け入れる際の手順を設ける。スピカ自身が通う場合も、医師の指示に従うつもりだった。
「私が医師の代わりを務めることはできません。ですが、診療を続けられるように必要なものを整え、困り事を聞いて、改善していくことはできます。資金を出したあとも、何に使われ、何が足りないのかを、自分で確かめていきたいのです」
話しながら、スピカは父の席へ一度だけ視線を向けた。父は口を結び、彼女を見ている。その表情に怯えて言葉を変えそうになったが、手元の資料に書いた数字を確かめると、最後まで説明を続けることができた。
費用について質問が出たとき、わからないところはわからないと答えた。寄付が集まらなかった場合には診療日を増やさず、維持できる規模を守ることも伝えた。理想だけで続けられるものではないと、修繕の見積もりを取ったときに痛感していたからだ。
説明を終えたあと、会場の一角から拍手が起こった。すべての人が賛同してくれたわけではなく、表情を変えずに席へ戻る人もいた。それでも、一人の貴族が帳簿の作り方について相談に乗れると申し出てくれた。別の夫人からは、家で使わなくなった寝具を役立てられないかと尋ねられた。
スピカは礼を述べ、連絡先を控えながら、一人ずつ話を聞いた。母の屋敷を知らない人にも、自分の言葉で計画を伝えられた。その実感が、緊張の残る身体に、ゆっくりと染み込んでいった。
*
会場を出たあと、スピカは廊下の窓辺でようやく息をついた。シリウスが隣へ来たときには、まだ指先がわずかに震えている。彼はそれに気づいたようだったが、すぐに話しかけず、彼女が顔を上げるのを待った。
「よく伝わった。質問にも、わかっていることと、これから調べることを分けて答えていたな」
「途中で、何を話していたのかわからなくなりそうでした。殿下がこちらを見てくださっていたので、落ち着くことができました」
「私は聞いていただけだ。あの人たちが協力を申し出たのは、君の説明を聞いたからだろう」
スピカは、会場でもらった名刺へ目を落とした。帰ったら礼状を書き、女医にも報告しなければならない。そう考えたところで、昼食前のやり取りが胸に浮かんだ。
「侯爵夫人がおっしゃったことは、王弟妃としては正しいのでしょうか。私が診療所へ通うことで、殿下にご迷惑をおかけするのではないかと……」
シリウスはすぐに答えず、窓の外へ一度目を向けた。それから、彼女の不安を確かめるように問い返した。
「診療所へ通えないことが、結婚の条件になったら、君はどうしたい?」
スピカは名刺を持つ手を止めた。屋敷を残すことだけなら、契約書で守られている。けれど、運営から離れ、時折報告を受け取るだけで満足できるかと考えると、答えは違っていた。
「私は、通いたいです。働く方々の話も、患者さんの困り事も、自分で聞きたいと思っています。母の屋敷に私の名前を残すことが、願いなのではありませんから」
「なら、その希望を含めて話を進めよう。王宮の務めや安全への配慮は必要だが、方法を考える前に諦めることはない」
シリウスは、彼女が抱えていた資料の端が折れていることに気づき、指でそっと整えた。何気ない仕草だったのに、その手が離れるまで、スピカは目を逸らせなかった。
「殿下は、どうしてそこまでしてくださるのですか。私の希望を聞かなければ、この縁談はもっと簡単にまとまっていたはずです」
彼はスピカの顔を見て、わずかに笑みを浮かべた。からかうようなものではなく、少し困ったようにも見える表情だった。
「最初は、伯爵家から来た縁談として考えていた。だが、今は君に会う日を楽しみにしているし、君が読んだ本の続きを知りたいと思っている」
スピカの頬に、ゆっくりと熱が上った。診療所の話とは違うところで、彼が自分を思い出してくれている。その意味を受け止める前に、シリウスが言葉を続けた。
「君が妻になってくれたら、うれしい。だからこそ、結婚するために君が嫌だと思う条件を飲んだのなら、私はそれを喜べないだろう」
スピカは返事を探したが、すぐには声が出なかった。これまで結婚について考えるとき、守れるものと失うものを数えていた。今は、この人と一緒に過ごす日々を思い浮かべている自分に気づき、胸がいっぱいになった。
シリウスは答えを求めず、彼女の歩調に合わせて廊下を歩き始めた。スピカも隣へ並ぶと、先ほどまで資料を抱えるために丸くなっていた背を、少しだけ伸ばした。
明日、二人の婚姻条件について、国王の前で正式に確認する場が設けられている。シリウスからそう聞いたとき、スピカは頷き、自分も同席したいと伝えた。
診療所を続けたいという願いは、もう口にできる。そのうえで、シリウスの隣にいたいという気持ちを、今度は自分の言葉で伝えたかった。




