私が選んだ結婚
第4話 私が選んだ結婚
国王との面会を控えた朝、スピカは借りていた紀行書を鞄に入れた。今日の話し合いに必要なものではなかったが、シリウスに返すついでに、続きを読んだ感想を伝えたかった。契約書と診療所の計画をそろえたあと、最後にその本を確かめると、張り詰めていた気持ちが少しだけ和らいだ。
王宮へ到着すると、シリウスは面会室の手前で待っていた。彼はスピカの顔を見て挨拶を交わし、彼女が抱えた鞄へ目を向ける。いつもの資料に加えて本を持ってきたと伝えると、口元に小さな笑みが浮かんだ。
「続きを読んでくれたんだな。話が終わったら、感想を聞かせてほしい」
「はい。殿下が行かれた町のところを、もう一度読みました。ほかにも、お尋ねしたいことがあるのです」
「それは楽しみだ。今日の予定は、面会のあとに少し余裕を取っている」
彼がいつもと変わらない声で答えてくれることが、ありがたかった。スピカは頷き、鞄を持ち直す。シリウスは彼女の準備ができたのを確かめてから、侍従に入室を告げた。
国王との面会は、儀式に使われる広間ではなく、執務室に隣接した小さな部屋で行われた。父と王室の事務を取り扱う大臣が先に席についており、机の上には婚姻契約書の最終案が置かれている。国王は二人の挨拶を受けると、腰を下ろすよう促した。
「診療所の計画については、昨日の報告を聞いている。医師にも相談し、費用も確認しているそうだな」
「はい。まだ修繕の見積もりがそろっていない箇所はありますが、開設までに必要なものを順に整えています」
スピカが答えると、国王は頷いた。その反応にわずかに安心しかけたところで、大臣が手元の書類を開く。
「診療所の開設そのものに、異論はございません。ただ、王弟妃となられる方が継続して町へ出向き、運営を担われるとなりますと、警備や公務との調整が必要です。婚姻契約に、そこまでの活動を保障する条項を設けた例も少なく、慎重に検討すべきかと存じます」
父も、それに続いて口を開いた。
「娘の希望をお聞き届けいただいたことには、感謝しております。ですが、結婚後は王家のご都合に従うのが当然でございましょう。屋敷を診療所として残していただけるのであれば、あとは専門の者に任せればよいと考えております」
スピカは机の上の契約書を見つめた。ここで頷けば、父は安心するだろう。診療所を開く夢も、形の上では叶う。それでも、自分が何を望んでいるかを知らないふりで結婚することは、もうできなかった。
「陛下、私からもお話ししてよろしいでしょうか」
許しを得て、スピカは用意してきた計画書を開いた。毎日診療所に通う必要があるとは考えていないこと、医療上の判断には関わらないこと、公務の日程に合わせて訪問日を調整できることを説明する。運営を一人で抱え込まず、会計と建物の管理を担当する人も置くつもりだった。
「それでも、私は定期的に現場へ通いたいのです。帳簿の数字だけではわからないことがあります。薬の保管棚が使いにくいとか、診察を待つ場所が寒いとか、そうした話を聞いて、直していきたいと思っています」
昨日の昼食会よりも、声は落ち着いていた。緊張がなくなったわけではないが、自分が伝えるべきことはわかっている。スピカは顔を上げ、国王へ視線を向けた。
「王弟妃としての務めを軽く考えているわけではありません。必要なことを教えていただき、両方を続けられる方法を考えたいのです。その前に、診療所から離れるとお約束することはできません」
言い終えると、父が小さく息を吸う音が聞こえた。スピカは反射的にそちらを見そうになったが、国王の返答を待つ。その隣で、シリウスが静かに口を開いた。
「警備や日程の調整が必要なことは承知している。私の邸の者と、診療所の担当者で相談する準備も進めている。実際に不都合が出た場合には、本人を交えて方法を改めればいい」
「しかし殿下、将来にわたって活動を認めるとなりますと、王家としても――」
「王家の務めをすべて免除してほしいという話ではない。彼女が診療所の運営に携わることを、結婚だけを理由に禁じないでほしいという条件だ」
シリウスは大臣の説明を聞いたうえで、契約書の一節を指し示した。声を荒らげることもなく、今日ここで決めるべきことを確かめていく。その指が止まった場所には、スピカの願いが、彼の署名とともに記されていた。
「スピカ嬢には、この条件で結婚を考えてほしいと伝えている。もし王家が認められないのなら、縁談はいったん白紙に戻すべきだろう」
父が顔を上げ、スピカも思わずシリウスを見た。彼は国王に向けていた視線を彼女へ移し、不安を残さないように言葉を添える。
「診療所の準備は、その場合も続ければいい。紹介した医師や薬師との話を取り消すつもりはないし、君の屋敷の所有権も変わらない」
「殿下、それでは……」
「私の妻になるために、君が大切にしていることを諦める必要はない。君から返事をもらうなら、昨日まで話してきた条件を守ったうえで受け取りたい」
シリウスの表情は穏やかだった。結婚をやめるという言葉を、交渉のための脅しとして口にしているのではないと、スピカにもわかった。自分が彼を選ばなかったとしても、彼は診療所を守るためにした約束を取り消さないのだ。
胸の奥に、温かなものが満ちていく。守ってもらえたことがうれしいのと同時に、彼にばかり覚悟を示してもらいたくないと思った。スピカは膝の上で手を重ね、もう一度国王へ向き直った。
「私は、シリウス殿下との結婚を望んでおります」
隣で、彼がわずかに身じろぎした。その気配を感じながら、スピカは言葉を続ける。
「診療所の条件を認めてくださったからだけではありません。殿下は私が話すのを待ってくださり、わからないことは一緒に考えてくださいました。私も、殿下のお話を聞き、困ったときには力になれる人でありたいと思っています」
父がどう受け止めるかを考える余裕は、もうなかった。これは家のために用意した返答でも、助けてもらったお礼でもない。次に彼に会う日を楽しみにしてきた自分が、これからの日々を共に過ごしたいと願っているのだ。
「公務のことも、診療所のことも、殿下と相談しながら務めてまいります。その形での結婚を、お認めいただきたいのです」
国王は二人を見比べ、それから手元の契約書へ目を落とした。しばらく内容を確かめたあと、王室の務めと診療所の訪問日程を調整すること、医療上の判断は医師に委ねることを条件として、スピカの活動を認めると告げた。
「王家の者が町の暮らしを知ることにも意味はある。本人がそこまで考えているのなら、まずは始めてみればよい。必要な見直しは、その都度相談することだ」
スピカは深く頭を下げた。顔を上げると、シリウスが彼女を見ている。その目元に浮かんだ安堵が、今まで見たどの表情よりも近しく感じられて、彼女は思わず微笑んだ。
父は最後まで診療所について賛成の言葉を口にしなかった。それでも、正式な承認が下りたあとに異議を唱えることはなく、修正された条件を確認した。スピカは父の納得を得られなかったことを寂しく思ったが、自分が決めたことまで引き戻そうとは思わなかった。
*
面会を終えたあと、シリウスは約束通り、スピカを小さな庭園へ案内した。日当たりのよい場所に置かれた長椅子へ並んで座ると、侍従が茶を運んできた。二人きりになってから、彼はようやく深く息をつく。
「先ほどは、驚いた。君の返事を、今日聞けるとは思っていなかった」
「昨日、帰ってから考えたのです。殿下が私を妻に迎えたいとおっしゃってくださったので、私も、自分の気持ちをお伝えしようと思いました」
スピカは茶杯を持ったまま、彼の顔を見た。国王の前では言えたことが、二人きりになると急に恥ずかしくなる。けれど、今度こそ彼自身に向けて伝えたかった。
「殿下とお会いする日を、楽しみにしていました。診療所の相談がなくても、お借りした本の話をしたいとか、殿下ならどうお考えになるだろうとか、そんなことを思っていたのです」
シリウスは彼女の言葉を聞き、少しだけ視線を落とした。いつも落ち着いている彼が返事を選んでいるように見えて、スピカは胸が高鳴る。彼は顔を上げると、茶杯を机へ戻した。
「私も、君からの手紙を待つようになっていた。計画が進んだ知らせもうれしかったが、借りた本を読み終えたと聞けば、次に会う時間を早く作りたいと思った」
彼の手が、長椅子の上に置いていたスピカの手へ伸びた。指先が触れたところで一度止まり、彼女が手を引かないのを確かめてから、そっと包み込む。庭で立ち上がるために支えられたときとは違い、今はただ、触れていたいと思ってくれているのだとわかった。
「私と結婚してほしい。診療所のことも、それ以外のことも、これから一緒に話していきたい」
スピカは彼の手を握り返した。答えは先ほど伝えたはずなのに、改めて彼から尋ねられると、うれしさで胸がいっぱいになる。
「はい。私も、殿下と一緒に暮らしていきたいです」
シリウスの表情が、ゆっくりとほどけた。その笑顔を見たスピカは、自分の返事が彼にとっても大切なものだったのだと、ようやく実感した。家同士が決めた縁談は、ここで初めて、二人が選んだ結婚になった。
*
東の別邸に診療所が開かれたのは、それから三か月後のことだった。修繕は必要な部屋から進め、使わない棟は閉じたままにした。母の診療室には磨き直した机が戻り、薬棚には薬師が確かめた薬が並んでいる。
開設の日、スピカは朝から屋敷の中を行き来していた。協力してくれた人々へ礼を述べ、医師と受け付けの手順を確かめ、待合室の椅子を動かす。思っていたより早く人が集まったため、庭に面した部屋も待つ場所として開けることになった。
シリウスが訪れたとき、彼女は帳簿を片手に、足りない物を確認しているところだった。挨拶をしようと顔を上げると、彼は片手を軽く上げ、先に仕事を続けるよう促してくれた。一区切りついて駆け寄ったころには、彼は庭で年配の患者から母の思い出を聞いていた。
「お待たせして、申し訳ありません。朝から、予定していなかったことばかりで」
「開いたばかりなのだから、無理もない。困ったことは、あとで一つずつ整理すればいいだろう」
シリウスは屋敷へ目を向けた。診療室の扉が開き、母を知っている女医が次の患者を呼んでいる。待合室の窓からは話し声が聞こえ、庭には薬草の苗を眺める人がいた。
「よい場所になったな。君の母上にも、見せたかっただろう」
スピカは頷き、少しだけ目を伏せた。母が使っていた部屋に、再び人が集まっている。その光景を見られたことがうれしくて、朝から何度も、泣きそうになるのをこらえていた。
シリウスは何も言わず、隣に立っていてくれた。スピカが顔を上げたときには、診療室の前で待つ人のために椅子を運ぶ使用人へ、通り道を空けている。そのさりげない姿を見て、彼女は小さく笑った。
「殿下にお見せできて、うれしいです。最初にここへ来ていただいたときは、まだ何も決まっていませんでしたから」
「君が何をしたいかは、あのときから決まっていた。あとは、できる形にしていくだけだったんだな」
スピカは、また相談したいことがあると伝えた。薬草を売るための準備や、寄付をしてくれた人への報告など、始めてみて初めてわかったことも多い。シリウスは彼女の話を聞き、夕食のあとに時間を取ろうと答えた。
結婚式までは、あとひと月だった。その日を迎えたら二人は同じ家へ帰り、面会の約束を取りつけなくても、食卓を挟んで話ができる。そう思うと、式の準備さえ、以前より楽しみになっていた。
*
婚礼の日、スピカが最後に鏡を見たとき、胸元には母が遺した小さな宝石が光っていた。シリウスから贈られた髪飾りは、それに合う色で作られている。彼が自分の好みを覚えていてくれたことを思い出し、スピカは鏡の中の自分へ微笑んだ。
礼拝堂へ入ると、祭壇の前でシリウスが待っていた。二人の目が合い、彼の表情が柔らかくなる。初めて王宮で会ったときとは違い、スピカはその眼差しを見て、迷わず隣へ向かうことができた。
誓いの言葉を交わし、指輪を受け取ったあと、シリウスが彼女へわずかに身を寄せた。周囲には聞こえないほどの声で、彼は尋ねる。
「緊張しているだろうか」
「少しだけ。でも、殿下のお顔を見たら、落ち着きました」
彼はそれを聞いて、うれしそうに笑った。その笑顔に見入っていると、彼の指がそっと頬に触れ、スピカが顔を上げるのを待ってから、唇が重なった。
短い口づけのあとも、彼はすぐには離れなかった。スピカが息をつき、小さく微笑むと、額が触れるほど近いところで言葉をくれる。
「君と、こうして今日を迎えられてうれしい。これからも、君の話を聞かせてほしい」
「はい。殿下のお話も、たくさん聞かせてください」
拍手が広がる中で、スピカは彼の腕に手を添えた。礼拝堂の扉の向こうには、二人を祝う人々が待っている。診療所から来てくれた医師や薬師、母の屋敷を知る町の人々の姿も、その中にあった。
これからも、思い通りにいかないことはあるだろう。診療所で困る日も、王弟妃としての務めに戸惑う日もある。それでも、何を望み、何に悩んでいるのかを、隣の人に話せることを、スピカはもう知っていた。
シリウスが彼女の歩調に合わせて、一歩を踏み出す。スピカもその隣を歩きながら、今夜はどんな話をしようかと考えた。まずは、自分の願いを聞いてくれた人と結婚できたことが、どれほど幸せなのかを、もう一度伝えようと思った。




