あなたの願いを、結婚の条件に
第2話 あなたの願いを、結婚の条件に
王宮から持ち帰った契約書を見て、父はしばらく言葉を失っていた。東の別邸を譲渡する条項には線が引かれ、その下に、土地と建物は婚姻後もスピカ個人の所有とする旨が書き添えられている。修正箇所を確かめる父の指が、最後にシリウスの署名の上で止まった。
「お前は殿下に、いったい何を申し上げた」
「診療所を開きたいとお伝えしました。殿下は、そのために必要な条件を考えてくださったのです」
「私は屋敷一つの話をしているのではない。王家に誠意を示すために用意した条件を、お前が勝手に変えてしまったことを問題にしている」
父は契約書を机に置き、抑えた声でそう言った。怒鳴られるよりも、その声音のほうがスピカには堪えた。自分の望みを口にしただけなのに、誰かとの大切な約束を破ってしまったような気持ちになるのは、これまで何度も同じ言葉で諭されてきたからだろう。
それでも、書面から目を逸らさなかった。あの屋敷は母から彼女に遺されたものだ。父の交渉を助けるために差し出すと、自分で決めた覚えはない。
「私から条件を押しつけたわけではありません。殿下が話を聞いてくださって、譲渡は必要ないとおっしゃいました」
「お優しい言葉を、そのまま受け取ったのか。殿下はお前に恥をかかせないために、そう答えただけかもしれないだろう」
その可能性を、スピカも考えなかったわけではなかった。王宮から戻る馬車の中で、何度も契約書を開いては署名を確かめた。自分に都合のよい言葉だけを信じてしまったのではないかと、不安になるたび、シリウスが一つずつ条件を説明してくれたときの声を思い出していた。
父がさらに何かを言おうとしたところで、扉の外から控えめな声がかかった。王弟殿下の使者が訪ねてきたと聞き、父は口を閉じる。ほどなく運び込まれた封書には、翌日の午後、婚姻契約について改めて話し合いたいという申し出が記されていた。
その文面には、スピカにも同席してほしいと明記されている。父が読み終えた封書を机に伏せるのを見ながら、彼女は膝の上で握っていた手を、ゆっくりとほどいた。
*
翌日、シリウスは秘書を一人だけ伴って伯爵家を訪れた。父はいつもより丁寧な挨拶で彼を迎え、応接間には来客用の茶器が並べられたが、スピカはその整えられた光景にかえって緊張していた。王宮では二人で話せたことも、父の前では同じように口にできるか、自信がなかった。
シリウスは彼女に気づくと、軽く会釈をした。その仕草が昨日と変わらなかったことに、スピカは少しだけ安堵する。彼は席に着くと、秘書から受け取った新しい契約書を、父とスピカのどちらからも見える場所に置いた。
「修正した案を持参した。別邸と敷地はスピカ嬢の所有とし、婚姻後も本人の意思によって使用できることを、正式な条項にしている」
「殿下のお心遣いには感謝しております。ただ、娘はまだ若く、診療所の運営にどれほど費用がかかるかもわかっておりません。結婚してから考えを変えることもございましょう」
「その可能性はある。実際に始めてみて、計画を改める必要も出てくるだろう。だからこそ、自分の財産をどう使うかは、本人が決められるようにしておきたい」
シリウスは父の言葉を遮らず、聞き終えてから答えた。穏やかな声だったが、机の上の書類を引き戻す気配はない。父は困ったように微笑み、今度はスピカへ視線を向けた。
「診療所のことより、まずは王弟妃としての務めを覚えるべきではないか。家のことも、殿下のお立場もあるのだから」
スピカは答えようとして、喉の奥が詰まるのを感じた。結婚すれば覚えることは多いだろうし、シリウスの妻として果たすべき責任もある。そのどれも知らない自分が診療所の話を続けるのは、確かに身勝手なのかもしれないと思いかけた。
「その点は、私からも説明しておこう」
シリウスが、二人の間へ静かに声を差し入れた。父へ向き直った彼は、王弟妃の務めがどの程度のものなのか、実際に出席を求められる式典や行事を挙げて説明した。すべての日を王宮で過ごす必要はなく、診療所の準備を進める時間は十分に取れるという。
「双方を続けられるように予定を組めばいい。慣れるまでは私のほうでも調整するつもりだ。まだ始めてもいないうちから、どちらかを諦めてもらう必要はないだろう」
父は茶杯へ手を伸ばしたが、すぐには口をつけなかった。シリウスは返答を急かさず、次の書類を開く。その一枚は、伯爵家側が提示した持参金についての確認だった。
「別邸の譲渡を取りやめた分について、ほかの財産を追加する必要もない。伯爵家の財務について相談があるのなら、婚姻とは別に伺おう」
スピカは、父の指が茶杯の持ち手を強く握ったのを見た。家の財政が苦しいことは知っていたが、この縁談を成立させることが、父にとってどれほど大きな意味を持つのか、初めて輪郭が見えた気がした。シリウスはその事情まで知ったうえで、別邸を守る条件を示しているのだ。
話し合いのあいだ、彼は一度も父を責めなかった。ただ、スピカの相続財産と伯爵家の問題を混ぜず、それぞれについて必要なことを確認していく。父はやがて修正案を検討すると答え、面会は終わった。
立ち上がったシリウスが、スピカへ視線を向ける。彼が帰ってしまう前に、彼女は用意していた薄い綴りを差し出した。
「殿下、もしお時間をいただけるようでしたら、診療所の計画を見ていただけませんか。昨日から書き直したものなので、まだ不十分なのですが」
「ぜひ見せてほしい。君さえよければ、屋敷も見ながら話を聞きたいと思っている。今日、案内してもらえるだろうか」
父の前で、その返事を聞けたことがうれしかった。スピカが頷くと、シリウスは秘書と予定を確認し、そのまま別邸へ向かう時間を取ってくれた。
*
東の別邸は、伯爵家の屋敷から馬車で半刻ほどの場所にあった。門の鉄柵には蔦が絡み、庭の小道には落ち葉が積もっている。スピカが鍵を開けると、蝶番が低い音を立てた。
「お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません。人を入れる前に、庭も建物も整えなければならないのですが」
「これから手を入れる場所を見に来たのだから、気にしなくていい。君は、どの部屋から使うつもりなんだ?」
スピカは母の診療室へ案内した。窓の覆いを外すと、午後の光が机と薬棚を照らし、空気の中に細かな埃が浮かぶ。母が座っていた椅子に目が留まり、彼女は一瞬だけ言葉を止めたが、手元の綴りを開いて説明を始めた。
最初は週に二日、協力してくれる医師に来てもらい、診察を受けられるようにする。隣の部屋を薬の保管場所にし、体調の悪い人が休める寝台も用意したい。診療費は払える人には負担してもらい、難しい人の分は寄付と薬草の販売で補うつもりだった。
「すべて無料にしたいと思っていたのですが、それでは長く続けられないかもしれません。母が残した薬草の記録もありますし、庭を整えれば、少しずつ収入を作れるのではないかと考えました」
シリウスは綴りを受け取り、各項目に書かれた金額を確かめた。ところどころ、何度も計算し直した跡が残っている。スピカはその頁を見られるのが気恥ずかしかったが、彼は書き損じを気にすることなく、修繕費の欄を指した。
「屋根と水回りは、専門の者に見てもらったほうがよさそうだな。薬の仕入れも、王宮に出入りしている薬師から話を聞けば、金額の目安がつくだろう。紹介してもかまわないか?」
「お願いしてもよろしいのですか」
「もちろんだ。必要な相手を紹介するくらいなら、すぐにできる。来てもらう医師については、君が頼みたい人がいるのだろうか」
スピカは、母を診ていた年配の女医の名を挙げた。以前、診療所を開くなら手伝いたいと言ってくれた人だったが、まだ正式に頼む勇気が持てずにいる。シリウスはその話を聞くと、まず彼女へ計画を見せて、必要な設備を相談するのがよいと頷いた。
「君の母上のことも、この屋敷のことも知っている人なら、心強いな。最初に相談する相手として、よいと思う」
自分が考えていたことを、彼が自然に認めてくれる。その一言だけで、女医への手紙を書くときの迷いが少し減った気がした。
話しているうちに、頭の中で何度も組み立てては諦めていた計画が、実際に進めるための順番に変わっていった。屋敷を手放さずに済んだだけで、すべてが叶うわけではない。それでも、次に何をすればよいかを一緒に考えてくれる人がいると、こんなにも心強いのだと初めて知った。
庭へ出ると、花壇の縁に残った薬草が風に揺れていた。スピカは身をかがめ、伸びすぎた枝をそっと持ち上げる。シリウスも隣にしゃがみ、彼女が葉を確かめる手元を眺めた。
「母は、ここへ来た人によく薬草を持たせていました。自分で育てられれば、買うお金がなくても使えるからと」
「それなら、この庭も診療所の一部になるんだな。薬を渡したあとも、暮らしの中で役立てられるようにしていたわけだ」
「はい。私も、育て方や扱い方まで教えられたらと思っています。薬草によっては使い方を間違えると危ないので、そこもきちんと説明できるようにしたいです」
話しながら顔を上げると、思っていたよりも近くに彼の顔があった。シリウスは笑ってはいなかったが、彼女の話を聞く目元がわずかに和らいでいる。スピカは急に、自分が夢中になって話し続けていたことに気づいた。
「申し訳ありません。殿下には、ご予定もありましたのに」
「今日は君の話を聞くために時間を空けている。私のほうから案内を頼んだのだから、遠慮しなくていい」
シリウスは手元の綴りを軽く持ち上げ、庭と建物へ目を向けた。彼の視線につられて、スピカも母の部屋の窓を見上げる。
「実際に見せてもらうと、君の計画がよくわかる。応接間で話していたときより、君も楽しそうだ」
指摘されて、スピカは頬に熱が集まるのを感じた。父の前では言葉を選び、王宮では間違えないように説明することに必死だった。ここではいつの間にか、母の話も、庭のことも、思いつくままに口にしていた。
「こんなに話を聞いていただいたのは、久しぶりでした。たぶん、母が亡くなってからは、あまり……」
そこまで言って、彼女は視線を落とした。寂しかったと伝えるつもりはなかったのに、言葉の続きを探すほど、胸の奥にあったものがこぼれそうになる。シリウスは何も尋ね返さず、彼女が顔を上げるまで待ってくれた。
「今日、ここへ案内してもらえてよかった。君が大切にしている場所を、私も知ることができた」
彼は立ち上がると、スピカへ手を差し出した。庭仕事用の手袋もせずに葉を触ったため、彼女の指先には薄く土がついていたが、彼は気にする様子もなくその手を取る。足元の石に裾が引っかからないよう、彼女が立ち上がりきるまで支えてくれた。
手を離したあと、シリウスは診療所の計画書を彼女に返した。受け取ったスピカが胸元へ抱えると、彼は少しだけ表情を緩める。
「次に会うときは、君の好きなものも教えてほしい。診療所の話をしている君はわかったが、ほかのことも知りたいんだ」
「私の、好きなものですか」
「本でも、菓子でも、散歩する場所でもいい。結婚を考えてもらうなら、私のことも話しておきたい。書類だけでは、わからないことのほうが多いだろう」
彼の言葉に、スピカはようやく、目の前の人が自分の結婚相手になるかもしれないのだと思い出した。診療所を守ってくれた恩人として、頼りになる相談相手として見ていた人が、彼女自身を知りたいと言っている。その意味を意識した途端、先ほど触れた手の温かさが気になった。
「母の診療室には、本がたくさん残っているのです。医術の本ばかりではなく、物語もあります。私が好きだった一冊を、次にお持ちしてもよろしいでしょうか」
「それは楽しみだな。私も一冊選んでおこう。君が気に入るものだといいのだが」
シリウスが答えると、スピカは小さく笑った。次の面会を思い浮かべて、怖さよりも楽しみが先に立ったのは、これが初めてだった。
別邸を出る前に、彼は新しい契約書の控えをスピカに渡した。所有権を守る条項の下には、婚姻後も診療所の運営に携わることを妨げないと記されている。彼女はその一文を読み、署名の横にそっと指を添えた。
いつか状況が変われば、優しい言葉は忘れられてしまうかもしれない。けれどシリウスは、聞き取った願いを、あとから誰かが取り消せない形で残そうとしてくれた。その心遣いを思うと、丁寧に礼を述べるだけでは足りない気がした。
「シリウス殿下。今日は、本当にありがとうございました」
彼の名を呼ぶ声が、王宮で挨拶したときよりも自然に出た。シリウスはスピカを見て、今度ははっきりと微笑んだ。
「こちらこそ、話してくれてありがとう。次に会う日を、楽しみにしている」
その言葉を聞いたとき、スピカは診療所の計画だけでなく、持っていく物語のことを思い浮かべた。好きな場面を話したら、彼はどんな顔で聞いてくれるだろう。馬車を見送ったあとも、庭で触れた手の温かさと、別れ際の笑顔が、なかなか心から離れなかった。




