政略結婚の条件
第1話 政略結婚の条件
「お前には、王弟殿下との縁談を受けてもらう」
父の言葉に、スピカは手にしていた便箋をそっと机へ置いた。窓の外では、秋の雨が伯爵家の庭を濡らしている。応接間の暖炉には火が入っていたが、部屋に満ちる空気はひんやりと冷たかった。
「王弟殿下というのは、シリウス殿下のことでしょうか」
「そうだ。陛下の弟君で、王位継承権こそ高くないが、王宮では信頼されている。お前が殿下に嫁げば、我が家にとっても申し分のない縁談だ」
父は満足げに頷いた。机の上には王家の紋章を押された婚姻契約書が置かれている。そこにはスピカの結婚相手や持参金だけでなく、母から相続した東の別邸と、その敷地を王家へ譲渡するという条項まで記されていた。
「この別邸も、譲り渡すのですか」
「何年も使っていない屋敷だ。修繕には金がかかるし、王家が管理するほうが有効に活用できる。お前も、今まであそこを使えていたわけではないだろう」
父の説明に、スピカは契約書から顔を上げた。あの屋敷が長く閉ざされていたのは事実だ。しかし、それは価値がないからではない。母を亡くしたあと、父が使用人を引き揚げ、維持費を惜しんで手入れを止めてしまったからだった。
「私は、あの別邸を診療所にしたいのです」
「診療所だと?」
父の眉が寄る。スピカは一度息を吸い、膝の上で重ねていた手に力を込めた。
東の別邸は、母が療養生活を送った場所だった。母は身体が弱く、長く床に伏せる日々を過ごしていたが、体調のよい日には屋敷の一室で近隣の人々を診ていた。薬草の扱いを知る者には薬を調合してもらい、医師を呼べない者には自分の知識でできる限りの手当てを施していた。
母が亡くなったあとも、診療室には薬棚と机が残っている。庭には母が育てた薬草がわずかに息づき、町の人々からは、あの場所をもう一度開いてほしいという声が届いていた。スピカはその願いを聞くたび、いつか自分の手で診療所を再開しようと心に決めてきた。
「町には、医師の診察を受けられない人がいます。働けなくなれば家族の暮らしまで立ちゆかなくなるから、具合が悪くても無理をしている人も少なくありません。あの屋敷なら町から近いですし、診療室を整えれば、まずは小さく始められます」
「お前ひとりに何ができる。医師を雇う金も、薬を仕入れる資金も必要だろう」
「協力してくださる医師や薬師を探します。資金についても、運営の仕組みを考えて――」
「夢物語を聞かせるために、私はお前を呼んだのではない」
父は契約書を指先で叩いた。音は小さかったが、スピカの言葉をそこで終わらせるには十分だった。
「王弟殿下との縁談は、我が家が立て直るためにも必要だ。お前は伯爵家の娘なのだから、自分の望みより家の利益を優先しなさい。別邸を譲るくらい、受け入れられるだろう」
父の言葉は、スピカにとって初めてではなかった。母が亡くなってから、彼女の願いはいつも家の都合と秤にかけられてきた。領民を助けたいという思いも、母の屋敷を残したいという望みも、現実を知らない娘の感傷として片づけられてしまう。
それでも、母が残した診療室を失いたくなかった。あの場所を王家の別邸に変えてしまえば、そこに通った人々の記憶まで、なかったことにされてしまう気がした。
「縁談を断るつもりはありません。ただし、別邸を譲渡する条件には同意できません」
スピカは、契約書の端を押さえていた手を離した。父の目に一瞬浮かんだ安堵が消え、代わりに苛立ちがにじむ。それを見ても、彼女は言葉を引っ込めなかった。
「殿下に直接お話しさせてください。診療所を開きたいことも、この条件を望んでいるのが誰なのかも、私から確かめたいのです」
「王宮で余計なことを言うな。相手は王族だぞ」
「承知しています。だからこそ、結婚する前にお話ししておきたいのです」
父はスピカをしばらく見つめた。その表情からは、娘を案じる気持ちも、話を聞こうとする気配も読み取れない。やがて彼は深く息をつき、「好きにしなさい」とだけ告げた。許可というより、うまくいくはずがないと見切りをつけたような声音だった。
それでもスピカは、翌日に王宮へ出向く約束を取りつけた。
*
王宮の応接室は、伯爵家のものよりずっと広かった。磨き上げられた床には窓から差し込む午後の日差しが淡く映り、壁際には季節の花が飾られている。だが、豪奢な調度品を眺める余裕は、スピカにはなかった。
「待たせてしまったな。シリウスだ」
部屋に入ってきた王弟は、濃紺の礼服に身を包んでいた。噂では、王宮の誰よりも冷静で、利益のためなら迷いなく決断する人だと聞いている。けれど、スピカを見た彼の表情に威圧感や見下すような笑みはなく、彼女が挨拶を終えるまで、静かにその場で待っていた。
シリウスは窓際の席を勧め、スピカが腰を下ろしてから向かい側に座った。机の上には、父から渡されたものと同じ婚姻契約書がある。彼は書類に目を落とす前に、スピカへ視線を戻した。
「伯爵から、縁談について話があったと聞いている。確認しておきたいことがあるそうだな。君の話を聞かせてほしい」
「はい。縁談そのものについては、前向きに考えております。ただ、母から相続した東の別邸を王家へ譲渡する条件には、同意できません」
最後の言葉を口にするとき、スピカの指先は膝の上で強張っていた。王族が示した条件に異議を唱えるのだと、ここへ来るまで何度も自分に言い聞かせていたからだ。シリウスはその返答を咎めることなく、契約書を手に取った。
該当する条項を見つけると、彼は目を走らせ、ほんのわずかに眉を寄せた。それから書類を机へ戻し、スピカが顔を上げるのを待った。
「この別邸を譲りたくない理由を、聞いてもいいだろうか」
「母が療養中に、近隣の人々を診ていた屋敷だからです。私はあそこを診療所として開きたいと思っています。町には医師を呼べない人がいて、薬代を払うために食事を減らしている家もあります。大きな施設でなくても、あの屋敷を使えば、できることがあるはずです」
スピカは、母が診療室に置いていた薬棚のことや、薬草を育てた庭のことを話した。まだ医師との協力も資金のあても十分ではない。それでも、開設を望む声があること、患者を受け入れる部屋が残っていること、屋敷を整えれば最初の一歩を踏み出せることを、できるだけ具体的に伝えた。
シリウスは途中で口を挟まなかった。スピカが言葉を選んで黙ったときも、先を促さずに待ってくれた。そのおかげで彼女は、用意してきた説明だけでなく、母の屋敷をどうしても残したいという気持ちまで話すことができた。
話し終えると、シリウスは契約書の譲渡条項を指で示した。
「これは王家から出した条件ではない。伯爵家側が、持参金の一部として提示したものだ」
「父が、そう申し出たのですか」
「書類上はそうなっている。少なくとも、こちらから屋敷を求めたことはない」
スピカの胸に、安堵より先に困惑が広がった。王家が管理するほうがよいと父が説明した屋敷は、王家から望まれたものではなかった。彼女の夢を知ろうともせず、父は譲渡を前提に縁談を進めていたのだ。
その意味を考えようとしても、すぐには気持ちが追いつかなかった。机の上の書類を見つめたまま黙り込むと、シリウスは契約書から手を離し、彼女のほうへ向き直った。
「伯爵家の提案はわかった。だが、君自身が望んでいることを、まだ聞けていないな」
スピカが顔を上げると、彼はまっすぐに目を合わせた。その声音には、答えを急かす響きがなかった。
「君は、本当はどうしたい?」
問いは、あまりにも率直だった。これまで父や親族から尋ねられたのは、何を受け入れられるか、何を家のために差し出せるかということばかりだった。自分が何を望むのかを、結婚相手になる人から尋ねられるとは思っていなかった。
「私は、母の別邸を診療所にしたいのです。結婚の条件として屋敷を手放すことはできません。診療所を開くことを、諦めたくありません」
同じ願いを口にしたはずなのに、父に話したときよりも声が震えた。シリウスはその震えに触れず、彼女の言葉を確かめるように頷いた。
「わかった。では、その条項は外そう。屋敷と土地は、君の所有のままにしておく」
シリウスは手元へ契約書を引き寄せ、修正の指示を書き込んだ。あまりに迷いのない動きに、スピカは思わず目を瞬かせる。彼は筆を置くと、彼女にも文字が読めるよう、書類の向きを変えた。
「診療所を開くなら、王宮の医師や薬師に話を聞くこともできる。資金や運営の方法は相談が必要だが、まずは君の考えている計画を見せてほしい」
「そこまでお願いしても、よろしいのですか。殿下にとって、不利益になるかもしれません」
「町に診療所ができるのなら、私にとっても喜ばしいことだ。それに、君が大切にしているものを取り上げてまで、この縁談を進める理由はない」
彼の言葉に、スピカは修正された箇所へ目を落とした。屋敷を失わずに済むという安堵が、ようやく胸に届き始める。それでも、あまりに望んだ通りの返事をもらったことが信じられず、彼女はもう一度顔を上げた。
「ですが、政略結婚なのです。私の希望を通せば、王家に差し出すものが減るのではありませんか」
「婚姻に家同士の事情があることは、私も承知している。だが、一緒に暮らすのは私と君だ。何を諦めたのかも知らないまま、君を妻に迎えたくはない」
シリウスは静かに答え、契約書の端を指で押さえた。スピカが読んでいるあいだ、紙が動かないようにしてくれているのだと、少し遅れて気づく。彼女が最後の行まで目を通すと、彼は手を引いた。
「結婚の返事は、今日でなくてかまわない。診療所のことも含めて、君が納得できる形を一緒に考えよう。気になることがあれば、その都度話してほしい」
スピカは、差し出された契約書を見つめた。母の別邸は残る。診療所を開きたいという願いも、結婚の代わりに諦めなくていい。書面に記された言葉を目で追ううちに、胸の内で固く縮こまっていたものが、少しずつほどけていく。
「ありがとうございます。殿下がここまで聞いてくださるとは、思っていませんでした」
「話してくれてよかった。君の望みを知らないままでは、私も適切な返事ができなかっただろう」
シリウスはそう言って、契約書の写しを彼女の手元へ寄せた。そこには恩を着せるような響きも、感謝を求める気配もなかった。スピカは両手で書類を受け取り、もう一度、譲渡条項が消されていることを確かめた。
母の屋敷を守る方法が見つかった。そのことがうれしい一方で、彼が自分の願いを尋ね、最後まで聞いてくれた事実が、心に強く残っていた。結婚相手として知らなければならないことは、まだたくさんある。それでも、次に会うときは診療所の計画を持ってこようと、自然に思えた。
王宮を出るころ、雨は上がっていた。濡れた石畳の向こうに、雲間から淡い光が差し込んでいる。スピカは契約書を胸に抱き、母の別邸に明かりが戻る日を思い描いた。
あの診療室をもう一度開くために、まずは何を準備すればいいだろう。馬車へ向かう足取りは、王宮へ来たときよりも軽かった。シリウスに話してみたいことが、今度は不安の代わりに、一つずつ浮かんできた。




