3話 十数年越し、初めての彼女との会話
数日が経った。
俺はまだこの過去の世界での生活を続けていた。
これはやっぱり夢の中の出来事で、いつの間にか元いた世界――30代の自分に戻っているんじゃないか。
そう考えていたが、戻る気配は一向になかった。
おまけに何日か暮らしてきて分かったことがある。
「やっぱり、思い出せない」
朝のニュースで見た映像は見た記憶があるものだったが、こんなものだったっけ。そんな風に記憶とこすり合わせながら見ていた。
やっていたニュース映像はどこか遠くの国で起こった紛争だったが詳細を掘り起こせないのだ。
でも、何せ遠い昔だし、忘れていても仕方ない。
そう思いながらチャンネルを変える。
子供向けのアニメがやっていた。俺はそれを再放送を見る気分で見る。
自分の家の場所、部屋のどこに何を置いているかは何となく覚えている。しかし、テレビや映画の展開の詳細は記憶が飛んでいる。
「なあ、美波。これ見た記憶ある?」
「はあ? お兄ちゃんいつもこんなアニメ見てるの?」
隣の妹は露骨に俺を見下したような目を向ける。
「こんな着ぐるみのキャラいたっけ?」
「これ赤ちゃん向けじゃん。何言ってんの」
トーストをかじりながら小学五年の妹に呆れられる。
でも、いつの間にか名前すら呼ばなくなって大人になってからは名前呼び捨てになった俺のこと、兄として呼んでくれるのは何となく懐かしかった。
――今日もまた、一日が始まる。
昼休み。クラスの皆は昼食を摂っていた。
購買のパンを買ってきてそれを食べている者、女子同士固まっていたり、こうやってみるとそうだったなという組み合わせばかり目についた。
俺はというと一人自分の席にいる。
母親が作ってくれた懐かしい弁当を食べ終え、そっと蓋を閉じる。
そのまま俺は教室を出ようとしたのだが、
「あ……」
その機会は本当に偶然だった。
ちょうど教室後ろを通ろうとしたらその先に久瀬がいた。
久瀬は自分のロッカーの物を出し入れするようでこちらに気づいている様子は無かった。
ただでさえクラスでは小柄な久瀬。膝立ちでしゃがみこんでいると本当に小さい。
久瀬は俺の事には気づく様子はない。無理に通ろうとするのも悪いので俺は声をかけた。
「ごめん。ちょっと通るね?」
「あ、うん」
久瀬は俺を見上げ、
「あ、あのさ。久瀬さん」
その瞬間、俺は自分でも思いがけない言葉を掛けていた。
「えっ? 二見くん?」
話しかけるには今しかない、本当にそんな衝動と共に声を発する。
「久瀬さん、そう言えば国語の点数ってどれくらい?」
「えっ、テスト?」
こちらを見据える久瀬の眼差しには嫌悪感とかそういう感情はなかった。
いつも関わることのなかったはずの俺が相手でもあの遠目で見たことのある優しい表情だった。
「86点だったよ?」
「へえ、86なんだ。俺は――」
しまったと思った。
自分の点数を言おうとしたのに記憶が途切れている。
この時代にやってきた時点で国語の答案はとっくに配られたあとで、俺は自分の点数を知らない。
恐らくは自分の部屋の机の引き出しに押し込めてあるはずの国語のテスト、それを確認すらせず数日のほほんと生きてきた自分を呪いたい気持ちになった。
「……」
しばらく向かい合ったまま、何も言えない。
久瀬はその間も取り出した参考書を小脇に抱えながら言葉の続きを待っているようだった。
というか、ちょっと待て。
――なんで俺、こんなに緊張してるんだ。
いろいろ経験してきたいい大人の癖に、14歳の久瀬を目の前にしてがちがちに緊張している。
おかしいんじゃないか。堂々と聞けばいいのに。
でも、鼓動が胸奥で速くなっているのがはっきり分かる。
会社のどんな重要なプレゼンの時よりも緊張している。
思春期の頃の、壊れそうなくらい繊細に作られた脆い心にまるごと還っている気がした。
「二見君は」
小柄な久瀬が立ち上がる。
「二見君は国語も90点って言われてなかった?」
「え……?」
その言葉で朧気に遠い記憶のような残像が脳裏によぎる。
90点と呼ばれ、初めて国語で90の大台を取れたと興奮気味になった記憶。
「そうだったかも?」
「先生に呼ばれてなかった?」
『何を言ってるんだお前は』と紘一郎たちに言われそうな展開だ。
しかし、そういう言葉が久瀬から飛んでくることはなかった。
可愛らしい瞳を細ませて、柔らかな笑みを浮かべるだけ。
「二見君、国語と歴史は得意なの? クラスだと上から数えた方が早いよね」
「まあまあね。でも、俺の上にもっと頭いいやついるよ。ほら、岸とか斎藤さんとか」
どこか照れ臭かった。久瀬とは同じくらいの成績をうろついていた気がするがそういう奴として認知はされていたらしい。
「久瀬さんも結構成績いいよな」
「そう?」
久瀬がきょとんとした顔で俺を見ている。
「数学とか結構名前呼ばれてなかった?」
「確かに得意かも」
そう言って口元を隠した。
「でも、やっぱりあの二人にはかなわないよ」
「岸と斎藤さん?」
「うん」
いつも学年で総合順位一桁をキープし続けている二人。岸と斎藤が市内トップの進学校を目指している秀才だということは、クラス全員が知っていた。
「そうだな、あいつらおかしいよ。どんな勉強してんだか」
「だよね」
それが会話の終わりだった。
そのまま俺は廊下に向かい、久瀬は自分の席へと戻る。
本当に何気ない会話だ。
でも、こんな風に久瀬と話が出来た事が俺には意外だった。
もしかしたら。前回の人生も普通に話しかけていればちゃんと返してくれていたんだろうか。




