20話 彼女との新たな始まり。
しばらくの間、俺達は図書室で向かい合ったまま、互いの手のひらを握りあっていた。
ここは図書室の最奥だ。
他の生徒が近づく気配は全くない。だからだろうか、時を忘れたかのようにこうしている。
「……」
「……」
静かな空間にいると、とくとくという鼓動の音が伝わってくる。その律動は速い。
繋いだ手の感覚で久瀬の脈動も伝わってきそうだった。
「もう夕方だね」
そんな互いの気恥ずかしさがなんとなく分かったのだろうか、久瀬は苦し紛れの笑みを浮かべながら言った。
確かにもう完全な夕刻だ。俺達の間に横たわるマホガニーのテーブルは明るく照らし出されていて、窓から差し込むオレンジ色を直視していると目が灼かれそうになる。
俺はもう一度久瀬の方に向き直る。そして、問いかけた。
「俺達って付き合うってことでいいんだよね?」
互いの想いを伝えあった。お互いがお互いを好きと言ったはずだった。
それなのにこんな確認していた。
「だと思う……」
一方の久瀬も自信がない。しかも、心なしか顔が真っ赤だった。
その恥じらう顔がいつもの久瀬よりもか弱く見えて、
「久瀬さん、顔赤い……」
「えっ?」
「林檎みたいに耳の先まで真っ赤」
俺はつい、そんな風に久瀬をからかってしまった。
照れ臭さから逃れたい一心の苦し紛れかもしれない。
「やだ、ほんと……?」
久瀬は完全に羞恥心で潰れてしまいそうになってしまう。
「ごめん。冗談」
「ひどいよ」
少し怒ったような声音。しかし、久瀬の表情はどこか嬉しそうだった。
その表情に胸がきゅっと締められるようだった。
こんなやり取りが心地いい。久瀬ともっとこんな風に話していたい。対面の席に座る久瀬を見ながら、俺の胸の中はそんな感情に支配されている。
「ねえ」
久瀬はちらりと図書室の時計を見ようと身を乗り出す。
書架の先にいる図書委員は俺達には気づいていないようだった。
「もう時間も遅いし、一緒に帰らない?」
帰り道。
俺たちの他に歩いている生徒はいなかった。
正門から続く緩やかな下り坂を久瀬を隣りにして下っていく。
「市街地研修の時みたいだね」
久瀬がころころとした声で言った。ほんの少し前の事なのにどこか懐かしげだった。
「みんなでお話しながら、面白かったね」
そう言いながら、久瀬の視線は少し先のアスファルトに覆われた地面を向いている。
「確かに。こうやって歩いた」
でも、あの時は美原や桑園たちもいたんだよな。
それにきつい上り坂だった。
今は久瀬と俺の二人だけ、坂も下りなのですいすい行ける。
「やっぱ、あの時とは違うよ」
「何が?」
「俺達二人だけだし。ちょっと恥ずかしい」
正直に答えると久瀬は何も言わない。ただ、耳のてっぺんがさっきみたいに紅潮してしまっていた。
周りからしたらせいぜい男女で歩いてるだけ。そこからあれこれ考えを飛躍されたり勘ぐられようが俺達には無縁の話のはず。
それなのに久瀬はたまらなそうだった。
坂を下り終えた先の通りを道なりに歩く。この辺は昔、城下町だったらしい。碁盤の目のように整理された区画、真っ直ぐに整地された通りの左右には昔ながらの呉服屋やハンコ屋に、最近できた飲食店やコンビニなどが混在している。
すっかり夕方というのもあって、界隈は買い物の人たちでそこそこに混雑していた。
ふと、傍らの小柄な同級生を見る。久瀬はどこか物憂げに遠くを見ながら歩いていた。
「でもさ」
ふと、じっと見ていた俺に気づいた久瀬が小さな唇を動かす。
「あの街に転校しちゃうんだよね……アキ君は」
言いかけたところで、久瀬はハッとしたように口元を小さく押さえる。
「あっ、ごめん。今アキ君って、この呼び方でいい?」
「いいよ。今までもたまに呼んでくれてたし」
正直、久瀬にこの呼び名を使われる度に嬉しさと切なさで胸が苦しくなる。
だが、その苦しさは病みつきになる甘美なものだった。久瀬にまたその名で呼んでほしい、呼ばれる程にそんな渇望が増す。
紘一郎や河野に呼ばれる時の親しみ、安心感みたいなものと似てはいるが全然違った。
「はっきり言うけど、久瀬にアキ君って呼んでもらうと飛び跳ねそうなくらい嬉しくなる」
「ええ……」
久瀬の顔がまた赤くなる。なんかずっと照れっぱなしだ。こっちまで恥ずかしくなってくる。
「そういう冗談はやめてほしいよ……」
久瀬は消え入りそうな声で俯いてしまった。
いざ、付き合うようになってそういう呼び方をするのに今更抵抗を覚えたんだろうか。
今までも何回か使った時は本当に何気ない感じだったのに。
「美原や白石に言われるとからかわれてる気がするけど結月にならアキって呼ばれたい」
「ほんとに?」
それを聞いた久瀬の顔がぱぁっと花びらみたいに明るく色づいた。夕日も相まって、少なくとも俺にはそう見えた。
「ほ、ほんとだから! 結月になら何度呼ばれたっていい」
少し勇気を出して『結月』呼びした俺は、それとは逆にどきどきしていた。
「そっか、そうだよね……アキくん、アキ君、えへへ」
結月の花みたいな笑顔がくしゃっと蕩けた。
「じゃあ、アキ君って呼ぶね? アキ君♪」
少しからかうような口調。
くい、と。こちらを見上げた久瀬はどこか吹っ切れたようだった。
やっぱり調子こいた事言っちゃったのかなあ、そんな風に俺は小っ恥ずかしくなる。
「ね。みんなには言う?」
「俺たちのこと?」
結月はこくんと頷いた。俺はもう転校でいなくなってしまうが、結月はこの後も同じ中学に残る。
そう考えると、俺と付き合っている話を周りに言っておくべきか悩むのも仕方ないのかも。
いつも美原たちへの配慮を欠かさない結月らしい。
「美原に教えたら面倒なことにならない?」
「灯子?」
「変に広められそう」
美原の性格からしたらそうしかねない。普段男子とはあまり関わらないけど女子同士のネットワーク凄そうだし、特に美原はその起点になるような存在感の女子だ。
「……」
その他に、俺はもう一つ引っかかりを覚える。
豊川あさひのことだ。俺は彼女から告白を受けて断った。
そして、直後にこういうことになった。
誠意を持って断った豊川に、今のこの現実を無闇に知らされるようなことはしなくても良いのではないか、そう思っていたのだが、
「アキ君、私黙っておくよ?」
「え」
結月の優しそうな眼差しが俺を上目で見ている。
俺の心の中に何か不安があるとか、そういうの全部お見通しなんだなと思った。
やはり、この女の子は俺よりも深く人を労われる心を生まれながら持っている、そういう人柄が身に伝わってくるようだった。
「じゃあ、そうしよう」
「うんっ」
俺が答えると久瀬は満足そうに頷く。
そうやって俺達はまた歩き出した。
ぱたぱたと軽い靴音が俺の足音に重なる。
「でも、もう転校までそんなに時間ないんだよね」
足音とは裏腹に結月はどことなく寂しそうだった。
いくら俺達の関係性が変わったとしても、この事実は変わらないのだ。
俺はそんな彼女の不安そうな横顔を見ながら、
「結月は転校したあとも、遊びに来てくれる?」
恐る恐る尋ねた。
この後のこと、どうなるか全く分からない。
それでも、結月とは転校してもずっと会いたかった。
「もちろんだよ」
結月は強く頷く。
「ありがとう。結月に言われるとめちゃくちゃ嬉しい」
言いながら俺は思った。いつ、今の俺がどうなるかわからない。
転校するよりもまず、目覚めた時、俺は元いた時代に戻ってしまうかもしれない。
そうなったら、結月とは永遠に会えなくなってしまう。
結月に『引っ越しても会いたい』と伝えたのは彼女にとっては気休めの言葉かもしれないけど、それ以上に俺自身の不安を払拭するための言葉でもあった。
転校まであと一ヶ月。
時間は全然足りそうになかった。
その日の夕食での出来事だ。
「秋良」
久々に早く帰っていた父は箸でご飯を摘みながら俺に声を掛けてきた。
「お前が言っていたレース。父さん馬券買ってみたぞ!」
興奮気味に語る父を見て俺の箸も止まる。
「あんな人気の馬が勝つなんてな。本当にお前の言うとおりの大荒れになった」
ここ数日は引っ越しを控えてピリピリしていたのに妙にご機嫌だった。
もしかしたら、俺達子どもがこの転校を受け入れる状態になって少し安堵したのかもしれなかった。
「しかしなあ、まさか本当にこうなるなんてな」
「父さん、当てたの?」
尋ねると、父の嬉しさが爆発する。
「ああ! 三連単は外したが、他で当てたんだ。おい母さん。あとで秋良に一万円あげてやれ。それから美波にも」
「ご飯の時に何を言ってるんだか、本当にこの人は……」
母はそれを聞いてあきれた顔をしていた。
――そうか。当たったのか。
「まさか、あそこまで荒れるとはな!」
父はまだ興奮気味だ。夕食に入ったときなにか落ち着きがなかったからこの話をしたくてウズウズしていたんだろう。
「そっか、あのG1で……」
俺はいつか父と話したレースの話を思い出そうとしていた。
「なんだ、お前が教えてくれたんだぞ。反応が鈍いなあ」
「お父さん、うるさい。競馬ってギャンブルなんでしょ? みっともないよ」
妹の美波の容赦ない一言で父は箸を残念そうに下ろした。




