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19/25

19話 告白

 九月の終わりももう近かった。

 朝の空気はすっかり冷たくなっていて、廊下を歩くとなおさらそう感じた。

 外は快晴の空だ。朝日はこれでもかというほど廊下の窓から降り注いでいた。

 それなのに、この学校の廊下はひんやりとしていた。

 もしかしたら、それは俺の体温が低く冷たくなってしまったから余計に感じるのか、分からない。

 教室に入るといつものメンバーが揃っていた。


「なにお前、遅刻か休みだと思ったわ」

 席につくと、竜野が振り返ってそう言った。

 俺は一時間目の準備を始める。

 程なくしてチャイムが鳴り、クラス名簿を小脇に抱えた担任がやってきた。

 今日の一時間目はその担任が受け持つ国語の授業だ。


「一つ話がある」

 HRが終わって授業がこれから始まる。そのタイミングで担任は窓側の席にいる俺を見た。


「いいな? 秋良」

 こくんと頷いて担任と入れ替わるように教卓に立つ。


「二見。お前が授業すんの? ウケる」

 いつもふざけた事ばかりして、そのせいで最前列の席に座らされている男子がそう言った。

 遅刻とサボりの常習犯。珍しく朝から席についている彼を俺は笑顔で見返した。

 そっと前に向き直る。ここからはクラスメート全員の顔が見える。

 このクラスになって半年と少しだ。まだ話したことのないやつもいる。

 これから言おうとしていることは、何となくクラスの皆にも分かっているのかもしれないと思った。

 紘一郎も竜野も豊川も、転校の事実を知っているクラスメートはそんな神妙な面持ちをしている。

 ただ、美原や白石、そして久瀬は困惑したような顔をしていた。


「いきなりなんだけど――」

 俺は顔を上げた。

 今こそ言うんだ。


「転校する事になりました。あと一か月と少ししかないけど、みんなとは仲良くしたいのでよろしくお願いします」

 何故か深いお辞儀をしていた。

 教卓の木目が何かの模様みたいに見える。

 まるで、これじゃ俺(・)が(・)今(・)こ(・)こ(・)に(・)転(・)校(・)し(・)て(・)き(・)た(・)み(・)た(・)い(・)だ(・)と思った。




 休み時間。

 普段話をしない何人かが早速俺のところへやってきた。


「二見、お前マジで転校すんの? いつ?」

「十月の終わり。さっき言ったんだけどな」

「ごめん。衝撃すごすぎて分かんなかったわ」

 竜野と普段仲のいいその野球部男子は、よく刈り揃えられた頭をぐりぐりと近づけながら食い気味だ。


「どこ行くの?」

「△△市」

「この前行ってきたとこじゃん!」

 宿泊研修で打ち明けた時の、竜野と似たような反応をする。

 その竜野は俺の前席で余裕の表情でやり取りを見ていた。俺が先に知ってたんだぜとか、そんな優越感があるんだろうか。


「タカシ、お前が代わりに転校しろ」

「はあ、なんで⁉ ひでえ!」

 竜野の容赦ない一言に周囲で見ていた女子が笑う。何となく和やかな空気感で、俺も少し助かる気分だった。

 しかし、その女子たちといつも一緒にいる筈の豊川はここにはいなかった。

 ずっと離れた席で他のグループ女子と雑談をしている。


「でもさ、寂しくなるよね」

 ふと、そんな事を言ったのはよくバスケで遊ぶ男子だった。

 紘一郎と二人で俺の方を見ながら、その男子は少し複雑な笑顔を俺に向ける。


「せっかく慣れてきたと思ったのに。でも、電車ですぐ近くだし遊びに行けるよな?」

「おお、俺も行くからなアキ!」

 まだ打ち明けたばかり。引っ越すのは少し先の話。それなのに、そんな風に優しい言葉を掛けてくれる皆に胸が熱くなる。

 でも、そんな風に救われた気持ちになりながらも、俺の心にはまだ未練めいたものが残っていた。



 授業終わり。俺は一人で帰る支度をしていた。

 また一日が終わった。あと何日通うんだろう。

 見えてきたリミットは今はまだ先にあるけれど、過ぎたと思った時はあっという間に感じる。

 俺はちらりと後ろの方の席を見た。

 教室中央の少し廊下側、桑園の席の斜め向かいが久瀬の席だ。


「……」

 久瀬は鞄に教科書を詰め込むと立ち上がる。そして、教室後ろの生徒一人一人に設けられたロッカーに向かった。

 俺はそっと立ち上がり、久瀬の方に向かった。


 一歩ずつ歩を踏みしめながら、俺は思った。

 何を今更久瀬に言えばいいんだろう。宿泊研修の班行動を終え、転校するという事実もみんなの前で伝えた。

 ここで、俺があいつに話しかけたところでどうなるんだろう。

 頭をかすめたのは豊川あさひのあの言葉だった。


 ――だって、結月って。秋良のこと好きでしょ?


 俺を好きになってくれた女の子だからこそ、真実味のある言葉に思えた。

 でも、本当にそうなんだろうか。

 確かめたいと思うが、今の俺にずっと前から決めていた筈の勇気は消えかけていた。


「久瀬さ――」

 声を掛けたのとほぼ同時、久瀬は教室を出て行ってしまった。


「結月なら多分図書室だよ」

 ぼそっとそんな声をさせて美原が通り過ぎていった。


「また明日ね、二見君」

「ああ。美原もまた明日」

 冗談を言わなくなった美原に俺はそんな挨拶を返していた。




 久しぶりに訪れた図書室は埃と芳香剤のような花の匂いが混ざっていた。


「久瀬さん」

 俺は奥の窓際の席にいる久瀬を見つけて、その向かいに座って話しかけた。

 そっとこちらを見上げた久瀬が俺を見る。

 柔らかな陽の光はまだ淡い昼光色。図書室最奥のこの静かな空間はどこか森閑とした幽谷のようだった。


「転校、するの?」

「うん」

 答えると久瀬はシャープペンシルをノートの脇にそっと置いた。


「勉強していたんだけどね、全然集中できないんだ」

 久瀬はそっと窓の方を見ながら続けた。


「これじゃ、テストで二見……アキ君に勝てないよ」

 茫洋とした口調、目の前にいる俺に向けた言葉なのに、どこか遠い場所に向けて発しているように聞こえる。


「ごめん。本当はもっと早く言いたかったんだ。でも、俺いろいろ迷ってなかなか切り出せなかった」

「ううん。いいよ」

 久瀬はそう言って俺をもう一度見た。

 切れ長の瞳は人形みたいに見開いてこちらを向いている。


「いつ転校しちゃうの?」

「あと一か月」

 本当はそれよりもまだ数日余裕はあるけど、俺はそう伝えた。


「たった一か月?」

「うん」

 久瀬は俺を見たまま、


「あれ?」

 不意に自分の頬に手をやった。ぽろぽろと涙が流れ落ちている。


「なんでだろう。ごめんね」

 困ったように手でそれを拭おうとする久瀬。しかし、涙は止まることなく落ち続ける。

 俺はそれを黙って見ていた。


 心が痛くなった。

 今この瞬間、久瀬といる残り時間が少しずつ減っていく。そんな当たり前の事なのに分からされた気分だった。

 でも、もうそういう時間は数えるほどしかないんだ。

 俺と久瀬がここに二人ともいる時間は永遠じゃない。それを知って初めて胸が切なくなった。

 今の俺の心にあるのは分かってしまったあとの空虚感だ。

 分かってしまったからこそ、その先にある終わりが怖いのだ。

 そして久瀬もそれをきっとどこかでわかっていて、だから涙が止まることはなかった。


「ごめん、ごめんね……ほんと止まんなくて」

 言いながらハンカチで何度も拭う。目の周りは真っ赤に腫れていた。

 そんな彼女に、今なら思い上がりだと決めつけ、自分から逃げずに向き合える。


「久瀬さん泣くなよ。また会えるから。研修の時みたいにどっか行こう」

「うん。うん……近いしまた会えるよね」

 確かめるように頷く。

 でも、言いながら俺の心は虚しかった。

 今この時間は他にない。

 きっと今(・)の(・)俺(・)た(・)ち(・)なら、大人になればまた会える。

 その気になれば、連絡を取ることだってできるし、今の時代ならできないこともこれから先ならばいくらでもできるようになるはずだ。


 ――それでも。

 今の俺と今の久瀬結月が一緒にいられる時間はこの瞬間しかない。


 いつかまた会えた時、俺たちはもうこの中学二年生の俺たちじゃない。

 久瀬と会うことはできても、その時の俺は果たして今の自分の気持ちで彼女と向き合えるのだろうか。

 それが分からないから怖かった。


「ずっと、今みたいだったらいいのに」

 そう漏れた俺の小さな声は久瀬に聞こえただろうか。


 こんなに心を奪われた存在は俺の人生にいなかった。

 俺はずっと人の事を見ていても、見たつもりでいるだけでそれ以上深く分かろうとしなかった。

 自分をさらけ出すことや受け入れることに恐怖や負い目を感じていたからだ。

 だから、そんな中途半端すぎる自分のことを好きになってくれる人なんているわけがない。せいぜい良い人どまりでその人の記憶の端に残るだけ。

 そんな諦めをずっと持ちながら生きてきた。


 ――この世界で、豊川あさひに真正面から本音をぶつけられるまで。


 皮肉な話だ。

 俺よりも、豊川の方が俺の心の中をよく知っていたのだから。

 そして、彼女の言葉で俺は誰が好きなのか、ようやく自分の心に向き合えたんだ。


 豊川ごめん。そして、ありがとう。


「久瀬さん。俺のこと忘れないでいてくれるか?」

 そんな事を目の前の少女に問いかけていた。


「俺の事ずっと覚えていてほしい」

 いつか遠い日に久瀬に興味を抱いた。そこからずっと分からないものを探そうとする宝探しをしてきたようだった。

 俺と同じくらいの成績で、同じように遠慮しがちで。でも、誰にでも優しい温かな女子。

 そんな彼女をいつも遠くで見るだけだった。

 それが『話だけでも』に変わっていて、今はずっと覚えていてほしいという熱望になっている。


「多分俺、もっと久瀬さんと話したかったんだ。久瀬さんと仲良くなりたかったんだ」

 手を伸ばす。つい最近の記憶にあるあいつの手みたいにぶるぶるだ。

 久瀬はそんな震える手を食い入るように見ている。


「うん。私も――」

 そっと、温かい感触に包まれる。


「私、アキ君のこと、きっと大好きなんだ――」

「うん」

 転校するまで、久瀬結月との時間を絶対に無駄にしない。


「俺も。お前の事、いつの間にか好きになってた」

 久瀬の小さな手を握り返す。

 これまで、いろいろ頭の中にあったごちゃごちゃが全部薄れていくような気がした。


「――結月」

 久瀬が頬を赤らめながら小さく頷いた。


 ――手と手を握り合いながら、俺達はこの静かな時間を過ごした。



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