9、牙を向いた感情
高坂さんによく分からない忠告を受けたあの日から数日、何事もなくいつも通りの日常を過ごしていた。
誰かにくすぐられる素振りもなく、高坂さんにくすぐられる事も無く、あんな忠告する必要があったのか?と思うほど、いつも通りの日々だった。
「戻りましたー」
やっと外回りから帰って来られた俺は、一課に声を掛けながら時計に目をやると、時計の針は定時の少し前を指していた。
意外と時間かかったな。
定時の時間が近付いてきて、みんな片付けやら作業やらを急いでいるみたいで、少しバタついている。
「俺、これ片付けてきます!」
佐藤が段ボールを抱えて出入り口に向かうと、丁度俺とすれ違う形になり、その時佐藤の持っていた段ボールの角が、俺の脇腹を掠めた。
「ッ……!」
一瞬、身体が跳ねた。
それと同時に息が詰まったが、辛うじて声は出なかった。
「すみません、一ノ瀬さんっ!」
「いや、大丈夫」
危ね。
周りには俺の反応はバレていないようだけど、さっきの一瞬を見られていたのか背中に刺さるような視線を感じた。
内心「セーフだったじゃん!」とは思うものの、背中に刺さる高坂さんの視線に微かな恐怖を感じ、振り向くのは止めておこうと小さく頷いた。
そうこうしている内に時計の針が定時を指し、次々と退社して行く同僚達を横目に、俺はまだパソコンのキーボードを叩いていた。
「一ノ瀬、まだ帰らねぇの?」
「んー、これだけ終わらせたくて。佐伯は?」
「俺も。片付けたいのあってさ」
一課に残っているのは俺と佐伯だけになり、静かな空間にキーボードを叩く音だけが響いた。
暫くして、ようやく業務を終えた俺はパソコンを閉じた。
「ん〜〜〜」
仕事から解放されるように伸びをしていると、伸ばした手に何かが当たった気がした。
振り向くと、佐伯が俺の手をちょんと人差し指でつつきながら微笑んでいる。
「……なんだよ」
「終わったんだろ? 俺まだかかるし、コーヒー買ってきてくんね?」
俺の手をつついていた手をくるりと返し、手の平に握られていた小銭を渡してきた。
丁度俺も、コーヒー買いに行こうとは思ったけど。
「はいはい、俺もコーヒー飲みたいし。ついでにな」
「サンキュー♪」
残業を頑張っている同僚の可愛いお願いくらい聞いてやるか、と俺は席を立った。
定時を三十分も過ぎているせいか、フロアの廊下は人通りが少なくて静かだ。
コツコツと革靴が廊下を鳴らす音だけが響いている。
ラインナップが変更になり、俺の飲みたいコーヒーが少し離れた場所の自動販売機に移動したのを思い出した。
しかもこの場所は非常階段の近くのせいかただでさえ人通りが少なく、今は夕方な事もあり少し薄暗い。
頻繁に来る訳じゃ無いから、この時間帯に来るとなんだか会社じゃない感じがするな。
非現実的って言うの? ゲーム好きの俺からしたら、少しわくわくしてしまう。
非常階段の側、少し窪んだ場所。
小銭を自動販売機に投入し、佐伯に頼まれたコーヒーのボタンを押す。
コーヒーをポケットに入れ、自分のコーヒーのボタンを押そうとした時だった。
「一ノ瀬さん、お疲れ様です」
こんな時間に人が来るとは思ってなかったせいか、思わず肩が揺れた。
「おぅ、林、お疲れ。まだ残ってたのか?」
「はい。でも、もう終わりました」
「そうか。何か飲むか? 奢るぜ」
そう言いながらスマホを取り出すと、林はパァと顔を明るくした。
「ありがとうございます!」
人懐っこい笑顔。
二課の子だからあまり話す機会はなかったけど、あの飲み会から少し話すようになった。
そう言えば、高坂さんも最近気に掛けてる子だって言ってたな。
「そう言えば一ノ瀬さん、さっき段ボール当たってましたよね? 大丈夫ですか?」
林が飲み物を取り出しながら、思い出したように言った。
……見られてたのか。
高坂さんにも見られてたのに。
「あー大丈夫。掠っただけだから」
心配してくれただけなのになんだか気恥ずかしくなって、俺は話題を変えようと自動販売機に視線を移した。
「……一ノ瀬さんって」
コツ、と一歩、林が近付いてきた。
名前を呼ばれて振り向くと、思っていた以上に近くにいた林が俺の顔を覗き込んでいた。
近いなと思った瞬間だった。
林と目が合った一瞬、背中がゾワリと粟立つような感覚がした。
なんだ?
林の瞳の奥に得体の知れないモノを感じ、距離を取ろうと一歩後ろに足を引いた時だった。
「ココ、弱いんですか?」
一歩離れる前に、林の右手が俺の腰を軽く掴み、シャツの上から指先が容赦なく肌を抉った。
そのくすぐったさに、身体が跳ねる。
「やっぱり、弱いんですね」
「っ、離せ」
林の腕を掴んで引き剥がそうとするが、腰を掴んだままじわじわと指を動かされて、上手く引き剥がせない。
狼狽える俺の一瞬の隙を突いて、林は両手でガッチリと俺の腰を掴んで両手の指に力を込めた。
ただの戯れじゃない空気感に、俺の身体はいつものくすぐったさとは違う感覚を感じていた。
やばい。逃げないと。
「こんなに腰、細かったんですね」
「っ……、く、やめ……んぁっ……ッ!」
最悪だ。
咄嗟に口を押さえたけど、後の祭りだった。
俺の声を聞いた林がピタリと手を止め、腰を掴んだまま力強く俺を引き寄せた。
身体が密着する程の距離。
見上げる林の顔が、得体の知れない何かを含んだ瞳が、もう人懐っこい後輩のものでは無かった。
「一ノ瀬さん、なんですかさっきの声」
クソ、恥ずかしい。
後輩にこんな情けない声を聞かれてしまった事への羞恥心で、顔が熱い。
情けなくて泣きそうになる。
とりあえず、この両手をどうにかしない事には言い訳も出来ない。
情けない声を出してしまった恥ずかしさで一刻も早くこの場から立ち去りたい俺は、林の肩を押して身体ごと再度引き剥がそうとした。
「とりあえず、離せって――」
「そんな色っぽい声出して、誘ってるんですか?」
…………は?
色っぽい? 誘う? 誰が?
林のその言葉に、両肩を押す力が弱まる。
林が何を言っているのか、一瞬理解出来なかった。
だけど次の瞬間、あの日高坂さんに言われた言葉が脳内に蘇る。
『色っぽい声しとるから、くすぐられてあんな声出したら面倒やぞ』
……そういう、事、だったんだ。
高坂さんは俺のこのどうしようも無い無防備さが、仇となると教えてくれていたのに。
なのに俺はそれを、軽く流していた。
正直、自分の声が色っぽいとか言われても、そこまで危機感持てる人間ってそう居ないとは思う。
だから高坂さんの忠告と林の言葉で、あの日何故忠告されたのかを、身をもって理解せざるを得なかった。
「飲み会の時から思ってましたけど、一ノ瀬さんって本当に無防備ですよね」
「……離、せ」
「嫌です。俺、一ノ瀬さんの事好きなんで。だから一ノ瀬さんの甘い声、もっと聞かせて下さい」
目の前にいる人物が、人懐っこい笑顔で話していた林と同一人物に思えない。
その瞳の奥にある得体の知れない物が、俺に対する欲情なのを感じ、俺は全身が粟立った。
脳内に警報が鳴り響く。
早く離れないと、早くこの手を引き剥がさないと。
嫌だ。
これ以上、触られたくない。
俺より小柄な筈の林に……小さな恐怖心が芽生えた。
引き寄せられたままの身体の距離で林の息が近い、それだけで怖いと思うのに、ずっと腰を掴まれていて思うように力が入らない。
ゆっくりと林の手が、指が、俺の腰から脇腹にかけてシャツごと引き上げるように這い上がって来る。
悪寒に似た物が背中を走る。
恐怖のせいなのかなんなのか、生理的な刺激も合わさり視界が情けなく滲む。
嫌なのに、うまく力が入らなくて押し除けられないのが、こんなにも怖いとは思わなかった。
林の手が、捲られた俺のシャツの下の肌を滑った。
腰を撫でる体温にゾワリと背筋が凍り、身体が強張る。
触れられたそこから感じるのは、もうくすぐったいなんて可愛らしいものではなかった。
「ぅんっ、……っ……や、め、」
素肌を撫でられて、上擦った声が漏れる。
恥ずかしさと恐怖に、目を瞑って顔を背けた時だった。
「んなとこで、何しとんねん」
出入り口から聞こえたのは、地を這うような、低く、冷たい声。
一瞬にして、空気が凍りついた。
「……高坂、さん」
俺の腰を掴んでいた林の手がピタリと止まり、ゆっくりと離れていく。
林の手が離れ、身体の力が抜けそうになり背中の壁に寄りかかりながら、触られていた感覚を消すように、俺は自分の身体を抱きしめた。
夕陽を背にして立っている高坂さんの顔は、逆光で見えない。
だけど雰囲気が、纏っている空気が、威圧感に似た重たさを感じさせて、視線が逸らせない。
凍りそうな空気に、息が止まりそうになる。
「お疲れ様です、高坂さん。少し、一ノ瀬さんと話をして――」
「……話、やと?」
高坂さんの氷のように地を這う声に、林は言葉を飲み込んだ。
コツ、コツ、とゆっくり高坂さんが林に歩み寄り、そっと肩に手を置いた。
その指が肩に食い込み、林の顔が少し歪む。
「お前がさっき何に触れて、何をしようとしとったか。……俺が、分からん訳ないやろ」
林の顔から余裕が消える。
高坂さんは林の肩を掴んだまま、軽く通路の方へと押し除けた。
林の視線を遮るように俺の前に立った高坂さんは、感情のない声で言い放った。
「明日、朝イチで俺んとこに来い。分かったな」
「……はい。失礼します」
逃げるように林の足音が遠くなるのを聞いて、身体の力が抜けた。
壁に凭れたまま、ずるずるとしゃがみ込む。
「……大丈夫か?」
しゃがみ込んだ俺の頭の上から降って来たのは、さっきまでとは違う温度のある声。
すごく優しい声音で、心配してくれているのが分かる。
でも、まだ怒ってる声。
「……うん、ありがと」
俺は立ち上がり、乱れたシャツを直す。
「…………チッ」
俺がシャツを直すのを横目で見ていた高坂さんが、小さく舌打ちをしたのが耳に届いた。
心臓はまだ少し恐怖と羞恥心で暴れているけれど、助けてくれた安堵感に肩の力が抜ける。
でも、高坂さんに視線を向けるけど、高坂さんは俺に背を向けたままだった。
気遣ってはくれているけれど、忠告を聞かなかった事に対して怒っているからなのか、目は合わせてくれなかった。
「……帰るぞ」
手首を掴まれ、そのまま会社を後にした。
掴まれた手首が、やけに熱く感じる。
俺の腕を引きながら前を歩く高坂さんの顔は、ひどく険しい表情で、どこか傷付いているようにも見えた。
その後、高坂さんは一言も発さないまま俺をマンションまで送り届けると、視線が合う事もなく険しい表情のまま小さく「またな」と呟いて、背を向けて去って行った。
忠告を聞き流したせいでこんな事態になってしまった罪悪感と、林の容赦ない手付きと視線の恐怖から助けてくれた安堵感。
そして、高坂さんが一度も目を合わせてくれなかった寂しさが綯い交ぜになり、俺は遠ざかる高坂さんの背中が見えなくまるまで、その場に立ち尽くした。
◆ ◆ ◆
自室に戻り、電気も付けず、暗がりの中ソファへと身体を沈めた。
真っ暗な部屋の天井を見つめる。
「……クソッ」
ネクタイを強引に解いて床に投げ捨て、視界を塞ぐように両手で顔を覆った。
――分かっとったはずや。
飲み会の時から林が克己に目付けてたんも、段ボールが掠めて身体が跳ねたのを獲物を見るような目で見とったんも。
全部、分かっとったはずやった。
やのに、守れんかった。
情けなさすぎるやろ。
守れんかったくせに、一丁前に林に殺意剥き出しで。
守りたかったのに、震えて泣きそうな顔を克己にさせた。
アホみたいな独占欲持っとるくせに、全く役に立たん!
何より、林の奴に克己のあの声を聞かれたのが、腸が煮えくり返るほど許せん。
俺しか知らんはずやった。
俺以外に知られたくなかった。
俺が守ってやりたかった。
やのに……社内で聞いた克己の甘い声が、頭から離れへん。
『ぅんっ、……っ……や、め、』
身体が震える程の恐怖で、泣きそうな顔で必死に抵抗しとった。
せやのに、俺は……ッ‼︎
そんな克己の声が『色っぽい』と思った自分に、猛烈に吐き気がする。
アイツを裏切るような感情に、自分で自分に絶望する。
克己の甘い声が脳内にリフレインする度に、心臓が煩くて、身体が熱くなる。
胸を締め付けられているかのような、息苦しさ。
「なんやねん……腹立つ」
林の事も、克己の声も、疲れているのか何もかもが腹立たしく思う。
今までのただの独占欲の暴走と違う気がして、俺はなんとなくスマホに指を滑らせた。
画面の明かりが目に刺さる。
『独占欲 友達 親友』
『執着 理由 心理……』
あれこれ打ち込んで、いくつかスクロールした先のタイトルに指が止まった。
ページを開いて読み進めると——。
《それは友情とも独占欲とも違う感情です。あなたが抱いているのは―― 恋 です。》
「は、はは……、ふざけんなや」
ただの幼馴染やと、ただの腐れ縁やと、ただの独占欲やと思いたかった。
でも無理やった。
【恋】の文字を見た途端、ストンと胸に落ち、すんなり受け入れられた自分がおった。
この憤りに、この庇護欲に、この狂おしい程の独占欲に、全て納得がいってしまった。
まさか【恋】なんて名前が付くとは思わんかったがな。
「ははっ、……最低やな、俺」
アイツの純粋な信頼を裏切った罪悪感、恋と名前が付けられてしまったドロドロとした欲望。
自分が最低すぎて、笑えてくる。
窓に映る自分の顔は、苦悶の表情を浮かべながら、口元には薄く笑顔が張り付いていた。
どうする事もできひんこの感情。
認めてしもたら、膨れ上がる一方や。
帰り道、終始泣きそうやった克己の顔。
……たぶん、今も泣きそうな顔しとるんやろうな。
きっと、自分が悪いと思っとる。
お前は悪くないと今すぐにでも抱きしめて、安心させてやりたい。
もう二度とあんな目に遭わんように、ずっと側におって守ってやりたい。
……俺の腕の中に、閉じ込めてしまいたい。
そう思えば思うほど、俺の中にドロドロとした汚い欲望が渦巻いていくのが分かる。
「……これじゃあ、あかんな」
克己の事が、大切やからこそ。
傷付けたくないからこそ。
この気持ちには、蓋をせなあかん。
ただの綺麗な恋心だけなら、気持ちを隠したまま今まで通りに過ごせたかもしれん。
でも、大人の男にそれはあり得へん話しや。
こんな汚い感情持ったまま、アイツと面と向かって話されへん。
こんな汚い欲望を持ったまま、アイツに触れる事なんか、俺自身が許さへん。
……俺のせいで、また泣きそうな顔させるかもしれん。
でも、お前だけは汚したくないんや。
スマホが震える。
画面を横目に確認すると、克己からのメッセージが届いていた。
『今日は助けてくれてありがとう。
それと忠告してくれたのに、ちゃんと聞けなくてごめんなさい。
おやすみ、また明日』
どんな顔してコレを打ってたか、容易に想像できた。
溢れる愛おしさに、微かに口角が上がる。
人を好きにるって、幸せで、あったかくて、しんどいんやな。
スマホに表示されたメッセージを、指で軽く撫でながら呟いた言葉は、暗闇に切なく溶けていった。
「……好きや、克己…………すまん」




