8、聞かなかった事にできなかった声
月曜日。
この前の土曜日に高坂さんが突然帰ってしまってから、なんとなく連絡が取りづらくてそのまま月曜日になってしまった。
少しの不安を抱えつつ、俺はいつもの時間に家を出た。
最寄り駅の改札前で、いつも待ち合わせして一緒に出社してるんだけど、高坂さん居るかな……。
「一ノ瀬」
「あ、高坂さん。お、はよ」
「なんやまだ寝とるんか?」
良かった、居てくれた。
それに、いつも通りの高坂さんだ。
いつも通りに笑顔を向けてくれた高坂さんに、俺は安堵して隣を歩いた。
あの夜の事、ずっと気になってたから何があったのか聞きたいんだけど……。
でも何となく、気軽に聞いていいような事ではないような気がして、俺は高坂さんから言ってくれるまで黙っておこうと思った。
「この間は、悪かったな」
電車を待つ間、ポツリと高坂さんが謝ってきた。
……まさかそんなにすんなり話してくるとは。
と言うことは、大した理由じゃなかった、って事なのか?
高坂さんは少し眉を寄せて、困ったような笑顔で振り向いた。
「思ってたより疲れてたみたいでな」
「やっぱり。ちょっと変だったもんな」
「ははっ、堪忍な」
なんだ、やっぱりそうだったんだ良かった。
何かしてしまったのかと思ったりもしたから、疲れが出ただけだと言った高坂さんの言葉に、少し安堵した。
……でも、なんだろ? なにか隠してる、ように見える……まぁ、気のせいだよな。
「ま、昨日は十分に休んだし。もう大丈夫やわ」
「良かった」
——————————
それから高坂さんは、いつも通りだった。
と、言っても良いくらいには、いつも通りなんだけど、少し違うところがあるとしたらちょくちょく俺のことを見ているくらい。
時々、背中に絡まるような、少し熱のある視線を感じていた。
でも、何か話したい事がある訳じゃないみたいで、目が合っても軽く微笑まれて終わり。
俺にはその微笑みも、いつもと違うように見えていた。
高坂さんは「もう大丈夫」って言っていたし、疑いたくはないんだけど。
まだ、何か引っ掛かることでもあるのか?
本当は疲れていただけじゃなかった、とか?
まぁ、俺が考えたって分かるわけないか。
でも、あの高坂さんの視線が、どうしても気になってしまう。
いつもより集中力の欠けた状態だったが、今日の仕事はそこまで気を張るものが無かったおかげで、なんとか午前中を乗り切れた。
時計を見ると、ちょうど正午。
キリの良いところまで終わったし、高坂さんを誘って社食に行くか。
そう思い、二課の方に視線を向けると、こちらを見ていた高坂さんと目が合った。
口パクで「飯」と言いながら、社食がある上の階を指差して、行く? と首を傾げる。
すると、微笑みとオッケーサインが返ってきた。
朝から思っていたけど、今日、表情柔らかいな。
「なぁ、一ノ瀬。今日の高坂、機嫌良くないか? 何かあった?」
俺たちのやり取りを見ていたのか、近くにいた佐伯が声を掛けてきた。
「いや、俺も分かんねーんだけど」
なんか変、と言う事くらいしか分からない。
機嫌が良い時もあるし、かと思えばたまに微妙な顔してる時もあるし。
「え、一ノ瀬でも分からないこととかあんの?」
「流石にあるだろ」
正直、何でも知ってると思ってたけど、今日の高坂さんは知らない顔をする時がある。
それが妙に引っ掛かってるんだけど、どうしたらいいのか分からないし俺が口を挟んでいい事なのかも分からなくて、本人に聞けずにいる。
「一ノ瀬」
一課の出入り口のドアをノックしながら、名前を呼ばれた。
視線を向けると、柔らかい表情の高坂さんが立っていた。
「飯、行くぞ」
「分かった」
じゃあな、と佐伯に手を挙げて、高坂さんとオフィスを後にした。
社食に着くまでも、普通。
定食選びも、いつも通り。
定食の話、ゲームの話、仕事の話、他愛無い会話をしながらの昼食。
全部、いつも通り。
なのに、視線にだけ、違和感が混ざる。
視線が合わないところで、また俺の事を見てる。
……飯、食いにくいんだけど。
「……何?」
「ん? 何がや」
「さっきから、俺のこと見てるだろ」
そう言うと、高坂さんは何処となく申し訳なさそうに視線を逸らした。
「そんなに見とるつもり無かったんやけど、悪かったな」
別に嫌だったわけじゃないんだけど、そんなに見られてたら流石に食べにくい。
高坂さんは俺に言われるまで自分で気付いていなかったようで、少しバツの悪そうな顔をして頭を掻いた。
「別に良いけど。話があるとかじゃねぇの?」
「いや、別に」
「そう? まぁ、高坂さんそんな遠回しな事しないしな」
俺の知ってる高坂さんは、人に遠回しに意思を伝えるような事はしない人だ。
物事はハッキリ、目を見て言う人。
怒る時も、褒める時も。
「……まぁ、せやな」
だからこそ、その喉に何か引っ掛かってるような、少し苦しそうなその表情が、視線が、気になって仕方がない。
……気にしすぎ、なのかもしれないけど。
午後の仕事もいつも通りに終え、それから数日。
高坂さんは相変わらず妙な視線を向けてきたけど、特に何がある訳でもなく俺もそこまで理由を聞くほどでもなかった。
そして、高坂さんに対する少しの違和感を抱えたまま、俺たちはまた週末を迎えた。
――――――――――
いつも通り高坂さんに起こされて、朝飯を準備してもらって、一緒にゲームをした。
それから当然のように昼飯も作ってもらって、一緒に映画を観て、晩飯も俺のリクエストに答えてくれて、髪も乾かしてもらえた。
本当に、いつも通りなんだよなぁ。
いつもと違う事があるとしたら、この間からと同じ、たまに俺のことを見てるくらいだ。
「来週の予定はー?」
「特に無いな」
リビングのソファで寛ぎながら、視線はお互いテレビに向いたままの会話。
特に無い、か。
……だから、遊びに誘っても良いって事だな。
「先輩、いつも暇だな」
「お前にだけは言われたないわ」
軽口を叩きながら、次の週末は何しようかな? と考えていたら、横から「せや」と短く聞こえて声の方に視線を向けた。
「克己……あー、アレや」
高坂さんは少し視線を泳がせて、天井を仰いだ。
珍しく歯切れ悪いな。
やっとすんなり目が合ったと思ったのに。
少し言い淀んだ高坂さんの瞳が、また少し揺れているように見える。
珍しく言葉に詰まっていると言うか、どう切り出したらいいのか迷ってる感じの表情だ。
……珍しい顔。
「……先輩?」
「あー……のな。分かっとるとは思うけど、お前、会社で絶っ対にくすぐられんなや?」
あまりに脈絡のない話で、俺は一瞬何の話をしているのか分からなかった。
本当、最近の高坂さん変だよなぁ。
「……分かってるよ。あんな情けない声恥ずかしいし、出したくねぇから」
普通にあんな情けない声聞かれたく無いし、今までだってそういうノリも避けてきたし。
今更そんな事言われなくても、分かってるってのに。
「……情けない、なぁ」
俺の返答に納得していないトーンでポツリと呟かれた言葉に、疑問が残る。
何をそんなに気にしてるんだろ?
と言うか、中学の頃に面倒事になってからこの間高坂さんにくすぐられるまで、誰にもくすぐられて無いし回避してきてるから、今更そんな心配いらないと思うんだけどな。
「なに先輩、最近変だぜ?」
「克己。お前、自覚が足らん」
はぁ? なんだよ急に。
てか、いきなりそんな真剣な顔で見つめてくるなよ、なんか怒られてるみたいじゃん。
自覚が足りないって、俺が何したって言うんだよ。
なんか怒られるようなことしたか?
ピシャリと言われた言葉に、俺は何も悪いことはしていないのにも関わらず、何かやらかしてしまったような気がしてきてしまい、声のボリュームが下がる。
「……何の?」
「自分がどんだけ危うい声しとるか、や」
あやうい……?
え、意味分かんねーし、話が読めないんだけど?
「……ん? どういう事?」
意味が分からなさすぎて、小首を傾げる。
俺が本当に分かっていない顔をしていたのが伝わったのか、高坂さんは短く溜め息をついた。
そして、身体を少し俺の方に向けてじっと目を見つめてきた。
「お前、よお声が良いって褒められるやろ?」
「え、まぁ、たまに? でも高坂さんも言われたことあるだろ」
高坂さんが何を言おうとしてるのか、全く見当が付かない。
だが、高坂さんはそんな俺のプチパニック状態の脳内など露知らず、未だに頭に? を浮かべたままの俺を見て、盛大に溜め息を吐いた。
「はぁ……そもそもの認識が甘いんか」
「先輩さっきから、何の話してるんだよ⁉︎」
話が見えなさ過ぎて、少しムッとする。
自覚が足りないって怒られたかと思ったら、声が良いって褒められて、かと思ったら今度は認識が甘いって呆れられた。
マジで何の話してるのか分かんねぇ。
てか俺、今何に対して怒られてんの?
「ええか、克己。お前は声がええ」
鼻先に触れそうな距離で、指を差された。
怒ってるようなトーンで褒められて、脳内処理がちょっと間に合わない。
「あ、ありがとう?」
「お前の声は、低いけど低すぎんトーンで、落ち着く低音や。お前が電話対応で得しとるんはその声のお陰や」
え、急に凄い褒められてる? なんで? いや、すげぇ嬉しいんだけど。
でも、どうせならそんな睨みながらじゃなくて、もっとにこやかに褒めてほしいな。
「せやけど低いだけちゃう。艶のある低さや」
……つや?
声にツヤとかあるんだ?
よく分からないなと思ったのが顔に出ていたのか、俺が理解して無いと確信した高坂さんは、また大きく溜め息をついて額を押さえながら項垂れた。
「はぁ……あのな、要は割と色っぽい声しとるから、くすぐられてあんな声出したら色々と面倒やぞって事や」
心配してくれているのに、物凄く面倒臭そうに言葉を投げる高坂さんに、何となく申し訳ない気持ちになる。
高坂さんがそんなに心配するほど自分の声に艶なんて感じてるわけないし、俺からすれば高坂さんの少し掠れたような低音ボイスの方が、よっぽど色気があると思うけど。
だから俺の声に艶があるとか、色っぽいとか言われても腑に落ちない。
折角心配してくれているのに、当の俺が高坂さん程深刻に考えられないからこそ、申し訳ないと思ってしまう。
「あー、色っぽいとかよく分かんねーけど。要は、くすぐられなきゃ良いってことだろ?」
「…………せやな」
「なら大丈夫だろ。中学以来そんなことされてないし」
あっけらかんと言い放つ俺に、高坂さんはじとっとした視線を向けてきたが、すぐに諦めたように視線を外して、また小さく溜め息をついた。
「……俺に腹突かれて飛び上がっとったやないか」
「それはー……先輩だから良いじゃん」
俺のその言葉に、高坂さんは今日何度目か分からない溜め息をついた。
溜め息つきすぎだろ。
「……とりあえず、気ぃ付けてくれ」
「大丈夫だって」
そう簡単に言い退けた俺に、高坂さんはまた疑いの眼差しを向けてくる。
じとりと向けられたその視線に、俺は軽く微笑んで笑顔を返した。
今までだって大丈夫だったし、そんな子供みたいにくすぐってくる奴なんてそうそう居ないだろ。
……なんて呑気に考えていた俺は、この時の自分を殴りたくなるなんて、思いもしなかったんだ。
数日後、高坂さんの「予言」は、最悪な形で的中する事になった。




