7、指先のいたずらに弾ける
マンションの下でタクシーを降りる。
無言のまま、俺の部屋に着き玄関を開けてリビングの電気とエアコンの電源を入れてから、やっと口を開いた。
「コーヒー、淹れるよ」
「……おん」
こんな高坂さん、初めて見る。
たぶん何かあったんだろうけど、何があったのかまでは分からない。
飲み会中は、割と機嫌良く普通にみんなと話してたしな。
淹れたてのコーヒーを注いだカップの片方にだけ砂糖とミルクをたっぷり足して、ソファに座っている高坂さんの前にカップを差し出す。
「サンキュ」
隣に腰を下ろして、コーヒーカップに口を付けた。
「……さっき、悪かったな」
「いいよ。帰ってきて正解だったし」
歩いたお陰で酔いもかなり冷めてきてるけど、あのまま二軒目行ってたら確実に寝てたと思う。
可愛い後輩たちの前で醜態を晒さずに済んだんだから、高坂さんの選択が正解だったし、止めてもらって助かってると思う。
と言うか、俺が気になっているのは二軒目を断ったことよりも……。
「……あの時の俺、変やった、よな?」
「うん。すごく、機嫌悪そうだった」
大きな溜め息をついて、高坂さんはソファに凭れ掛かり天井を見つめた。
「やんなぁ。自分でも、なんであんなイラついてたか分からんねん」
「最近忙しそうだったし、疲れてるんじゃねぇの?」
ここ最近は、二課の方が少し忙しそうではあったし、知らない内に疲れが溜まってた、なんて事もあると思うけど。
でも、高坂さんは納得してない顔してる。
「疲れてるんもあるやろうけど、それだけやない気ぃしてな」
「心当たりあるの?」
「……いや、」
ん?
心当たりがあるかの問いに一瞬俺を見たけど、すぐ苦い顔をして視線を逸らされた。
なんだ? 俺に関係あるのか?
いや、でも俺に関係ある事なら何も言わずに視線を逸らすなんてこと、高坂さんはしないしな。
それに、もし俺に関係があったとしても見当もつかないだよな。
最近高坂さんと喧嘩したとかもないし、仕事で詰まったこともないし……。
気になるけど、踏み込んで良いものか。
「まぁ、疲れてたんやろうな」
考えることを諦めたような、困ったような笑顔を向けられる。
考えたって分からない時もあるもんな。
「ん、今日泊まってく?」
「そのつもりや」
あ、いつも通りの顔。
高坂さんのことだから、その内あの時はああやった、とか言ってくれるでしょ。
その後は、いつも通りに他愛無い話しをしながらテレビを見たりして過ごした。
もちろん、お風呂は高坂さんに先に入ってもらって、後で入った俺の髪を乾かしてもらう作戦も成功した。
「やっぱ、先輩が髪乾かしてくれると、寝癖の付き具合が全然違んだよな」
「克己がちゃんと乾かさんからやろ。その内風邪引くぞ」
「そしたら看病しに来てね」
「まず風邪引かん努力をしろ」
それから少し二人でゲームをしていた。
ソファに並んで座りながらゲームをしていたけど、俺の体勢だけがどんどん崩れていった。
座ってゲームしてたら、その姿勢に疲れてくるじゃん?
寝転がりたくなると言うか。
最終的には、膝を立ててソファに寝転がっている俺の足とソファの間に高坂さんが座って、俺の膝に高坂さんが顎を置いてゲームしていると言うちょっと訳分かんない体勢に落ち着いた。
割と密着しているけど、クーラーが効いているお陰で暑くない。
一通りゲームをし終えて、時計を見れば午後二十三時半を過ぎていた。
ゲーム機をテーブルに置いて、伸びをした時だった。
「腹冷えんぞ」
「……ん、ふぁ⁉︎」
伸びをしたせいでTシャツが捲れていたのか、高坂さんが俺の腹をつついた。
くすぐりに弱い俺は、思わず身体を大きく跳ねさせてしまった。
……短い沈黙の後、高坂さんが驚いた表情で呟いた。
「そんな、弱かったか?」
「弱かったよ!」
高坂さんはそうだったか? と顔で頭の上に? を浮かべたまま、珍しく間抜けな顔をしている。
と言うか、中学の時に助けてくれたじゃん。
「え、知らなかったっけ?」
「知らんな」
「嘘。中生の時、クラスメイトにくすぐられそうになってたの助けてくれたじゃん」
「……せやったか?」
覚えてないのかよ。
もしかして、たまたま良く遊びに誘ってくれてただけだったとか?
「中学の時、一回くすぐられたことがあって。その時に情けない声出しちゃったせいで、結構イジられたんだよ」
「反応、おもろいもんな?」
「うっさいな。その時に、先輩が良く遊びに誘ってくれたりして助けてくれたから、知ってると思ってた」
「……あー! なんや急にクラスメイトに囲まれ出した時やな?」
「……? たぶん」
囲まれ出したかどうかは分からないけど。
とにかく、くすぐられると変な声というか情けない声が出てしまうから、あの時はマジで嫌でずっとクラスメイトから逃げていた。
だからクラスメイトから助けてくれたの、めちゃくちゃ嬉しかったのに。
俺は昔から何故かくすぐられると全身に力が入ってしまい、息も詰まってしまう。
普通に笑い転げるだけなら良かったのに、息が詰まるせいで笑い声はほぼ出ないのに、息が詰まってるせいで情けない声が出るから本当に最悪だ。
「ふーん、大変やなぁ」
他人事みたいに。
まぁ、他人事ではあるけど。
と言うか、高坂さんだってくすぐられるの嫌だろ。
「先輩は? くすぐったくないの?」
「俺な、平気やねん」
「マジかよ」
腹が立つほどの完璧なドヤ顔を向けられて、眉間に少し皺が寄る。
ズルすぎる。というか、くすぐったくない人とか存在すんの? どういう身体の構造してんだよ。
脇腹や腰を突かれてくすぐったくないと言うのが信じられなくて、俺はそれを確かめるために高坂さんに向き直った。
「先輩、くすぐっていい?」
「ええけど」
高坂さんは俺の方に少し身体を向けると、「ん」と言いながら両手を軽く広げた。
今からくすぐられるってのに、そんなウェルカムな体勢とか信じられない。
余裕だって顔してる高坂さんを、思わず怪訝な表情で見てしまった。
本当に平気なのかと疑いながら、俺はそっと高坂さんの脇腹あたりに手を添えて、指先に少し力を入れた。
「…………」
嘘だろ、めちゃくちゃ無反応じゃん。
身体はピクリともせず、高坂さんは無表情のままだった。
指先にもう少し力を入れて脇腹をくすぐるけど、高坂さんはずっと無反応のまま。
それが信じられなくて、今度は手を少し下にずらし腰あたりをくすぐってみるけど、反応は一緒だった。
「マジかよ……あ、背中は?」
高坂さんをくるっと反対に向けて、背中を上下になぞってみるけど、反応は同じ。
ずっと涼しい顔をしている。
「背中なんか、一番なんも感じひんわ」
「えー……先輩、ちゃんと神経通ってる?」
「アホか。通っとるわ」
くすぐりがこんなに効かない人が存在するなんて、本当に信じられない。
大袈裟な言い方だが、我が目を疑う光景だった。
「お前が弱すぎるだけちゃうか?」
「ッ、!」
そう言いながら脇腹あたりをツンと突かれて、俺はまたビクッと身体を跳ねさせた。
文字通り、ソファの上で身体が軽くバウンドした。
高坂さんとは正反対な大袈裟なほどの反応で、恥ずかしくなる。
そしてこの沈黙に、すごく嫌な予感がした。
「……やめろよ?」
「何がや」
目線を合わせずに、少し距離を空ける。
じっと見られている視線が刺さる。
でも少ししてはぁと短い溜め息が聞こえ、高坂さんが諦めたのかと思った俺は肩の力を抜いた。
「……何気ぃ抜いとんねん」
離れたはずの距離を、いつの間にか詰められていた。
背後から聞こえる、いたずらっ子のような楽しそうな声。
その瞬間、高坂さんの両手が俺の腰あたりをがっしり掴んで指先に軽く力が入れられた。
「んっ、……ッ、待、あは……やめ!」
高坂さんの両手を掴んで引き剥がそうとするけど、くすぐられている俺にそんな力は無い。
と言うか、そもそも普通に力で勝てない相手だ。
腰から背中がゾワゾワと泡立つような感覚に、体温が上がる。
背後で「弱いなぁ」と小さく呟いた高坂さんの声は俺の耳に届いたけど、返事をする余裕はなかった。
「くすぐ、ぁ……はっ、はな、ぃ……んっ、」
呼吸が思うようにできなくて酸欠気味になり、その苦しさにじわりと生理的な涙が浮かぶ。
「せんぱ、ッ、んあっ……や、だぁ……!」
苦しくて早く解放されたいと、なりふり構わず漏れた声。
すると、高坂さんの手は急にピタリと止まった。
「はぁっ……ッ、はぁっ、しぬかと、思った……」
解放された俺は、ソファにぐったりと倒れ込んだ。
余韻でまだ背中がゾワゾワして、ピクリと小さく肩が跳ねる。
文句を言おうと振り返ると、高坂さんは手を離した状態のまま石のように固まっていた。
パチ、と視線が合う。
「……先輩?」
俺の声に、高坂さんの指先がピクリと動いた。
高坂さんの瞳が、見たことも無い程揺れている。
身体を起こした反動でソファが小さく軋み、その音にハッとしたように高坂さんが立ち上がった。
「え、何、どうしたんだよ?」
「……」
俺を見下ろす高坂さんの目が、何か信じられないものでも見たかのように揺れていて、重なった視線をふいと逸らされた。
眉間に少し皺を寄せながら、衝動を抑えているような、不安と怯えが混ざったような複雑な色を覗かせていた。
さっきまでいつも通りだったのに。
一瞬にして、空気が変わったのが分かった。
「先ぱ――」
「悪い。帰るわ」
「えっ?」
短くそう言った高坂さんは、素早く鞄を手に取ると、振り向く事なく部屋から出て行った。
何が起こったのか分からないまま、俺はただ高坂さんの背中を見つめる事しかできなかった。
少し遠くで、ガチャンと無機質な鍵のかかる音だけが、やけに耳に残る。
◆ ◆ ◆
足早に道を歩く。
不快な熱が身体を駆け回っている感覚に、眉間に皺が寄った。
あの時、自分の中で何かが壊れるような感覚がした。
あのまま、何もなかったかのようには、振る舞えんかった。
「……なんやねん、ほんま」
自分でも分からん衝動に、苛々する。
でも、あのまま一緒におったらアカンかった。
咄嗟に、克己を傷付けるかもしれんと思った。
なんでそう思ったのか、どう説明したらええのかも分からんくて、思わず逃げた。
走ったわけやないのに、心臓が煩い。
アイツの……克己のあの声が、あの顔が、リフレインする。
『せんぱ、ッ、んあっ……や、だぁ……!』
あの震える吐息を思い出す度、心臓を掴まれたように苦しくなる。
あのまま手を離したく無かったと思う反面、あれ以上触れていたらこの『長年の親友』と言う関係を、粉々に砕いてしまう確信があった。
「あ゛ー、クソッ‼︎」
人気のない道、俺は苛立ちに任せて電信柱を殴った。
なんやねんコレ⁉︎
ただ戯れてただけやのに、こんな……ッ。
殴った手の鈍痛も、煩い心臓を鎮める役には立たんかった。
「……はぁ。……相当、疲れとるな、俺」
飲み会で林にイラついたのも、さっきの衝動も。
きっと疲れのせいで、俺の厄介な独占欲が暴走しただけや。
そうやないと、説明がつかんやろ。
俺は煩く暴れる心臓を落ち着かせようと、自分を言いくるめた。
……きっと疲れとるだけや、そうに決まっとる。
もうええわ面倒臭い、考えるん止めよ。
明日、克己に会ったら謝ればええ、それだけや。
アイツなら、きっと言葉足らずな俺の謝罪も、許してくれるやろ。
細かいことは気にせん奴や。
一言謝れば、克己はまたあっけらかんと笑かけてくれる。
晴れやかな克己の笑顔を思い浮かべ、俺は自分を宥めながら帰路に着いた。
◆ ◆ ◆




