10、追いかけたくて、伸ばした手
翌朝、いつも通り待ち合わせ場所に高坂さんは居てくれた。
昨日の事、かなり怒っている感じがしていたから、もしかしたら居ないんじゃないかと少し心配していた。
「克己、おはよーさん」
目が合った瞬間、高坂さんは微笑みながら俺の名前を呼んだ。
え、機嫌、良い?
昨日の事があったから、てっきりまた釘を刺されるか怒られるかするかと思っていたけど、どうやら違ったらしい。
怒られない方がそりゃ良いけど、昨日との機嫌のギャップというか表情のギャップが凄くて、キョトンとしてしまった。
でも、普通に接してくれるのはかなりありがたい事だ。
「おはよ、先輩」
それから普段通り出社して、いつもと変わらない時間を過ごした。
いつもと違うことがあったとしたら、それは高坂さんの機嫌が良すぎるくらい。
佐伯ですら「今日やたら機嫌が良いな高坂のやつ」って、不思議がっていたからな。
確かにこんなに機嫌の良い高坂さん、あんまり見ないんだよな。
……昨日の今日だし。
機嫌が悪いなら納得できるけど、こんなに機嫌が良いとか。
何か良いことでもあったのか?
なんて思っていたけど、普通に考えれば高坂さんが機嫌が良いのは良い事だし、楽しく仕事ができるならその方が良いに決まっている。
時々視線を感じて振り向くと、目が合った高坂さんに微笑まれたりしたけど、高坂さんの機嫌が良かったお陰か二課は今までに無いくらい平和に仕事をこなしていた。
一課もそんな二課の影響を少なからず受けていたのか、とても平和に定時を迎えた。
滞りも無く仕事を終えた俺は、部下がオフィスを出るのを見送ってパソコンの画面を閉じた。
いつもなら部下が全員帰るまで俺と一緒にオフィスに残っている佐伯も、今日は「お先!」と足早に退社していて定時を少ししか過ぎていないにもかかわらず、一課には俺一人になっていた。
「一ノ瀬」
声の方に視線を向けると、優しく微笑んで俺を見ている高坂さんが一課のドアの前に立っていた。
「帰るで」
「うん」
オフィスを後にして最寄駅まで歩く道中、俺は気になっていた事を高坂さんに聞いてみた。
「なぁ先輩、今日めちゃくちゃ機嫌良いよな、何かあったの?」
俺のその問いに高坂さんは「んー?」と緩い返事をしながら軽く俺を見上げた。
「別に?」
そう言って俺から視線を外した高坂さんの顔は、また優しい微笑みを浮かべていた。
こんなに優しい顔してる高坂さんなんて滅多に見られないだろ。
本当、何があったんだろ。
——————————
翌朝、俺が家を出るよりも早い時間に高坂さんからメッセージが届いた。
『悪い、先行く』
何か仕事でトラブルでもあったのか、高坂さんのその短い文字に小さくため息をついて俺は家を出た。
一人で出社するの、いつぶりだろう?
いつも高坂さんと一緒に出社していたから、何だか変な感じだ。
と言うか、通勤ラッシュの電車ってこんなにしんどかったっけ?
いつもと同じ時間の電車のはずだけど何だかいつもより鮨詰め状態な気がして、話し相手がいないとこんなにも周りが気になるものなのかと思っていると——。
「……っ⁉︎」
誰かが俺の尻を触った。
これは手が当たったとかそんなんじゃない、ゆっくりだけど確実に撫でている。
最悪だ……満員電車で思うように身動きも取れないのに!
もぉ、高坂さんのせいだー‼︎
「……はぁ」
「おはよう一ノ瀬。どうした?朝からそんな溜め息ついて」
朝からどんよりとした顔で、出社するなり大きな溜め息をついた俺に佐伯が話しかけて来た。
「佐伯。聞いてくれよ、電車で痴漢に遭った……」
両手で顔を覆いながら朝から盛大なため息をついていた理由を話すと、近くにいた女子社員が驚きながら振り返り一課の視線を集めた。
「え!一ノ瀬さん、痴漢に遭ったんですか⁉︎」
「声、でけーよ」
「あ、すみません」
一課のみんなから心配されて少し気恥ずかしくはあったけど、すぐに犯人は見つけられたし少し撫でられただけでそれ以上は何も無かったから、大丈夫なんだけどな。
そんな話をしていたら、背中に刺さるような視線を感じた。
きっと今の聞こえてたんだな、この間林にセクハラされたばっかりなのに今度は痴漢に遭うなんて、危機感が足りないって怒られそう。
俺は恐る恐る振り向くと、案の定高坂さんと目が合った。
視線が合った瞬間、苦い顔をされて顔を逸らされてしまった。
高坂さんに謝っても仕方ない事なんだろうけど、申し訳ない気持ちが膨れ上がってしまう。
だが、今日は二課がかなり忙しそうで、まともに高坂さんと話せたのは昼休憩の短い間だけだった。
まぁその短い間にちゃんと注意されたんだけどな。
かなり心配してくれていたみたいだったし、今度また一人で出社する時は気を付けようと心に誓った。
でもその後、高坂さんは昨日とは打って変わって眉間に皺を寄せていたり、暗い顔をしていた。
午後は一課も二課も少しバタついたりしていたけど、時々高坂さんの視線は感じていた。
仕事が一段落して時計を見ると、針は定時を過ぎていた。
二課に視線を向けると、高坂さんはまだパソコンを睨みながらキーボードを叩いている。
差し入れでもしてやるか、と自動販売機でコーヒー二本とカフェオレを買い、デスクに戻った。
コーヒーのもう一本は、この間佐伯に渡しそびれた分だ。
「高坂さん、お疲れ」
キーボードを叩いている高坂さんのデスクにコツンとカフェオレの缶を置く。
「あぁ、悪いな」
一瞬視線を上げた高坂さんは短くそう言うと、少しの間無言で俺を見つめたあと苦いような顔をして視線を逸らせ、デスクの上の受話器を持ち上げた。
さっきの間、気になるけど邪魔するわけにはいかないし、俺は自分のデスクへと戻った。
何だろう。少し怒っているような、苦しいような何とも言えない顔だった。
朝はそんなに機嫌も悪く無かったし普通だったのに、午後になるに連れて徐々に機嫌が悪くなったり落ち着かないような感じになったりしいて、体調でも悪くなったのかと少し心配した。
だが、帰りはいつも通りに戻っていた。
「先輩、今日しんどそうな時あったけど大丈夫?」
「あーちょい仕事が面倒やっただけや。気にせんでええ」
そう笑って答えてくれたけど、どこか無理して笑っているようにも見えて、小さな違和感が拭えずにいた。
そしてその違和感は日を追うごとに大きくなり、何がきっかけだったのか分からないまま、ついにその日を迎えた。
あの違和感を覚えた日から、徐々に高坂さんと話す時間が減っていた。
何度か高坂さんが先に出社する日があったり、昼に会社を出ていたりと話す機会が減っていき、それに伴いなぜか高坂さんに避けられているような感じがしていた。
たまに視線を感じたりはしていたし、一人で帰る時も心配そうに見つめてきたりしたけど、声を掛けられることは無かった。
それどころか、特に予定のない日ですら昼に会社を出て外で昼食を済ませてくることも増え、最近ではたまに一緒に出社するか退社するかしか話す機会はなく、休日も予定があるみたいで遊ぶ時間も減っていた。
そして今日、朝から一緒に出社できなくて会社に着いても一度も目が合っていない。
何が理由でこうなったのか全く検討がつかなくて、聞きたいのに避けられて声すらかけられない。
この日も二課は忙しそうにバタバタとしていた。
「二課、忙しそうだな」
コーヒーを飲みながら、佐伯が隣で呟いた。
二課の方に視線を向けると、電話を終えた高坂さんが部下と話している姿が目に入った。
真剣な顔。それから、笑顔。
最近、俺にあんな風に笑いかけてくれないな。
前にまともに話したのっていつだっけ?
そんな事を考えながら高坂さんを見ていると、俺が差し入れにとデスクに置いたカフェオレを鞄に投げ込んだ後、にこやかに二課の人に手を挙げてスマホで電話しながらオフィスを出て行った。
一課に寄らずにそのままエレベーターに向かったのを見て、今日も一緒に帰れないのを悟る。
高坂さんと一緒に帰れない日が続いてどこか良くないオーラでも出ているのか、二度ほどまた痴漢に遭ったこともあり一人で電車に乗るのが億劫になっていた。
「あれ、高坂帰ったのか?」
デスクを片付けていた佐伯が、二課に高坂さんの姿がないのを見て言葉を溢した。
「そうみたいだな」
「最近一緒にいない事あるよなお前ら」
「今日、一回も話してない」
俺の声が沈んでいたのか、あるいはオフィスが静かだったからなのか、自分の声がやけに寂しそうに聞こえた。
「……お前ら、何かあったのか?」
いつも通りじゃない俺たちに、佐伯は心配そうな顔で覗き込んできた。
「いや、別に」
「この前も変な感じだったしさ」
「あー……」
林のことは流石に言えない。
解決したとは言え、俺と高坂さんだけの話じゃないし……と言うか、あんなの知られたくは無い。
言い淀む俺に、佐伯はポンと俺の肩を叩きながら笑顔を向けた。
「ま、なんかあったら言えよ。手貸すから」
「ありがとな」
佐伯と並び歩きながら他愛無い話をして、駅の改札で別れた。
「痴漢には気を付けろよー」
「そんな頻繁に遭ってたまるかよ!」
なんて言っておいて、まさか帰りにまた痴漢に遭うとは思わなかった。
コレは佐伯のせいだな。アイツが余計な事を言うから!
「……ッ、いつまで触ってんだよ」
モゾモゾと人の尻を弄りやがって。
高坂さんとまともに話せてないし、佐伯には最悪な予言されるし。
俺はこの何とも言えない苛つきをぶつけるように、次の駅で痴漢野郎をホームへと放り出した。
最寄駅に着いて改札を出ると、見覚えのある後ろ姿が目に留まった。
「先輩!」
俺の声にピクリと肩を震わせ、ゆっくりと振り向いた高坂さんはあまり表情のない顔をしていた。
「……遅かったな」
「ちょっと、痴漢に遭って」
「またか?大、丈夫か?」
高坂さんに痴漢に遭った話はした事ないけど「またか」って聞いてきたってことは、一課で話してたの聞こえてたんだな。
少し、高坂さんの眉間に皺が寄った。
「大した事ないって。どこかのホームで放り出してきたし」
「そうか」
高坂さんは短くそう言うと、何も言わずに歩き出した。
置いて行くなよと思いつつ後を追うと、高坂さんはピタリと足を止めて俺に向き直った。
振り向いた高坂さんの表情は少し冷たく、視線もどこか鋭く感じた。
いつもより三歩ほど遠い距離、この距離を詰めてくるなと言われているような冷えた空気を感じる。
「一ノ瀬」
いつもなら名前で呼んでくれるのに会社以外で苗字で呼ばれると、この物理的な距離よりももっと遠く距離を置かれたようで何故か心が寒くなる。
声の冷たさが、心臓に刺さる。
この沈黙が何故か耐えられなくて、俺はこんな事が言いたかった訳ではないのに、言葉が止まらなかった。
「えっと……あ、あの時助けてくれてありがとう。それと、ごめんなさい。折角忠告してくれたのに、ちゃんと聞けなくて……」
「謝らんでええ。悪いんはお前ちゃうやろ」
明らかに不機嫌な声。
「ちゃんと忠告聞かなかった俺のせいでもある、から……」
重い空気が二人を包む。
高坂さんの声が、空気が重くて、俯いたまま顔が上げられない。どんな顔をして俺を見ているのか確かめるのが怖い。
どうしよう。
高坂さん相手に、こんなに言葉に詰まることなんて今まで無かったのに。
「……一ノ瀬。お前に構うん、止めるわ」
少し震えた声で冷たく言い放たれたその言葉に、一瞬、理解が追いつかなかった。
「……は?なん、で?」
「林の事も、痴漢の事も、俺が隣におらんかったら、お前はそれだけ隙だらけって事や」
無機質で冷ややかな表情のまま、高坂さんから紡がれたその言葉に、心臓が氷で覆われたような息苦しさを感じた。
視界が、ゆらりと揺れる。
実際、高坂さんと一緒に出社していた時は痴漢なんかに遭った事なんて一度も無かった。
林のことは俺がと言うより、タイミングが悪かったと言うか、運が悪かったと言うか……。
でも結局、俺の隙が林に手を出させるキッカケになってしまった、って事なんだろうな。
高坂さんの言葉が心に刺さって俯いたままの俺に、はぁと短く溜め息をついた声が聞こえた。
「……甘やかしすぎた俺の責任でもある、か」
「違っ!俺が、甘えすぎてただけで……」
高坂さんのせいで俺が隙だらけな奴になったなんて思っていなくて、そう思って欲しくなくて俺は咄嗟に顔を上げた。
今日、初めてまともに視線が合う。
でも、高坂さんの瞳は氷のように冷たくて、甘えたがりな俺の心は射抜かれたように心臓がドクンと大きく脈打った。
「なら、話は早いな」
高坂さんは冷たい瞳のまま真っ直ぐに俺を見据えて、温度の無い言葉を投げた。
「明日からは別々や。暫く休日も会わんから、そのつもりでおれ。連絡もしてくんな」
……言葉が出ない。
呼吸が浅くなるのを感じる。
まさか、こんなに突き放されるとは思っていなかった。
何が、いけなかったんだ。
どうして急にこんな事になったんだよ。
何が原因で……。
高坂さんはそれだけ言うと、踵を返した。
「……俺のこと、嫌いになった、のか?」
思わずポロリと溢れた俺の言葉に、高坂さんの足が止まった。
「……嫌いとか、そんな話しちゃうわ」
振り向かないまま少し怒りが混ざったような苦しい声でそう呟いた高坂さんは、そのまま振り向く事なく歩き出した。
俺は思考が追いつかなくて、その背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くすしかできなかった。
家に着くなり、俺は鞄とネクタイとジャケットをその辺に放り投げてソファに身を沈めた。
「……はぁ」
葉が色付きだし、夏の暑さも遠くなってきた。
秋は好きだけど、そこか寂しさがある。
今の俺みたいに。
「……風呂入って寝よ」
腹が減ってる気がするけど、何となく食べたい気分じゃない。
俺はサッと風呂を済ませ、髪を乾かすのもそこそこに布団へと潜った。
さっきの言葉が、脳内にリフレインする。
『明日からは別々や。暫く休日も会わんから、そのつもりでおれ。連絡もしてくんな』
冷たい言葉だった。
思い出すだけで心臓が痛い。
どうして急にあんなこと言ってきたんだろう?
もしかして、前から思ってたとか?
なら、どうしてあんなに優しくしてくれてたんだよ。
どうして、俺の甘えを許してくれてたんだ?
聞きたい事はたくさんあったのに。
高坂さんの冷たい視線に怖気付いて、言葉が喉に引っかかったまま出て来なかった。
「……嫌なら、言ってくれれば良かったのに…………」
自分の情けなさに、視界が滲んだ。
溢れないように目を瞑って、俺は眠りに落ちるのを待った。
せめて、会社ではいつも通りに話くらいはして欲しいと願いながら。
◆ ◆ ◆
部屋の明かりを付けないまま、ベランダで缶ビール片手に夜風に当たる。
駅前、振り向かんでも分かった。
克己が俺の背中を見つめたまま、立ち尽くしてるのが。
きっと泣きそうな顔してたんやろうな。
克己にそんな顔させたかったわけやないのに。
今の俺は、あいつを傷付ける事しかできんのか。
「……ほんま、最悪やな俺は」
側におったら、この手を伸ばして汚して俺のもんにしたいと思ってしまう。
だから離れようとしたのに、それで傷付けて。
部屋に戻り、ソファへ身を沈めた。
月明かりに仄かに照らされた部屋を見つめながら、缶ビールを握り締めカシャリと微かに缶のひしゃげる音が響く。
克己への気持ちを自覚してから、この気持ちは止まることを知らん。
仕事中も気付いたら目で追っとるし、目が合ったら嬉しくて幸せで、あの笑顔をもっと見ときたいって思う。
純粋にそう思うのに、自分の中のドス黒い部分がそれを汚してくるのを止められへん。
あの日かて、一人で出社するくらい何ともないと思っとった。
やのに、実際は痴漢に遭った。仕事やからしゃーないと思うけど、俺がおったら守れたのに。
気安く俺の克己のケツ触った痴漢野郎を探し出して、ボッコボコにしてやりたい。
その考えに、ゾッとした。
「……俺の、では無いやろうが」
克己は俺のもんやない。誰のものでもないんや。
分かっとるけど、そう思ってしまう程どうしようもなく克己が好きで、好きで好きでたまらん。
ずっと隣におって守ってやりたいと思っとるのに、柔らかいあの笑顔を自分だけのものにしたいとも思っとる。
あの笑顔を他人に見られへんように自分の腕の中に仕舞い込んで、独り占めにして、押し倒してあの甘い声で俺の名前だけを呼んで欲しい。
そんな汚い欲望が、日に日に増していくのを止められへん。
独占欲が、自分でも目を逸らしたくなるような欲を孕んで、腹の底に渦巻いて嫌になる。
しかも目を閉じると、瞼の裏にあのくすぐった時の身悶える克己の姿が焼き付いて消えへんねん。
「……ッ、」
そんな姿を思い出す度にあの甘い声をまた聞きたい、もっと鳴かせてみたいと思ってしまう。
それと同時に、親友である克己を汚した罪悪感で喉がヒリつく。
見たくないと思いながら、もっと見たいと欲している自分に腹が立って、拳に力が入る。
こんな奴、親友として隣に立つ資格なんか無いやろ。
「……最悪や」
◆ ◆ ◆
あれから数日が経った。
高坂さんとはまともに話せていない。
会社で挨拶する程度しか話してもらえなくて、メッセージを送っても既読はつかないままだ。
高坂さんの言う通り、隙だらけな俺はあれからまた何度か痴漢に遭った。
通勤ラッシュに電車に乗るのが嫌になってきていて、最近はタクシーで行くことも増えてきた。
高坂さんに助けを求められないのは分かっているのに、未だに助けを求めてしまいそうになる。
それが、今までどれだけ高坂さんに甘えてきたのかを物語っているようで、情けない。
重たい瞼を開け、枕元のスマホに手を伸ばして画面に表示された時刻を見る。
……そろそろ起きないと。
いつもより重たく感じる身体を起こす。
着替えるのも億劫に感じる。
毎朝飲んでるコーヒーも今日は飲む気になれなくて、パンを数口齧って俺は家を出た。
駅までの道のりがやけに遠く感じる。
最近眠りが浅いせいか、ちょっと頭がふらつくな。
枕を変えるべきなのか。
今日は運良く、座席に座ることができた。
痴漢に遭わなくて済むと思うと、安心して俺は少し目を閉じた。
ふと目が覚めると、降りる一つ前の駅だった。
良かったと思ったのも束の間、変な体勢で寝ていたのか頭が重く、頭痛がする。
もうそろそろ冬がくるってのに、今日は少し暑い。
足も重く、少しふらつきながらエレベーターから降りると。一課の方で佐伯が慌てているのが見えた。
何かあったのかと一課に近付くと、俺に気付いた佐伯が慌てて駆け寄ってきた。
「い、一ノ瀬⁉︎」
「なに、どうかしたの?」
「な、……おま、大丈夫か?」
「なにが」
俺がじゃなくて一課に何かあったんじゃないのかよ。
と言うか、疲れたから座らせてくれ、と思っていたら佐伯が誰かから借りたのか手鏡を手渡してきた。
「どうしたんだよ、今日」
「……あ、」
鏡に映った俺は、寝癖のついた髪に家用の眼鏡をかけたままの姿だった。
「忘れてた」
「忘れてたってお前……」
少し心配そうな顔をして佐伯が、覗き込んでくる。
そんな事より——。
「一ノ瀬」
高坂さんが俺を呼ぶ声がして、視線を向けた。
「……高、坂さん」
少し苦い顔をしているように見えるけど、話しかけてくれた事が嬉しくてその安堵感にふっと心が軽くなったような気がした。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪み、目の前が急速に暗転した。
あれ?身体に、ちからが……はい、ら……な…………。
「おい、克己ッ‼︎」
最後に聞こえたのは、俺の名前を呼ぶ切羽詰まった高坂さんの叫び声だった。
◆ ◆ ◆




