いつも通りの日常
それから数日後、この日はトラブルに見舞われた。
咲き始めた紫陽花を眺めつつ、朝いつも通り高坂さんと話しながら出社して、朝イチで課に掛かってきた一本の電話。
新入社員の神城が張り切って電話に出た。
が、徐々に顔が引き攣っていき、どんどん血の気が引いている。
何かあったのを確信して俺はそっと神城の隣に立つと、肩を突いて電話を代わるようジェスチャーで伝えた。
「は、あの、う、上の者と代わりますので、少々お待ち下さいませ」
しっかり保留ボタンを押してから、泣きそうな顔で見上げてくる神城の肩をポンと撫でて、俺は受話器を受け取った。
「大変お待たせ致しました。お電話代わりました、営業一課の一ノ瀬でございます。管理画面にログインが出来ないとの事ですが――」
電話越しではあるけれど、口角を上げ張り詰めていたであろう空気を解すように、俺は極力柔らかい声音になるよう努める。
そのお陰か、受話器の向こうで語気強く話していた先方の声が、少し和らいだ気がした。
泣きそうな顔で俺を見上げたままだった神城は、俺が話し出すとふっと表情が変わった。
視界の端に映る顔はなんか、きょとんとしてるようなぼーっとしてるような顔に見える。
どう言う感情で俺のこと見てんだ?
もしかして、俺、今めちゃくちゃ頼れる上司って感じになってる? なんて。
まぁ、そんなまじまじと確認するわけにもいかないから、あんまり気にしないでおこう。
俺は先方と電話で話しながら、同僚の佐伯にログイン手順と画面の設定の見直しを指示した。
同商品が他の企業にどのくらい導入されているかの確認。
各先方への連絡も、資料や身振りで他の一課の人間にも指示を出す。
その様子を見ていたのか、気付いたら高坂さんが一課の出入り口に立っていて、俺を真っ直ぐ見ていた。
視線が合う。
あの顔、状況は把握してるらしい。
手元にあった資料に走り書きで修正箇所に印を付け、高坂さんに手渡す。
高坂さんはその資料に目を通すなり、的確に指示を飛ばしてくれた。
さすが、本当に頼りになる。
俺は電話を終えて、ゆっくりと受話器を置いた。
神城は「あの、」と俺に謝ろうとしてきたが、今はその時じゃない。
「それは後でいいから、この項目の金額と日付が合ってるかの確認が先、な?」
とPC画面を指差した。
「あ、はいっ!」
俺は神城に向けて軽く微笑んだあと、高坂さんに向き直った。
俺のデスクの近くに立っていた高坂さんに近寄る。
「ありがと、助かった」
「これで貸し1やな?」
高坂さんは片方の眉を上げながら、意地悪な顔をした。
微笑みながら、高坂さんの肩をポンと叩く。
「後でいつものカフェオレ奢ってあげるよ」
「やっすいなぁ」
高坂さんは俺の意図を完全に読み取って、的確な指示を出してくれたから、この後は確認作業するくらいで終われそうだ。
「一ノ瀬さん!」
振り向くと、神城が手に書類を持ちながら、少し緊張した面持ちで立っていた。
「これ、確認お願いします!」
「分かった」
書類に目を通し、不備がないことを確認して神城に書類を戻す。
「ん、OK」
「ありがとうございます!」
自分のデスクに帰る神城の背中を見て、高坂さんが呟いた。
「ええ子やなぁ」
「だろ? 期待してる」
一課の出入り口をすぐ出た場所で、少し高坂さんと今後の打ち合わせや擦り合わせをしていると、パタパタと小走りする音が聞こえた。
「い、一ノ瀬さん……」
振り向くと、神城が話しかけていいのかを伺っていた。
「どうした?」
「……あの、申し訳ありませんでした!」
深々と頭を下げている神城を見て、俺は高坂さんと顔を見合わせた。
二人して肩をすくめる。
「人間誰だってミスはあるから」
「大事なんは、次にどうするか、やで」
「……は、はいっ!以後気をつけます!失礼します」
――――――――――
少し慌ただしかった午前中。
でも高坂さんやみんなのお陰で、大事にならずに済んだ。
神城の頑張りも目に見えて、トラブルではあったけど、こうやって協力して乗り越えるのは嫌いじゃない。
なんだか、少し晴れやかな気持ちだ。
その他の確認事項や、連絡を確認しつつ午前中の仕事を終え、社食に向かう前に二課を覗いた。
「高坂さーん」
「おう、今行くわ」
いつも通り、連れ立って社員食堂に向かう。
改めて午前中の礼を言うと「いつでも頼れ」と頼もしすぎる言葉。
さすが高坂さん、頼りにしてるよ。
俺たちはいつも通り、定食のメニューの前で立ち止まる。
「お前、どれにするん?」
今日は三種類の定食がある。
三択、また少し考えるフリをして答える。
「んー、C定食」
「そうやろうな。ほな、俺はA定食にするわ」
また当てられたか。
どっちも食べたいなって思ってたから良いけど。
「さすが高坂さん。分かってる」
「ハッ、舐めんなや」
美味そうな定食を乗せたトレーを運びながら、空いていた窓際のテーブルに向かう。
いつも通り、向かい合って座る。
「高坂さん、コレちょうだい」
「おん」
「ありがと。じゃあコレあげる」
「サンキュー」
恒例と化しているおかずの交換。
今日もどっちも美味しそう。
俺たちは昼食を食べながら、今日の神城の件を話し合った。
どうしたら防げたか。フォローは最適だったか、など。
打てる策は打っておきたいからな。
二人して、あぁしたら良いんじゃないか?
こうしたらどうだ? と策を練っていたら、近くの席から楽しげな声が聞こえてきた。
「私、週末彼女とデートなんだ!」
「良いな〜! 俺最近彼氏とあんま会えてないんだよなぁ」
「俺来月、彼女と温泉旅行に行くぜ?」
恋人ねぇ。
そんな楽しそうな話を聞いていたら、ポロッと口から言葉が溢れた。
「俺も恋人欲しいなー」
「……は? お前、そんな願望あったんか?」
願望って。
俺だって、人並みに恋人くらいは欲しいと思うよ。
「普通に思うでしょ。高坂さんは? 恋人欲しいって思わねぇの?」
「まぁ、思わん事ないけど」
まぁ、でも恋人欲しいって思っても一瞬引っ掛かるとこはあるんだよな。
と言うのも、学生の頃高坂さんと遊びすぎて「私のことよりその人の方が大事なんでしょ⁉︎」って元カノにキレられて振られた事があった。
あの頃は二人して「そんなわけ無いだろ」って笑い飛ばしたけど、後日高坂さんも当時の彼女に同じ理由で振られていたんだよな。
だからって、高坂さんと距離を置いて恋人と過ごすってのも、なんだかピンと来なくて。
多分、今の関係が居心地良すぎるんだよなぁ。
高坂さん、俺に結構甘いとこあるし、世話焼いてくれるし。
恋人、欲しいとは思うけど、まだいいかな。
「そうだ。土曜さ、週末限定クエあるから、俺の家でゲームしよ」
「ん、ええで。今度はちゃんと起きとけよ?」
「いや、前も起きてたじゃん」
「アホ、寝とったやないか!」
ガヤガヤと騒がしくなってきた社員食堂に、俺たちの笑い声が溶けていく。
定食も食べ終わり、いつものコーヒータイム中。
仕事とは関係ない雑談をして笑い合っていた時だった。
テーブルに置かれていた高坂さんのスマホが震えた。
「ん?」
微かに見えてしまったスマホの画面には、営業二課の文字。
電話の邪魔にならないよう、黙ってコーヒーの入った紙コップに口を付けた。
「なんや?……あぁ……それで?……あー、分かった」
話しながら声のトーンが変わっていくのを感じて、何か緊急のことでもあったのかと高坂さんを見ると、パチっと目が合った。
「すぐ行く」
そう短く言った高坂さんの顔は、さっきまでとは全く違っていた。
はぁと短かく溜め息を吐き、カフェオレを飲み干すと高坂さんは勢いよく席を立ち、一瞬俺を見下ろした。
「手、貸そうか?」
一瞬、悩むような間があったが、高坂さんは眉間に小さく皺を寄せながら言った。
「……頼むわ」
「ん、任せて」
今度は俺が助ける番だな。
食堂から一課に戻るまでの間に高坂さんから内容を手短に聞き、俺はスマホを取り出した。
高坂さんもスマホ片手に、二課の部下に指示を出している。
「松永、佐伯と二課の大口案件の金額と納期の資料、俺のデスクに出しておいてくれ。あと、代替できそうなやつも」
「九条に技術部に連絡入れるよう言え。あの大口の案件、導入後の仕様で先方と齟齬がある」
足早に一課に戻る間際、高坂さんと目が合う。
お互いに口の端を微かに上げながら、小さく頷いた。
状況を整理して、最適解を掴む。
それが俺たちの仕事でもある。
「一ノ瀬ー!」
少しして、二課の方から高坂さんの声。
デスクに広げられた資料の中から、数枚手に取り二課へ走った。
高坂さんのデスクに数枚の資料を広げる。
「代替案はこれで行ける。技術部は?」
「少なくとも、あと2週間はいるやと」
「それなら――」
それを聞きながら資料に視線を落とす。
あ。
最適解、見つけたかも。
パッと視線を上げると、至近距離で高坂さんと目が合う。
この顔、同じこと考えてる顔だ。
二人して、また口の端を微かに上げる。
「よし、後は任せろ。俺が先方と話つけるわ」
そう言いながらノートパソコンを手に立ち上がると、二課の若手社員の渡辺が高坂さんを呼び止めた。
「高坂さん、B会議室、取ってます!」
「ナイスや渡辺!」
そう言いながら渡辺に向けて親指を立て、高坂さんは足早に会議室へ向かった。
高坂さんの頼もしい背中を見送って、軽く二課に指示を出してから俺は自分のデスクに戻る。
少しして高坂さんが戻ってきた。
視線が合うと、高坂さんはぐっと親指を立ててニカっと笑った。
一件落着、だな。
その後も少し慌ただしくはあったけど、無事に今日の仕事を終えられた。
陽も傾いて、オフィス内が薄暗いオレンジに染まる。
ふぅ、とひと息つきながらパソコンの画面を閉じると、高坂さんがコーヒー片手に一課に入ってきた。
「お疲れ」
そう言いながら、ブラックコーヒーの缶を俺に渡して、近くの椅子に腰掛けた。
「ありがと。高坂さんもお疲れ」
「おう、今日はちょっと濃かったな」
珍しく少し疲れた様子の高坂さんは、一緒に買ったであろうカフェオレのプルタブを押し上げる。
薄暗くなってきたフロアを見渡しながら、お互いのコーヒーが無くなるまで少し話をしてから共に会社を出た。
少ししてから「なぁ」と隣を歩く高坂さんが、少し低い目線から話しかけてきた。
「克己、飲みに行かんか?」
「良いね! 今日は飲みたい気分だった」
夜の帳が下りる街へ、俺たちは繰り出した。




