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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第四章 冬への助走編

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第99話 魔力集中射『弐』九十五

 一月第四週、月曜日の朝六時前だった。

 屋内訓練場はまだ暖房が効き切っていない。床のラバーマットに立つと靴底から冷気が上がってくる。学院の正規使用枠が始まるのは八時。それまでの二時間は事前申請した生徒が自主訓練に使える時間だった。

 蒼真は弓袋を脇のベンチに置き、両手の甲側に薄手の手袋を着け直した。指先までは覆わない。手の甲と手首の冷えだけを抑える。地元の祖父の弓道場で十二歳の頃から使っている儀式のような装備だった。神代家伝来の独自仕様の弽は右手側だけ革の上に手袋を重ねる。指先は素手のままなので、矢を番える時の弦と指の腹の感触は夏場と変わらない。

 左手で和弓の握りを確認した。冬の朝の握りはまだ硬い。革と木の馴染みが夜の冷気で締まり直している。素引きを五射ほど繰り返すと、握りが手に馴染み始めた。


 訓練場の的場の前に、蒼真は一人で立った。

 今日は通常の朝の自主訓練の延長だった。班員六人での合同訓練は明後日の水曜放課後。それまでに自分の身体の中で整えておきたいものがある。

『弐』の安定率を、九十一からもう一段上に持っていく。

 それが今日からの一週間の課題だった。


       ◇


 訓練場の北側の壁際にメンテナンスノートを開いて置いた。今日の射の本数と命中率をカウントするためのページだ。罫線の上には横軸として『通常射』『壱』『弐』『参』の四列を置いた。縦軸には『放射数』『的中数』『安定率(%)』の三行を引いてある。

 前回の集計は、一月第三週の木曜に行った。月例実習の前夜の自主訓練後に計測した数値だった。

 通常射 九十六パーセント。

『壱』 九十三パーセント。

『弐』 九十一パーセント。

『参』 六パーセント。


『弐』を九十五パーセントまで持っていくには、ここから四ポイント上げる必要があった。


 通常射の素引きから始めた。十射。二十射。三十射。冬の朝の身体が徐々に動き出す。蒼い軌跡は出さない。純粋に弦の重さと右手の弽の親指の弦枕だけを身体に思い出させる作業だった。

 四十射目から通常射に切り替えた。矢に通常程度の魔力を纏わせる。蒼い軌跡が矢の周りに細く立つ。二十メートル先の的の中心へ矢が収束していく。


 通常射、二十射。命中、十九。

 九十五パーセント。普段通りの数値だった。

 次に『壱』。矢に込める魔力を通常の一段上に引き上げる。


『壱』、二十射。命中、十八。

 九十パーセント。前回より三ポイント低い。冬の朝の手の悴みが抜けきっていない証拠だった。

 蒼真はノートに数値を書き込んだ。それから訓練場の窓へ目を向ける。窓の向こうの一月第四週の朝空は、薄い雲を引きながら灰色に近い青を覗かせていた。


「『弐』行く前に、もう少し温めるか」


 蒼真は声に出さず、口の中だけで自分に言い聞かせた。

 通常射と『壱』を交互にもう三十射。最後の十射で『壱』が八割九分まで戻ってきた。手の指の感覚がようやく夏場と冬場の中間まで戻ってきたのが、自分でも分かる。

『弐』、開始。


       ◇


 矢を矢筒から一本だけ抜き出した。


 鏃の重い特注矢だった。一本ずつ矢筋を確認してから矢筒に戻す。今、手元に揃っているのは三本。一月第三週の月例実習で一本使い、残りが三本になっていた。明日には学院の弓矢工房から追加分が届く。明後日からは予備を含めて六本の体制に戻る。


 今日は三本で二十射の計測を回す。一本射ったら的場まで歩いて回収する。それを二十回繰り返す。回収のたびに鏃の周りの焦げ跡を指の腹で確認する。


 込めた魔力が均等に通っていれば焦げ跡は鏃の縁に均等に残る。偏っていれば一点だけが濃くなる。蒼真は『弐』の安定率を的の中心への命中だけで見ていなかった。矢の側に残った魔力の通り方でも確かめるようになっていた。地元の弓道場で祖父が「いい一射だ」と低く呟いた朝の射を、自分の中で再現するために見つけた指標だった。


 弓を満月に引いた。矢に込める魔力を通常の数倍まで引き上げる。蒼い軌跡が矢の周りに細く濃く纏う。

 息を止めない。深くゆっくり入れる。

 放った。

 矢は二十メートル先の的の中心十センチ内側に食い込んだ。

 一射目、命中。


 的場まで歩き、矢を引き抜く。鏃の周りに焼け焦げた跡が残っていた。『弐』の魔力負荷がそのまま矢に乗っている証拠だ。蒼真はそれを確認してから矢筒に戻した。


 二射目、命中。

 三射目、命中。

 四射目、命中。

 五射目、命中。


 ここまで五射、全命中。


 六射目、命中。

 七射目、的の中心から外側へ寄った。命中扱い。的の十センチ円の中。


 八射目、命中。

 九射目、命中。

 十射目、命中。


 ここまで十射、九命中。九十パーセント。

 まだ九十一を超えていない。


 蒼真は十射目の矢を回収し、ノートに数値を書き込んだ。それから的場の前へ戻る。手の中の和弓の握りに左手を当てた。革は手の熱を吸い、もう夏場の感覚に戻っていた。


 十一射目、命中。

 十二射目、命中。

 十三射目、的の縁の手前で矢が上ぶれた。命中扱いの限界。


 十四射目、命中。

 十五射目、命中。

 十六射目、命中。

 十七射目、命中。

 十八射目、命中。

 十九射目、命中。

 二十射目。


 最後の一射の前に、蒼真は弓を一度下ろした。


 二十射の中でぎりぎり命中扱いの矢が十三射目に一射あった。あれがもう少し上ぶれていれば不命中で計上されていた。十三射目の矢を引き抜いた時、鏃の周りの焦げ跡が他の矢より濃く偏っていた。込めた魔力が鏃の一点に集中しすぎて、矢の中盤の重心が前のめりになっていた。


 そういう細部の手応えを、蒼真は身体の側で思い出した。


 二十射目を放つ前に左手の握りへ意識を集中する。冬の薄手の手袋は左手の甲側にだけ乗っている。和弓の握りに直接触れている手のひらは素手だった。革と木の馴染んだ感触が指の腹を伝い、肩の方まで上がってくる。


 弓を満月に引いた。


 今度は、いつもより息を深く入れた。

 冬の訓練場の空気を肺の奥まで入れる。それから止めずに細く吐き続ける。矢全体に纏わせる魔力を、いつも通りの『弐』の量で引き上げた。蒼い軌跡が矢の周りに細く濃く纏う。


 込める魔力の量は変えない。鏃と矢の重心の関係を変えない。引き分けの深さも変えない。変えるのは息の吐き方と、放った後に弓を下ろさず残心を取る時間。その二つだけ。


 放った。

 矢は二十メートル先の的の中心五センチ内側に食い込んだ。

 二十射目、命中。


       ◇


 ノートに数値を書き込んだ。

 二十射、十九命中。九十五パーセント。


 書き終えてから、蒼真はペンを置いた。机の縁に両手を当てる。


 九十五。


 数値だけを見れば目標達成だった。秋の終わりに祖父の弓道場の射場で立てた冬の訓練計画。その目標値の一つに到達した。


 ただ、九十五は九十五だった。


 九十五ということは、二十射に一回は外す。対人戦の十五分の競技時間で『弐』を三射放つとして、確率上、一回は外す可能性がある。それが九十一の頃と比べてどれほど違うのか。蒼真の頭の中ではすぐに答えが出なかった。


 弓を下ろして的場まで歩く。最後の一射の矢を引き抜いた。鏃の周りの焦げ跡は、これまでより控えめに見えた。気のせいかもしれない。だが、込めた魔力が矢全体へ均等に通り、鏃の一点だけに偏らず収まっていた。そういう手応えが指の腹に残っていた。


 矢を矢筒に戻し、的場の前に立ち戻った。


 窓の外は、すっかり朝になっていた。一月第四週、月曜の朝七時を回ったところだ。あと一時間ほどで訓練場の正規使用枠が始まる。


 蒼真は弓袋を肩に掛け直し、メンテナンスノートを開いた。


 今日の数値の下に、もう一行を書き加える。

『一月第四週・月曜朝。「弐」九十五。目標値到達』


 書き終えてから、ペンを置いた。


 顔を上げる。訓練場の天井近くの窓から差し込む朝の光が、的場の中央を淡く照らしていた。たった今、自分の矢が突き刺さっていた一点だった。


   ◇


 帰りの通学路を、蒼真は弓袋を肩に掛けたまま歩いた。


 九十五。


 頭の中で、その数字をもう一度なぞる。

 去年の十一月の頭。立川ダンジョンのイレギュラー対応の事後報告を経て、祖父からの三行返信を錦町のマンションで受け取った夜。そこからここまで来た。冬の三ヶ月で『弐』を九十一から九十五へ。『参』は二十パーセント前後で実戦投入不可のまま、自主訓練の中で段階的に習熟していく。通常射の精度は維持する。それが、あの夜の自分への約束だった。


 計画通りだった。

 計画通りに、ここまで来た。


 九十一から九十五まで。たった四ポイント。


 その四ポイントの中身を蒼真は数えるように並べ直した。

 息を深く入れ、鏃の重心を矢の中央へ置く感覚を確かめる。手の悴みが抜けるまでは『弐』に入らない。十射目でノートへ数値を書き込み、祖父の弓道場で得た一射の感覚をもう一度探した。


 四ポイントの中に、九ヶ月分の細部が収まっていた。


 五月のあの日。須藤との模擬戦の朝。入学初日の教室。弓術士という適性が裏掲示板で笑い物になっていた頃。そこからここまで来た。


 九ヶ月と少し。


 その間に何度ノートへ数値を書き込んだか、蒼真はもう正確には数えられなかった。ただ、ノートを閉じる時のペンを置く重さだけは五月の頃と今の冬の朝で違っていた。


 五月の頃は、ペンを置きながら次の一射が頭の中を走っていた。

 今朝は、置いた瞬間にペンが机の上で静かに止まった。


 数値が身体の中にそのまま落ち着いて入る感覚があった。


 通学路の途中で、蒼真は一度だけ立ち止まった。空を見上げる。立川の冬の朝空では、薄い雲の縁が東から西へ流れていた。


「『参』は、まだ置いておく」


 蒼真は声に出さず、口の中だけで呟いた。

『参』は、まだ対人戦では使わない。今朝の自主訓練でも『参』の練習射は一射も放たなかった。八パーセント前後の安定率では、対人戦の競技場で実戦投入する判断は取れない。今は『弐』を九十五で確実に届ける。それで戦う。『参』は来年以降の課題として残す。


 その判断は、十一月の対策会議で「対策される側に、いる」と口にした時から少しずつ固まってきたものだった。今朝の九十五が、その判断を確かなものにした。


 もう一度、空を見た。


 雲の縁が東の方へ流れていく。


 明日は火曜日。明後日の水曜放課後は、班員六人での合同訓練。フォーメーションCの再設計を本格的に詰める。月曜のホワイトボードに残してある《小転移》の七行。それがフォーメーションCの中にどう収まるか。その作業は九十五の『弐』を持って臨むのと、九十一の『弐』を持って臨むのとで組み立て方が違ってくる。


 九十一の頃の『弐』なら、対人戦の競技時間で投入できる回数はせいぜい二射までだった。一射目で外したら二射目に賭ける。それも外したら通常射に戻す。そういう安全圏側の運用設計になる。


 九十五になれば、その回数を三射まで増やせる。フォーメーションCの中で決め所のひと押しに『弐』を回せる回数が一射増える。一射の差が決勝戦の最後の局面で戦況を決める。それは月曜の戦術会議で航が「あと一射、安定して当てられたら、戦況の主導権が変わる場面がある」と短く言い添えた言葉の根拠だった。


 対戦相手の四班。4組第2班・3組第4班・2組第1班・5組第3班。それぞれの戦況の中で『弐』を投入する場面は違う。決勝T本命の1組第1班・竹井班との最後の一手でも、『弐』が要る場面はある。


 今朝の九十五は、そのすべての場面で『一回外す』可能性を二十分の一まで下げた。


「九十五で、行く」


 今度は、声に出した。

 立川の冬の朝の空気の中で、自分の声が白い息と一緒に消えていく。


 弓袋の重さが、いつもより軽く感じた。


 通学路の角を曲がる時、蒼真は弓袋の紐を肩で掛け直し、歩幅を広げた。

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