第98話 1月の月例探索実習
一月第三週、金曜日の朝だった。
立川ダンジョンの入口前に、第5班の六人が集合していた。月曜の戦術会議でホワイトボードに書き出した《小転移》運用の七行、水曜のフォーメーションC一次再設計の打ち合わせ。その間に挟まる形で今日が一月の月例探索実習の日だった。
冬の朝の空気は白く乾いていた。立川ダンジョンの入口を取り囲む広場の地面には、霜が淡く立っている。二月は後期対人戦のため月例実習なし。三月は春休み。四月から二年次が始まり、班は組み直される。今日の六人で第3層の薄暗がりを歩く時間はたぶん、これが最後だった。
「全員、装備確認」
蒼真は短く声を出した。弓を持ち直し、矢筒の中の本数を指で確認する。矢が二十四本。スローイングナイフは右太腿のナイフポーチに六本。触媒の予備は左の内ポケット。冬の手の甲側の薄手の手袋は両手とも装着済み。
「OKっす。槍、今朝研ぎ直してきた」
悠斗が槍の石突きで地面を一度叩いて、白い息を吐いた。
「同じく」
航は剣の柄に手を当てて頷いた。
「あたしも大丈夫。視力強化、今朝の体感、悪くないよ」
紅葉が小剣を一度抜いて納め直した。
「氷魔法、調子、出ると思います」
「私も大丈夫です」
里奈と真帆の声がほぼ同時に重なって、二人で顔を見合わせて微かに笑った。
ダンジョンの入口の脇には、後藤と橋本が並んで立っていた。今日の実習は、生徒のみの編成で第3層を回る。教官はダンジョン外で待機する。
「神代」
後藤がいつもの気だるげな声で、ネクタイを一度緩める仕草をしながら呼んだ。
「判断は全部お前に任せる。第3層は集団戦が前提の階層だ。退き時を見誤るな。一年最後の実習で恰好つけて怪我されるのが、教官としては一番面倒くせえ」
「はい」
「装備と武器、魔導通信機は揃ってるな」
「揃ってます」
「じゃ、行ってこい。お前らの実習だ。お前らで仕上げろ」
後藤は顎をダンジョンの入口の方に振った。橋本が脇でうっすら笑って帳面に何かを書き込んでいる。
蒼真は六人を一通り見渡して、息を一つ吐いてから頷いた。
「行こう」
第5班の六人は、立川ダンジョンの入口へ足を踏み入れた。
◇
第3層へ降りる階段を抜けた瞬間、空気が一段冷えた。
第3層の空気は、第1・2層より冷えていた。入り組んだ通路の奥まで、岩肌の上を走る薄い光が届いている。秋の異常事態対応で踏み入れた時の感覚を、蒼真の身体は覚えていた。今日が最後だ。その事実だけが、頭の中の数字を一つずつ押しのけていく。
六人は通路の入口で列を整えた。先頭は紅葉、その後ろに前衛二の悠斗と航、中央に蒼真。後ろに里奈と真帆。月例実習用の標準型。フォーメーションA。
「班長、左の通路、足音」
紅葉の声は早かった。蒼真が左に視線を向けると、紅葉は壁に身体の片側を寄せて、《視力強化》の青い光を瞳に淡く灯している。
「ねえ班長、ちょっといい? 今日さ、人間相手を意識した距離取りを試してみたい」
「ああ、やってみてくれ。任せる」
蒼真は短く返した。
紅葉は普段より二歩、前に出た。それから半身を捻って、通路の壁の影に身体を一瞬だけ収めて、また姿を現した。普段の魔物相手の斥候の距離取りより、明らかに「相手の視線を意識した動き」だった。
「うん、感触はいい感じ。ハイゴブリン三体、ゴブリン二体。奥の広間にいる。こっちの足音はまだ拾われてない」
紅葉が小声で報告する。
「広間まで、あとどれくらいだ?」
「二十メートル。広間の入り口、ちょっと狭いから、入った瞬間が肝心」
蒼真は頷いた。頭の中で、奥の広間の見取り図が一瞬で組み上がる。
「里奈、氷床の帯、奥の通路の出口に頼む。広間に入った時、敵が広間の真ん中に陣取る前に退路を半分塞ぐ」
「うん。広さは?」
「幅一メートル五十、長さ六メートル。奥に向かって細く伸ばす形で」
「分かった。前衛が踏んでも転ばないギリギリの硬さで合わせる」
里奈は杖の先を握り直した。秋の異常事態対応で覚醒して以来、戦術指示への即答が早くなっている。今の補足も、半年前なら出てこなかった一言だった。
「悠斗と航、前衛で広間に踏み込んだら、左右に分かれて二体ずつ受け持ってくれ。真帆は中衛で射線を確保。紅葉は引き続き索敵。後方警戒も込みで。俺は入口側から弓で抜く」
「了解。左行くわ」
「右、引き受ける」
悠斗が槍を構え直して、ニッと白い歯を見せた。航はベリーショートの頭を一度撫でつけて、剣の柄を握り直す。
六人は通路の終端まで音を立てずに進んだ。広間の入口で蒼真は片手を上げて全員を一度止めて、それから手を振り下ろした。
◇
「里奈、今」
「《氷床》」
蒼真の声と同時に、里奈の杖の先から白い冷気が広間の床へ走った。
奥の通路の出口に向かって、細い帯状の氷床が、すうっと伸びていく。幅一メートル五十、長さは指示通り六メートル。広間の中央に陣取ろうとしていたハイゴブリン三体のうち、一番奥にいた個体が氷の上に踏み込んで足を滑らせた。
「悠斗、左の二体。航、右の二体」
蒼真は弓を構えた。
「おうっ」
悠斗が床を蹴って広間に飛び込んだ。槍の穂先がハイゴブリンの右脇腹に走る。航は右側のゴブリンとハイゴブリンの間に割り込んで、剣の腹で前衛壁を作りながら、《斬撃強化》の薄い光を刃に乗せる。
蒼真は広間の入口の左壁に身体を寄せて、弓を満月に引いた。
一射目。
矢の先が、悠斗が抑えているハイゴブリンの首筋に走った。蒼い軌跡。鏃が首の側面に深く食い込んで、ハイゴブリンが棍棒を取り落とした。粒子化が始まる。
二射目、三射目。続けて二体のゴブリンを処理する。
残り、ハイゴブリン二体。
「班長、奥のハイゴブリン、氷の上で立て直してる。こっちに来る前にもう一回、足元」
紅葉の声。状況の指示までセットで来る。
蒼真は視線を奥の個体に向けた。氷の床に踏み込んで滑った個体が、四つん這いから立ち上がりかけている。氷の縁から外に出ようとしている動きだった。
「里奈、氷を、もう一段冷やせるか」
「いける。けど、今のだと班員が踏んでも滑る。射線、一回通したらその隙に冷やす」
「上等。頼む」
里奈は杖を奥の氷床に向け直した。
空気が一段冷えた感覚があった。氷の床の透明度が増して、表面の摩擦が減った。そう感じるくらいに、奥のハイゴブリンの足元が。もう一度ぐらついた。
その瞬間に、蒼真は弓を引き直した。
左手の握りに馴染んだ和弓。右手の弽の親指の弦枕に、弦の重さが乗る。冬の手袋は手の甲側だけだから、指先の感覚は普段通りだった。
魔力集中射、『弐』。
矢に込める魔力を、通常射以上に引き上げる。蒼い軌跡が、矢の周りに細く濃く纏う。
放った。
矢が、広間を斜めに走った。氷の上で立て直そうとしていたハイゴブリンの、こめかみの一点に。深く食い込んだ。
粒子化が始まる。
「あと、一体」
蒼真は弓を下ろさなかった。
最後のハイゴブリンは、悠斗が槍で押し込んでいた。蒼真は射線を確保するために、入口の壁から半歩。横にずれた。
通常射、一射。
悠斗が押し込んでいる側面から、ハイゴブリンの脇腹に矢が抜けた。悠斗が槍を引いた瞬間に、ハイゴブリンが膝から崩れ落ちた。
粒子化。
広間に静寂が戻った。
◇
「お、いまの『弐』だろ。入った?」
悠斗が槍を肩に担ぐようにして振り向いた。
「入った。氷の上で足元が定まらない個体に、こめかみ一点。時間に余裕があったから、いつもよりちょっと長めに込めた」
「相変わらずいやらしい撃ち方すんなー、お前」
「いやらしいって言うな。慎重って言え」
蒼真も口の端を上げて返した。さっきの手応えが、まだ手の内に残っている。
「で、『弐』、今何パーセント?」
「九十一」
「お、上がってんじゃん」
「九十一の今で試合中二射まで。九十五なら三射まで増やせる」
「相変わらず、地味に伸ばすやつだなお前」
「地味じゃないと伸びない」
「派手な伸ばし方は俺の槍が引き受けてやるからお前はそのままで頼む」
蒼真が小さく吹き出した。横で紅葉が肩をすくめて、里奈と顔を見合わせている。
航が広間の中央で、地面の上に転がる魔石を一つ拾い上げた。ハイゴブリンの魔石は、通常種より一回り大きい。
「整理する。ハイゴブリン三体は、首筋・こめかみ・側面でそれぞれ違うルートで処理。蒼真の通常射、中村の冷やし直しからの『弐』。悠斗の押し込みに合わせた側面射。要は『弐』を一射。ここぞの個体に温存して他は通常射と『壱』で削る形だな」
「うんそれでいきたい」
「なら今日はこの形で通すか」
「通そう」
蒼真は頷いた。
「悠斗が前で押し込めば、俺の射線は半分は確保される。フォーメーションCの組み立ても、その思想で書いてる」
航は剣の柄を握り直しながら、簡潔に言った。月曜のホワイトボードの七行が、今日の戦闘の中で実際の形に落ちている。蒼真はそれを地の感触として確認していた。
「里奈」
蒼真は里奈の方を向いた。
「氷床、いい仕事だった。二段冷やし直しのタイミング、ばっちり俺の射と噛み合ってた」
「ほんと?」
「ほんと。広間でも通路でも、対人戦の競技場でも、使える形になってきてる」
里奈は杖を両手で持ち直して、頬を赤くしてから、頷いた。
「ハイゴブリンの足元奪うとこまでなら、今のでいけそう。対人戦の人間相手だと、滑る判定がどうなるかはまだちょっと怖いけど」
「人間相手なら、『転ばせる』までは要らないかもな。一瞬足を取られて踏ん張るその『一瞬』があれば射線が通る。紅葉と相談して足元の硬さを段階的に試そう」
「うんそういう調整ならできると思う」
里奈が頷いた。今日の里奈の杖の構えは、秋の覚醒の頃よりも、もう一段迷いが減っていた。
◇
広間を抜けて、次の通路へ。
第3層は通路と広間の連続だった。次の戦闘までに、紅葉は二度索敵を更新し、分岐の情報を整理した。普段より早い報告と、相手の視線を意識した位置取り。対人戦に向けた斥候運用が、通路の中で少しずつ形になっていくのが蒼真にも見えた。
二度目の戦闘は通路の中だった。ハイゴブリン四体の集団。悠斗の槍と航の剣で前衛壁を作って、通路の中で受ける形に切り替える。
「班長、後ろ、あたしが見るから。今日のうちに後方警戒の感覚。もう一段慣らしときたい」
紅葉が後ろを向いて、半身で構えた。
「対人戦って、相手の斥候もこっちの後方を狙ってくるはず。通路だと一番抜かれやすい位置取り。今のうちに身体に入れとく」
「頼む。任せた」
蒼真は短く返した。
通路の戦闘では、悠斗が一体目を捌いた瞬間に、二体目の棍棒が悠斗の左肩に当たった。特別製の制服の上からの一撃だったが。衝撃が通った。
「悠斗さんっ」
真帆の声が高く跳ねた。普段の落ち着いた声よりも一段、上ずっている。
悠斗は槍を構え直しながら、左肩を一度回した。
「いって……いや、平気。ヒビは入ってない、たぶん」
「『たぶん』じゃ駄目です。後で見ます」
「了解」
真帆は短く息を吐いて、それきり前衛の方は見ずに、自分の射線を整え直した。蒼真は弓を引き直して。二体目のハイゴブリンの首筋に通常射を一射。三体目の鳩尾に通常射を一射四体目を航と協力して挟み撃ちで処理した。
粒子化が完了した時、悠斗は左肩をもう一度回した。痛みのある側を確認するような、慎重な動きだった。
「真帆、ちょっと見てもらえるか」
「最初に申し出るべきでした。すみません」
「いやいや、こっちが粋がっただけだから」
真帆は少し慌てた様子で、悠斗の左肩に右手を当てた。
白い光が、淡く灯る。
《回復》
蒼真は弓を下ろしたまま、その光景を見ていた。普段の《小回復》より、白い光が一段深く。悠斗の肩の革の防具の縁から内側に染み込むように広がっていく。光の輪郭が普段より一段大きく。淡い熱を帯びているように見えた。光が引いた時悠斗の左肩の動きが戦闘前と変わらない振り幅に戻っていた。
「あ、いや、ちょっと待って」
悠斗が左肩を回した。それから片手で肩を軽く叩いて、もう一度大きく回した。
「これ、ヤバい。《小回復》とは別物だろ」
「《回復》です」
「《回復》? いつの間に」
「先月の月例実習で、《光盾》を本格的に使えるようになって。その後、今月に入ってから。訓練場で《回復》の方も形になってきました」
「いやお前地味に階段上がりすぎだろ。俺の階段上がりが恥ずかしくなるレベル」
「そんなことはないと思います」
真帆は目を伏せて言った。
「ただ、訓練場の的相手と、実戦で効くか効かないかは別だと思っていて。今日。悠斗さんの肩で。初めてちゃんと効きました」
真帆は手を引きながら、淡い緑のノートに何かを書き加えるそぶりを見せた。
「真帆、ありがとうな」
「いえ、こちらこそ、です」
「お前さ、今日白魔法二段上に行った気がする」
「そんな……」
真帆は否定の言葉を最後まで言わずに、頬の赤みを隠すようにノートを胸の前に持ち上げた。
蒼真は航の方を見た。航は前を見たまま、剣の鞘に手を添えて、
「班員の手札が、また一枚増えたな」
と、低く言った。
「《回復》が形になったってことは、月曜のホワイトボードの真帆の項目。『発動後、転移先で蒼真が孤立する場合あり。治療の動線。確保』。あれが。《小回復》の射程じゃなく《回復》の射程で機能する。フォーメーションCの裏付けが一段堅くなった」
「うん」
蒼真の頭の中で、月曜のホワイトボードの七行のうち、真帆の書き加えた一行がもう一段現実味を帯びて再生された。
◇
第3層を抜けて入口に戻った時、外はもう、午後三時を回っていた。
ダンジョンの入口の前で、後藤が腕組みをしたまま立っていた。橋本は脇で帳面に何かを書き込んでいる。
「お疲れさん」
後藤がいつもの声で言った。煙草の匂いがかすかに風に流れた。
「魔石、何個。負傷、有り無し」
「ハイゴブリン六、ゴブリン三、合計九。負傷は悠斗の左肩に一発入りました。真帆の《回復》で戦闘継続レベルまで戻してその後の戦闘も継続。最終的には外で確認していただいたあと念のため一度受診させようと思います」
「《回復》覚えたのか小林」
「はい先生」
「……ほう」
後藤は腕組みを解かないまま真帆へ一瞬目をやり、すぐ蒼真に戻した。三白眼の奥には、いつもの飄々とした空気よりも教官としての評価が濃く出ている。
「他に報告は」
「ありません」
「分かった。装備の確認だけ済ませて解散していい。橘、念のため医務棟、寄ってけ」
「あー、はい」
「『あー』じゃねえ。寄れ」
「寄ります」
後藤はそれだけ言って、橋本と一緒に管理棟の方へ歩いていった。
第5班の六人は、入口の脇のベンチの前で、装備を一通り確認した。蒼真が矢筒の中を覗くと。矢が十六本残っていた。
「現メンバー最後の実習、終わったな」
悠斗がベンチに腰を下ろして、両手を頭の後ろで組み、真上の冬の空を見上げた。
「来月は対人戦。再来月は春休み。今回で月例実習は、終わり。ここから先、生徒だけで第3層の薄暗がりを六人で歩く時間はたぶんもうない」
「ああ」
航が短く同意した。それからすぐに付け足した。
「二年に上がれば、班は組み直される。Sクラスに上がるやつは上がるし、後衛で抜けるやつもいる。誰がどこに振り分けられるかは。年度末に通達される」
「お前、それ淡々と言うな」
「言い方変えても結果は同じだろ」
「ぐうの音も出ねえ」
悠斗は天を仰いだまま、わざとらしく長い溜め息をついた。
「最後の実習、なんかこう、もっとしんみりしたかったんだけど。俺の肩に一発入って。真帆の《回復》初成功で。全部持っていかれた感あるわ」
「悠斗さん、自業自得ですよ」
真帆が珍しく強めの口調で返した。
「お、真帆さん、めずらしく辛口」
「悠斗さん、棍棒が来てるの、見えてました」
「あー見えてた。けど避ける動作が半拍遅れた」
「次は避けてください」
「了解白魔道士様」
「真帆ですって」
「もういいです。行きます」
悠斗が両手を挙げて降参のポーズを取った。
里奈と紅葉が、顔を見合わせて、噴き出すのを我慢している。蒼真も。ベンチの脇で口の端だけが上がるのを止められなかった。
「里奈」
蒼真は声を掛けた。
「今日の《氷床》は対人戦でもそのまま使える形に整いつつあるな。さっきの『一瞬足を取られる』までで止める調整。来週の合同訓練でも詰めていきたい」
「うん。広さと長さ、冷やし直しのタイミングをもう少し詰める」
「紅葉、対人戦寄りの距離取りは第3層の通路の中でちゃんと回ってた」
「ありがと。でもまだ斥候の感覚と対人の感覚を半々でしか混ぜられない。対人戦までにもうちょっとなじませる」
「真帆、《回復》初実戦入った」
「はい」
「胸張っていい」
「精進します」
「航判断はいつも通りで助かった」
「役割だ」
航は前を向いたまま、短く返した。
「悠斗」
「俺は肩が痛い」
「真帆の《回復》入っただろ」
「痛がる権利はまだある」
「却下だ」
六人が、それぞれ短く笑った。
現メンバーで第3層を歩いた最後の景色が、ダンジョンの入口の冬の空気の中で、しばらく消えずに残っていた。
悠斗が真上の空をもう一度見上げてから、ぽつりと言った。
「来年の今頃、俺たちはこの六人のままじゃないんだな」
「そうだな」
航が同意した。
「俺は寮に残ってるかもしれんが、班としては、解体だ。そういう制度だ」
「お前のその『制度だ』『役割だ』、そろそろ商標登録した方がいいんじゃねえのか」
「考えとく」
「考えるなよ」
航は前を向いたまま、口の端だけわずかに動かした。蒼真の目には、それが航なりの笑い方だと、もう分かっている。
里奈が、ベンチに置かれた杖の柄に右手を軽く当てて、ぽつりと続けた。
「私、この六人で、もう一回くらい第3層を回れると思ってた」
「あたしも」
紅葉が短く同意した。それから、自分のシューズの先端を見ながら、続けた。
「来月対人戦で、再来月春休み。逆算したら、今日が最後だったってことに。改めて気付かされる感じ」
真帆は淡い緑のノートを膝の上で開いて、ペンの先で、ノートの一番下に何か短い言葉を書いた。蒼真からは。字までは見えなかった。書き終えてから。真帆はノートを閉じて両手で軽く膝の上を押さえた。
「皆」
蒼真は弓袋を背負い直してから、五人の方に向き直った。
「今日、ありがとう」
「役割だ」
航がいつも通りに返した。それからすぐに付け足した。
「ただ、お前の《小転移》の話じゃないからな、これ。班の戦術の話だ。班の戦術は。ダンジョン内でも。対人戦の競技場でも同じ六人で組む話だ。月曜の七行をお前一人の課題にすんなよ班長」
「ああ。分かった」
航はそれだけ言って、剣の鞘の留め具をもう一度確認した。月曜の訓練棟外で蒼真が言ったのと、ほぼ同じ言葉を。今度は航の側から形を変えて返してきている。
悠斗が左肩を一度回してから、立ち上がった。
「対人戦、二月。あと三週間ちょい。肩の感触、戻った。真帆様様」
「真帆ですって」
「もういいです。行きます」
悠斗は槍の石突きを地面に立てて、ベンチから一歩踏み出した。
「じゃあ、解散」
蒼真は六人に向けて声を掛けた。
「明日、土曜は各自自主訓練。来週、訓練場でフォーメーションCの続きを組む。悠斗。医務棟には寄れよ」
「寄る寄る」
「了解」
六人がそれぞれ頷いて、装備を背負い直した。
悠斗と航が寮の方へ。紅葉が二人の後ろから「先帰るね」と手を振って、同じ方向へ歩き出す。里奈と真帆が立川駅の改札の方へ。蒼真は錦町のマンションへ向かう道へ。
ダンジョンの入口の方を一度だけ振り返った時、立川の冬の午後の空に、淡い雲が横に長く伸びていた。
◇
錦町のマンションに帰り着いたのは、午後六時前だった。
蒼真はメンテナンスノートを開いて、月曜から続いている記録の続きに、今日の一行を書き加えた。
『一月第三週・金曜。月例実習・第3層。1年次最後』
『ハイゴブリン六/ゴブリン三。「弐」一射、九十一%想定で投入。命中』
『里奈の氷床・帯状運用、広間でも通路でも有効。対人戦に流用可』
『真帆。《回復》初実戦。悠斗の肩に効果確認』
『紅葉。人間相手を意識した距離取り、第3層通路で機能』
書き終えてから、ペンを置いた。
その下に、もう一行、自分への確認のように書き加えた。
『現メンバーで、第3層、最後』
窓の外の冬の空には、もう日が落ちかけていた。立川の冬の夕方の空気が、和室の畳の上を。静かに撫でていった。
明日は土曜。来週は1月第四週。
『弐』の安定率を、九十一から、もう一段上に持っていく。
蒼真は弓立ての前に立って、和弓に左手を軽く当てた。
「上げる」
声に出さずに、口の中だけで呟いた。
月曜のホワイトボードの七行と、今日の実習の余韻が、まだ蒼真の身体の中で温かいまま残っていた。




