第97話 対策される側
一月第三週、月曜日の放課後だった。
土曜の午後一時から始めたフォーメーションCの組み直し初日は、結局、夕方の五時過ぎまで続いた。日曜は各自で休みを取った。今日、月曜は授業が終わった後、再集合する取り決めになっていた。
屋内訓練場の北東の隅、ミーティングスペース。
長机のコの字の中で、蒼真は手元のメンテナンスノートに、土曜の振り返りの一行を書き終えたところだった。
『土曜・組み直し初日。前衛二の囮配置、まだ噛み合わない箇所あり。射線確保、要再設計』
書き終えてから、ペンを置いた。
顔を上げると、紅葉が向かいの席で、今日も先に来てノートパソコンを開いていた。
「はい蒼真、コーヒー。さっき自販機でホット買ってきたから、まだあったかいよ」
「お、サンキュー」
「あと電源、ちゃんと生きてるから安心してね。金曜危うく死ぬとこだったやつ」
「あー……あれは航がコンセント蹴っ飛ばしただけだろ」
「俺じゃない。悠斗だ」
いつの間にか後ろに立っていた航が、自分のリュックを置きながら割り込んできた。
「まあどっちでもいいけどね、蹴った犯人探すよりコーヒー飲も? 冷めるよ」
紅葉はそう言って、缶コーヒーを蒼真の手元にトンと置いた。冬の屋内訓練場は底冷えがするから、缶の温かさが指先にじんと染みる。
「で、土曜の続き、今日からやる感じだよね」
「そうだな。今日のメインは《小転移》の話」
「ですよねー」
紅葉は妙に語尾を伸ばして頷くと、ノートパソコンの画面を一度確認してから、ホワイトボードの方を見た。
ボードはまだ何も書かれていない、白い面のままだった。
今日ここに書き込まれていく中身を、蒼真は頭の中で組み立てていた。
ドアが勢いよく開いて、悠斗が入ってきた。
「うっす、お待たせ」
「悠斗、お前最近遅刻寸前ばっかじゃん」
「寸前で済んでりゃ遅刻じゃねえだろ」
「それを遅刻寸前って言うの」
紅葉が呆れた顔を作ってみせて、悠斗が笑いながら席に着いた。その後ろから里奈と真帆が、揃って入ってくる。
「お疲れさまです……」
「すみません、ちょっと遅くなりました」
「いや、ちょうど揃った」
蒼真は六人を一通り見渡してから、軽く頷いた。
「じゃあ、始めるか」
◇
航が立ち上がって、机の上のクリアファイルから一枚の紙を抜き出した。
そのままホワイトボードの前に立って、紙を片手に持ったまま、もう片方の手にマジックを取った。
「先に、協会データベースの《小転移》登録仕様を読み上げる」
航がそう切り出すと、紅葉が机の上に頬杖をついた。
「読み上げ? 俺たちもう内容知ってるじゃん」
「知ってる。けど、相手班も今この瞬間、同じものを読んでる。だから念のため、こっち側でも声に出して通す。前提を揃えるためだ」
「あー……なるほど。相手目線、ね」
「そう」
「頼む」
蒼真が短く促すと、航は紙を顔の高さまで持ち上げて、声に出して読み始めた。
「スキル名、《小転移》。発動条件。自身の体の一部である爪または髪を触媒として対象物に括り付け、当該対象物の存在位置へ自身が転移する。距離、最大十メートル。視界内限定。転移先を、自身の視界内に収めている必要がある。触媒は一度の使用で消費・消滅する。発動速度観測上およそ〇・三秒。他者に触れた状態で発動した場合他者を巻き込んでの転移が可能。以上登録仕様」
航は紙を下ろして、ボードの方に向き直った。
マジックのキャップを外して、白い面に書き込み始める。
『最大、十メートル』
『視界内、限定』
『触媒、消費型』
『発動、〇・三秒』
四行が並んだ。
航は四行目を書き終えてから、もう一行、追加した。
『他者、巻き込み、可能』
五行。
航がマジックのキャップを閉めて、振り返る。
「相手班が読んでくる情報は、ここに並んでる五行。これが全部だ」
「全部、ねえ」
悠斗が長机の向かいで、椅子を後ろに傾けてバランスを取りながら呟いた。
「五行で読まれて、二週間後にはバキバキの対策練られてくる、と。ほんと協会、容赦ねえな」
「公開登録した時点で前提だ」
「分かってるよ。愚痴」
悠斗はそう言って、両手を頭の後ろに回した。
蒼真は手元のノートを開いて、新しいページに同じ五行を書き写した。
書きながら、自分の口で、もう一度なぞる。
最大十メートル。視界内限定。触媒消費型。発動〇・三秒。他者巻き込み。
「で、相手班はこれを読んで、何を考える?」
蒼真が訊くと、航は頷いて、ボードに向き直った。
マジックを書き込みの隣に走らせる。
「視界外への転移は不可。だから、視線を、切らせない位置取りが、対策の基本になる」
ボードに、新しい一行。
『視線を切らせない=対策の核』
航がマジックを置いて、机に戻りながら続けた。
「相手班の班長が、まず最初に組むのは、これだ。蒼真の視界内に、自分たちの全員が常時収まる位置取りを取らない。柱の陰、足場の死角瓦礫の影。相手の自前の遮蔽物の後ろ。視界外に身体の一部でも置けば転移先として使えなくなる」
「そうなるよな」
「次に組んでくるのが視線そのものへの介入だ」
航は座り直して、自分の指で机をトントンと叩いた。
「相手方の斥候、岡田や伊藤が、紅葉の視線を奪う。風魔法の《風塵》で、視界そのものを物理的に切る。白魔法の《光球》で、目を潰す。蒼真の視界をいかに分断するかが相手班の戦術の中心になる」
「全部視界に対する攻撃か」
悠斗が腕を組み直して、椅子を元の位置に戻した。
「逆に言や、視界が通る場所さえこっちが残せれば転移は普通に成立する、ってことだろ?」
「成立する。ただし、視界が通る場所は、相手から見えてる場所でもある」
航は淡々と言葉を継いだ。
「相手から見えてる場所に転移するっていうのは、相手にとっては、こっちの動きが、丸見えになるって意味でもある」
「あー」
悠斗は天井を仰いで、軽く笑った。
「丸裸で出てけって話か」
「そういうことだ」
「酷いな、おい」
悠斗が大袈裟に肩を落としてみせて、紅葉が「悠斗の例えセンス、なんでいつもそっち方向なの?」と笑った。空気が一段、軽くなる。
蒼真は手元のノートに、走り書きで補足を入れた。
『視線が通る位置=相手にも見えている位置=転移しても丸見え』
書きながら、心臓の奥の方が一段だけ冷たくなるのを感じた。
ただ、不思議なことに、嫌な冷たさではなかった。
頭の中の視界が広がる種類の冷たさだった。
◇
「だったら、使わない選択も、込みで戦うか」
蒼真は顔を上げた。
五人の視線が、ほぼ同時に集まる。
「使わない、って?」
「ちょっと待って、最初の方針からはっきりさせる」
蒼真は自分のペンの先で、ノートの五行をもう一度なぞってから、顔を上げた。
「《小転移》は、これまで俺の奥の手だった。班員から見えない位置に出て、敵の死角を取る。広間の奥に出て、核個体の側面を取る。切り札として、ここぞの場面で使ってきた」
「そうだな」
悠斗が真面目な顔に戻って頷いた。
「ただ、これからの対人戦は、その『ここぞの場面』が、相手に読まれてる状態から始まる」
蒼真は続けた。
「相手は、俺が《小転移》を持ってることを知ってる。視界内限定なのも、〇・三秒で発動するのも知ってる。触媒が消費型で回数制限があることも全部知ってる。その上で、視界を切らせる戦術を組んでくる」
「で、それを真っ向から打ち破る方法はある?」
「ないと思う」
蒼真は迷わず答えた。
「真っ向は、ない。視界が通ってる場所は相手にも見えてるし、視界が通ってない場所には転移できない。仕様の制約を、力技でひっくり返す方法は、存在しない」
「じゃあさ」
悠斗は片手で首の後ろを叩いて、それから口角を上げた。
「お前、《小転移》もう使わないのか? 奥の手、捨てる?」
「使わない選択も、込みで戦う」
蒼真はもう一度、同じ言葉を口にした。
「使うかもしれないし、使わないかもしれない。今までは、使う前提で組んでた。これからは、使わない前提でも組む。両方、用意する」
「両方……」
航がボードの前で頷いた。
「方針転換、ということだな。奥の手じゃなく、選択肢の一つにする」
「うん。そう」
蒼真は自分のノートに、新しい行を書いた。
『《小転移》切り札から、選択肢の一つへ』
書き終えてから、ペンを置いた。
顔を上げると、悠斗がにやりと笑っていた。
「お前、そういう顔してた頃の方が強そうだな」
「そういう顔って?」
「『使うかもしれない、使わないかもしれない』っていう、何考えてるか分かんねえ顔。さっきまでお前、ちょっと困った顔してたけど今のお前もう困ってねえ」
「お前それ褒めてるのか?」
「褒めてる。たぶん」
「たぶんかよ」
蒼真は笑った。悠斗もにやにやしながら、自分の手の中で槍の握りを思い出すように、指を曲げ伸ばした。
その動作を見て、蒼真は心臓の奥で熱が一段上がるのを感じた。
◇
「で、具体的な使い方の話に、入る」
蒼真は仕切り直して、机を軽く叩いた。
「『使わない前提』は、当然そのまま戦う。問題は、『使う前提』の方だ。『使う』って言っても、これまでみたいに敵の死角を取って後ろに回るだけじゃ、対策が読まれてる」
「囮として使うって話金曜にも出てたよな」
航がボードの前から戻ってきて、自分の席に着き直した。
「金曜の昼休みに、悠斗が言ったやつ」
「言ったな。『使うかもしれない、っていう顔だけで、相手の視線を縛る』」
悠斗が自分の発言を、思い出すように繰り返した。
「あれ、もう一回ちゃんと整理しよう」
蒼真は頷いた。
「整理すると、まず、相手は俺が《小転移》を持ってることを知ってる。だから戦闘中、相手の班長は常に『蒼真が今転移を仕掛けてくるかもしれない』と考えながら自班の位置取りを組み続ける。これは、相手にとっての継続的な負荷だ」
「ああ」
「実際に転移するかどうかと関係なく俺が転移を『仕掛けてくるかもしれない』姿勢を見せ続けるだけで相手の判断速度を削ることができる」
「使うかもしれないっていう顔ね」
「うん」
蒼真は航の方を見た。
「だから、ここから先は二段構えになる。一段目は『使うかもしれない、という姿勢』だけを戦闘中ずっと続ける。これは、何も発動してなくても成立する」
「実発動なし、ってことか」
「実発動なし。で相手の判断負荷だけ稼ぎ続ける」
航は頷きながらボードに歩み寄って、新しい一行を書き加えた。
『一段目 使うかもしれない姿勢の継続(実発動ゼロ)』
書き終えてから、振り返る。
「で、二段目」
「二段目は、フェイント」
蒼真はそう言って、長机の上に布で包んだスローイングナイフを一本置いた。
弓袋の中から取り出した予備の一本だった。布を解いて、刃の先を皆に向けない方向に、机の上に置く。
「スローイングナイフを、投げる」
蒼真は続けた。
「投げて、相手の視線をナイフの着弾点に誘導する。『あいつ、ナイフ投げた。次、転移してくるぞ』って相手が思う。俺が何もしなくても、勝手にそう思う」
「あーなるほどな」
悠斗が身を乗り出した。
「で、お前は転移しない、と」
「転移しない。その代わりに、矢の射線だけを変える」
蒼真は手を、机の上で空中に走らせた。
「最初の射線はこっち」
蒼真はホワイトボードに一本線を引いた。
「ナイフを投げた直後に半歩ずれる。柱の陰を一瞬使って、出る角度を変える」
もう一本、斜めの線を足す。
「相手が着弾点を見たら、その分だけ矢の出所が遅れる」
「でナイフの着弾点に転移したと思い込むと」
「思い込む。実際は俺は転移してないし矢を打ち出した位置も半歩横にずれただけだ」
「えっぐ……」
悠斗が低く呟いた。
「お前、ほんと頭ん中、性格悪いよな」
「お前に言われたくないんだけど」
「いやいや、これ褒め言葉だから。前衛から見るとめっちゃ助かるやつ。相手、混乱させられてる横で俺ら殴れるんだぞ? 最高じゃん」
「お前は脳筋すぎる」
「脳筋でいいじゃん前衛なんだから」
航がボードに、もう一行書き加えた。
『二段目 スローイングナイフ投擲+視線誘導=転移したと思わせるフェイント』
その下に、矢印を引いて、もう一行。
『実態:転移はしない/矢の射線だけを変える』
書き終えてから、航は唇の端を一度だけ動かした。
「これで二段構えだ」
「うん」
「一段目で、相手の判断負荷を戦闘の最初から最後までずっと削り続ける。二段目で、決め所にフェイントを一発入れる。相手の視線がナイフに引っ張られた瞬間に、本命の矢が別の角度から飛んでいく」
航はそこまで言ってから、蒼真をちらりと見た。
「お前、よく短期間でここまで組み直したな」
「組み直したっていうか、追い込まれただけだろ」
「追い込まれて整理できる人間と、追い込まれて潰れる人間の違い、ってだけだ」
「……お前たまに素で褒めてくるのやめろよ」
「素じゃない。事実列挙だ」
「事実言うなよ恥ずかしい」
悠斗が「うっわぁ」と笑い、紅葉が「航、たまにこういうのぶつけてくるんだよね」と肘で航をつついた。航は無表情のまま、机の上のメモに視線を戻した。
蒼真はノートに二段構えの整理を書き込みながら、自分の頬が熱を帯びるのを感じた。
ただ、頭の中では、もう一つ別のことを考えていた。
◇
「あの……」
里奈が、長机の端から、控えめに手を上げた。
全員が里奈の方を見る。
里奈は手を下ろしてから、ノートを一度確認するように見て、それから顔を上げた。
「フェイントと、本命を、混ぜたら、どうですか」
「混ぜる、っていうのは?」
蒼真が訊いた。
里奈はペンの先で自分のノートをこつ、と一度叩いてから、続けた。
「実際に発動するのと、しないのを、混ぜる。ナイフを投げる時、半分は本当に転移する。半分は転移しない。相手は、どっちか分からないと判断に迷うと思うんです」
「迷う……」
「迷うと思います」
里奈はそう繰り返してから、言葉を続けた。
「相手の班長が戦闘中ずっと『次は転移する側か、しない側か』って考え続ける。一回二回三回とフェイントが続いた後で、本物が来る。本物が来た時、相手はまた『これもフェイントかもしれない』と考えて一瞬判断が遅れる。その一瞬で、射線が通る」
里奈は言い終えてから、ペンを置いた。
頬が赤くなっていた。
言い切ったことに対する、自分の中の確認のような、小さな仕草だった。
蒼真はペンを止めた。
手の中で、ノートのページの上を、軽く指の背でなぞる。
「それだ」
蒼真の声に、自然と力が入った。
「混ぜる。本物とフェイントを混ぜて使う。相手が毎回、どっちか分からないようにする」
「使う時は、使う」
里奈が、自分の言葉でもう一度繰り返した。
「使わない時は、使わない。混ぜれば、相手の判断が、迷う」
その言葉は、金曜の昼休みにも、里奈の口から出ていた言葉だった。
あの時よりも、今日の方が、語尾が前より強く着地していた。
悠斗が長机の向かいで、自分の膝の上を、片手で軽く叩いた。
「里奈、めっちゃいい話してる」
「えっ、あ、そうですか」
「いいよ、すごくいい。なんか今の里奈目つきが先月と違うんだよな」
「悠斗さんそれちょっと観察しすぎじゃないですか……」
「観察じゃなくて見惚れたって言えばよかった?」
「やめてください恥ずかしいですから」
里奈の頬がもう一段、赤くなった。紅葉が「悠斗のそういうとこ、ほんっとに無駄にスムーズなんだよね」と呆れて、真帆が口元を押さえて小さく笑った。
航がボードに、また新しい行を書き加えた。
『本物+フェイントの混合運用=相手の判断遅延(里奈案)』
書き終えてから、振り返って里奈の方に頷きを送った。
「中村のこの案、戦術の核になる。今日のここまでで、一番大きい一歩だ」
「そ、そんな……たいしたことじゃ……」
「たいしたことだ。お前、自覚しといた方がいい」
航にしては珍しく、語尾を強めに置いた言い方だった。里奈は頷きを返すのが少し遅れて、それから慌てて何度も頷きを返した。
◇
紅葉が、ノートパソコンの画面から顔を上げた。
「ね、一個、相手側の動きを整理しといていい? 今のうちに」
蒼真は頷いた。
紅葉は画面を一度確認してから、口を開く。
「相手の班長が戦闘中、毎回判断するのって、要は二択なんだよね。蒼真がナイフを投げた時に『これは本物か、フェイントか』。本物だと判断したら、ナイフの着弾点を最警戒する位置取りを取る。フェイントだと判断したら無視して本命の射線を予測する位置取りを取る」
「うん」
「で判断が外れた時のリスクが本物とフェイントでぜんぜん違うんだよこれ」
紅葉はそこで一度、画面から目を離して、頭の中で組み立てるように視線を中空に泳がせた。
「本物だと判断してナイフの着弾点を警戒したのに、実はフェイントだった。この場合、相手は最警戒の位置取りを無駄打ちする。これはちょっと損する程度。次の射線への対応は、まあ間に合うこともある」
「うん」
「逆に、フェイントだと判断して無視したのに実は本物だった。この場合相手はナイフの着弾点に蒼真がいきなり現れる。距離十メートル以内で視界内。しかも視線を切ったつもりだった場所に突然こっちの射手が出る。これ……ほぼ即KOじゃん?」
「そうなる」
航が淡々と引き取った。
「フェイントだと判断したミスは、戦闘の終わりに直結する。だから、相手の班長は、フェイント側を切り捨てる判断を簡単にはできない」
「で、結果。相手は本物寄りの判断を取り続けるしかなくなる」
紅葉がにやっと笑って、続ける。
「フェイントだろうな、って思っても、本物だった時のリスクが大きすぎる。だから毎回、本物を警戒した位置取りを取る。蒼真がナイフを投げるたびに、相手の班全員の位置取りが強制的に組み直される。これめちゃくちゃ嫌な話だね相手目線だと」
「お前楽しそうに言うよなあ」
「だって楽しいじゃん」
「斥候のサガ?」
「サガだね」
紅葉はけらけら笑って、もう一度画面に視線を戻した。
画面には、紅葉が今までの会話の要点を、メモ形式で打ち込んだ行がいくつか並んでいた。
蒼真は紅葉の方を向いて、軽く頷いた。
「紅葉、そこ整理してくれて、助かる」
「ううん、こっちが楽しいだけ。あたし、戦闘中に相手の班長の判断を横から読みたいから」
「読める?」
「読みたい」
紅葉の言い切る声に、迷いがなかった。
◇
真帆が淡い緑のノートを開き、ペンの先を一度ノートの上に置いた。
「あの、神代さん。一個だけ、確認してもいいですか?」
「うん、どうぞ」
蒼真は真帆の方を向いた。
真帆はノートを軽く片手で押さえながら、目を伏せ気味に、続けた。
「《小転移》を本物として使う、っていう想定の時、神代さんが転移した先って、相手の射線の中に入ってる、ってことになりますよね」
「なる」
蒼真は頷いた。
真帆の指摘は、そのまま、《小転移》の本物発動の根本的なリスクだった。
「視界内に転移する、っていうのは相手から見える場所に自分が出る、っていうことです。出た瞬間に、もし、相手の魔法使いの魔法がすでに置かれていたら」
「焼かれるよな」
「ええ。冨樫さんの《火炎》青木さんの《土礫》野村さんの《泥沼》。相手の班によって置いてある罠は違いますけど視界内っていうのは相手の魔法の射程内でもあるということになります」
「その通りだ」
蒼真は頷いた。
「だから本物として使う場合は、転移先を、相手の魔法の射線が通っていない位置に絞る必要がある。柱の陰、足場の段差、瓦礫の隙間。その位置を戦闘中に瞬時に判断する」
「判断できますか?」
「たぶんできる。ただ毎回できるとは言えない」
蒼真は正直に答えた。
「だから、本物発動は戦闘全体で一回か、二回。使い切るんじゃなくて、温存して、決め所に合わせる」
「うん。それなら私の側でも組めます」
真帆は静かに頷いた。
ペンの先でノートを軽く叩いた後で、小さく書き加えていく。
『本物発動は、一回か二回。決め所に温存』
『発動後、転移先で蒼真さんが孤立する場合あり。治療の動線、確保』
書き終えてから、真帆は顔を上げて、蒼真の方を見た。
「神代さん。一つだけ、約束してもらってもいいですか」
「ん?」
「転移した先で囲まれたら、無理に抜けようとしないでください。私、すぐ行きますから」
真帆の声は静かだったが、語尾の置き方がいつもより重かった。
「白魔法の動線は、私の役目です。神代さんが転移した瞬間に、私がどこに動くか、それを戦闘前に決めておきたいんです」
「分かった」
蒼真は頷いた。
「真帆、頼む」
「はい」
真帆は頬の力を緩めて、もう一度、頷いた。
悠斗がそれを横で見ていて、ぼそりと呟いた。
「真帆、お前、一年の春からだいぶ言い切るようになったよな」
「悠斗さんに、言われたく、ないです」
「いやいや褒めてんだって」
「悠斗さんの褒め言葉大体ふざけてるので」
「うそだろ今のは真面目だぞ?」
真帆が口元を押さえて、ふっと笑った。
◇
航がボードの前で、マジックを置いた。
白い面には、いくつかの行が並んでいた。
『最大十メートル/視界内限定/触媒消費型/発動〇・三秒/他者巻き込み可能』
『視線を切らせない=対策の核』
『一段目 使うかもしれない姿勢の継続(実発動ゼロ)』
『二段目 スローイングナイフ投擲+視線誘導=転移したと思わせるフェイント』
『実態:転移はしない/矢の射線だけを変える』
『本物+フェイントの混合運用=相手の判断遅延(里奈案)』
『本物発動は、一回か二回。決め所に温存(真帆案)』
七行。
航はその七行を一通り見渡してから、振り返った。
「これで、《小転移》の対人戦運用、第一案としてまとまった」
「七行、けっこう密度あるね」
紅葉が画面から顔を上げて言った。悠斗が「やったな、蒼真」と片手を上げて、蒼真は軽く頷いてみせる。
「あとは、土曜の組み直しの続きで、フォーメーションCの中にこの七行をどう組み込むか、だな」
「次の集まりで、そこをやる」
航が頷いて続けた。
「フォーメーションCの再設計、やる。前衛二の囮配置、蒼真の射撃位置。鬼塚の索敵動線、中村の《氷床》応用、小林の《光盾》。全部《小転移》の二段構えと連動する形で組み直す」
「次いつにする?」
「水曜の放課後でいいか?」
蒼真は六人の顔を見回した。
「水曜OK」
「うん、空いてる」
「私、空けます」
「大丈夫です」
「俺は……ちょい部屋掃除遅らせれば余裕」
「悠斗、お前部屋掃除いつもギリギリだよね」
「だってめんどくさいんだもん」
紅葉が呆れ顔で笑って、悠斗が悪びれずに肩をすくめた。
「じゃあ水曜の放課後、またここで」
蒼真は確認した。
「それまでに全員、自分の役割を頭の中でもう一回組み直しといてくれ。フェイントが入った時、自分はどう動くか。本物が出た時、どう動くか。両方、考えてきてほしい」
「了解」
悠斗が即答した。
航が頷いた。
紅葉が画面の隅に「水曜・放課後・C再設計」と打ち込んだ。
里奈と真帆も、それぞれ自分のノートに「水曜・C再設計」と書き加える。
蒼真は、自分のノートに、最後の一行を書いた。
『《小転移》奥の手から、選択肢の一つへ。混ぜて使う。本物・フェイント・不使用、三択を、戦闘中、ずっと回す』
書き終えてから、ペンを置いた。
顔を上げると、ホワイトボードの七行が、白い面の上できちんと整って見えた。
「使う、使わない、フェイント。三択を、毎回、選ぶ」
「ああ」
悠斗が頷いた。
「お前の頭ん中、これから対人戦の最中、ずっと忙しいな」
「そうだな」
「俺が前で暴れる。お前が後ろで考える。いつもの形だ」
「ああ」
「で、俺が暴れる隣で、航が冷静にツッコミ入れて紅葉が相手の判断読んで里奈と真帆が場を整えて」
「悠斗急に役割発表始めないで」
「いや今感慨に浸ってる」
「ほんとお前らしいな」
紅葉がそう言って、悠斗もまんざらでもなさそうに笑った。蒼真も笑って、悠斗も片手で首の後ろを叩いて、もう一度笑った。
◇
ミーティングスペースを出る時、ホワイトボードの七行は、消されないまま残されていた。
航が「水曜まで、消さないでおく」と紅葉に確認した。紅葉は「訓練場の管理に話通しとく」と頷いた。
ホワイトボードに七行のメモが、月曜の夕方の白い壁に、そのまま残されていた。
訓練棟を出ると、外はもう、すっかり暗くなっていた。
月曜の冬の夕方の空気は、金曜の時よりも、もう一段冷えていた。
悠斗と航が寮の方へ歩き出す前に、蒼真は弓袋を肩にかけ直して、五人の方に向き直った。
「皆、今日も、ありがとうな」
蒼真は言った。
「俺の《小転移》の話、ここまで付き合ってくれて、助かった」
「お前のスキルの話じゃない」
航が、いつも通り、淡々と訂正した。
「班の戦術の話だ。お前のスキルが、班の戦術の中に、どう収まるか、っていう話だ」
「そうか」
「そうだ」
「航、お前のそれ月曜の決まり文句にしようぜ」
「決まり文句にする気はない」
「もうなってる気がするけどね」
紅葉がそう言って、悠斗が「なってんなー」と笑った。航は前を見たまま、もう一歩、踏み出した。
「じゃ、明日、教室で。次の水曜、ここで」
「うん」
「神代さん、お疲れさまでした」
「お疲れさま」
「蒼真また明日ね」
悠斗と航が寮の方へ歩いていく。
紅葉も二人と並んで、寮通りの方向へ。
里奈と真帆は、駅の方へ。
蒼真は訓練棟の入口の脇で、もうしばらく立ち止まっていた。
弓袋を肩に掛け直した。
矢筒を抱え直す。
頭の中で、ホワイトボードの七行を、もう一度なぞった。
最大十メートル。視界内限定。触媒消費型。発動〇・三秒。他者巻き込み。仕様の制約。
視線を切らせない、というのが相手の対策の核。
一段目は、使うかもしれない姿勢の継続。
二段目は、ナイフ投擲+視線誘導のフェイント。
里奈の混合運用。真帆の温存方針。
三択を戦闘中ずっと回す。
頭の中で並べ直した時、不思議と、肩が軽くなる感覚があった。
二ヶ月前。十一月の対策会議で初めて「対策される側にいる」と口にした時、蒼真の中には奥の手を取り上げられたという感覚が確かにあった。協会データベースに仕様を登録した日の帰り道、肩の荷が降りた感覚と奥の手喪失の自覚が二つ独立に並んでいた。
今日は、違った。
奥の手喪失の感覚は、もう、薄かった。
代わりに、三つの選択肢をどう混ぜて使うかという新しい遊びが目の前に広がっていた。
「遊びじゃ、ないんだけどな」
蒼真は声に出さずに、口の中だけで自分に訂正した。
訂正してから、軽く笑った。
「でも、楽しい」
今度は、声に出した。
訓練棟の脇の冷えた空気の中で、自分の声だけが白い息と一緒に、ふっと消えていった。
◇
錦町のマンションに帰り着いたのは、午後七時半過ぎだった。
六階の自室。和室の机の前に座って、メンテナンスノートを開いた。
月曜の昼休みに書いた『一月第二週・月曜。実施要項、正式版、確定』『6vs6・15分・教官介入なし・協会公開スキル閲覧可・予選2〜3勝・決勝トーナメント・本戦2月中旬』『勝つ』。
金曜に書いた『予選E組・対戦相手・四班』『決勝T本命・1組第1班・竹井班』『全部、本気で行く』。
昨日、土曜の夕方に書いた『土曜・組み直し初日。前衛二の囮配置まだ噛み合わない箇所あり。射線確保要再設計』。
その下に、新しい見出しを書いた。
『一月第三週・月曜。《小転移》対人戦運用・第一案』
下に、ホワイトボードの七行を、自分の文字で書き写した。
最大十メートル/視界内限定/触媒消費型/発動〇・三秒/他者巻き込み可能。
視線を切らせない。対策の核。
一段目。使うかもしれない姿勢、戦闘中ずっと継続。実発動ゼロでも成立。
二段目。スローイングナイフ投擲+視線誘導。転移したと相手に思わせるフェイント。
本物+フェイントの混合運用。里奈案。
本物発動は、一回か二回。決め所に温存。真帆案。
三択(使う/使わない/フェイント)を、戦闘中ずっと回す。
書き終えてから、一行、空けた。
その下に、自分自身への確認として、もう一行を書き加える。
『奥の手から、選択肢の一つへ』
ペンを置いた。
ノートを、そっと閉じる。
机の上に置いた弽に、軽く右手を当てた。
革の馴染んだ手触りが、布越しに、指の腹に伝わってくる。
神代家伝来の、指を覆わない独自仕様の弽。冬の薄手の手の甲側の手袋は玄関で外して靴箱の上に置いてある。
窓の外の立川の冬の夜の空には、薄い月が東の空からもう少し高い位置まで上がっていた。
月曜の夜の月は、金曜の夜の月よりも少しだけ満ちていた。
「使う、使わない、フェイント」
蒼真は声に出さずに、口の中だけでもう一度、なぞった。
「三択、回す」
その言葉が、自室の和室の空気の中で形になって落ちる前に、すっと溶けていった。
月曜の夜は、まだ長かった。
水曜まで、あと二日ある。
その間に、自分の頭の中で《小転移》の三択をもう一度組み立て直しておく。
ナイフ投擲のタイミング、視線誘導の角度、矢の射線の変え方。半歩横へのずれの幅、柱の陰に身体を入れる時間。全部自分の身体で一度ずつ確認しておかなきゃならない。
立ち上がって、弓立ての前に行った。
和弓に軽く左手を当てる。
握りの感触が、もうすっかり立川の自室の空気に馴染み直していた。
「明日、訓練場行くか」
蒼真は静かに、声に出した。
「素引きで、半歩横のずれの感覚を戻そう」
窓の向こうの月が、薄い雲の縁に触れてから、また出てきた。
立川の冬の夜の空気が、和室の畳の上を静かに撫でていった。




