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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第四章 冬への助走編

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第94話 立川へ

 一月三日の朝、目を覚ました時、障子の向こう側がいつもより白かった。


 蒼真は布団から半身を起こして、自室の障子を一度だけ細く開けた。隙間から覗いた庭は、敷地の端から端まで雪が積もったままになっていた。大晦日の夜から元日、二日と雪は強く降っては止み、止んでは降りを繰り返した。結局、屋根の縁にも石灯籠の上にも、玄関脇の南天の赤い実にも白いものを残したまま今日まで来ていた。


 地元の弓道場の屋根の上にも、たぶん、まだ雪が残っている。

 蒼真は障子を閉めて、布団を畳んで、立ち上がった。


 今日、立川へ戻る。


 昨夜のうちに、荷物の大半はボストンバッグに詰め直しておいた。立川から持ち帰った稽古着、メンテナンスノート、巾着袋に収めた六本のスローイングナイフ入りナイフケース。大晦日の夜に縁側で新しい触媒を結び付けたまま、地元の冷気の中で大事に休ませてきた六本。和弓と矢筒。冬休みの間に祖父の弓道場で射った数百本の矢のうち、折れずに残ったものは矢筒に戻した。立川でもう一度使えるようにしておいた。


 居間に出ると、母が台所で朝食の支度をしていた。


「おはよう」

「おはよう、蒼真。よく寝れた?」

「うん」

「ご飯、もうすぐできるからね」


 座卓の前にはすでに父が新聞を広げて座っていて、湯呑みに手を伸ばしているところだった。家の北側の祖父の部屋の方からは、襖が開く音と、廊下を歩く足音が聞こえてきていた。


「爺ちゃん、おはよう」

「ああ、おはよう」


 祖父は綿入れの上に羽織を一枚重ねた格好で、座卓の自分の定位置に静かに腰を下ろした。少し背中が丸くなっているのは、地元の冬の朝の冷えのせいかもしれない、と蒼真は思った。


 四人の食卓。


 一昨日のおでん。昨日の朝の味噌汁。大晦日の夜の年越し蕎麦と、元日の朝の雑煮。二日の朝と夜の三度目と四度目の食卓。冬休みの間、神代家の座卓の前には、毎日ほぼ同じ顔ぶれが並んでいた。今朝で、この食卓は、少なくともしばらくの間は最後になる。


 味噌汁、焼き魚、卵焼き、漬物。それから昨夜のお節の残り。


「いただきます」


 四人の声が、また重なった。


 味噌汁を一口啜って、蒼真は今日、立川に戻った後の自分の予定を頭の中で組み直した。新幹線で東京駅へ出て、中央線で立川駅に戻る。錦町のマンションに到着するのは午後二時頃の見込み。荷物を解いて洗濯機を回す。それから買い出しのためにサンサンロードを北上する。立川では、この三日間、誰も冷蔵庫を開けていない。


「今日、何時のだ?」


 父が、味噌汁の椀から顔を上げて短く問うた。


「十一時半の。駅まで、母さんが送ってくれるって」

「そうか」

「うん」


 父の「そうか」は、祖父の「そうか」と全く同じトーンの低さで、座卓の上を一度横切った。蒼真は咀嚼を一度止めて、父の方を一秒だけ見た。父は新聞を畳んで、湯呑みに手を伸ばし直していた。


 二日の朝、祖父の弓道場の射場で四十射を引いた。新年の最初の射として、祖父の見ている前で素引きから始め、通常射を中心に、最後に魔力集中射『弐』を一射だけ放った。祖父は何も言わなかった。「そうか」も、「変わったな」も、「いい一射だ」も、二日の射場では出なかった。


 ただ、射場を出る時に祖父が「そうか」と一度だけ低く呟いて、それから、母屋の方へ先に戻っていった。

 あれが、二日の朝の祖父の評価だった、と蒼真は今、味噌汁の椀の湯気の向こうで、もう一度反芻していた。


 朝食のあいだ、四人の会話は少なかった。


 母が短く三度ほど言葉を挟んだ。「向こうに着いたら、電話しなさいね」「コートの内ポケットに、お弁当のおにぎり、二つ入れたから」「向こう、寒いんでしょ。風邪、引かないで」。父は「うん」と一度頷いた。祖父は黙ったまま、漬物をゆっくり噛んでいた。蒼真は「ありがとう」「うん」「うん」と母の言葉に短く応じて、それから、また味噌汁を啜った。


 食事が終わって、蒼真は自分の食器を台所まで運んだ。


「自分のは、自分でやる」と幼い頃に祖父に教わった神代家の習慣で、立川のマンションでも続けてきた癖が、地元でも自然に身体を動かす。母に「洗うのはお母さんがやるから、置いておいて」と言われて、流しの脇の籠にだけ茶碗と椀を伏せて置いた。


 自室に戻って、最後の荷物の確認。


 メンテナンスノートを最後にもう一度開いて、大晦日の夜に書いた『家族のためにも、強くなる』の文字を、しばらく見つめた。それから、ノートを閉じてボストンバッグの内側のポケットに丁寧に滑り込ませる。


 巾着袋の中の六本のナイフは、新しい触媒を結び付けた状態で整然と並んでいた。左手側の親指から小指までの五本分の爪の片と、頭の後ろから一房だけ切った髪だ。立川の演武場の床の上で、二月中旬の対人戦の最中に、この爪の片と、この髪が、火を散らすかもしれない。蒼真は巾着袋の口を一度きつく結び直して、矢筒の隣に並べた。


 障子の向こう側で、母の「蒼真ーっ、時間、そろそろよーっ」と声がした。


 時計を見ると、十時半。実家から駅まで、車で二十分。母が車を出してくれる。

 蒼真はボストンバッグを肩に掛け、和弓の入ったケースを手に、自室を出た。


 居間の座卓の前に、父と祖父が、新聞を広げ直したままの父と、湯呑みを両手で包んだ祖父の、二人並んだ姿があった。


「行ってきます」


 蒼真は座卓の前で、まず父の方を見た。


 父は新聞から顔を上げて、蒼真の方を一秒だけ見た。それから「うん」とだけ頷いた。立ち上がりはしなかった。「気をつけてな」も「向こうで、しっかりやれ」も言わない。ただ、新聞の上に置いていた手を、湯呑みの方へ移し直しながら、もう一度「うん」と低く頷いた。


 縁側で「無理はするな」「だが、やめろとは言わん」と言った父の言葉が、今朝の「うん」二度の中に、まだ、確かに残っていた。


「爺ちゃん」


 次に、祖父の方を見た。

 祖父は湯呑みのお茶を一口啜ってから、顔を上げた。蒼真と目が合ってから、祖父は、座布団の上で背筋を一度だけ伸ばし、それから――


「行ってこい」


 低く、短く、はっきりとした声だった。


「うん」


 蒼真の声が、自分でも少し詰まった。


 祖父は、それ以上は何も言わなかった。湯呑みを座卓の上にゆっくり置き、再び新聞の方へ目を戻した。いや、新聞を見ている振りをしているのだと、蒼真には分かった。祖父はもう、新聞の文字を追ってはいなかった。湯呑みの茶の蒸気が、祖父の眼鏡の下縁を曇らせていた。

 蒼真は、それ以上は何も言わずに、頷いて、玄関の方へ向かった。


 玄関で母が、車の鍵を握って待っていた。


「爺ちゃんと父さんに、行ってきますって言った?」

「うん。爺ちゃんが『行ってこい』って」

「あら」

「『そうか』じゃなくて、『行ってこい』」

「珍しいわねぇ」

「うん。……うん」


 母の眉が一瞬だけ動いた。

 それから、母は何も言わず、玄関の引き戸を開けて先に外へ出た。


 玄関先の三和土の脇に、結局、雪は今朝も少し残っていた。母が三日の朝に箒で掃き集めた跡があり、その横に、まだ箒が立てかけられたままになっていた。


 蒼真は革靴を履いて、コートの内ポケットの上から、母が入れたおにぎり二つの形を、上から撫でた。


 駅までの道は、雪解けの水で湿った田圃の畔を抜けていく。右手には低い山の稜線が流れていた。母は車の中ではほとんど喋らなかった。蒼真も、特に話すことはなかった。ラジオの天気予報が「東京は今日、晴れ。最低気温二度」と告げて、母が「あら、立川は、雪、降ってないのね」と言い、蒼真が「うん。立川は、こっちより少ない」と返した。会話はその一往復だけだった。


 駅の前の小さなロータリーに車を停めて、母は車から降りなかった。


「電話、忘れないでね」

「うん」

「おにぎり、お腹空いたら食べなさいね」

「うん」

「じゃあ、行ってらっしゃい」

「行ってきます」


 蒼真はボストンバッグを肩に掛け、弓のソフトケースを手に、母の車から離れた。後ろを一度だけ振り返ると、母は運転席の窓越しに、片手を一度だけ小さく挙げて、それから、車を発進させて、ロータリーを出ていった。


 蒼真は駅舎の方へ歩き出した。

 乗ったのは、十一時三十二分発の新幹線だった。


   ◇


 窓際の席に座って、ボストンバッグを足元に置いて、和弓の入った長いケースは座席の頭上の網棚に置き、矢筒は腰の脇に立てかけた。窓の外では、雪を残したホームと地元の駅前の風景がゆっくり流れ始めた。それから加速していく。


 蒼真は窓の外をしばらく眺めて、それから、コートの内ポケットから手帳を取り出した。


 立川に戻ってからの予定を、頭の中だけでなく、紙の上に整理しておきたかった。新幹線が東京駅に着くまでに約二時間ある。


 手帳の新しいページを開いて、ボールペンで一行ずつ書き出していく。


 今日(一月三日)――立川到着。買い出し、夕食。装備の最終確認。明日(四日)からの訓練再開に備える。

 四日(金)――午前、訓練場で素引きと通常射の感覚戻し。午後、第5班との合流確認メッセージ。

 五日(土)――六人で訓練場集合の予定(仮)。冬休み明けの最初の連携訓練。

 来週(一月第二週)――対人戦の正式実施要項が掲示される予定。後藤先生のホームルームで詳細が伝えられるはず。

 二月中旬――対人戦本戦。


 ボールペンを止めて、手帳の上の自分の字を、しばらく眺めた。


 年末から年明けにかけての約一週間、地元の実家で過ごしている間にも、立川では時間が等しく流れていた。悠斗・航は寮で年末年始を過ごしていたはずで、紅葉・里奈・真帆も、それぞれ自分の実家で同じように家族と過ごしていたはずだ。新学期が始まるのは一月七日の月曜。その前に、五日の土曜に六人で訓練場に集合できるなら、対人戦に向けた助走を班全体で再起動させたい。


 手帳の右端に、もう一行だけ書き加えた。


『二月。六人で勝つ』


 書いてから、自分でその一行を、しばらく見つめた。


 大晦日の夜、自室のメンテナンスノートに書いた『家族のためにも、強くなる』の文字。新幹線の中の手帳に書いた『二月。六人で勝つ』の文字。その二つは、蒼真の中で別々の方向に伸びる二本の線のようだった。けれどその二本が同じ場所から伸びているのだと、気づくのに時間はかからなかった。


 九ヶ月前の入学式の日。立川ダンジョンを中心に再構築された街並みをモノレールの車窓から初めて見た時、蒼真は「すげえな」と声を出した。あの日からの九ヶ月で、立川という街は、蒼真にとって「すげえな」の場所から、「自分が戦う場所」になった。地元は、立川での九ヶ月の蒼真を四年分の連続性として支えていた。地元と立川は、別々の場所ではなく、一本の線で繋がっていた。


 手帳を閉じて、コートのポケットに戻した。


 窓の外、新幹線が長いトンネルに入って、車内灯の光だけが、車窓の鏡のような暗さに反射した。蒼真は鏡の中の自分の顔を、一瞬だけ見て、それから、目を閉じた。


 昨夜、母が炊いてくれた米で握ったおにぎりを、トンネルを抜けたところで、ゆっくり食べた。具は梅干しと、鮭。海苔は、東京で食べる頃に少しだけしんなりしているくらいが、蒼真は昔から好きだった。


   ◇


 東京駅で中央線に乗り換えて、立川駅に着いたのが、午後一時五十分過ぎ。


 立川駅から錦町のマンションまでは歩く。ボストンバッグに和弓入りのソフトケースと矢筒の三点を抱えての徒歩は、距離としては少しある。それでも、立川の冬の空気をもう一度この身体に取り込んでおきたい気持ちが、楽な方を選ぶ気持ちに僅かに勝った。


 立川駅の南口を出て、錦町方面へ歩き出す。


 地元と違い、立川の道路には雪は積もっていなかった。空も晴れていた。風は冷たいが、冬の日差しが弱く道路の縁石を温めている。地元では得られない種類の冬の景色がそこにあった。


 蒼真はコートの襟元を一度立て直して、ボストンバッグを肩に掛け直した。


 錦町のマンションに到着したのは、午後二時半前。

 部屋の鍵を回して、玄関の扉を開けた瞬間、蒼真は一度、立ち止まった。


 部屋の中の空気は、地元の実家の母屋とは全く違う種類の冷えだった。地元の冷気は雪と土と木と藁の匂いを含んでいた。立川のマンションの冷気は、コンクリートとカーテンと埃の匂いがする無人の冷気だった。


「ただいま」


 誰もいない部屋に向かって、声を出した。

 返事は、当然、ない。


 地元では、「ただいま」と言えば必ず母の「お帰り」が返ってきた。立川では、誰も返事をしない。それが、蒼真の生活の、九ヶ月続いてきた現実だった。


 蒼真は靴を脱いで、ボストンバッグを玄関先に置いて、弓と矢筒を奥の和室に運ぶ。和室の隅にある定位置の弓立ての前で、布袋から和弓を取り出してゆっくり立てかけた。矢筒もその隣に立てる。巾着袋から取り出したナイフケースは、机の引き出しの一番奥に丁寧にしまった。


 それから、リビングに戻って、エアコンのリモコンを取って、暖房を二十二度で入れた。


 冷蔵庫を開ける。

 予想通り、年末に立川を発つ前に、ほとんどの食材を使い切ってきていたので、冷蔵庫の中は、調味料と、賞味期限の切れていない卵が一パックと、牛乳が一本だけ。


 買い出しに行かないと、夕飯がない。

 蒼真はコートを脱がないまま、財布とエコバッグだけ持って、もう一度マンションを出た。


   ◇


 マンションからサンサンロードまでは、徒歩で十五分ほど。立川駅の北側に出れば、サンサンロードの入口がある。


 時刻は午後三時を少し過ぎたくらいで、街並みは正月明けの三日らしい、まだ営業を再開していない店と、再開しているけれど客が少ない店と、再開していて普段以上に賑わっている店の、三種類が混在する不思議な空気で満ちていた。


 蒼真は錦町の住宅街を抜けて、立川駅の方角へ歩いていた。


 途中、いつもの通学路の角を曲がった時、道の向こう側、二十メートルほど先に、見覚えのある後ろ姿が一つあった。

 淡い色のコートを羽織った長身の女子の後ろ姿。

 金髪をハーフアップにまとめている。その金色が、立川の冬の弱い日差しを受けて反射していた。


 蒼真は一瞬、足の運びを止めかけて、それから、また歩き出した。


 錦町のこの一画は、蒼真と凛が、互いに近所に住んでいると判明した、夏の終わり以来、何度か偶然遭遇してきた場所だった。蒼真の住むマンションと、凛の住むマンションは、徒歩で五分ほどの距離にある別棟で、買い物の動線が、特に立川駅方面に向かう時には、しばしば重なる。


 二十メートル先の凛が、蒼真の足音に気づいたのか、後ろを一度、軽く振り返った。

 目が合った。

 凛は一瞬だけ、何かを言いかけて、それから、口を閉じて、ゆっくり身体を蒼真の方へ向け直した。


 蒼真は歩く速度を緩めずに、凛の隣に並ぶ位置まで近づいて、それから、足を止めた。


「お疲れ」

「お疲れ」


 短い挨拶。


 凛のコートは、夏休み終わりに錦町で初めてまともに会話した時のコートとは違う、もう少し厚手の冬用のものだった。マフラーも首元に巻かれている。


「年末、どうしてた?」


 凛が、少し早めの声で、短く問うてきた。


「実家。爺ちゃんの道場で射ってた」

「……ふうん」


 凛の「ふうん」は、夏の終わりの錦町の時、新学期の通学路の時、それから秋に何度か通学路ですれ違った時と、回数を重ねるごとに響きが変わって聞こえるようになっていた。今の「ふうん」は、嫌悪でも、無関心でもなく、「そう」とほぼ同じ意味の、短い同意のような響きだった。


「天城は?」

「私?」

「うん」

「私は、ずっと立川。実家、品川だけど、年末年始は、こっちで」

「そうなんだ」

「うん」


 凛が立川に残っていた事実を、蒼真は今、初めて知った。


 凛は二人で立川駅方面へ並んで歩き出した蒼真の足の運びに、自然に歩く速度を合わせていた。歩道の幅は、二人で並んで歩くのにちょうどよく、寄り添うほどではなく、一メートルほどの距離を保ったまま、二人の靴音が、立川の冬の歩道のコンクリートの上に、少しずれた拍子で重なっていた。


「お爺ちゃんの道場って、実家にあるの?」

「うん。長野の田舎の方」

「弓道場?」

「うん。射距離二十八メートルの標準的なやつ」

「ふうん」


 凛の「ふうん」が、二度目になった。

 今度の「ふうん」は、最初のものよりも少し関心が乗っていた。


「もしかして爺ちゃんっ子?」

「……まあ、うん」

「弓も、お爺ちゃんに教わったんだ?」

「十二歳の頃から」

「そう」


 凛は前を向いたままで、蒼真の方を見ようとはしなかった。蒼真も、横を見ようとはしなかった。二人の視線は、立川の冬の歩道の、十メートルほど先の、誰かの背中の方へ向いたまま、それぞれ平行に伸びていた。


 二十秒ほど、沈黙が続いた。


 歩道の脇のカフェの店先では、観葉植物の鉢が、葉先を冬の風で揺らしていた。蒼真と凛の靴音が、その揺れの音と少しだけ混ざった。


 夏の終わりの錦町の初会話の時、凛は「弓術士で六位って、普通はあり得ない」「努力はしてるんだなって思った」「もっと上に行くつもりだよ」「……ふうん」のやり取りで、四往復ほどで会話を切った。新学期の九月の通学路では、「夏休みの矢の本数は」「一万二千」「バカみたいな量ね」「ふうん」のやり取りで、これも、短かった。


 今、立川の冬の歩道の上で、もう五往復目の会話が、まだ続いている。

 会話の長さの増分は、夏の終わりから新学期、そして今へと、少しずつ、確実に、長くなっていた。


「対人戦」


 凛が、何気ない声で、そう口にした。


「うん」

「もうすぐだね」

「うん。あと一月ちょっとか」

「……」


 凛は、続きの言葉を、少し探しているように見えた。

 蒼真は凛が次の言葉を選んでいるのを、横目では見ずに、ただ、自分の歩く速度を保ったまま、待っていた。


「観戦に行くの?」と聞こうかと思って、やめた。蒼真には、凛が観客席に来る・来ないを、自分の側から問う権利はないと思えた。


「……」


 凛が、ようやく、言葉を選び終わったように見えた。小さく息を吸って、唇を開く。

 でも、その前に、蒼真の方が、先に口を開いてしまった。


「うん。やってやる」


 凛が何か言おうとした、その瞬間に、蒼真の声が、自分でも止められないほどの素直さで、出てしまった。


 声が出た瞬間、蒼真は自分の歩道の上の足の運びを一度だけ崩しかけて、それから、立て直した。失敗した、と自分の中で短く思った。凛が何かを言いかけていたのに、蒼真の方が先に答えてしまった。


 凛は、蒼真の「やってやる」を聞いて、二秒ほど黙ってから、ゆっくり、息を一度だけ吐いた。

 その息は、笑った時のそれに近かった。怒っているわけでも、呆れているわけでもない、僅かな、ごく僅かな、笑いの息だった。


「……そう」


 凛は短く言った。

 それから、凛は、また歩く速度を上げて、蒼真の半歩前に出た。

 二人の歩く速度の差は、ごくわずかで、すぐに縮まりそうな差だったが、凛はそれを縮めさせない速度で、蒼真の半歩前を、確かに、保っていた。


 立川駅の北口の交差点が、もう、二十メートルほど先に見えていた。


「神代」


 凛が、半歩前から、振り向きもせずに、蒼真の苗字を呼んだ。

 名前で呼ばれた時の声の質感が、夏の終わりの「神代」、新学期の「神代」、秋の何度かの「神代」よりも、わずかに低かった。


「はい」


 蒼真は反射的に、敬語に近い返事をしてしまった。

 凛は振り向かなかった。

 凛は蒼真の半歩前で、コートの肩をわずかに動かした。振り向かないまま、低く短く言う。


「……頑張って」


 立川の冬の風が、その短い一言を、蒼真の耳の左側から、右側へ、ゆっくり通り抜けた。

 蒼真は、足を、一瞬、止めた。


 歩道のコンクリートの上で、蒼真の靴底が、止まる音を、自分の耳で確かに聞いた。半歩前を歩いていた凛は、止まらなかった。蒼真が止まったことに気づいたのか、気づかなかったのか、凛は振り向かないまま、そのまま、立川駅の北口の交差点の方へ、歩き続けた。


 凛のコートの裾が、立川の冬の風に揺れた。金髪のハーフアップが、立川の冬の弱い日差しの中で、もう一度反射した。


 蒼真は、凛の背中が交差点の方へ遠ざかっていくのを、二秒ほど、見ていた。


 それから――


 蒼真は、凛を追わなかった。


 凛が振り向かないまま立ち去ったのは、凛の選択だった。蒼真がその選択を尊重するのが、夏休みの錦町の初会話以来、二人の間に積み上がってきた、見えない距離感のルールだった。


 追って肩を叩いて「天城、ありがとう」と言う選択肢も、確かにあった。

 でも、蒼真は、それをしなかった。


 蒼真は止めていた足を動かした。凛とは別の方向、錦町通学路からサンサンロードへ向かういつもの角へ歩き出す。


 歩道のコンクリートの上の、自分の靴音が、また、いつもの拍子で鳴り始めた。

 胸の中で、何かが確かに温かかった。


 大晦日の夜の縁側で、父・恒一が「無理はするな」「だが、やめろとは言わん」と言ったあの時の温かさと、似ている種類の温かさだった。けれど、同じではなかった。父の温かさは、家族の温かさで、凛の「頑張って」は、家族ではない誰かが、蒼真に向けて、自分の意志で、選んで放った言葉だった。


 その違いの中に、今までとは違う支えがあった。

 蒼真は、その温かさを、いつものように分析しようとして、それから、やめた。

 今は、ただその一言を受け取るだけで十分だった。


   ◇


 サンサンロードの入口の角を曲がって、いつものスーパーの自動ドアをくぐったのは、午後三時半過ぎ。


 正月明け三日のスーパーは、品揃えがいつもと少し違っていた。お節の残りが半額シールで並んでいる。青果コーナーには年末年始用に多めに仕入れたであろう野菜が、少しくたびれた顔をしてまだ並んでいた。


 蒼真はエコバッグを広げ、買うべき物を頭の中で組み立てた。今夜の夕飯。明日の朝食。明日と明後日の昼用と夜用の食材。いつもの高タンパク食材として、鶏胸肉、卵、ブロッコリー、納豆。それから米。


 カゴに食材を入れていく途中、ふと、エコバッグの中身が見えるカゴの底に、自分の手の動きが普段より軽いことに気づいた。


 地元から立川に戻ってきた直後の蒼真は、九ヶ月前の入学直後の蒼真とは、違っていた。


 九ヶ月前は、地方の実家から立川に出てきたばかりで、初めての一人暮らしの食材選びに迷い、価格と栄養のバランスを取るのに毎回時間がかかっていた。今は、自分の身体に合う食材と分量と価格を、もうほとんど考えずに選べる。


「立川での九ヶ月で、こんなところに、地味な変化が積もっていたのか」


 蒼真はカゴの底に視線を落としたまま、心の中で短く呟いた。


 地元での触媒再仕込み。祖父の弓道場での射。父との縁側。結衣の「結衣、まもってね!」。母の「無理は、しなくていいからね」。祖父の「行ってこい」。大晦日の夜の自室のノートに書いた一行。その動機の一番奥に、家族の言葉と並んで、立川での九ヶ月の生活の地味な積み重ねも収まっていた。


 レジで会計を済ませて、エコバッグを肩にかけた。

 帰り道、立川の街を南下しながら、蒼真は、もう、凛のことは考えていなかった。


 凛の「頑張って」は、蒼真の中にそっと収めておけばよかった。それを今、引っ張り出して、何度も眺める必要は、ない。


 二月中旬まで、まだ、一ヶ月半近くある。

 その期間で、対人戦のためにやることは、たくさんあった。


   ◇


 錦町のマンションに戻って、買い物袋を冷蔵庫に収め終わったのは午後四時過ぎ。

 部屋の中の暖房が、ようやく地元の母屋の朝の食卓に近いところまで空気を温めていた。


 蒼真は和室の机の前に座り、メンテナンスノートと新幹線の中で書いた手帳を机の上に並べた。


 メンテナンスノートには、大晦日の夜に書いた『家族のためにも、強くなる』の文字。手帳には、新幹線の中で書いた『二月中旬。六人で勝つ』の文字。

 二つの文字を並べて、しばらく見つめた。

 それから、ノートの新しいページを開いて、ボールペンで、もう一行だけ、書き加えた。


『一月三日。立川に、戻った』


 短い一行。

 書き終えてから、蒼真は窓の外を見た。


 錦町のマンションの六階の窓からは、立川の街並みの一部が横に広く見えた。立川駅の方角の高い建物の輪郭。その向こうのモノレールの高架。さらにその先にある、ダンジョンと探索者協会の方角の空。


 地元の母屋の窓から見える低い山の稜線とは、全く違う種類の景色だった。

 蒼真は窓のすぐ前まで歩いていき、ガラス越しにその景色をしばらく眺めた。

 立川の冬の午後の空は、雲は少なく、夕方に近づく淡い青と橙の混ざった色合いに、ゆっくり染まり始めていた。


 九ヶ月前、初めてこの部屋の窓からこの景色を見た時、蒼真は「すげえな」と声を出した。あの「すげえな」は、地方から出てきたばかりの蒼真の、初めて見る大都市への素朴な驚嘆だった。


 今、同じ景色を、九ヶ月後の蒼真は、もう「すげえな」とは思わない。


 代わりに、思うのは。


「ここは、俺の戦う場所だ」


 地元と立川は、別々の場所ではなかった。一本の線で繋がっていた。地元の弓道場で十二歳の頃から積み上げてきた数千本の矢が、二月中旬の立川の演武場でもう一度火を散らす。地元の縁側で結び付けた爪の片と髪が、立川の対人戦の最中に《小転移》の触媒として消費される。地元の家族の言葉が、立川での九ヶ月の班員との絆と並んで、蒼真の動機の一番奥にある。


 窓ガラスに、自分の顔が反射していた。

 その反射の向こうに、立川の冬の夕方の空が、ゆっくり、橙色の濃さを増していった。


 蒼真は、机の前に戻って、ノートを閉じた。

 明日からは、また、訓練の日々が始まる。立川での後半戦。対人戦本戦までの一ヶ月半。

 来月。

 六人で勝つ。


 窓の外で、立川の冬の三日の夕陽が、ゆっくり、街並みの向こうへ沈み始めていた。

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