第93話 雪の夜
大晦日の夕方から、空の色はゆっくりと暗い灰色に沈んでいった。
居間の方で紅白歌合戦のオーケストラがかすかに聞こえている。母が台所と居間を行き来する足音。湯呑みを洗う水の音。年越し蕎麦の出汁を取る鰹節の匂い。祖父はすでに自室へ引き上げ、寝床の準備に入っているらしい。畳を踏むゆっくりとした足音が襖の向こうで一往復して、家の北側の祖父の部屋へ消えていった。
蒼真は自室に戻って、机の引き出しを開けた。
立川から持ってきた稽古着の下に、布で包んでしまっておいたもの。ナイフケースが入った布の袋。ナイフ本体と、触媒として括り付けてある爪の片と髪。立川を発つ前に最後に仕込んだ状態のまま、十二月最終週の地方の冷気の中で、おとなしく眠っていた六本のナイフ。
蒼真は袋を抜き出して、机の上に並べた。
《小転移》の触媒の再仕込み。立川では訓練場の隣の整備室か、自室の机で行う作業だが、地元の実家でやるのは半年ぶりだ。夏の上京の前、最後にこの机で爪を切ってナイフの柄の溝に括り付けた日以来になる。
窓の外を見た。
いつの間にか、雪が降り始めていた。
まだ地面に積もるかどうかも怪しい程度の細かい雪が、外灯の光の中をゆっくり降りていく。立川では雪が降っても積もる前に水に変わる日が多いが地元の十二月の最終週なら、明日の朝には屋根の縁が真っ白になっているかもしれない、という冷気だ。
蒼真は机の上のナイフを六本そのまま手のひらで集めて自分の爪切りと小さな鋏と、太めの裁縫糸の入った巾着袋を一緒に持って、廊下を抜けた。
縁側の方が、作業に向いている。
立川のマンションには縁側はない。地方の実家の母屋には居間の南側の障子を開けた先に、外と仕切られていない木の縁側が、家を端から端まで横に走っている。庭に直接降りられる構造で、夏は障子を全開にして風を通し、冬は障子を閉めて使わない場所だ。
今夜は、その障子を半分だけ開けて、縁側の板の上に座る。
障子の閉まった分の半分は、居間の側の暖かい空気が漏れない仕切りになっている。蒼真の側、開いた分の半分の縁側は外の雪の冷気をそのまま受ける。庭の木々の枝の上に雪が積もり始め、外灯の光に淡く照らされていた。
膝の上に布を一枚敷いて、ナイフを並べる。
爪切りと鋏、糸、ピンセット。
まず古い触媒を外す。柄の根元の細い溝に括り付けてある糸を、一本ずつピンセットで解く。半年使った爪の片と、立川で切った髪の毛束を取り外す。古い触媒は袋に入れて持ち帰り、立川で焼却する習慣になっている。自分の身体の一部だったものを、地元の家のゴミに混ぜたくない。蒼真の気持ちの問題だ。
六本分、外し終えるのに、十分ほどかかった。
次に、新しい爪の片を作る。蒼真は爪切りを開き、自分の左手の親指の爪を縁から小さく切り取る。深爪にならない位置だ。
爪のかけらを、机の上から持ってきた小さな硝子の皿に並べる。残りの四本も同じように切る。五本分の爪のかけらは左手側だけで集める。右手は弦を引く側だから、できるだけ深爪を避けたい。
神代家の弽は、親指の弦枕に当たる位置で弦の全荷重を受け止める。左手の押し手の親指なら爪の長さは関係ない。右手の引き手の親指は、弦の引っかかりに影響する。十二歳の頃、祖父にこの場所で教わった爪切りの順番だ。
指五本分の欠片をナイフ六本分に分ける。
次に髪。蒼真は鋏を取り、自分の頭の後ろから髪を一房だけ細く摘んで切り取る。実家で切った髪を、立川での《小転移》の触媒として使う。その奇妙な接続が今夜の蒼真の中で静かに成立する。十二月最終週の地元の縁側で切られた髪が、二月中旬の立川の演武場で対人戦の最中に火を散らすかもしれない。
硝子の皿の上に、爪と髪が、静かに並んだ。
糸を切って、長さを揃える。一本のナイフに対して爪を一片、髪を数本ずつ用意する。それを柄の根元の細い溝に通して、糸で固く括り付ける。立川の訓練で何度も繰り返してきた手順なので、指は迷わない。
一本目を結び終えた時、廊下の方で襖が開く音がした。
「ここだったか」
父・恒一の声だった。
「うん」
蒼真は手を止めずに、二本目の糸を結びながら答えた。父は障子の半分開いた境を跨いで、縁側に出てきた。蒼真の隣、少し離れた板の上に、何も言わずに腰を下ろす。
厚手のセーターと普段着のズボンの上に、綿入れを羽織った姿。父の手には、湯呑みが一つだけ握られている。
「お前は」
「これが終わったら、母さんに頼む」
「うん」
父は湯呑みを縁側の板の上に置いて、両手を膝の上に重ねた。それから、雪の降る庭の方を、ただ眺めた。
二本目、結び終わる。
三本目の糸を切る。蒼真は新しい爪のかけらを糸の輪の中に収めて、ナイフの柄の溝に滑り込ませる。父は何も言わない。蒼真も、手を動かしながら、何も言わなかった。
縁側の板の上に雪のかけらが一つ、二つゆっくり落ちて、一秒も持たずに溶けていく。
四本目、結び終わる。
「立川には、雪、降るのか」
父が、湯呑みのお茶を一口啜ってから、短く聞いた。
「降るらしいよ。でも、ここより少ないみたい」
「そうか」
「……ここは明日の朝には、たぶん白くなる」
「そうだな」
父子の会話は、それで一度途切れた。蒼真は五本目のナイフを手に取って、新しい触媒を結び付け始めた。
縁側の屋根の縁から雪が垂れて、庭の石灯籠の上に積もっていく。立川の高い建物の隙間から見える夜空とは、空の広さが違う。地方の十二月最終週の夜空は、家の屋根のすぐ上から町外れの低い山の稜線まで、隙間なく雪を降らせる気配で満ちている。
五本目、結び終わる。
「蒼真」
「うん」
「無理はするな」
父はそれだけ言って、湯呑みのお茶をもう一口啜った。
蒼真は六本目の糸を切る手を、止めなかった。
「だがやめろとは言わん」
昨夜の食卓と今朝の食卓で、母が二度繰り返した言葉だ。「無理はしなくていいからね」「でもやめろとも、私たちは言わない」。母の口から出たあの言葉が、今夜は父自身の言葉として発せられた。
母の「私たち」が、父のこの一言で、確かに二人の言葉になる。
蒼真は六本目の糸の結び目をきつく締めて、それから一度、手を止めた。
「うん。やめないよ」
顔を上げずに、父の方を見ずに、雪の降る庭の方を見たまま蒼真は短く答えた。
父は何も返さなかった。湯呑みのお茶を、もう一口、ゆっくり啜ってそれから「うん」と一度だけ低く頷いた。
縁側の板の上では、六本のナイフが新しい触媒を結ばれた状態で静かに並んでいた。蒼真はそれらをナイフケースに収納し、丁寧に巾着袋へ戻す。爪切りと鋏と糸の束も一緒にまとめた。古い触媒の入った袋は別にして、自室に持ち帰ってから処理する。
「飯、もうすぐだ」
父が立ち上がって、湯呑みを拾い上げた。
「うん。年越し蕎麦」
「母さんが張り切ってる」
「……だろうね」
蒼真は片手で巾着袋を掴んで、もう片手で爪切りなどの道具をまとめながら、父の後について居間の方へ戻ろうとした。その時、居間の方から、母の声がした。
「蒼真ーっ、誠二さんから電話よーっ」
蒼真は手を止めて、父の方を見た。父は綿入れの肩を一度だけ動かして、「出てこい」と短く言った。
居間の固定電話を取った。立川のマンションでは、蒼真は携帯電話しか持っていないので、固定電話の受話器を耳に当てるのは半年ぶりだった。
「もしもし」
「おう、蒼真。元気か」
叔父・誠二の声だった。電話越しでも、低く落ち着いた声の質感は変わらない。
「うん。地元に戻ってる」
「知ってる、知ってる。義姉さんから昨日聞いた。年越しは地元か。いいな」
「叔父さんは、世田谷?」
「そう。さっき紅白の前半、見終わったとこ。今智子と娘たちで蜜柑を食ってる」
受話器の向こうから、誰かが「お父さん、貸してーっ」と言っている声が聞こえた。誠二の「結衣、後だ後だ」のいなす声。それから、もう少しはっきりとした子どもの声が混じる。
「お父さーん、結衣も話したいーっ」
「順番だ、結衣。先に蒼真にいちゃんと話す」
「えーっ」
誠二が小さく笑って、受話器を耳元に戻したらしい音がした。
「なあ、蒼真。そっちの様子は」
「変わらない」
「父さんと母さんは元気か。父……爺さんは」
「みんな元気。今、年越し蕎麦の準備中」
「そうか。よかった」
誠二は短く息を吐いて、それから少しトーンを落として続けた。
「……立川は、どうだ」
「楽しい」
昨夜からもう四度目になる「立川は、どうだ」。
誠二の口から発せられた問いに、蒼真は迷わず短く答えた。家族の寡黙さの系譜は、叔父の口にも確かに継がれている。
「そうか。よかったよかった。夏に来た時より声が落ち着いてるな」
「そう?」
「うん。前は、もっと前のめりだった。今は地に足が着いてる。それでいい」
「叔父さん、いつも見過ぎ」
「兄貴の息子だからな」
誠二の温かい笑い声。それからまた「お父さんっ、結衣もーっ」の声が割り込んできて、誠二が「分かった分かった」と笑って受話器を渡したらしい音が続いた。
「もしもしっ、蒼真にいちゃん」
結衣の声だった。
半年前の夏に世田谷で会った時から、声が少しだけ大人びている。
「お、結衣ちゃん」
「あけましておめでとー、はまだ早い?」
「まだ早い。あと二時間くらい」
「でも、紅白終わって紅組が勝ったら、一緒に新年だよね」
「うん、そうだね」
受話器の向こうで結衣が一度息を吸う気配があった。
「蒼真にいちゃん、二月、試合なんでしょ」
「……うん。誰から聞いたの」
「お父さんがお母さんに話してたの聞こえた」
「ああ、そっか」
蒼真は受話器を持ち直し、居間の障子の方を見た。父はもう座卓の前に座っていて、新聞を広げ直していた。母は台所の方で年越し蕎麦の鍋を覗いている。家の中の音の中で、結衣の小さな声だけが受話器を通して蒼真の耳に届いていた。
「結衣も見にいきたい」
「ありがとう。でも、あれは学院の中の試合だから、身内は基本的には入れないんだ」
「ふーん」
「終わったら、結果はちゃんと教えるから」
「うん。あ、にいちゃん」
「何」
結衣は半年前の夏に世田谷の食卓で蒼真に「顔つきが変わった」「かっこよくなった」と言ってきた時と同じ、ストレートな子どもの声で、続けた。
「結衣、まもってね!」
四月の世田谷の叔父宅で、五歳の結衣が脚にしがみついて言った同じ言葉。半年前の夏に世田谷の食卓で、小学三年の結衣が「蒼真にいちゃん」と呼びかけながら同じ意図で言ってきた言葉。大晦日の夜、八歳になった結衣の口からもう一度、同じ短い言葉が受話器を通して蒼真の耳に届いた。
蒼真は受話器を持つ手の指先に、僅かな力を入れた。
「分かった、まもる」
短く、迷わず、即答した。
結衣の小さな笑い声が受話器の向こうから聞こえて、それから「えへへ」という照れたような短い声が続いた。
「じゃあ、お父さんに代わるね」
「うん」
誠二の声に戻った。
「――いい返事、もらったな、結衣も」
「叔父さん、聞いてた?」
「聞いてた。すまんすまん。でも、いい返事だった」
「あれ、四月から数えて、三回目」
「そうか。三回目で、ちゃんと『分かった、まもる』って言えるようになったか」
「……うん」
誠二は短く笑ってそれから「兄貴と義姉さんと父にもよろしく」と締めて電話を切る前に「立川に戻ったら、世田谷にも、また来い」と一言加えた。
「うん。試合終わったら、報告に行く」
「待ってる」
受話器を置いた。
居間の座卓の前で、新聞を畳んだ父が、蒼真の顔を一秒だけ見た。
「結衣ちゃんか」
「うん」
「元気そうだったか」
「元気だった。声が、夏よりもう少し大人びてた」
「そうか」
父はそれだけ言って、新聞を畳む手を再び動かした。台所の方から、母の「もうすぐ蕎麦できるよーっ」の声がした。
蒼真は居間を抜けて、自室に戻った。
障子を閉めた六畳の和室の机の前で、引き出しを開ける。立川から持ってきたメンテナンスノートを取り出して、机の上に置いた。先月までの記録の続きの空白のページを開く。
ボールペンを取って、何かを書こうとして一度、手が止まった。
縁側の父の言葉。受話器の結衣の声。母が朝食の食卓と昨夜の食卓で繰り返した言葉。祖父の朝の射場での「変わったな」と「いい一射だ」。
それから、半年前の世田谷の叔父の「無理すんなよ。でも、やるなら全力でやれ」。入学直後のGWに聞いた叔父の「胸を張れ」。
全部、蒼真の身体の中で、別々の方向から積み上がってきた言葉たちだ。
今夜それらが、縁側の雪と受話器を通した結衣の声を経由して、一つの方向へ向き直る。
蒼真はボールペンを持ち直して、ノートに一行だけ書いた。
『家族のためにも強くなる』
書き終えてから自分で書いた一行を、しばらく、見つめた。
立川での九ヶ月ノートに書いてきたのは、ほとんどが射の本数と命中率と魔力消費量の記録、それに対人戦の戦術メモと班員の成長記録だった。「家族」という言葉をノートに書いたのは入学から今夜まで、たぶん、初めてだ。
頂を目指す。その動機の一番奥に結衣の「まもってね」があり母の「無理はしなくていいからね」があり父の「やめろとは言わん」があり、叔父の「胸を張れ」があり、祖父の「いい一射だ」がある。
それらが全部家族のためにも、強くなる、の一行に収束する。
蒼真はノートを閉じて、机の上に静かに置いた。
ペンを脇に寄せて、椅子を引いて立ち上がる。
居間の方から、母の「年越し蕎麦、できたよーっ」の声が響いてきた。
障子を開けて廊下に出た時、家の北側の祖父の部屋の方から、襖が開く音が一度だけ聞こえた。祖父も年越し蕎麦のために、寝床を一度離れて居間の方へ向かう足音が、廊下の板間をゆっくり歩いてくる。
「爺ちゃん、起きてた?」
「うん」
「年越し蕎麦」
「うん」
廊下で短く言葉を交わして、二人で居間へ向かった。座卓の前にはすでに父が座っていて、母が台所からどんぶりを運んでくるところだった。湯気の立つ蕎麦のつゆと、刻んだ葱の匂いと、揚げたての天ぷらの香り。
四人の食卓。
昨夜のおでん、今朝の味噌汁そして、今夜の年越し蕎麦。
「いただきます」
四人の声が、また重なった。
蒼真はどんぶりを手に取り、つゆを一口啜った。地元の合わせ出汁の風味が、舌の奥から鼻の方へ抜けていく。立川の自炊の年越し蕎麦では、絶対に再現できない味だった。
窓の外で雪の勢いが少し増していた。庭の石灯籠の上、屋根の縁、玄関脇の南天の赤い実の上にも雪が薄く積もっていく。明日の朝、敷地の北の弓道場の屋根の上にも、たぶん白い雪が一センチほど積もっている。
大晦日の夜の四人の食卓は、雪の降る音は聞こえないけれど雪が降り積もる気配の中で、ゆっくり流れていった。
縁側の父との短い会話と受話器の向こうの結衣の声と自室のノートに書いた一行が蒼真の身体の中で、まだ、確かな重みを持って残っていた。




