第92話 祖父の道場
翌朝、目が覚めたのは六時半だった。
立川のマンションの自室では、窓の向こうから始発電車の走行音が遠く聞こえてくるのが目覚まし代わりになっていた。地元の実家の自室には、その音は無い。代わりに襖の向こうの廊下で、誰かが板間をゆっくり歩く音が一往復した。それで蒼真の意識が浮き上がった。
寝床の中で目を開ける。六畳の和室の天井に、淡い朝の光が東向きの障子越しに広がっていた。立川の自室の天井よりも、節の数も位置も知り尽くした天井。蒼真は布団の中で一度大きく伸びをして、両手の指を軽く握って開いた。指先が冷えている。立川の冷えとは違う、家全体の隙間から滲み入ってくる外気の冷えだ。
昨夜の自室での独り稽古の時に感じた「空気の質が違う」感覚が、朝の冷気の中で改めて身体に広がってくる。
蒼真は布団から起き上がり、襖を細く開けて廊下に出た。家の中はまだ暗かった。台所の方から微かに人の動く気配がする。母が朝食の支度を始めているのだろう。古武術道場の方の戸が開く音は聞こえない。耳を澄ましても同じだった。祖父はまだ自室にいるか、すでに弓道場の方へ回ったか、そのどちらかだ。
洗面所で顔を洗い、戻ってから稽古着に着替えた。立川から持ってきた最低限の装備一式。和弓。矢の筒に揃えた十二本の矢。弽。冬の薄手の手袋。肌着と稽古着の上下。それを揃えて、矢の筒と和弓のソフトケースを抱えて居間の前を通りかかった時、台所から母の声がした。
「あら、もう起きたの。寒かったでしょ。朝ごはん、できたら呼ぶから」
「うん。爺ちゃんに先に挨拶してくる」
「ご飯のあとでも」
「先に行ってくる」
「ふうん。そう」
母は何かを言いかけたが、台所の蛇口を捻る音に紛れて、続きは聞こえなかった。蒼真は玄関で下駄に足を入れて、引き戸を開けた。
外に出た瞬間、頬の皮膚が一気に張る。十二月最終週の地方の朝の冷気。昨日の昼間より、明らかに濃い。息を吐くと、白い塊が口の前にふわりと広がった。
玄関の右手、母屋の北側に回り込む形で、古武術の道場の建物が建っている。石灯籠と細い砂利の道。蒼真は道場の脇を、新しい砂利を踏まないようにそっと歩いて抜けて、その奥の弓道場の方へ向かう砂利の小道に入った。二十歩ほどの距離。途中で母屋の屋根の縁から朝の淡い陽が差し込んでいた。砂利の表面では霜の結晶が光って見える。
弓道場の射場に近づくと、屋根の下からすでに祖父の気配がした。
蒼真が小道の終点まで歩く前に、祖父が射場の中の床板を、雑巾で拭いている後ろ姿が見えた。
紺の作務衣の上に綿入れ。
袖を一段だけ捲って、白くなった髪を後ろでまとめた頭が、床板を一定のリズムで動いている。
「爺ちゃん」
「お、来たか」
祖父は一度だけ振り返って、それから手を止めずに残りの一畳分を拭ききった。それから雑巾をバケツの縁に絞り直して、立ち上がる。
「先に座ってろ」
「うん」
蒼真は射場の右隅にある木の椅子の前に和弓のソフトケースと矢筒を置いて、椅子には座らずに、屋根の下から的場の方を眺めた。
二十八メートル先の的場に、的が一つだけ立てかけてある。
地元の弓道場の標準的な距離。
射場の床は祖父が今しがた拭き終えたばかりで、水気が残っている部分だけ色が一段濃い。
射場の左右の壁面、奥の壁、そして射場と矢取道の境のあたり。
道場全体の空気は、家の中とは違う種類の冷えで満ちている。
屋外と屋内の中間のような、屋根はあるが両側面が開いた建物特有の空気。
道場の奥には、射場の背後側に壁がある。そこには長年にわたって祖父が手入れしてきた弓が何張りか立てかけてあった。蒼真の子ども用だった一張り、祖父自身が現役の頃に使っていた中庸の張力の一張り。そして、その隣の、藤蔓を細かく巻きつけた重そうな弓。
子どもの頃から見慣れた光景だ。蒼真にとっては「祖父の道場の壁の一部」として景色に溶け込んでいる弓たちで、特別に意識を向けたことはない。
「冷えるか」
祖父がバケツを脇に寄せて、射場の中央の方へ歩いてきた。
「立川より、冷える」
「だろうな」
祖父はそれだけ言って、自分の椅子に腰を下ろした。射場の左隅の、蒼真の椅子と斜めに向かい合う位置の木の椅子だ。祖父はそこに座って、何も言わずに、蒼真がこれから準備するのを待つ姿勢に入った。
蒼真は椅子の前に正座して、ソフトケースから和弓を取り出した。続いて矢の筒の蓋を開けて、矢を六本だけ抜いて、椅子の隣の床板の上に並べる。
弽を着ける。
冬の薄手の手袋を両手の甲側にも乗せる。
立川の屋内訓練場で先週から続けている冬季装備の手順だ。
「夏は素手、冬は手の甲側にだけ薄手の手袋。
弽は年中装着」。
四年前、十二歳の蒼真がこの射場の床に立った時、祖父が最初に教えた季節の使い分け。
あれから四年経って、蒼真は同じ手順を、立川の屋内訓練場で毎日繰り返している。
弽の革は十二歳の頃から使い続けているため、手の形に馴染んだままだ。
親指の腹側へ回り込んでいる革は、何度も汗を吸って黒ずんでいる。
神代家伝来の独自仕様。
親指の付け根の弦枕に当たる位置にだけ革を当てる、指を覆わない型。
五本の指はすべて自由に動く。
立川で何百回、何千回と引いた弦の重さを、この弽の革の同じ場所がずっと受け止め続けてきた。
準備を終えて、蒼真は和弓を持ったまま立ち上がり、射場の中央へ進み出た。祖父は椅子に座ったまま、何も言わない。
まず、素引き。
矢を番えずに、ただ弦だけを引く動作を繰り返す。
十二歳の頃に祖父にこの射場の床で最初に教わった、すべての射の入り口の動作だ。
両足を肩幅に開く。
弓を構え、押し手を伸ばして引き手を引く。
引き分けの形を作って、止めて、戻す。
一度目の素引きで、蒼真は立川との空気の差を改めて身体で感じた。
昨夜の自室で和弓を握った時と同じ感覚だ。
立川の屋内訓練場の閉じた空気と、地元の実家の屋根の下の射場の空気は、別物。
射場は屋外と屋内の中間で、両側面が開いている分、外気の冷えがそのまま肺に入ってくる。
その冷気が押し手の親指の付け根に届く時、立川では出ない種類の張りが生まれる。
二度目の素引きで、その張りはだいぶ縮まった。
三度目で、ほぼ立川と同じ感覚に戻る。
蒼真の身体が、九ヶ月空けたこの射場の空気に、少しずつ馴染み直していく。
祖父は何も言わない。
椅子に座って、蒼真の素引きを、ただ見ている。
十回目の素引きを終えたところで、蒼真は弓を下ろした。
矢を一本、床板から取り上げる。
番える。
最初の一射は、魔力を込めない通常射。
四年前、十二歳の蒼真が祖父に「まずはこれを射てみろ」と言われて初めて自分の弓で放った、二十八メートル先の的への通常射。
あの日と同じ距離、同じ的、同じ立ち位置。
違うのは蒼真の引く弓の張力だ。
押し手の安定も、引き手の指先に蓄積された九ヶ月分の射の重みも違っている。
息を吸って、止める。
弦が放たれた。
矢は二十八メートルを駆けて、的の中心からほんの数センチ外れた位置に突き刺さった。
「……」
祖父は何も言わない。蒼真の顔を見ようともしない。視線は的場の矢が刺さった位置に向いている。そのまま矢を抜く蒼真を見守る、昔ながらの祖父の姿勢に戻っただけだった。少年というには、もう蒼真は十六だ。
蒼真は深く息を吐いて、二射目を番えた。
二射目、的中。
三射目、的の右下隅。
四射目、的中。
五射目、的の上端を僅かに掠って外れた。
六射目、的中。
六本を引き終えたところで、蒼真は弓を下ろし、矢取道に出て的場まで歩いた。
矢を抜いて、外れた一本も拾って、射場まで戻ってくる。
冷たい朝の空気の中で、矢を抜く時の指先の感覚が、立川とはまた違う。
矢を矢の筒に戻して、新しい六本を取り出す。
今度は通常射ではなく、魔力集中射『弐』だ。立川で書き加えたメンテナンスノートの最後の一行を、蒼真は射場の床の上で改めて自分に確認する。
『冬休み、爺ちゃんの道場で、四十射の上限を体に戻す。『参』は触らない。『弐』だけ』
今日は『弐』だけ。四十射まで。
番える。
矢の鏃のあたりに、立川の訓練場で何百射と慣らしてきた魔力が淡く集まる。蒼い光の輪郭。立川の屋内訓練場の蛍光灯の下では、蒼い軌跡は白い壁に対してくっきりと映える。この弓道場の屋根の下では、朝の自然光がまだ淡い。蒼い軌跡は沈んだ青色になり、空気の中に溶けるように尾を引いた。
二十八メートルを蒼い線が駆けた。
矢は的の中心から二センチ以内の位置に突き刺さった。
祖父は、何も言わない。
二射目、的の中心。
三射目、的の中心の上、一センチ。
四射目、的の中心。
五射目、的の中心。
六射目、的の右へ三センチ。
また矢取り。
次の六本。
蒼真は『弐』を続ける。
集中する魔力の濃度を立川の訓練場と同じに保ちながら、両手の甲側の手袋の中で手の冷えと戦いながら、押し手の指先の冷えが感覚を鈍らせる前に弦を放つ。
射場の屋根の下の冷気は、引いている間にも指先まで届く。
立川の屋内訓練場では、この冷えは無い。
冷えていても、空気は閉じている。
ここでは、外気が直接、押し手の親指の付け根まで降りてくる。
その差を、身体で受け止めながら、引く。
十二射目。
十八射目。
二十四射目。
三十射目。
矢取りの度に的場まで歩いて、自分の手で矢を抜いて、戻ってくる。一射ごとに、押し手の親指の付け根の張りは消えて、引き手の指先の冷えへの抵抗感も薄れていく。
三十六射目。
その射の少し前のことだった。
蒼真の集中の輪郭の外側、ぎりぎりの縁のあたりで、祖父の声が小さく聞こえた。
「……重い弓も、引けるようになるか」
独り言のような低い呟きだった。短く、蒼真に向けられた言葉ではない。
蒼真は弦を引いている最中で、その声は耳に入った。
だが、意識はその声を解析する余裕を持たなかった。
集中している時の蒼真の体は、外部の情報処理を最低限まで絞る癖がある。
立川の訓練場で何百射、何千射と矢を引いてきた中で、自然と身についた癖だ。
耳に入った祖父の独り言は、意味を結ばないまま、蒼い軌跡の脇を流れていった。
矢が二十八メートルを駆けて、的の中心の少し下に突き刺さった。
蒼真は弦を戻して、息を吐いた。一射ごとの呼吸。次の矢を番える。
その時、祖父の視線が一瞬だけ射場の背後の壁へ流れた。
視界の端で起きたその動きを、蒼真は見ない。
蒼真の意識は二十八メートル先の的の中心に固定されている。
祖父の視線の先には、射場の背後の壁に立てかけられた弓がある。
そのうち藤蔓を細かく巻きつけた一張りの方を、蒼真は知らない。
祖父の視線は一秒も無く元に戻り、そのまま蒼真の射の動作の方へ戻った。
次の射が放たれる。的の中心。
次の射。的中。
次の射。中心から五ミリ以内。
四十射目、的の中心。
蒼真は弓を下ろして、矢取りに出た。
最後の四十射目分の六本を抜いて、矢の筒に戻す。
立川で書き加えたノートの「四十射の上限を体に戻す」が、今朝の射場で達成された。
射場の床の上で、蒼真は両手の手袋を外した。
弽も外し、右手の指先を握ったり開いたりする。
立川での五十射超で出る痺れは、今朝は出ていない。
立川の訓練場の蛍光灯の下と、この弓道場の屋根の下では朝の空気が違う。
肉体への負担という意味では、たぶん相殺されるくらいなのだ。
祖父はまだ何も言わない。
蒼真は矢の筒を脇に置いて、椅子の前に腰を下ろした。
「終わったか」
「うん。今日は四十射まで」
「そうか」
祖父は椅子の上で軽く頷いた。それから白くなった髪を一度撫でた。寡黙な顔のまま、蒼真の方に視線を送る。
「変わったな」
その一言を祖父の口から聞いた瞬間、蒼真は身体の芯のあたりに何か熱いものが落ちるのを感じた。
「変わったな」。それは祖父が一度も使わなかった言葉だ。四年前にこの射場の床で初めて蒼真の射を見た日も、十四歳の冬に天恵熱が引いて適性判定の結果を持ち帰った日も同じだった。上京前の春に立川へ向かう前、最後の一射を放った日にも聞いていない。蒼真の射に対して、祖父はこれまで「うん」「そうか」「もう一度」「もう一本」と、最小限の言葉しか返してこなかった。
今朝、祖父はその最低限のラインの向こう側に、新しい一言を置いた。
蒼真は何も言えなかった。
ただ、祖父の方を向いて、軽く頭を下げた。それが、祖父の言葉に対して今この場で返せる最大の表現だった。
「立川は、どうだ」
祖父が、椅子に座ったまま、続けて短く言った。
昨夜の食卓で父が口にした「立川は、どうだ」と全く同じフレーズだ。父子の言葉が同じ角度で蒼真の方に飛んでくる構造に、蒼真は内心で僅かに笑った。家族の寡黙さの系譜は、フレーズの選び方まで、確かに繋がっている。
「楽しいよ。ちゃんとやれてる」
「そうか」
「友達も、できた」
「そうか」
「友達というか、班員。六人」
「そうか」
「それぞれ、すごい」
「そうか」
祖父の「そうか」が四回続いた。
蒼真は射場の床に座ったまま、自分の右手の指先を見下ろして、立川での九ヶ月の班員たちの顔を一人ずつ思い出した。
悠斗。
航。
紅葉。
里奈。
真帆。
それぞれの顔が、蒼真の中で並ぶ。
祖父にこの五人の名前を一気に並べて伝えても、祖父は「そうか」を五回返すだけだ。
蒼真にはそれが目に見えるように分かる。
だから、伝える時は、もっと別の伝え方を選びたい。
「友達は、できたか」
祖父が、四回の「そうか」のあとに、改めて短く問うてきた。
「うん。たくさん」
蒼真は射場の床に座ったまま、迷わず短く答えた。
数の問題ではない。
質の問題でもない。
祖父の「友達は、できたか」に対して、蒼真の中から自然に出てきた答えがそれだった。
たくさん。
一年前に上京する時、蒼真は立川で友達ができるかどうかを心の片隅で気にしていた。
今、九ヶ月後の蒼真は、その問いに「うん。
たくさん」と即答できる。
「そうか」
祖父はそれだけ言って、椅子の上で軽く頷いた。それから、ふっと視線を矢の筒の方へ落とす。蒼真の矢の中の一本に目を留めた。
「鏃、減ったか」
「うん。何本かは。研ぎ直した」
「そうか」
祖父の関心は、蒼真の九ヶ月の話よりも、目の前の矢一本一本の手入れの状態に向かっていた。蒼真はそれが祖父らしいと、椅子に座ったまま小さく笑った。
立川で何があったかは、結局のところ、蒼真の射と矢と弓と弽の状態に全部現れている。
祖父はそれを目で見て、それで「そうか」と頷く。
蒼真が言葉で並べて報告するよりも、矢の鏃の摩耗を見る方がいい。
祖父にとってはその方が、よほど雄弁な「立川は、どうだった」の答えなのかもしれなかった。
「もう一本、引くか」
「うん。あと一本だけ」
蒼真は弽を着け直し、手袋を両手の甲側に乗せ直して、立ち上がった。矢の筒から最後の一本を取り出して、番える。
今度は、魔力を込めない通常射。立川の訓練場で何百射と慣らしてきた、通常射九十六パーセントの精度を維持している通常射だ。蒼真の射の基礎であり、班での戦闘の九割はこの通常射が支えている。『弐』も『参』も、この通常射の精度の上にしか積み上げられない。
番える。
息を吸って、止める。
四年前、十二歳の蒼真は子ども用の細い弓で初めてこの射場の床に立った。
引き分けの形を作りながら、蒼真はその日のことを一瞬だけ思い出した。
あの日の蒼真は、自分の弓を構える形だけ取って、満面の笑顔を浮かべていた。
隣の祖父は、口元を一ミリだけ緩めただけの寡黙な顔をしていた。
四年経った今、蒼真の口元は、満面の笑顔ではない。代わりに、引き分けの形の中で引き手の指先が冷えに馴染む。押し手の親指の付け根は二十八メートル先の的の中心と直線で繋がっている。その確かな手応えが、蒼真の体の中心に静かに収まっていた。
弦が放たれる。
矢は二十八メートルを駆けて、的の中心の、ほぼ同心円の中央に突き刺さった。
「いい一射だ」
祖父が、椅子に座ったまま、静かに言った。
蒼真の弓を持つ手が、一瞬だけ止まった。
祖父が「いい一射だ」と言うのを聞いたのは、四年前の十二歳の日のあの一射以来かもしれない。いや、あの日も祖父はこんな短い評を口にしていなかった気もする。蒼真の記憶の中で、祖父が蒼真の射に対して「いい一射だ」と評したのは今朝が初めてだ。たぶん。
蒼真は弓を下ろした。
ゆっくり、息を吐いた。
「ありがとう、爺ちゃん」
「いや」
祖父はそれだけ言って、椅子から立ち上がった。
「朝飯、雅美さんが呼んでるだろう」
「うん」
「行け」
祖父は雑巾とバケツを持ち上げて、射場の隅の道具入れの方へ歩いていった。蒼真は祖父に向かって軽く頭を下げた。和弓を専用のソフトケースに戻し、矢の筒の蓋を閉める。椅子の前で稽古着の襟元を整えた。
射場を出る前、蒼真は一度だけ振り返って、射場全体を見渡した。
二十八メートル先の的場。両側面が開いた屋根の下の射場の床。左隅の祖父の椅子。右隅の自分の椅子。そして射場の背後の壁。背後の壁に立てかけてある弓たちの方には、蒼真の視線は向かなかった。蒼真の意識の中には、今日の四十一射の手応えがある。祖父の「変わったな」「いい一射だ」も残っていた。そして「友達は、できたか」「うん。たくさん」のやり取りが、温かいまま残っているだけだった。
砂利の小道を二十歩、母屋の方へ戻る。古武術道場の脇を抜けて、玄関の引き戸に手をかけた瞬間、家の中から味噌汁の匂いが漂ってきた。
「蒼真ーっ、朝ごはん、できたよーっ」
母の声が玄関の方まで届いてくる。
蒼真は引き戸を開けながら、口元を一ミリだけ動かして笑った。九ヶ月ぶりの、母の朝ごはん。九ヶ月ぶりの、祖父の射場での四十射と一射。十二月最終週の地方の朝の冷気が、蒼真の頬の皮膚にまだ残っていた。
◇
朝食の膳の前で、父はすでに座卓の自分の定位置に着いていた。
「おはよう、父さん」
「おう」
父は新聞を畳みながら、蒼真の顔を一秒だけ見て、それから自分の前の湯呑みに手を伸ばした。仕事着ではなく、今朝は厚手のセーターと普段着のズボン。年末で冬の畑仕事も区切りがついているのだろう。
母が台所から味噌汁の椀を運んできて、座卓の真ん中に置く。続いて納豆。焼き魚。漬物。ごはんの茶碗。地元の朝の定番の構成だ。立川の蒼真の自炊では、朝はパンと卵で済ますことが多い。地元で食べる味噌汁の匂いは、家全体の匂いと結びついていて、立川の蒼真のキッチンでは絶対に再現できない。
祖父が居間に入ってきた。蒼真の席の隣、座卓の左側の自分の定位置に座る。
「いただきます」
四人の声が重なった。
蒼真は味噌汁の椀を手に取って、湯気の立つ汁を一口含んだ。地元の合わせ味噌の風味が、舌の奥から鼻の方へ抜けていく。九ヶ月、立川の自炊では一度も味わえなかった種類の濃さだ。
「うまい」
「だから言ったでしょ。蒼真はお母さんの味噌汁好きでしょ」
「好きだよ」
「そう言ってくれるなら毎朝でも作るよ。立川には送れないけど」
「冷凍で送ったら、たぶん壊れるよ」
「そう、それ。だからこっちにいる間にいっぱい食べてって」
母は満足そうに頷いて、蒼真の茶碗にごはんを大盛りで装った。祖父は黙って自分の前の納豆をかき混ぜていた。父は新聞をもう一度開いて、地元の地方紙の小さな記事を読み始めていた。
「爺ちゃん、今日もありがとう」
蒼真は隣の祖父の方へ、味噌汁の椀を一度置いてから、軽く頭を下げた。
祖父は納豆をかき混ぜる手を止めずに、
「うん」
と短く返した。
それだけだった。
蒼真の射場での四十射と一射のことを、祖父は朝食の食卓で改めて口にしなかった。
「変わったな」も「いい一射だ」も、射場の中で発せられて、射場の床の空気の中で完結した言葉だった。
食卓の上では、祖父は再び、いつもの「うん」と「そうか」だけを返す寡黙な人に戻っている。
それでいい、と蒼真は思った。
「立川は、どうだ」
「楽しいよ」
「そうか」
父が新聞を畳みながら、昨夜と今朝で都合三回目の同じフレーズを繰り出した。蒼真は答えながら、口元を一ミリだけ動かして笑った。
家族の寡黙さの系譜は、半年以上経っても、変わらない。
蒼真は隣の祖父の方をちらりと見て、それから父の方に視線を戻して、最後に母の方を見た。母は蒼真の視線に気付いて、湯呑みを置いた手で、自分のエプロンの裾を一度きゅっと握った。
「無理は、しなくていいからね」
「うん」
「でも、やめろとも私たちは言わない」
「うん。やめないよ」
昨夜の食卓と全く同じ言葉を、母はもう一度繰り返した。父は新聞を畳む手を一瞬だけ止めて、何も言わずに頷いた。隣の祖父は納豆を最後の一口かき込んでから、湯呑みのお茶を一口啜った。
四人の食卓は、十二月最終週の地方の朝の冷気の中で進んでいく。温かい味噌汁の湯気と一緒に、ゆっくり流れていった。
窓の外では、敷地の北の弓道場の屋根に朝の光が差し込んでいた。いつの間にか、さっきより高い角度になっている。




