第91話 故郷の弓道場
地元駅のホームに新幹線が滑り込んだのは、午後二時を十五分ほど過ぎた頃だった。
窓の外を流れていた稜線の白い霞が、駅の屋根の鉄骨に切り替わって止まる。蒼真は座席のフックに掛けていたコートを羽織って、ボストンバッグを肩にかけ、和弓のソフトケースと矢の筒を抱え直した。九ヶ月ぶりに踏む地元の駅のホームは、立川駅の半分にも満たない長さだった。
降りる客の数もまばらで、向かいの線路の側にはすでに葉を全部落とした桜並木が冬の日差しを透かしていた。
コートのポケットの中で、空気の冷たさが頬の方から先に届く。
「立川より、寒い」
声に出してから、自分でその声に笑った。十二月最終週の関東は朝の冷え込みこそ強かったが、日中はまだ太陽の下に立てば肩が緩む程度の寒さだった。地元はそうではない。日陰に入った瞬間に手の甲の皮膚がぴんと張るような、冬の本気の冷気だ。
改札を抜けると、ロータリーの一番近くに、見慣れた薄い水色の軽自動車が停まっていた。運転席のドアが開き、母が降りてくる。
「蒼真っ!」
母が改札の方へ駆け足で寄ってきた。九ヶ月ぶりに直接声をかけられて、蒼真は一瞬、自分の喉の奥のあたりが震えるのを感じた。母の声は電話で何度も聞いていたし、メッセージのやり取りもしていたから、声自体に変わったものはない。
それなのに、生身で耳に届く声は、画面越しに聞いていた声とは別の重さを持っていた。
「ただいま、母さん」
「ほんとに帰ってきた。ほんとに、ほんとに帰ってきたんだね」
「ほんとに帰ってきたよ」
母が両手で蒼真の頬を一度はさんで、すぐに放した。それから蒼真の肩から鞄を取って、矢の筒を蒼真の手から奪い取って、和弓のソフトケースだけ蒼真に持たせた。
「重いでしょ。貸して。ほら、車そこ。ちゃんと暖房入れてきたから。寒かったでしょ。新幹線の窓側、今日寒いでしょ。ほんとは反対側がよかったかな。でも東京駅で取った席だから仕方ないか。ねえちょっと、また痩せたんじゃないの?」
「い、一気に喋り過ぎ……」
蒼真は思わず吹き出したが、母は構わず軽自動車のリアハッチを開けてボストンバッグを押し込み、矢の筒は後部座席の足元に丁寧に立てかけてくれる。和弓のソフトケースを蒼真が後部座席に立てかけると、母は確認するように二度、覗き込んだ。
「これ倒れない? 助手席側に倒れない? 毛布敷こうか、毛布」
「大丈夫だって母さん。立川から東京駅、東京駅から地元駅まで、ずっとこの状態で運んできたんだから」
「そう? ならいいけど」
母の声は嬉しさで一段高くなったままだった。そのまま蒼真の背中を軽く押すようにして助手席のドアを開ける。蒼真が乗り込むと、自分も運転席に回った。シートベルトを締めるより先に、暖房の温度を二段階上げる。
「はい、これ、温かいやつ」
ダッシュボードの上に置かれていた缶の温かいお茶を、母が当然のように蒼真の手に押し付ける。
「母さん、車の中、暖房入ってるよ」
「冷えた身体は中から温めないと。こっちは東京より寒いんだから」
蒼真は缶を両手で握ったまま、もう何も言えずに笑った。
車内は暖房が効いていて、缶の熱が手のひらにじんわりと染みてくる。母はハンドルにカバーをかけた手で、ロータリーを抜けて、片側一車線の県道に車を出した。
「父さん、今日は早く戻るって。爺ちゃんは今、道場の方にいるって。蒼真が帰ってきたら呼んでくるって言ってたから。家に着いたらすぐ会えるよ」
「うん」
「夕飯はおでん。もう仕込んであるからね。大根も五本買ったの。そのうち一番太いところを蒼真用に分けてあるから。そこは母さんと取り合いね」
「取り合いって……」
「冗談、冗談。蒼真の分は別の鍋に取り分けてあるから安心して」
蒼真は助手席の窓に額を軽くつけて、母の声を聞きながら、車窓の外を流れる冬の田畑を眺めた。立川の街路樹のように葉を落とし切った木は、こちらの地元では林の単位で並んでいて、その奥に低い山並みが薄い灰色に重なっている。
空は薄曇りで、午後の太陽はその雲の向こうで白い円盤になっていた。
九ヶ月前の上京する朝。同じ車の助手席で母にこの駅まで送ってもらった春の日のことが、流れていく田畑の風景に重なる。あの日の自分は、今と同じソフトケースを後部座席の足元に立てかけて、緊張と高揚で胃の奥が縮こまっていた。
今、同じ位置に立てかけられた和弓のソフトケースは、九ヶ月分の射の重みを抱えている。蒼真の足元で、静かに収まっていた。
「顔つき、変わったね」
母が前を向いたまま、ぽつりと言った。
蒼真は何も答えられず、ただ自分の頬の辺りを片手で撫でた。
「いい意味でね。ちゃんとご飯食べてる顔。心配してたんだけど」
「うん。ちゃんと食べてる」
「ほんと? 夏休み帰ってこなかった時、毎日電話かけたい気持ちを我慢したんだから、お母さん」
「……それは、ありがとう、我慢してくれて」
「うん」
母は笑った。一年ぶりの蒼真の顔が、母の中ではちゃんと「ご飯を食べている顔」に分類されたらしい。それでようやく、母の声のテンションは平常運転の高さに少し下がった。
車が県道を外れて、田畑の中の細い道に入る。ここから実家までは、もう五分とかからない。
◇
神代家の門は、九ヶ月前と何も変わっていなかった。
石段を三段上がった先の引き戸の玄関、その横に植わった南天の赤い実、軒下に立てかけられた古い竹箒。そして玄関から少し離れた敷地の北側。母屋の裏手に続く形で建っているのが、神代流古武術の道場と奥にある弓道場だ。道場は祖父の代までこの家の本業の片方だったが、今はもう門下生はいない。
建物は祖父が手入れを続けていて、中の板間も床の間も、子どもの頃から蒼真が見てきた姿のままだ。
弓道場の方は、母屋から砂利の小道を二十歩ほど歩いた先にある。屋根のついた射場と、その先の的場までの距離が、地元の弓道場としては標準的な二十八メートル。蒼真が初めて自分の弓を引いたのも、ここの射場の床だった。
車を玄関前に停めた母が、リアハッチからボストンバッグを取って、両手で持ち上げる。
「母さん、それは俺が……」
「いいからいいから。荷物のことはしないで。蒼真はまず居間で温まりなさい。先にお茶。爺ちゃんは母さんが呼びに行ってくるから」
「自分で行くよ、爺ちゃんのとこ」
「ダメ。順番順番。先にお茶飲んで。それから道場の方。爺ちゃんは射場の掃除中だから。急に行ったら汗かいた爺ちゃんしか見られないよ」
「それでもいいけど……」
「蒼真は爺ちゃんが綺麗な顔で出てきた方が嬉しいでしょ。ね?」
母は一人で勝手に話を進めて、蒼真の肩を玄関の方へ押した。蒼真は和弓のソフトケースと矢の筒だけを持って、玄関の引き戸を開ける。
家の中の匂いは、出汁と昆布と醤油の、地元の冬のおでんの匂いだった。鼻の奥に立ち上がっていた予感が、今度は家の空気そのものになって蒼真を出迎える。
「ただいま」
「お帰り。ほら、靴脱いだら手洗ってきてね。タオル、新しいの掛けといたから」
母が後ろから応じる。蒼真は靴を脱いで上がり、洗面所で手を洗った。それから廊下の突き当たりにある自室、上京前まで使っていた六畳の和室の襖を開けた。
九ヶ月空き部屋になっていたはずの自室は、布団が新しく出してあって、机の上には少し前まで愛用していた古い目覚まし時計が動いていた。窓際には小さな観葉植物が一鉢、葉の埃も払われた状態で置かれている。母が定期的に風を通していたのだと、見ただけで分かった。
それどころか、たぶん昨日のうちに掃除機までかけ直してあるのが、畳の畳目の細かい埃の少なさで分かる。
壁際の床の間の前に、蒼真は和弓のソフトケースと矢の筒を立てかけ、その隣にボストンバッグの場所を空けておく。それから、机の脇の壁の小さな額縁に目を留めた。
額縁の中には、十二歳の頃の蒼真と祖父が並んで写った写真が一枚、入っていた。祖父の弓道場の射場で、蒼真が初めて自分の弓を引かせてもらった日に、父がカメラで撮ってくれたものだ。子ども用の細い弓だった。
写真の中の十二歳の蒼真は、自分の小さな弓を構える形だけ取って、満面の笑顔を浮かべている。隣の祖父は、いつも通り口元を一ミリだけ緩めただけの寡黙な顔だ。
あの日から、もう四年経つ。十二歳のあの頃に祖父の弓道場の床に立っていた自分。今この六畳の和室に立っている自分。その間には、四回の春と夏と秋と冬がある。いくつもの射と、いくつもの仲間と、九ヶ月前の上京の朝も挟まっている。
それでも、写真の中の十二歳の自分の口元と、新幹線の窓ガラスに映った今の自分の口元は――たぶん同じ角度で笑っている。
「蒼真ーっ、お茶入れたよーっ」
居間から母の声がして、蒼真は写真から視線を離した。襖を開けて廊下に出る。
居間は座卓と座布団だけのシンプルな十畳の和室で、座卓の真ん中には湯気の立つ急須と二つの湯呑みと、その横に小皿に盛られた温かい饅頭が二つ並んでいた。母が向かいに座って、蒼真にも一つの湯呑みを差し出す。
「饅頭も食べな。地元の和菓子屋さんで今朝買ってきたんだから。蒼真の好きな小豆のやつ」
「……母さん、そんなに用意しなくていいって」
「お茶請けに饅頭は基本でしょ。ほら、温かいうちに」
地元の煎茶の苦みが、九ヶ月ぶりに舌の奥に沈む。立川のスーパーで買っているペットボトルのお茶とは別の、薬のように濃い苦みだ。蒼真はそれを一気に半分まで飲んで、湯呑みを座卓に置いた。母がすぐに立ち上がって急須から二杯目を注ぎ足してくる。
「立川は、寒い?」
「ここよりは、全然」
「そっか。じゃあこっちにいる間はちゃんと厚着するんだよ。風邪引いたらお母さん、立川まで看病に行けないんだから」
「うん。引かないようにする」
母は蒼真の九ヶ月の話を一気に聞きたがるタイプだったか、と蒼真は記憶を更新する必要があった。今までは、聞きたいことを少しずつ向こう一週間の中で拾っていくタイプだったはずだ。一年近く息子に直接会っていなかった分の何かが、母の中で蓋を開けてしまっているのは間違いない。
母の視線が、湯気の向こうから何度か蒼真の右手の指先に落ちる。
九ヶ月前、上京する直前の春。蒼真の指先は、もう少し白くて細かった。今の蒼真の指先は、弦を引き続けた人差し指と中指の腹の皮膚が硬く厚くなっていて、爪の付け根のあたりは触媒として何度も切り取った跡で形が少し不揃いになっている。
「……蒼真、その指、痛くない?」
「痛くないよ。これ、弓引いてる人の指。普通だよ」
「ふうん」
母はそれ以上は言わずに、急須を持ったまま、自分の湯呑みに残ったお茶を一気に飲んだ。
「呼んでくる」
立ち上がって、玄関の方へ向かう。蒼真が「自分で行くって」と言いかけたが、母は片手で「いいから」と振って、玄関で草履を引っかけて出ていった。
数分の静寂のあと、玄関の引き戸が開く音がした。母の「爺ちゃーん、戻ったよーっ」という声も二重に響いた。少し遅れて、廊下の板間を踏む足音が聞こえた。ゆっくり、二人分。
襖が開く。
「お、戻ったか」
祖父は、蒼真の覚えている通りの祖父だった。白くなった髪を後ろでまとめ、紺の作務衣の上に綿入れを羽織った姿で、道場の方からの冷気を一緒に連れて居間に入ってきた。
九ヶ月ぶりに見る祖父の顔は、九ヶ月前と同じ、口元を一ミリだけ緩めた寡黙な顔だ。
「ただいま、爺ちゃん」
「うん」
蒼真は立ち上がり、お辞儀のような会釈をした。祖父は短く頷いて、座卓の自分の位置に向かう。テレビの右斜め、座布団のすぐ手前に座った。母が三つ目の湯呑みに新しいお茶を注いで、祖父の前に置く。
「明日の朝、道場の方、使っていい?」
「ああいいぞ」
「弓と矢、最低限だけ持ってきた」
「そうか」
メッセージで何度もやり取りしてきた「そうか」が、今度は生身の声で耳に届く。蒼真はその当たり前の事実が、なぜか今日初めて驚きとして自分の中に着地するのを感じた。九ヶ月前まで毎日この声を聞いていたはずだった。それでも九ヶ月空けると、声の低さも語尾の落とし方も違って聞こえる。メッセージで受け取ってきた「そうか」とは別の質量で胸に届いた。
祖父はお茶を一口飲んで、湯呑みを座卓に置いて、それきり何も言わなかった。母が祖父の隣の畳に座って、急須からまたお茶を注ぎ足す。蒼真は二つ目の饅頭を一口かじった。地元の小豆の甘さに、十二月最終週の地方の冬の午後をようやく身体で味わい始める。
◇
夕方六時を過ぎた頃、玄関の引き戸が開く音がした。
「ただいま」
父の声だ。蒼真は廊下に出て、玄関で靴を脱いでいる父を見下ろす形になる。
父は仕事着、濃紺の作業ジャケットと厚手のズボンのまま、肩に雪のような白い粉をつけていた。冬の畑の作業着だ。父が顔を上げて、蒼真を一秒だけ見た。
「帰ったか」
「うん。ただいま、父さん」
「うん」
たったそれだけだった。父は廊下を抜けて自室の方へ着替えに行き、五分ほどして居間に作業着から普段着に着替えて出てきた。蒼真と父と祖父の三人が居間の座卓に揃った時、母は台所でおでんの鍋を温め直していて、湯気の匂いが家全体に広がっていた。
父が座卓の自分の定位置、テレビを背にした上座に座って、湯呑みを手に取った。蒼真はその右側、祖父はその左側に座る。
「いつから戻った」
「今日の昼の新幹線」
「そうか」
祖父そっくりの返事に、蒼真は思わず吹き出した。父は理由を察したらしく、何も言わずに湯呑みを傾ける。隣の祖父も同じタイミングで茶を飲んだ。二人とも、笑ったとは言わない。けれど蒼真には、それで十分だった。
台所から母が大皿を運んできて、座卓の真ん中に置く。大根、卵、こんにゃく。
はんぺん、牛すじ、そして練り物の盛り合わせ。湯気が四人の顔の前で立ち上る。
「ほら蒼真。大根はこれ、あんたの分の特大。ちゃんとお父さんと爺ちゃんの分は別の鍋から取ってあるからね。蒼真は今日はいっぱい食べな」
「いっぱい食べるよ。母さんも自分の分、ちゃんと食べてね」
「お母さんは蒼真が食べるの見てたら、それでお腹いっぱいだから」
「それはおかしい」
蒼真がツッコむと、父と祖父は何も言わずに、それぞれの湯呑みをほぼ同時に傾けた。同じ家系の二人の同じ仕草を、母が「またあれだ」と言わんばかりに笑う。
「いただきます」
四人の声が重なる。蒼真は大根を一切れ、皿に取って口に運んだ。九ヶ月ぶりの母のおでんの大根は、舌の上で繊維が崩れる柔らかさだった。出汁の染み込んだ深さがあって、立川のコンビニのおでんとは別物だった。
「うまい」
「そう? よかった、よかった。ほらじゃあ、こっちの卵も食べな。これも蒼真用に、半熟と固ゆで両方仕込んであるから」
「そんなに食べきれないって」
「食べる。食べてくれるよね?」
母の押しに負けて、蒼真は卵も二個皿に取った。父が湯呑みを置いて、蒼真の方に視線を向けた。
「立川は、どうだ」
蒼真は箸を一旦止めて、口の中のものを飲み込んでから答えた。
「楽しいよ。ちゃんとやれてる」
「学校は」
「うん。担任の先生は、後藤先生っていって、元探索者の人。ちょっと頼りないように見える人なんだけど、すごく見てくれてる」
「そうか」
「友達も、できた」
「そうか」
蒼真は箸を再び動かしながら、父に話すべきことを頭の中で順番に並べた。立川のことは、新幹線の中で九ヶ月分を整理してから家に着いた。だから、何から話すかは決まっていた。
「班、組んだんだ。六人」
「ほう」
「槍使いと長剣使い。斥候の女の子と、氷魔法の女の子と、白魔法の女の子。俺は弓と、班長」
「班長」
「うん。後藤先生に推薦された」
「そうか」
父は短く相槌を打ちながら、聞く方に集中していた。母は蒼真の皿に練り物を一つ追加で取り分けてから、口は出さずに父子のやり取りを聞いた。祖父は最初から最後まで黙ったまま、自分の前のはんぺんをゆっくり食べていた。
「夏休みは、こっちに帰らずに立川にいた」
「聞いてた」
「誠二叔父さんの家にも、何回か遊びに行ったよ。結衣ちゃんと美咲ちゃんが、すごく大きくなってた」
「そうか」
「秋にはダンジョンの第3層まで潜った。班員六人で、第3層の主みたいな魔物を倒した」
「……そうか」
父の「そうか」が、ほんの僅かに長くなった。蒼真はそれに気付いたが、深追いはしなかった。立川での秋の仕事は、家族にあまり詳細を話す類のものではない。隣の祖父も、はんぺんを口に運ぶ手の動きは止まらなかった。
ただ、視線が一瞬だけ蒼真の方に流れたのを蒼真は見た。
「で、対人戦はいつなんだ」
父が湯呑みを取り直しながら、視線は蒼真の顔ではなく座卓の方に落として、そう問うた。
「二月の中旬。一年生の後期試験で、班同士の対抗戦」
「勝てそうか」
「やる。優勝したらSクラス昇格の話が出るかもしれない」
「Sクラス」
「うん。学年の特別なクラス。今、別のクラスの須藤大河っていう剣士が一番強いんだけど。入学してすぐにそいつと模擬戦やって、俺は勝ったんだ」
「そうか」
父はそれだけ言って、湯呑みを傾けた。
「Sクラス昇格の話は、まだ何も決まってないんだけどね」
「そうか」
「一応、頭の隅に置いといてもらえれば」
「分かった」
四回目の「そうか」のあとに「分かった」の言葉が出てきたのが、今夜の父の中ではほぼ最大級の長文だ、と蒼真は感じた。父はそれ以上は何も聞かず、座卓の上の卵に箸を伸ばした。
母が湯呑みに新しいお茶を注ぎながら、座卓の向こうで蒼真の顔を一度だけ見た。
「蒼真、あんた、無理してない? ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ。ちゃんと」
「ご飯も、ちゃんと作ってる? 冷凍ばっかりじゃないよね?」
「自炊もしてる。週末はまとめて作って、平日は温め直してる」
「えらい。えらい蒼真」
母は自分のことのように嬉しそうに頷いて、それからふっと声を落とした。
「無理は、しなくていいからね」
「うん」
「でも、やめろとも私たちは言わない」
「うん。やめないよ」
母の言葉は柔らかかったが、その向かいで湯呑みを傾けている父の手が、一瞬だけ止まったのを蒼真は見た。父は何も言わなかったが、蒼真は父が母の言葉に頷いているのを、その止まった手の動きで分かった。
その隣で、祖父は最後のはんぺんを箸で半分に割って、自分の口に運んだ。表情は変わらなかった。だが、はんぺんを噛んでいる祖父の顎の動きが、ほんの一瞬だけ頷いているように見えた。
神代家の四人の食卓は、それで一旦の落ち着きどころに辿り着いた。
◇
夜の九時を過ぎた。両親と祖父が先に風呂と就寝の準備に入った後、蒼真は自室の襖を閉める。部屋の中央に正座した。
六畳の和室の中、床の間の前に立てかけた和弓のソフトケースから、和弓を取り出す。立川の屋内訓練場の張りつめた空気とは違う。地方の実家の冬の夜の冷気の中で和弓を握ると、感覚が少し違う、と蒼真は思った。
空気の質が違う。
立川の屋内訓練場は、冷えていても閉じた空気だ。換気はあるが、外気の匂いはほとんど入ってこない。それに対して、地元の実家の冬の夜の空気は、家全体の隙間から滲み入ってくる外気の重みを含んでいる。
肺に入った瞬間、細胞が一段引き締まる感覚があった。和弓を構える両腕の皮膚が、その空気の変化を一番先に感じ取った。
弦を引いてみる。
訓練場で何百射、何千射と引いてきた同じ和弓の同じ弦。地元の実家の自室の冷えた空気の中では、立川で引いた時より一センチほど重く感じる。これは弓の都合ではない。蒼真の身体が、九ヶ月ぶりの地元の空気にまだ慣れていないだけだ。
弦を戻す。
もう一度、引く。
二回目の引きで、一センチの違和感はだいぶ縮まった。
明日の朝、母屋の北側の道場の脇を抜けて、奥の弓道場の射場に立つ。九ヶ月ぶりの祖父の前で、九ヶ月分の射を、爺ちゃんに見てもらう。
祖父はたぶん、いつも通り何も言わない。あるいは「変わったな」と一言だけ返してくる。そのどちらかだ。
どちらでも、いい。
一年前は、祖父の一言で自分の射が認められたかどうかを必死に確かめようとしていた頃があった。今は、祖父の一言を確かめるためではない。ただ九ヶ月ぶりに祖父の道場の床に立つ。自分の射を爺ちゃんに見てもらう。それだけが目的になっている。
蒼真は弦を完全に戻して、和弓を膝の上に横たえた。荷物の中から弽の袋と冬の薄手の手袋の袋を取り出して、机の上に並べる。明日の朝、これを全部身に着けて、九ヶ月ぶりに射場の床に立つ。
立川で書き加えたメンテナンスノートを開いて、最後の一行をもう一度確認する。
『冬休み、爺ちゃんの道場で、四十射の上限を体に戻す。『参』は触らない。『弐』だけ』
ノートを閉じる。
窓の外で、地元特有の夜の静けさが、家を包んでいた。立川の住宅街にも夜の静けさはあるが、地元のそれは深さが違う。
車の音もほとんど通らず、遠くで一度だけ犬の鳴き声が聞こえて、それからまた静寂に戻る。
蒼真は和弓を専用の壁掛けに戻して、机の前に座り直した。
襖の向こう、廊下の奥の方で祖父が自室に戻る足音が聞こえた。ゆっくり一往復だけ。その足音が止まって、家の中が完全に静まる。母が台所の片付けを終えた音が、最後に微かに居間の方から聞こえた。
蒼真は小さく笑って、布団を敷いて、電気を消した。
六畳の和室の天井は、立川のマンションの天井よりも少し低い。九ヶ月前まで毎晩見上げていた木目と全く同じ位置に、同じ節の形が浮かんでいた。蒼真は布団の中で、九ヶ月前の最後の夜、上京する前の夜のことを思い出した。
あの夜、自分は布団の中で「待ってろ東京」と声に出して、自分の手をぐっと握ったのだった。
今夜は、握らない。
代わりに、布団から右手だけを出して、天井に向かってゆっくりと弦を引く形を作る。引き分けの形を一度作って、ゆっくり戻す。立川のマンションでも、毎晩のようにやっている就寝前の形だけの引き分け。天井に弦を引く仕草だ。
明日の朝、九ヶ月ぶりに敷地の北の弓道場の射場で本物の弦を引く。
蒼真は右手を布団の中に戻して、目を閉じた。
窓の外では、冬の地方の夜の冷気が家の壁を一センチ刻みで撫でていく。その音が聞こえるようだった。




