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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第四章 冬への助走編

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第90話 冬休み前

 十二月最終週の月曜、終業式の今日。1-1の教室は、いつもの六時間目とは少し違う空気をまとっていた。


 黒板の左隅には『一年三学期始業式 一月七日(月)』と白いチョークで書き残されている。教卓の上には後藤喜一郎(ごとうきいちろう)が朝のホームルームで配り終えた冬休みの注意事項のプリントが、忘れ物の主を待つように一枚だけ残っていた。窓の外の空は白っぽく曇っている。立川の街路樹はもう葉の大半を落とし、枝の先だけが鉛色の空に細い線を引いていた。


 終業のチャイムが鳴って三十秒も経たないうちに、教室の三分の二の生徒は鞄を手に廊下へ流れ出していた。冬休みは明日の十二月二十六日からだ。休み前最終日の今日は終業式。そして明日からは、それぞれの帰省と寮残留と一人暮らしの冬休みに分かれていく。


 蒼真は机の脇のフックから鞄を取り、肩に矢筒の紐を回した。


 今日は和弓と矢筒も持ち帰る。冬休みのうちは学院の弓術用レーンを使えない。最低限の射ができる装備一式を錦町のマンションへ運び、その上で実家まで持って行くつもりだった。


 鞄の中には先週から手に馴染んだ薄手の手袋が入っている。革が黒ずみ、親指の腹側に汗の染み込んだ弽も、別の小さな袋に分けて納まっていた。


「蒼真、お前、今日はゆっくりしてけよ」


 前の席の航が、ノートを鞄に仕舞いながら振り向いた。今日も普段通りの低い声だった。ただ、その「ゆっくりしてけよ」には先週金曜の鷹丸で聞いた「お前、無理しないで切れよ」と同じ念押しが乗っている。


「四十射で切る」

「『参』はもう、年明けまで触るな」

「分かってる」

「冬休みの間に右手の痺れの残りを抜いとけ」

「了解」


 航は短く頷いて、鞄の肩紐を整えた。航は今年の冬休み、寮に残る組だ。年末年始の数日だけは寮の食堂が止まる。その間は近くで食事を回す手筈だと、先月の対策会議の帰り道に蒼真は聞いていた。


「悠斗は」

「あいつ、たぶん寮の自分の部屋でゲームと菓子だ」

「想像通りすぎる」


 航が口元を一ミリだけ柔らかくして、教室の後ろの方に視線を向ける。


 窓際の前から三列目で、悠斗が大あくびをしながら鞄に教科書を雑に放り込んでいた。気付いた悠斗が「お、蒼真、航!」と片手を挙げる。すぐにこちらへ歩いてきた。


「冬休みは生姜焼き食えなくなるじゃん俺ら」

「お前の寮の食堂、年末年始は止まるんじゃなかったか」

「止まるよ。だからその数日は近所の定食屋を回す。あ、蒼真。実家いつ戻る?」

「明日の昼の新幹線。今日は部屋で荷造り」

「へえ、明日かよ。ほんとに帰るんだ」

「ほんとに帰るよ。爺ちゃんに会いたいから」


 悠斗が「うっわ、ストレート」と笑う。すぐ脇を通りかかった紅葉が、冷静に突っ込んだ。


「悠斗、その『うっわ』、毎度毎度よく飽きないよね」


 紅葉の後ろから、里奈と真帆も並んで歩いてくる。自然に教室後方の島で六人が顔を揃える形になった。


「蒼真と鬼塚は年末実家組だよな」と航。

「うん」と紅葉。

「私と真帆ちゃんはいつも通りです」と里奈。

「ですね」と真帆。

「紅葉ちゃんは実家いつ発つの?」と里奈。

「明日の朝早くだよ」

「蒼真は?」

「俺は明日の昼の新幹線」


 六人で立っているうちに、教室の中はあらかたの生徒が引けた。窓の外の曇り空が一段白く明るく見える。


 蒼真は六人の顔を一回り見た。先月の対策会議の時、屋内訓練場の連絡通路を歩いた六人の足音を思い出す。フォーメーションCを初稼働させた数週前の金曜には、床に青白い氷の帯が走っていた。先週金曜の鷹丸では、窓ガラスに街路灯の光が滲んでいた。


 その景色が、頭の中で順番につながっていく。


「年明けまた」と蒼真。

「うん。年明けまたね」と紅葉。

「私たちもグループには普段通りいますね」と里奈。

「年末年始の写真、楽しみにしてます」と真帆。

「俺は寮で年越ししとく。立川の写真送る」と悠斗。

「俺もだ」と航。


 六人がそれぞれ手元のスマホを軽く確認する。それから教室を出た。


 連絡通路の冷えた空気を抜け、昇降口で別れる。その時、紅葉が一番後ろから振り返った。


「蒼真、爺ちゃんによろしくね」


 その一言で、六人は新学期まで顔を合わせない。


 三ヶ月ちょっと前まで、毎日この六人で訓練場や鷹丸を回っていた。明日からは、その日々に一日目の空白ができる。


   ◇


 錦町のマンションに帰り着いたのは、午後四時を少し回った頃だった。


 部屋の中はもうすっかり冬の冷気の匂いがしていた。蒼真は玄関で靴を脱ぐと真っ先にエアコンを暖房二十一度に入れる。それから鞄と矢筒を玄関脇のラックに立てかけた。和弓は壁に置いた専用の弓立てへ。手袋と弽の入った袋を取り出し、リビングの机の上に並べる。


 夕方の窓から差す光が、部屋の中を金色に染めていた。


 冷蔵庫を開けて、昨日のうちに買っておいた残り物のサラダチキンと食パンを取り出す。今日と明日の朝で食べ切る予定の食材だ。明日の昼の新幹線に間に合うように、冷蔵庫の中身は今日中に全部消費するか冷凍に回すかを決めておかないといけない。


 蒼真は立ち食いでサラダチキンの一切れを口に運ぶ。リビングの机の前に座って、まず最初にスマホを取り出した。


 ホーム画面の中段。家族グループの連絡先よりも一つ手前にある、祖父個別のチャット。蒼真はそれを開いて、画面の下のテキスト欄を見つめた。それから両手でゆっくり打ち込む。


『爺ちゃん、明日の昼、新幹線で帰るよ。冬休み、爺ちゃんにも会いたい』


 送信。


 既読が付くまでの待ち時間は、いつも通り早かった。地方の実家のリビングか、隣の道場の方かは分からない。けれど祖父がスマホを手元に置いている時間帯らしい。三十秒ほど経って、画面の下に短い返信が現れる。


『そうか』


 蒼真はその返事を見て、自然に口元が緩んだ。


 先月の頭、第3層核討伐の事後に届いた珍しい三行返信がある。その分だけ、今日の「そうか」はいつも以上に祖父らしい。三行は事件の重みに対する例外だった。平常の祖父は、この一言に戻ってくる。蒼真の中で、それは安心の方に分類される。


『道場、使わせてもらってもいい?』

『そうか』

『弓と矢、最低限だけ持って行くよ』

『そうか』


 四つの「そうか」が縦に並ぶ画面を見ながら、蒼真はもう一度笑った。「そうか」の連続は、通常運転の合図だ。


 次に、母とのチャットを開く。


『母さん、明日の昼、新幹線で帰る。十四時過ぎに地元駅に着くと思う』

『分かった、駅まで迎えに行く。一年ぶりだね、夕飯何が食べたい?』


 蒼真は数秒考えて、打ち込んだ。


『おでん』


 母からは『了解』の一言。続けて『大根、多めに仕込んでおく』の追伸が来た。蒼真の気持ちが地元の方へ寄る。冬の地方の実家のおでんの匂いが、まだ二十時間以上先のはずなのに、もう鼻の奥に立ち上ってくるようだった。


 最後に、父。父も祖父に似て寡黙だが、祖父よりはもう少し言葉が長い方だ。


『父さん、明日帰るよ』

『気をつけて来い』


 父の返信はそれだけだった。蒼真は思わずスマホの画面に向かって笑いかける。


「父さんも爺ちゃんと同じだな」


 入学直後、サンサンロードの写真を父に送った時のことを思い出す。あの時も「いい街だな」と返ってきた春の日に、同じ感想を抱いた。家族の寡黙さの系譜は、半年以上経っても変わらない。


 画面を切り替えて、家族のグループへ「明日帰ります」と流す。それからスマホを伏せた。


   ◇


 荷造りは思ったより早く終わった。


 弓と矢。最低限の射ができる装備一式。和弓は専用のソフトケースに収める。矢は予備を含めて十二本、専用の筒に入れた。


 スローイングナイフは三本だけナイフケースに入れる。触媒の爪と髪の予備も小さな袋にまとめた。そして弽と冬の薄手の手袋。冬休みのために祖父の道場で射るぶんの装備は、これでほぼ事足りる。


 着替えは三日分。洗面具。本を二冊。それから入学からのメンテナンスノート。


 ここ三ヶ月で書き込みが急に増えた、紺色の最新ノートだ。


「対人戦は知略戦。読まれた上で、勝つ」

「相手は人間。スキルじゃなく、思考を読む」

「対人戦の床は、第5班の地図にする」

「噂は、結果で塗り替える」


 蒼真がここ二ヶ月の間に書き付けてきた一行たちが、ノートのページを少しずつ厚くしている。実家でこのノートを開いて読み返す時間は、立川で開く時間とはまた別の意味を持つはずだ。蒼真はそう思う。


 全部をボストンバッグに詰めて、リビングの隅に立てかける。


 窓の外の空はもうすっかり暮れて、街路灯の白い光が滲み始めていた。錦町の住宅街は冬の夕方の静けさに沈んでいる。立川の中心部の方角から、時々遠い車のブレーキ音が漏れてくる程度だ。


 蒼真は荷造りを終えた後、もう一度メンテナンスノートを開いた。一年の最後の月の空きページに新しい一行を書き加える。


 ――冬休み、爺ちゃんの道場で、四十射の上限を体に戻す。『参』は触らない。『弐』だけ。


 ペンを置いて、ノートを閉じる。


 明日の昼の新幹線まで、あと一晩。


   ◇


 翌日の昼前、立川駅。


 蒼真は錦町から徒歩で立川駅まで歩いた。改札前のコンコースを抜け、JR中央線の上りホームへ降りる。


 十二月二十六日の正午前。駅はいつもより一段にぎやかだった。帰省客とクリスマス明けの観光客。探索者協会の制服を着た二人組。そしてそれぞれの方角へ散っていく学院生たち。いくつもの人の流れが、駅の中で交差している。


 蒼真はホームの先端寄りで、新宿経由で東京駅まで出る快速電車を待つ。東京駅から新幹線に乗り換えれば、地元駅まで二時間ちょっとだ。


 ホームで電車を待ちながら、蒼真はスマホで六人のグループメッセージを開いた。


 悠斗から朝の七時の時点で『今日から寮の食堂止まる! 航よろしく頼む!』と笑い顔の絵文字が届いている。航の返事は『何の段取りもなしに頼まれても困るぞ』の一文。紅葉からは『朝、新幹線乗った。神代、関東は晴れてるんでしょ』。里奈からは『家からいつものメンバー欠けてる感じ、変ですね』。真帆からは『私の家もです。年明けまた学院で』。


 蒼真は迷ってから打ち込んだ。


『これから新幹線。地元駅十四時過ぎ着』

『道中、気をつけて』と航。

『蒼真、爺ちゃんに会ったら写真』と紅葉。

『撮れたら撮る』と蒼真。

『お、爺ちゃんの写真くるの楽しみ!』と悠斗。


 短いやり取りが終わると、ちょうど中央線の快速が滑り込んできた。蒼真はボストンバッグと弓のソフトケースを抱える。矢の筒も肩にかけ、奥の二人がけの席に座った。


 窓の外を、立川の街並みが流れていく。サンサンロードの方角は車窓からは見えない。それでも蒼真は、鷹丸の暖簾の奥で生姜焼き定食を仕込んでいるはずの店主の太い腕を一瞬だけ思い出した。


   ◇


 東京駅で新幹線に乗り換え、座席に深く座り直した時だった。蒼真は初めて、今年一年の終わりが本当に迫っているのを身体で感じた。


 窓の外を、関東平野の冬の景色が流れていく。畑の畝には霜が残っている。住宅の屋根は西日を反射し、遠くの山並みは鉛色に霞んで見えた。


 この春に同じ車窓を逆方向に走った時、蒼真はまだ「明日から学院生だ」という素朴な高揚しか持っていなかった。あの時の和弓は、まだここまで使い込まれていなかった。今、隣の席の足元に立てかけられた和弓のソフトケースは、入学から九ヶ月分の射が滲んだ重みを抱えている。


 蒼真は窓ガラスに右手を軽くあて、自分の指先を見つめた。


 九ヶ月前、立川の学院に入学した自分。


 四月の演武場で須藤と模擬戦を交わした自分。


 叔父の世田谷の家で結衣に「結衣まもってね」と言われた自分。


 初めてのダンジョン実習で、里奈がパニックになって第2層へ逃げ出した時の自分。班長として「次は六人で最初から最後まで」と笑い返した。


 夏休み、地方の実家へ帰らずに立川に残った自分。一日三百射を続け、総射数一万二千という数字を作った。


 新学期の通学路で凛に「一万二千」と即答した自分。「バカみたいな量ね」と返された時のことも覚えている。


 秋のイレギュラー対応で、第3層の核個体を『弐』の右こめかみ貫通で粒子化した自分。


 十一月に入って、《小転移》を協会データベースに公開登録した自分。


 同じ月の対策会議で「対人戦は知略戦」とノートに書き付けた自分。


 冬の訓練場で『参』に手を出し、五十射目で右指の痺れを記録した自分。


 先週の金曜、裏掲示板の「実力派」と「噂先行」の二分評価を見て「全部、力に変える」と航に言った自分。


 全部、四月の自分とは別の自分のように思える。それでも、芯のところは何一つ変わっていない。蒼真自身もそれが分かっていた。


 手にしたカードで頂を目指す。


 地方の実家の祖父の弓道場で、十四歳の冬の日に決めたあの言葉。立川で九ヶ月積み上げてきた全部の射の根っこに、今もそのまま残っていた。


 窓の外で空が一段紺色に近くなる。新幹線が長いトンネルへ入り、車内のライトが急に窓に映り込んだ。蒼真の輪郭が窓ガラスに揺れる。トンネルの暗闇の中で、自分の目の中だけが先に明日のことを考え始めていた。


 この後は、地元駅まで母が車で迎えに来てくれる予定だ。実家のリビングでは、父も仕事から早めに戻る話になっている。


 明日には祖父の道場で、一年ぶりに祖父の前で射を披露することになる。祖父は「変わったな」と一言だけ言うかもしれない。何も言わないかもしれない。どちらでもいい。蒼真は自然にそう思っていた。


 一年前は、祖父の一言で自分の射が認められたかどうかを必死に確かめようとしていた頃があった。今は違う。ただ一年ぶりに祖父の道場の床に立つ。自分の射を爺ちゃんに見てもらう。それだけが目的になっている。


 二月中旬、対人戦まで、あと約六週間。


 蒼真はスマホの画面を一度だけ覗き込み、班員六人のグループメッセージを閉じた。履歴を最後まで遡ることはしなかった。


 冬休み中、班員それぞれが各自の場所で準備を続ける。やり方は違っても、二月へ向かう時間は同じだ。


 蒼真は地元の祖父の道場で、寒さで指が悴む朝のうちに『弐』を撫でるように引き直す。年明けに錦町へ戻った時には、九十二パーセントを九十三パーセントに。そして一月の月例実習までに九十五パーセントに乗せる。その距離感を測り直す時間が、これから一週間ある。


 トンネルが終わって、車窓に冬の地方の山並みが現れた。


 まだ雪は積もっていない。ただ稜線のすぐ下のあたりが白く霞んで見える。あと一山越えれば、地元駅だ。蒼真は背中の和弓のソフトケースに一度手を触れた。それから窓ガラスに視線を戻す。冬の山並みの上で、午後の白い太陽が鈍く光っていた。


 ――冬休み、爺ちゃんに会いに行く。


 九ヶ月ぶりの帰路の終わりが近付いていた。

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