第89話 裏掲示板の冬
十二月第三週の月曜。六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、1-1の教室は一斉にざわつきの密度を上げた。
蒼真は机の脇のフックから鞄を取り、肩に矢筒の紐を回す。先週金曜のフォーメーションC初稼働から土日を挟んだ月曜で、右手の指先の痺れはもう完全に引いていた。今日は午後の弓術用レーンを四十射までで切ると決めている。『参』は日課にしなければ身につかない。だが毎日五十射は、まだ体が持たない。二週間前の月曜に記録した指先の痺れが、自分の中で確かな上限として残っていた。
矢筒の紐を肩に通したところで、前の席の航が机の上のスマホを横倒しにした。画面を蒼真の方へ滑らせてくる。
「お前、これ、見たか」
「うん?」
航の声は普段通り低い。報告書を読み上げる時と変わらない、淡々とした声だった。スマホの画面には学院の生徒がよく覗く非公式掲示板が表示されている。「裏掲示板」と呼ばれているサイトだ。今朝立った新しいスレッドのタイトルが、上から二番目にあった。
『1組第5班、対人戦どこまで行くか』
蒼真は首を傾げてから、航のスマホを覗き込む。
「お前、こういうの見るタイプだったか?」
「普段は見ない。だが今朝の購買で、中村が小林に『うちの班の話、出てるみたいですよ』って小声で言ってるのが聞こえた」
航の指先が画面をスクロールする。スレッドの一行目から順番に、レスがざらざらと流れていく。蒼真は航の手元を黙って眺めた。
:1組5班の班長は弓術士の神代蒼真。秋の核討伐の主力
:噂じゃ実力派らしい。ただし火力は弱い
:《小転移》ってスキルはデータベースで仕様読んだ。狙撃ナイフの柄に触媒を縛って投げる。着弾点に転移。射程10メートル
:対人戦じゃ仕様公開された後の二月だぞ? 対策される側だろ
:噂先行じゃないか? 核討伐は仲間の連携の比重が大きい。班長個人の地力は未知数》
:同じクラスから言わせれば神代はちゃんと強い。ただ「弓術士」ってだけで判断保留にする奴が多いだけ
:1組第1班の槍術士の方が、純粋な火力では上だろ
:1組第5班は決勝までは行くんじゃないか。優勝は分からん
評価は二つに割れていた。実力派と評価する者。噂先行だと懐疑する者。スレッドの上の方では実力派の意見が並び、下の方では「データベースで仕様が公開された以上、《小転移》は対人戦で通用しないのでは」という疑問が並んでいた。
航がスマホを蒼真へ渡してくる。
「お前の認識を客観視しとけ」
「客観視ねぇ……」
「相手班の班長が見てるのとたぶん似た目線だ」
蒼真は航から受け取ったスマホを片手に、スレッドをもう一度最後までスクロールした。レスの一つ一つを声には出さずに追いながら、自分の中の反応を確かめる。怒りはなかった。「噂先行」と書かれた行を読んでも、「火力は薄い」と書かれた行を読んでも、先に来たのは肩の力が抜ける感覚だった。
「面白いな」
「面白いか?」
「うん」
蒼真はスマホを航に返し、自然に口角を上げていた。
「俺、今、『噂先行』って評価する奴と『実力派』って評価する奴の両方がいる場所にいる。それって二月の対人戦の結果次第でどっちかに振れるってことだろ」
「そうなるな」
「だったら、俺がやることは一つしかない。全部、力に変える」
航は蒼真の顔を一瞬だけ見た。それから小さく笑い、スマホをポケットに戻す。
「単純な男だな」
「先週、悠斗にも同じこと言ってただろ」
「悠斗は単純で正しい。お前は単純で正しい班長だ」
航の言い方には茶化す気配が混じっていた。けれど否定の響きは一つもない。蒼真は航の言葉に頷き、メンテナンスノートを取り出すまでもなく頭の片隅に一行を書き付ける。
――噂は、結果で塗り替える。
月曜の放課後。訓練場へ向かう前の三分間で、自分の認識の輪郭が一段はっきりした。
◇
その週の金曜の夕方。蒼真と航は二人だけでサンサンロードを歩いていた。
悠斗・紅葉・里奈・真帆は別行動になっている。紅葉が「他班の班長候補をもう何人か見に行く」と言い出し、悠斗が「俺も付き合う」と乗った。里奈と真帆も「私たちもクラス見学、まだ完了してないので」と同行を決めた。先月の対策会議で紅葉が引き受けた「相手の班長の人柄まで読みに行く」という斥候の仕事。その延長だ。蒼真と航は弓術用レーンと校庭で各自の課題を消化し、終わってから合流するつもりだった。だが四人はまだ戻ってこない。結局、二人で先に飯にすることになった。
立川駅前のサンサンロードは、もうすっかり冬の空気だった。街路樹の枝の隙間から見える夕暮れの空が、紺色に滑り落ちていく途中だ。蒼真の右手の甲側には例の薄手の手袋。鞄に入れた弽の革は、もう体に馴染んでいる。
「鷹丸、混んでるかな」
「金曜だしな。並んでたら、隣の店にする」
航の足は迷わずめしや鷹丸の方を向いていた。サンサンロード沿いの暖簾の前まで来て、蒼真が暖簾の隙間から店内を覗き込む。カウンターと小上がり、奥のテーブル席を含めて六割ほど埋まっていた。並ぶほどではないが、空席は少ない。
「いけるな」
「奥のテーブル、空いてる」
暖簾を分けて店に入ると、店主の太い腕が割烹着越しに動いた。顔を上げないまま「いらっしゃい」とだけ言う。蒼真と航は奥のテーブル席の窓側に着いた。窓ガラスの外では、街路灯の白い光が点り始めている。ガラスの内側に、蒼真と航の輪郭がうっすら映っていた。
「生姜焼き定食、大盛りで」
「焼き魚、秋刀魚ってあります?」
「秋刀魚は今日の仕入れに入ってる」
「じゃあ、それで」
店主が小さく頷いて奥の厨房に消える。航は秋刀魚の日だけ機嫌が良くなる男だ。今日の航の口元は、他の日より一ミリだけ柔らかい。蒼真はその一ミリを横目で見ながら、卓上の冷たい麦茶を飲んだ。
◇◆◇
同じ頃、めしや鷹丸の入口寄りの小上がり席で、凛は箸を止めていた。
白瀬ほのかが「凛ちゃん、それ冷めるよ」と笑って指摘するまで、凛は奥のテーブル席の方を見ていなかった。だから奥の窓側に蒼真と航が座ったことにも、まだ気付いていなかった。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「最近、よく止まるよね」
「そう?」
「そう」
ほのかは凛の卓上にある冷めかけた卵焼きをじっと見た。それからふわっと笑う。
「凛ちゃん、今、何考えてた?」
凛は箸先で卵焼きを軽く突き、小さく息を吐いた。鷹丸はSクラスの女子で来る客がそれほど多い店ではない。だがほのかが「ここのカツは衣がしっかりしてて好き」と言い出してから、放課後の早めの夕食に時々来るようになった。今日も二人で六時前に学院を出た。混む前にと早めに着いていた。
凛はテーブルの上のグラスの水滴を指でなぞった。それから言う。
「対人戦」
「うん」
「見に行くって、決めたの」
ほのかの小さな目が丸くなった。
「決めたの?」
「先月の半ばくらいに、自分で。……うん。ちゃんと決めた」
「観客席、ってこと?」
「うん」
凛の指先が、グラスの水滴の縦線を一筋なぞる。凛の言い方には、いつもの「別に」や「たまたま」といった逃げ道が入っていなかった。ほのかはその違いを聞き分けて、唐揚げを取りかけた箸先を一瞬止める。
「凛ちゃん、それ、わたしに言うの初めてだよね」
「言ってなかった」
「どうして今?」
「……今、言いたくなったの」
凛の頬は赤くなっていない。むしろ、いつもより肩の力が抜けて見えた。ほのかが「ふうん」と短く頷き、カツを一口ゆっくり噛む。噛みながら凛の顔を観察するのが、ほのかの癖だった。
「凛ちゃん」
「なに」
「観客席で見るの、普通の試合じゃ、ないんだ?」
「……普通の試合だよ」
「ちがうでしょ。凛ちゃん、わたしに『見に行く』って言うのに息止めてた」
凛はほのかから視線を外し、グラスの水滴を見た。ほのかの観察眼は、凛が自分で思っている以上にいつも高い。
「……普通の試合じゃない、かもしれない」
「うん」
「でも、特別な試合でもないの。私の気持ちがただ特別なだけ」
「そう」
ほのかは「そう」と言ったきり、それ以上は突かなかった。凛の声には普段とは違う余韻があった。ここ一ヶ月ほど、ふとした瞬間に凛が誰かの名前を呼ぶでもなく「あの人」と短く言って黙ることがある。その時と同じ声色だった。ほのかはそれを聞き分け、踏み込む線を一歩手前で止めた。
「凛ちゃん」
「なに」
「観客席の隣、空けとくね」
「……うん」
「私も、見たいから」
凛はほのかの顔を見た。ほのかは普段通りの笑顔で、何も特別なことを言ったわけではないという顔をしている。けれど凛には分かった。それが、自分の決意を「あなただけのもの」にしないでくれた優しさなのだと。
「ありがと」
「うん」
凛は箸を取り直し、冷めかけた卵焼きを口に運んだ。卵焼きにはまだ温かさの欠片が残っていて、出汁の味が舌の上で淡く広がる。窓の外はもう紺色だ。
奥のテーブル席からは、男子生徒の二人組の話し声が時々こちらまで届いていた。けれど凛もほのかも、それが誰の声かには気付いていなかった。鷹丸は学院生の常連で混む店だ。男子生徒の声なら、平日の夕方には常に何組分か背景音として流れている。凛の意識は、自分とほのかの間のテーブルの上にしかなかった。
◇◆◇
奥のテーブル席で生姜焼き定食の最後の一切れを口に運びながら、蒼真は航と二月の対人戦の予選グループ分けについて話していた。
「予選グループ、年明けには発表だろ」
「だな。冬休み中に候補班の下調べだけは進められる」
「紅葉が年明けすぐに観察を始められる」
「組み合わせ次第では、紅葉は冬休み中も動く気だぞ。あいつ、冬休み中に対戦相手の家まで見に行くんじゃないか」
航の苦笑に、蒼真も思わず吹き出す。紅葉の「対人戦の斥候の仕事」に対する本気度は、十一月の対策会議以降、班員の誰も止められない領域に入っていた。
話している間も、蒼真の目線は店内全体に向いていなかった。秋以降、外で食事をする時の蒼真の意識は、目の前の食事と相手と話題に絞られる癖がある。道場で座って食事を取る時の祖父の所作の名残りだ。「飯は飯。話は話。両方を一度にやらないで、一つずつ片付けろ」が祖父の口癖の一つだった。
だから入口寄りの小上がりに、金髪のツインテールの女子生徒と黒髪ロングストレートの女子生徒が座っていることに、蒼真は最後まで気付かなかった。
航は気付いていたかもしれない。航の目は普段から店内の出入りを把握する癖がある。だが口には出さなかった。航の気付きの範囲には、蒼真の集中の輪を必要以上に乱さない判断も含まれている。
「お前、明日の訓練どうする」
「『参』を四十射までで切る。『弐』を六十射」
「『弐』の安定率どこまで来た」
「先週で九十二パーセント。九十三が見えてきた」
「もう少しで、対人戦に持って行ける数字だな」
「ああ。九十五に乗せて、本戦に入る」
二人の会話は短かった。秋刀魚の最後の骨を航が綺麗に外し終え、蒼真がご飯茶碗に箸を置く。その頃には店主の方から「お代わり、いいぞ」と短い声がかかった。蒼真が「いえ、十分です」と答える。それで二人の食事は終わった.
会計は航が「今日は俺の番」と言ってまとめて済ませる。蒼真が「次は俺な」と返すと、航は「覚えとく」と頷いた。
暖簾を分けて店を出る時、蒼真は店内をもう一度見回さなかった。航もそうだった。二人は冷えた夕方のサンサンロードへ歩き出す。
◇◆◇
暖簾の外に二人の背中が消えてから、十秒ほど経ったあとで、ほのかが「あ」と小さく声を上げた。
凛がほのかの方に視線を向ける。
「どうしたの」
「いま、出て行った男の子の片方……」
ほのかは入口の暖簾を一瞬振り返り、凛に向き直った。凛は箸を止めて、ほのかの目線の先を追う。暖簾はもう静かに揺れているだけで、外には街路灯の光しかない。
「見間違いかも」
「誰?」
「ううん。あとで。……たぶん、気のせい」
ほのかは小さく首を振り、自分のご飯茶碗に視線を戻した。ほのかの中では、奥のテーブル席にいた長身の男子生徒の輪郭が、秋のSクラス教室で凛が呟いていた名前と繋がりかけていた。ただ確信はなかった。蒼真の顔を正面からしっかり見たことは、ほのかにはまだ一度もない。
ほのかは確信のないまま、それを凛には伝えなかった。凛の今日の「決めた」を、あやふやな偶然の上に乗せたくなかった。
凛はもう一度卵焼きを一切れ口に運んだ。ほのかが何かを言いかけてやめたことには気付いていたが、それ以上は問わない。ほのかが「あとで」と言うなら、それは「あとで」なのだ。二人の間にはそういう信頼の距離があった。
窓の外の街路灯の光が滲んで見える。冬の夜の最初の冷気が、窓ガラスの内側にうっすらと結露を作り始めていた。
◇◆◇
立川駅前で、蒼真と航は別れた。
「明日、訓練場で」
「ああ。お前、無理しないで切れよ」
「四十射で切る。約束する」
航が短く手を上げ、寮の方角へ歩いていく。蒼真は錦町方面へ抜ける前に一度だけ振り返り、暮れ切った冬の空を見た。『参』への着手も、ちょうど二週間目に入る。二週間前の月曜に残った指先の痺れは、もう手の中にはない。九十二パーセントに乗った『弐』の安定率。まだ五パーセントにも届かない『参』の感触。その二段のレイヤーが自分の右手の中に存在しているのが分かる.
メンテナンスノートを取り出すまでもなく、頭の中で月曜に書き付けた一行が反復する。
――噂は、結果で塗り替える。
裏掲示板に並んでいた「実力派」と「噂先行」の二つの評価。どちらに振れるかは、自分の射で決めるしかない。九十二パーセントを九十五パーセントに上げること。『参』の安定率を二十パーセント台に乗せること。対人戦の試合場で里奈の氷の帯を踏まずに射線を通すこと。全部、自分と班員六人の手の中の作業だ。掲示板の住人たちが何を書こうが、結果はこの五本の指の先で決まる。
錦町方面へ抜ける通路を出て、蒼真は冷えた外気の中を歩き出した。今日は鷹丸の生姜焼き定食が腹に温かく残っていて、冬の風はまだそれほど辛くない。立川駅の南東にある錦町のマンションの方角で、先週金曜の夜と同じ冬の星が一つ淡く瞬いていた。
二月中旬まで、あと約二ヶ月。蒼真は背中の和弓と矢筒の重みを意識し直しながら、明日の四十射のことを考え始めていた。




