第88話 《氷床》の応用と《光盾》
十二月第二週の金曜日。放課後の屋内訓練場のミーティングスペースは、十一月のあの日と同じ六人の足音で埋まっていた。
蒼真が一番乗りで入室し、ホワイトボードを引き出す。先週から訓練場二階のこの一画は、第5班の対人戦準備の定番拠点になっていた。前回の対策会議で使った航のフォーメーションCの叩き台が、ボードにまだうっすら残っている。
連絡通路の冷気を抜けて、悠斗が最初に「うっ、寒っ」と肩をすくめながら入ってきた。続いて航たちも揃う。十二月の月例探索実習を昨日終えたばかりなのに、六人の動きには疲労よりも手応えの方が滲んでいた。
昨日の月例実習は、蒼真が楽しみにしていた二日間でもあった。十二月第一週の月曜から動き始めた『参』の試射と並行して、六人だけで第3層を往復する。教官随行ではない、生徒編成での探索だ。立川ダンジョンに六人で潜る回数は、もう数えなくなっている。
先月の月例実習では、里奈が《氷床》の帯状応用を初めて展開した。恐る恐る「ちょっとこれ、試してもいいですか」と班員に断ってからの一手だった。今度の十二月実習では、その一言はもう要らなかった。そして真帆が昨日の第3層で、決定的な一手を覚えた。
「じゃあ、始めるか」
「その前に、暖房もう一段上げない? 手が冷えるとマーカーまで滑りそうなんだけど」
「斥候がマーカーに負けるなよ」
「でも、ちょっと分かります」
紅葉が指先に息を吹きかける。悠斗が笑い、里奈が小さく頷いた。真帆は鞄からのど飴の袋を出し、机の真ん中に置く。
「昨日から喉、乾きますよね。よかったら」
「助かる。第3層より訓練場の二階の方が乾いてる気がする」
蒼真が一つ貰うと、場の空気がほぐれた。
「昨日の実習の振り返りからな。航、まとめてくれ」
航が畳んだ資料を一枚だけ机に置き、ボードの前に立つ。長剣使いの彼が分析役に回るのは、もう班内で固定された配役になっていた。
「昨日の二日間、第3層を往復した。一日目はハイゴブリン群との戦闘が五回。二日目は四回。全戦闘、班員の負傷ゼロ。蒼真は『弐』を二回使用。『参』は一度も使わなかった」
「『参』は当分、訓練場から出さねえ」
蒼真は短く言い、矢筒を肩から下ろして壁のラックに立てかけた。月曜の訓練のあと、火曜から木曜まで三日続けて『参』を引いた。右手の指先にはまだ痺れの名残がある。それでも月曜の段階より、引きは確実に早くなっていた。
「で、本題だ」
航がボードに残っていた図を指先でなぞった。
「里奈の《氷床》の応用運用と、真帆の《光盾》。二つとも昨日の実習で実戦投入された。今日はこれを、対人戦専用フォーメーションCに組み込む」
里奈と真帆が姿勢を正した。話の主役が自分たちに移ったことに気付いた反応だ。それでも一年春の頃のような怯えは、もうどちらの背中にもなかった。
◇
「里奈、まず《氷床》の方からいい?」
「はい。先月の実習で初めて使った時から、どう改良すれば対人戦に使えるか、ずっと考えてました」
里奈はホワイトボードの前に進み出て、青いマーカーを取った。声に以前のような震えはない。秋の探索実習で《氷床》を初めて発動してから半年。蒼真の前で「私、逃げませんでした」と宣言した日を境に、里奈の口調は一段ずつ芯を持って整っていた。
「《氷床》って、本来は半径三メートルの円形なんです。でも、対人戦の試合場って」
里奈はホワイトボードに長方形を描き、その内側に柱や仕切りを表す四角を散らした。
「障害物が多くて、円形だと無駄が出るんです。柱の向こう側まで凍らせても意味がありません。だから、円形をやめて、細長い帯にすることにしました」
マーカーがホワイトボードの上を滑り、長方形の中央に細い帯が引かれる。幅は親指一本ぶん。長さはその十倍ほど。
「幅一メートルから二メートル。長さは最大十メートル。曲線にも展開できます。三秒くらい連続でイメージを送れば、敵の進路を狙って線を引ける感じです」
「里奈、それさ、俺ら班員も滑るんじゃね?」
「滑ります」
里奈が真顔で即答したので、悠斗が一瞬固まった。紅葉が横から茶化す。
「そこは否定してほしかった顔だね」
里奈は少し口元を緩め、すぐ真面目な顔に戻った。
「でも、滑るって分かってるなら使えます。班員は氷の上を踏まないルートで動くルールにします」
マーカーが今度は氷の帯の脇に矢印を引いた。班員六人が氷を避けて動く線だ。
「私の頭の中では、氷の帯を引く瞬間に班員の通る道も組み立てています。誰がどちらへ動くか分からないと、帯の引き方も決まりません」
「それは、相手にバレない?」
「氷を見ても、私たちがどっちに動くかは分からないと思います。氷の帯と班員の動線は、別の地図だから」
里奈の答えは早かった。何度もシミュレーションしてきたのが分かる答えだった。
「相手班にとっては、氷の帯が引かれた瞬間に『ここを通れない』とは分かります。でも『じゃあ、私たちはどう動くのか』までは見えません。それを利用して、進路を縛りに行きたいです」
蒼真はその答えを聞きながら、胸の内で短く息を吐いた。
本当に、変わったな。
一年春の里奈は、第2層でパニックになって逃げ出した。秋の核討伐の時には、もう「班長の矢を届けるために氷床を出す」と宣言できる里奈になっていた。そして今はホワイトボードの前で対人戦の地図を引き、班員六人の動線まで含めて戦術を語っている。
成長というより、もう別の段階に来ている。蒼真はそう思った。
「里奈、その案、フォーメーションCの中核に置く。航、組み込めるか」
「組み込める。むしろCの基本形を氷床の帯前提にすれば、相手班の前衛盾が動ける範囲を最初から限定できる。蒼真の射線も、相手の動ける範囲だけに絞り込める」
「決まりだな」
蒼真が言うより先に、悠斗が腕を組み直して口角を上げた。
「対人戦の床、里奈の地図にしようぜ」
「……私の地図、ですか?」
「そう。敵は滑る。俺らは滑らない。最高だろ」
「いや、俺らも踏めば滑るからな」
「細けえな。気持ちの話だよ」
里奈の頬がわずかに赤くなった。だが今度は俯かない。マーカーをホワイトボードの縁に戻し、自分の席へ静かに戻った。
◇
「それじゃあ次、真帆」
蒼真は真帆の方に向き直った。
ポニーテールの白魔法使いは、控えめに頷いてから自分の席で杖を構え直した。ボードの前には立たない。真帆らしい奥ゆかしさだった。
「昨日の実習で、新しい白魔法を覚えました。《光盾》です」
真帆の声は、里奈ほどはっきりした芯を持たない。だが、それは性格の差であって覚悟の差ではない。
「実習の二日目、第3層の通路でハイゴブリン群と戦っていた時です。一体が紅葉ちゃんの死角から腕を振り上げた瞬間、頭の中に『これを止める何かが要る』って気持ちが先に来て、勝手に出ました」
「あれ、正直ちょっと焦った。視界の端で腕が来て、避けるには半歩遅かった」
「間に合って、よかったです」
「うん。真帆の盾がなかったら、私たぶん派手に転がってた」
紅葉の軽い言い方に、真帆の肩から力が抜けた。索敵が一瞬間に合わなかった死角で、ハイゴブリンの腕が自分の頭上を狙った場面。その記憶は紅葉の中でもまだ生々しい。
「白い、六角形でした。半透明で、私の前に出てきて、敵の腕を弾きました」
「魔力消費は」
「軽いです。たぶん、《光矢》より軽い。《小回復》とどっちが軽いかは、まだ分かりません」
「《光盾》は『極小』だ」
蒼真が補足する。
「協会の魔法分類で、看破とか脚力強化とか追風とかと同じカテゴリーだ。確かに軽い」
航がボードの端に「光盾=極小消費」と書き加えた。
「真帆、その《光盾》を対人戦で使うなら、紅葉と前衛の悠斗・航の頭上をカバーする形になる。《氷床》の帯と組み合わせれば、相手班の遠距離攻撃を弾きながら、こっちの前衛だけが氷を避けて進める形が作れる」
航のフォーメーション組み立てが、もう頭の中で走り始めていた。
「真帆、でも一つ確認だ」
ペンの先で航がノートを軽く叩く。
「《光盾》、何枚同時に出せる?」
「実習では一度に一枚しか出してません。でも二枚目以降は、たぶん意識を分割しないといけません。効率は落ちると思います」
「一枚で十分だ」
航は即座に応じた。
「《光盾》を一枚、必要な瞬間に正しい位置へ出せればそれでいい。何枚も出すんじゃなくて、一枚を確実に置く方が対人戦では強い」
「一枚でいいって言われると、安心します」
「真帆が十枚出したら、俺がどこに隠れればいいか分からなくなるしな」
「悠斗さんは、たぶん隠れないと思います」
「ばれてる」
「あの、それから」
真帆が控えめに付け加える。
「《光盾》は、《光矢》や《小回復》と同じで、白魔法使いの本分との両立を考えないといけないです。私、班員の回復が最優先なので」
「大丈夫だ」
蒼真が静かに引き取った。
「《光盾》は、紅葉が射線に晒されそうな瞬間と、相手の遠距離攻撃が前衛に飛んできた瞬間だけ使う。普段は出さない。回復魔力は最後まで温存だ」
「はい」
真帆の頷きには、白魔法使いとしての本分を分かってもらえた安堵があった。秋に《光矢》を覚えた時から、真帆は「自分の役割は回復」を常に第一に置いてきた。最初の実習で軽傷を負った時から変わらない軸だ。蒼真がそれを共有してくれる班長であることは、真帆にとって何より大きかった。
◇
「じゃあ、組み込もう」
航がホワイトボードの前に進み出て、里奈の氷床の帯の図に新しい記号を書き加え始めた。
「フォーメーションCの基本形、いくぞ。蒼真は中央後衛、距離十五メートル。前衛は悠斗と航の二枚で左右展開。紅葉が右サイド遊撃。中衛に里奈、後衛中央寄りに真帆」
航のマーカーが、ボードの上を素早く動く。
「氷床の帯は、相手班の前衛盾の動線を二本のラインで縛る。班員の動線は氷を避ける。悠斗が左、航が右、紅葉は氷の外側を回り込む。これで蒼真の射線が一直線で通る」
「相手の遠距離は?」
「相手の魔法使いが氷の帯越しに射線を通そうとしてきたら、真帆の《光盾》で受ける。盾を出す位置は、紅葉と前衛の間の三角ゾーンに固定。これで前衛二枚と斥候一枚の誰に飛んできても、一枚の盾で止まる」
航がボードの三角ゾーンを丸で囲んだ。
「綺麗だ」
悠斗が呟いた。
「綺麗だなあ、これ。氷の床と白い盾で、対人戦の試合場がもう第5班の地図になってる」
悠斗の素直な感想に、里奈と真帆が同時に顔を上げた。紅葉が「たまにいいこと言うよね」と笑い、悠斗が「たまにって何だよ」と返す。蒼真もつられて笑った。
「さ、試そう」
蒼真がベンチから立ち上がった。
「会議だけじゃ、身につかない。今日のうちに一回だけでも動いてみる。フォーメーションC、初稼働だ」
六人がボードの前から訓練場の床へ降りていく。蒼真は手袋の甲側を整えた。昨日まで『参』の暴発と痺れに格闘していた右手の弽を着け直す。今日はそれとは違う充実が、静かに積み上がっていた。
◇
屋内訓練場の対人戦想定エリアは、本物の試合場の半分ほどの大きさだった。低い柱と仕切りが床にぽつぽつと立っている。模擬戦用の人型ターゲットと、魔道具で動く簡易な動標的を相手班に見立てて、班員六人が初稼働の動きをなぞった。
里奈が杖を構え、床に氷の帯を引く。三秒の集中。青白い帯が二本、ターゲットの正面と脇に長く延びた。相手班の前衛が動ける範囲を絞り込む。氷の上には踏み込めない動線が、ボードに描いた図の通りに完成した。
悠斗が氷の帯の左縁ぎりぎりを駆け抜ける。
「滑らねえ」
氷の縁から五十センチ外側を踏むルートが、里奈の地図の通りに足元を守っていた。
航は右側から長剣を構えて踏み込む。紅葉は氷の帯の外側を回り、ターゲットの背面側へ滑り込んだ。
蒼真は中央後衛で、十五メートル先のターゲットに射線を確かめる。氷の帯が引かれたことで、ターゲットの動ける範囲は一気に狭まった。蒼真の射線は最初から完全に通っている。
通常射、一射目。蒼い軌跡がターゲットの胸部に命中する。
「真帆、《光盾》!」
航の声と同時に、遠距離想定のターゲット側から想定魔法弾の軌道が飛ぶ。紅葉が「飛んできた」と声を上げた瞬間、真帆の杖の先から白い六角形の光が展開した。場所は、紅葉と前衛の間の三角ゾーン。
半透明の光の盾は、想定の魔法弾を受け止める位置に、しっかりと在った。
「止まりました」
真帆の控えめな確認の声。紅葉が盾の向こうから親指を立てる。
「助かった。今の、視界に入ってから出るまで早かったよ」
「ありがとうございます。紅葉ちゃんの声が、ちょうど目印になりました」
「届く位置に、ちゃんと出せる」
航が頷き、ボードの三角ゾーンの丸印を改めて指でなぞった。
蒼真は次の一射を放ちながら、フォーメーションBから確実に一段階上に来たと思った。秋のイレギュラー対応で使ったフォーメーションBは、対魔物用の連携だった。氷壁退路遮断、光矢牽制、側面射。その三つを重ねる形だ。
フォーメーションCは違う。対人戦の障害物だらけの試合場を、里奈の氷の帯で再構成する。真帆の《光盾》で射線を制御する。純粋な対人戦専用設計だった。
奥の手が、奥の手じゃなくなった。だから、奥の手ではない手札を班全体で増やす。十一月の対策会議で六人が共有した方針が、今、目の前で形になっていた。
◇
二十分ほど初稼働の動きをなぞり、六人は会議スペースに戻ってきた。外の空はもう紺色に沈み始めている。
ホワイトボードの前で、航が最終版の図を見ながら配置を確認している。里奈は「対人戦の試合場の縦横を測ってから、氷の帯の長さを決め直します」と蒼真に伝えた。真帆は《光盾》の展開速度と魔力残量の兼ね合いを、杖の柄を軽く握りながら確かめている。
紅葉が会議スペースの隅から皆を見回して、ぽつりと言った。
「フォーメーションB、卒業だね」
「うわ、なんかしんみりする」
「フォーメーションBで、第3層の核、討ったんだもんなあ」
「もう半年経つんだぞ。お前、たまには昔を懐かしむんだな」
蒼真も二人のやり取りに、自然に口角を上げていた。
フォーメーションB。秋の探索実習での挟撃戦から第3層核討伐戦まで、第5班を支え続けた連携だ。あの時、最後の決め手として『弐』を放つ蒼真の右側面で氷壁を引いてくれていた里奈は、もうこの場では「氷の帯で対人戦の試合場を再構成する」段階の魔法使いに進化していた。真帆は、当時はまだ《光矢》すら覚えていなかった。
半年で、ここまで来た。
蒼真はメンテナンスノートを開き、黒インクのペンで一行を書く。
『十二月第二週金曜。フォーメーションC、初稼働。《氷床》の帯(里奈応用)+《光盾》(真帆習得)+中央後衛蒼真の3層構造。対人戦の床は、第5班の地図にする』
ペンを置いた時、右隣の里奈がノートを覗き込んだ。
「『第5班の地図』、それ、悠斗さんの言葉ですね」
「お、引用されてる!」
「単純な男だな」
「単純じゃないと、前衛なんてやってらんないよ」
悠斗が嬉しそうに胸を張り、航がツッコミを入れる。紅葉が擁護し、真帆が口元を押さえて静かに笑った。
六人が立ち上がる。ホワイトボードに最終版のフォーメーションCの図を残したまま、ミーティングスペースを出た。連絡通路の冷えた空気を歩きながら、悠斗が「腹減った」と漏らす。
「鷹丸?」
「今日金曜だぞ。混むぞ」
「混んでても待てばいいだろ。今日は二人の新手札祝いってことで」
「新手札祝いって何ですか」
真帆が笑うと、里奈も控えめに頷いた。
「でも、少しなら……行きたいです」
「決まり。班長、財布は大丈夫?」
紅葉に振られて、蒼真は思わず鞄の重みを確かめた。
「大盛り三人分を奢るほどはない」
「俺を見て言うなよ」
悠斗が抗議した。
立川駅前まで六人で歩き、悠斗が先に「じゃあな、明日も訓練場で会おう」と手を振った。航と紅葉も寮へ向かい、里奈と真帆は改札をくぐってそれぞれの帰路へ入る。蒼真は錦町方面へ抜ける前に一度だけ振り返り、闇に沈み始めた学院の方角を見た。
昨日の月例実習で真帆が《光盾》を覚えた瞬間。闇の中で光った白い六角形の景色が、まだ蒼真の目の裏に残っていた。半年前に里奈が《氷床》を覚えた時の青白い床とは形が違う。それでも、どちらも六人の戦い方を変えた光だった。
あと、一月の実習が一回。
現メンバー六人で第3層を歩く時間は、もうあと一回だけだ。その一回を最高の精度で迎えるために、十二月の残りと一月の頭はフォーメーションCの仕上げに使う。
蒼真は錦町方面へと冷たい外気の中を歩き出した。背中に背負った弓袋と矢筒の重みが、いつもより軽く感じられた。
昨日と今日で、班員六人の手札が確実に一枚ずつ増えていた。
立川駅の南東の住宅街、錦町のマンションの方角の空に、冬の最初の星が一つ瞬いていた。




