第87話 凍る訓練場
十二月に入って、最初の月曜日だった。
立川の街は先週末からぐっと冷え込んで、朝の通学路ではマフラーを巻く生徒の数が一気に増えた。学院の渡り廊下を抜ける時の足音まで、十一月とはどこか違って聞こえる。空気が乾いて、音が硬くなる季節だ。
六時間目の授業が終わって、蒼真は鞄を背負い、弓袋と矢筒を肩にかけて教室を出た。今日は対人戦に向けた班会議の日ではない。各自の課題消化に充てる平日の一日だ。放課後の予定は屋内訓練場で一人、自分の射の精度を上げることだった。
悠斗は校庭で槍を振っているはずだ。先週の作戦会議で「他班の槍術士の動きを観察する」のと並行して、自分の槍の振りを冬の体に馴染ませると言っていた。航は教室の自分の席に残って、対人戦専用フォーメーションCの叩き台に取り組んでいる。紅葉は、おそらくもう、対戦相手が決まる前から「他班の班長候補」を眺めにどこかへ歩き出しているだろう。里奈と真帆は学食棟の自習スペース。
それぞれが、それぞれの課題を持って、それぞれの場所にいる。
六人が一つの部屋に集まる時間と、六人が別々に動く時間。対人戦に向けた助走期間は、その両方で進む。
屋内訓練場の弓術用レーンは、午後三時を回ったこの時間帯はまだ空いていることが多い。蒼真は連絡通路の硬い空気を抜けて、馴染みのレーンに入った。
二十メートル先の的が、いつもの場所にある。
壁沿いに設置されたラックに矢筒を立てかけ、和弓の弦を確かめる。十二月の訓練場は、夏場とはまるで別の場所だ。換気のために矢場の天井近くで回っている換気扇が、屋外の冷たい空気を絶え間なく取り込んでいる。床のコンクリートの冷たさが、薄底の足袋越しにじんわり脚に上ってくる。
蒼真はいつものように、右手に弽を着ける。
神代家に伝わる独自仕様の弽だ。親指の付け根、弦枕に当たる位置にだけ革が当てられている。指を覆わない形状だった。一般的な弓道の三つがけや四つがけのように親指から人差し指、中指まで革に包む型ではない。蒼真の使う弽は、革の本体が親指の付け根を中心に手の甲側へ薄く回り込んでいるだけで、五本の指はすべて自由に動く。
弦を引く瞬間に親指の弦枕で弦の全荷重を受け止めるのが弓懸けの本質、というのが祖父の代までの古武術道場の考え方だった。指を覆わない分、矢を番える指先の感覚は素手と変わらない。スローイングナイフの柄を握る時も、煙幕袋の口を結ぶ時も邪魔にならない。
地方の実家の祖父の道場で、十二歳の頃から使い込んできたものだ。革の表面は年季の分だけ手の形に馴染み、親指の腹側へ回り込んだ革は何度も汗を吸って黒ずんでいる。学院の弓術用レーンで蒼真の右手は、矢を引く時間のうちはほぼ常時この弽に収まっている。
左手、押し手の方は素手で和弓の握りを保持するのが、蒼真の普段の構えだった。
その上で、今日はもう一手間を加えた。
鞄から薄手の手袋を二組取り出して、両手の甲側に着ける。指先までは覆わない、手の甲と手首の冷えだけを抑えるための薄い綿の手袋で、弽の上から重ねる形になる。右手側は弽の革の上に手袋を乗せるので、革の馴染みは少し厚くなる。それでも弦枕の位置と親指の感覚は変わらない。
左手側は和弓の握りに直接触れる手のひらは出ているので、握りの感覚も保たれる。和弓の握りを確かめる感触はワンクッション増えるが、素手の甲で凍えながら引くよりはずっといい。
夏は素手、冬は手の甲側にだけ薄手の手袋。弽は年中装着。
長野の実家の弓道場で、祖父に最初に教わった季節の使い分けだった。十一月の上旬までなら手袋なしでも引けた。だが先週からは、これがないと右手の甲がすぐ冷える。冷えは指先まで伝わり、弦離れの瞬間の親指の動きを固くする。
弽の弦枕に弦をかけて、軽く引いてみる。問題ない。手袋が入った分の馴染みは、むしろ祖父の道場で冬場に何度も繰り返した感覚に近かった。
素引きを十数回。まず体に冬の空気を覚えさせる。
それから矢を番え、通常射へ移った。蒼い軌跡が二十メートル先の的に吸い込まれていく。問題ない。十一月の月例実習でも、第3層の薄暗がりでハイゴブリンの急所抜きをきっちり仕留めていた。
十一月第三週の二日間、第5班だけで挑んだあの探索を、蒼真は素引きの間にぼんやり思い返した。
十一月の月例探索実習。教官随行ではなく、生徒だけの編成に戻った形での探索。立川ダンジョン第3層を中心に半日ずつ二日に分けて回った。秋のイレギュラー対応で覚醒した里奈は、新しい使い方の氷の床を試した。「ちょっとこれ、試してもいいですか」と恐る恐る断ってから展開したのは、円形ではなく細長い帯状の氷の通路だった。その景色はまだ蒼真の目の裏に残っている。
真帆は《光矢》だけでなく、白魔法の防御方向にも手を伸ばし始めていた。紅葉も斥候の動きを「人間相手の対人戦も意識した距離取り」へ寄せ始めていた。
月例実習は、もう「実習」というよりは、対人戦に向けた六人の擦り合わせの場になっていた。
あと、十二月の実習が一回。一月の実習が一回。それで一年生は二月の対人戦に入る。
一月の実習が、現メンバーで挑む最後のダンジョン探索になる。蒼真はそのことを、この秋の終わりの頃から意識し始めていた。二年に上がれば班は組み直されるだろう。今のこの六人で第3層を歩く。互いの背中を確かめながら戦う時間は、あと二回しか残っていない。
だからこそ、十二月の実習も一月の実習も、ただの「練習」では済ませたくない。その意識は、班員五人と直接話したわけではない。それでも、おそらく全員が同じ覚悟で持っている。
通常射の素引きを終えて、蒼真は息を吐いた。
ここから先が、今日の本題だった。
矢筒から、状態の良い矢を一本だけ取り出す。矢羽の歪みが少なく、鏃の噛みもいい。魔力集中射の試射に使うなら、こういう一本を選ぶ。ただし、矢そのものが特別なわけではない。
違うのは、そこに込める魔力の量だった。
魔力集中射『参』。
壱・弐・参と段階を上げて魔力を込め込んでいく蒼真自身の体系で、まだ実戦に出したことのない最後の段階。秋の終わりの時点での安定率は二十パーセント前後で、実戦投入は到底できない数字だった。協会への登録手続きを終えた翌週から、蒼真はこの『参』の制御に本格的に着手していた。
着手しただけだ。安定率は、五パーセントもない。
蒼真は矢を弓に番えて、息を細く吸いながら、丹田から矢に魔力を流し込み始めた。
壱の量、弐の量。ここまでは、もう体が覚えている。問題はその先だ。弐の量を超えて、さらに倍に近い量の魔力を矢に注ぎ込む。
鏃から指先までの蒼い光が、夏の頃のそれよりも明らかに濃く、輪郭が震えている。震えながらまとまらず、矢の周囲で蒼い粒子が散る。
――だめだ。
蒼真は気付いた瞬間、矢を構えたまま指を緩めて魔力の流入を止めた。発射する前に止めなければ、矢が暴発する。先週の水曜、これと同じ感覚を無視して放った時、矢は的のはるか右上の壁に突き刺さって柄が二つに割れた。
息を整えてから、もう一度。
弐の量まで魔力を上げて、そこから一気に流入量を増やす。蒼い光が鏃に集中する。その直前で、また震えがくる。
弦を放つ。
蒼い軌跡が、的に向かって走り出した刹那、軌跡の中央あたりで一度ぶれた。輪郭が二重になりかけて、また戻る。矢は的の右下、的紙の縁ぎりぎりに刺さった。中心から二十センチ近く外れている。
本来なら通常射でも外したことのない距離での、明らかな失中だった。
「……外したな」
蒼真は声に出して呟いた。
誰に聞かせるためでもない。ただ、自分の体が今どこにいるのかを言葉にしておきたかった。
壱と弐の段階では、もうこんな外し方はしない。だが『参』に手を出した瞬間、自分の射は素人の頃の感覚に逆戻りする。込めた魔力に、まだ蒼真自身の体が追いついていない。弦から離れた直後の矢の軌道を、魔力の量が押し負けて歪ませている。
鏃に集中させる魔力の輪郭が、定まる前に矢が放たれている。
全部、原因は分かっている。
分かっていて、それでも、再現できない。
もう一射。今度は的のかなり外側、左の壁寄りに着弾。
もう一射。今度は的の中心に近かったが、矢が刺さるまでに微妙にぶれて、本来なら一直線で行くはずの軌跡が緩く弧を描いた。
もう一射。次の一射。さらに次。
二十射を超えたあたりで、鏃の周囲の蒼い光がさらに不安定になり始めた。三十射を過ぎる頃には、矢を引き始める前から右手の指先が小さく痺れている感覚があった。それでも蒼真は止めなかった。
――五十射。
五十射目を放った時、右手の親指から薬指にかけて、明らかな痺れが走っていた。指先の感覚が一段鈍る。普段なら集中射『弐』を立て続けに二十射してもこの痺れは出ない。『参』は、込める魔力量だけで言えば『弐』の倍程度のはずなのに、体への負担はその比ではない。
集中する魔力の濃度が一段上がっただけで、こうも違う。
蒼真は弓を下ろして、矢場の脇のベンチに腰を下ろした。手袋と弽を順に外して、右手を握ったり開いたりする。指の腹を親指で押すと、内側にじんとした痺れが残っている。
ここで一度、休まなければならない。
息を整えて、三十秒。
メンテナンスノートを取り出すほどの余裕は、まだない。今日の記録は、訓練が終わってから書き出す。今は、休む時間と射の時間を、自分の体に教え込むのが先だった。
息を整え終えて、ベンチから立ち上がる。弽と手袋を順に着け直して、和弓を構える。蒼真は再び二十メートル先の的に向き直り、呼吸を細く深く整えた。
――その時だった。
矢場の入口の方で、誰かが連絡通路から訓練場に入ってきた気配を感じた。
弓を構えながら、視界の端に鮮やかなブロンドの色彩が映る。栗色とは違う色だった。
次の瞬間、蒼真の意識はその色彩から離れていた。気付いた、と認識した時にはもう、目線は的に戻っている。集中している時の蒼真の体は、外部の情報の処理を最低限まで絞る。
誰が訓練場に入ってきたのかは、矢を引き終えてから確認すればいい。今は、目の前の二十メートルだけが世界の全部だった。
蒼真は息を吸い、矢を引き、丹田から魔力を矢に流し始める。
弐の量まで上げる。
そこから先が、また震える。
集中。震え。揺らぎ。
蒼真は、今度は途中で諦めなかった。震えごと矢を放つ。
蒼い軌跡が二十メートルを駆けて、的の中心からわずかに外れた位置に突き刺さった。中心から十センチ。さっきよりは寄った。だが命中とは言えない。
息を吐く。次の矢を取りに行く。
その間にも、ブロンドの気配はレーンの脇を奥へ歩いていく。視界の端でその動きだけが見えた。
Sクラスの訓練後の、帰路だろう。屋内訓練場の北側の出口は、Sクラス棟の側からの一番の近道になっている。蒼真の使っている弓術用レーンの脇を通って、向こう側へ抜ける動線。
◇◆◇
天城凛は、訓練場の北側出口に向かって、いつも通りの歩幅で歩いていた。
Sクラスの訓練が長引いて、放課後の弓術用レーンの脇を通るのは、ここしばらくは初めてのことだった。十一月の半ばに担任の榊原から「冬期メニューの調整がある」と告げられて以降、Sクラスの放課後訓練は終わる時刻が日によってまちまちになっている。今日は、いつもより一時間早く解放された。
弓術用レーンの脇を通る動線は、別に必然のものではない。北側出口に出たいなら、もう一つ通路を回り込めば弓術用レーンを通らなくても出られる。訓練後の凛はこれまで、入学から半年以上、その「もう一つの通路」を選んでいた。ほとんど無意識の癖になっていた。
今日、その癖を、凛は自分で意識した。
弓術用レーン。今日は、北側出口に向かう最短の動線を選んだ。
決して、わざわざ寄ろうとしているわけではない。最短の動線がそこにあるから、そこを通る。それだけのことだ、と凛は自分に短く言い聞かせる。
弓術用レーンに入った瞬間、蒼い軌跡が視界の端で走った。
二十メートル先の的へ矢が一本走る。中心から外れた場所に突き刺さった。
凛の足が、一瞬、止まった。止まったことに、凛自身が遅れて気付いた。止めるつもりはなかった。
最短の動線をいつも通りの歩幅で歩いて、北側出口から出る、それだけのつもりだった。
でも、止まった。
凛は、静かに息を吸って、視線だけを蒼真の方へ向けた。
蒼真は、もう次の矢を弓に番えていた。表情までは横顔のせいで見えないが、引き分けの所作には迷いがない。射に集中している人間の、外界の情報を全部削ぎ落とした、密度の高い静けさ。
十メートルほどの距離があっても、それは伝わってきた。
次の射が放たれる。
蒼い軌跡が、また二十メートルを走る。今度の的紙の中心からの距離は、さっきの一射よりは、さらに近かった。だが、まだ中心ではない。
蒼真の右手の動きが、引き終えた直後、ほんの少しぎこちなく見える。震えているわけではない。だが、もう何十射も続けてきた者の、痺れた手の所作だった。
あれは、以前見たものとは違う。
凛にも、それは分かった。春の須藤戦で蒼真の和弓から放たれた矢の蒼い光は、もっと細かった。研がれた針のような輪郭を持っていた。秋のイレギュラー対応の事後報告書にも、第3層の核討伐戦で「鏃に集中させた濃密な魔力が深く食い込んだ」という橋本圭介の記述があった。
今、目の前で蒼真が試みている射の蒼い光は、その時よりも明らかに一段濃い。濃すぎて、まだまとまり切っていない。
次の段階。
奥の手をデータベースに公開した男が、今度は新しい手札を作りに来ている。
凛の口の中で、声にならない言葉が小さく動いた。
――観客席から見ると決めたじゃない。
二月中旬の対人戦の観客席で、自分の意志で蒼真の矢を見る、と決めた。あの、立川駅前のベンチで自分自身に何度も言い聞かせて整理した3層の感情。
関心、敬意、ライバル意識。その上に「観客席から見る」という自分なりのけじめを置いて、十一月の頭から、凛はその枠の中で蒼真との距離を保ってきた。
声をかける必要は、ない。
ここで足を止める。横から「魔力どのくらい籠めてますか」と問いかける。それは観客席ではなく、訓練場の真ん中まで降りていく行為になる。凛は、まだそれをしないと決めた。「まだ」と決めた。「まだ」という副詞には自分でもまだ説明のつかない含みがあるのを、立川駅前のベンチで自分が自分に対して認めた。
だが、その「まだ」を、今日この場で消す気はなかった。
凛は視線を蒼真の方へ向けたまま、もう一度足を前に進めた。歩きながら、目だけが蒼真の方を見ていた。蒼真の射は、また放たれた。蒼い軌跡が走り、的の中央付近に突き刺さる。
さっきの一射よりも、さらに中心に近づいた。蒼真は無言だった。表情も見えない。だが、その無言の中に所作があった。外しても外してもまた構え直す体の動きが、凛にも見て取れた。
――伸びてる。
短い言葉が、凛の頭の中で像を結んだ。
須藤戦の頃から、何千本もの矢の練度があった。秋のイレギュラーで「仲間の力で撃つ」ことを体得した。協会データベースの公開で「対策される側」に回った。それでもまだ、伸びている。「奥の手じゃなくなった」程度のことで止まる気は、この男には端からない。
自分も、止まる気はないけど。
凛は、心の中で短くそう言って、視線を前に戻した。
蒼真の方は、こちらを一度も見ていない。それでいい、と凛は思った。「観客席から見る」ということは、見られる側に視線の負担をかけないということでもある。今、蒼真の集中の輪の中に自分が入る必要はない。
北側出口に向かって、凛は再び歩き始めた。蒼真の真横を通り過ぎる時、ほんの一瞬だけ、凛は目線を蒼真の方に流した。
蒼真は、ちょうど次の矢を矢筒から抜くために腰の脇に手を伸ばしているところで、凛の方には視線を寄越さなかった。だが矢を抜く手元で、視線がほんの一瞬泳いだ。それからまた的へ戻った。
気付いたかもしれない。
気付かなかったかもしれない。
凛は、それを確かめずに、北側出口の扉に手をかけた。扉の外に出る時、背中の方で蒼い軌跡がもう一度走る音がして、的に矢が突き刺さる短い音が続いた。
さっきよりも、さらに中心に近い手応えのある音だった。
扉が閉まる。
凛の頬に、屋外の冷えた空気が触れる。
凛は、扉の前に三秒だけ立ち止まって、自分の呼吸が一度ほんの少しだけ早くなっていることを確かめた。
観客席から見ると決めた。
ここで足を止めて、声をかける必要はない。
二月中旬まで、まだ二ヶ月以上ある。
凛は襟元のマフラーを軽く整え直して、Sクラス寮の方向へ歩き出した。冬の夕暮れの空気が、凛の頬を冷たく撫でていった。
◇◆◇
蒼真が今のブロンドに意識を向けたのは、それから三射先のことだった。訓練場を横切った色が、遅れて頭に残る。
矢筒から次の矢を抜いた瞬間、視界の端の動きに合わせて、視線が一度だけ流れそうになった。だが、その時には和弓の握りはもう次の射の構えに入っていて、蒼真の体は「今は的だけを見ろ」と無意識のうちに選択していた。
視線が一瞬泳ぎかけて、それから的に戻った。射の所作には影響しない範囲の、ごく短い揺らぎだった。
そのまま、次の射を放つ。蒼い軌跡が走って、的の中心から五センチほどの位置に刺さった。今日この時間で、最も中心に近い一射だった。
矢を取りに歩き出してから、蒼真は遅れて、さっきの一瞬の視線の動きを思い出した。
ブロンド。
Sクラスの帰路にあの色は何人もいないはずで、誰だったかは、確認するまでもなく分かった。
訓練場の北側出口は、もう静かになっている。扉の閉まる音は、さっき聞いた気がする。蒼真の方を一度も振り返らずに、北側に抜けていったのだろう。
蒼真は的の前で矢を抜きながら、軽く息を吐いた。
――意識しないようにしている、というのとは、少し違う。
春の頃、蒼真の中で天城凛の名前は、それだけで耳の後ろが熱くなる類の名前だった。今もその感覚がゼロになったわけではない。錦町の街で偶然会った夏休みの夕方、九月の通学路、十月のサンサンロード。
そういう積み重ねが、確かに自分の中に蒼い線で引かれている。
でも、今は、的の方が先だ。
奥の手をデータベースに公開した。対策される側に回った。その上で、通常射と集中射をもっと強くすると決めた。そう決めて次の段階の集中射に手を出した。今、的の中心から五センチのところで矢が止まっている。
二ヶ月半後の対人戦の観客席に凛が座るかどうかは、凛が決めることだ。
その時に観客席から見える射は、今日の射より一段か二段進んでいた方がいい。自分にとっても、凛にとっても、たぶんその方がいい。
蒼真は的から矢を抜き終えて、矢筒に戻し、ベンチの脇でもう一度短い休憩を取った。弽と手袋を外して、痺れの残る指を握り直す。さっきよりは、痺れの引きが早い。
ベンチに置いてあるメンテナンスノートを開いて、蒼真は黒インクのペンで一行、書く。
『十二月第一週月曜。「参」、五十射超で右指に痺れ。八十射目以降は形が崩れる。明日は四十射までで一度切る』
書き終えて、ノートの一行下に、もう一行を追加した。
『「参」、伸びる。時間はかかる。「弐」と並走で続ける』
ペンを置いた時、外の空はさらに沈んでいた。訓練場の蛍光灯の白さが、矢場のコンクリート床に長く引き伸ばされていた。十二月最初の週、放課後の冷えた空気の中に蒼い軌跡の残像が残っていた。
まだ蒼真の目の奥に、うっすらと残っていた。
弽と手袋を着け直して、蒼真は和弓を構える。
今日のあと十射までを、決めた段階の魔力で、最後までまとめて引く。
弦が放たれ、また蒼い線が二十メートルを走った。




