第9話 その日のこと
四月十五日、月曜日。
目覚ましが鳴る前に目が開いた。
天井の染みを数えるつもりはなかったが、意識が覚醒した瞬間にはもう身体が起き上がっていた。時計の針は五時十二分。いつもより一時間早い。
蒼真はベッドの端に腰かけ、両手を膝の上で組んだ。指先が冷たい。四月の朝はまだ肌寒いが、それだけではない。心臓が昨夜から一段速いリズムを刻み続けている。
「今日だ」
声に出した瞬間、指先が弦を探した。もう一度、あの一射を引きたい。
立ち上がり、洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の目は、思ったより落ち着いていた。寝不足のはずなのに妙に冴えている。
キッチンでトーストを焼き、目玉焼きを作る。食べなければ動けない。弓を引くのは全身運動だ。空腹では話にならない。
食事を終え、テーブルの上に並べた装備を一つずつ確認していく。
和弓。弦の張りを確かめる。昨夜の手入れで状態は万全だ。祖父の弓道場で何千回と引いてきたこの弓は、手のひらに吸い付くように馴染む。学院の訓練用とは、やはりまるで違う。
矢筒。訓練用の矢を五本。鏃は鈍い先端だが、魔力を纏わせれば衝撃は十分に伝わる。
スローイングナイフ五本。昨夜、一本ずつ丁寧に触媒を仕込んだ。柄の溝に嵌めた爪の欠片を指先で確認する。五つとも、ナイフケースにしっかり固定されている。
煙幕粉末。ダンジョン素材を用い製作された特別製。腰のポーチに一回分。
蒼真は右太腿にナイフケースを装着し、矢筒を背負い、和弓を手に取った。鏡の前に立つ。制服の上から武装した自分の姿は、入学式の日に見た「探索者っぽい誰か」に少しだけ近づいている気がした。
「よし」
準備が整うほど、にやけ顔が止まらなくなる。
◇
学院の正門をくぐると、いつもの朝と変わらない喧騒が広がっていた。生徒たちが三々五々に校舎へ向かい、友人同士で笑い合っている。だが、蒼真の背中にある弓袋と矢筒袋は、いくつかの視線を集めていた。
「あれ、弓術の」
「今日、Sクラスの須藤とやるんだろ」
「マジ? 弓で?」
囁きが耳に届く。蒼真は気にしなかった。気にしないと決めたのではなく、今の自分にはそれどころではないという確信があった。
「蒼真!」
昇降口の手前で声が飛んできた。悠斗だ。隣に航もいる。二人とも制服姿だが、鞄は持っていない。最初から放課後の演武場に直行するつもりらしい。
「早いな、お前ら」
「当たり前だろ。友達の晴れ舞台だぞ」
悠斗が拳を突き出してきた。蒼真はそれに自分の拳を合わせた。乾いた音が朝の空気に響く。
「寝たか?」
航が聞いた。
「三時間くらい」
「足りてねえな」
「十分だよ。頭は冴えてる」
航は蒼真の目をじっと見て、小さく頷いた。
「確かに。いい目してる」
「ありがとよ」
悠斗が蒼真の肩をバンバン叩く。
「お前さ、今めちゃくちゃいい顔してんの自覚ある?」
「うるさいわ」
「いや、ほんと。なんか、楽しそう」
蒼真は否定しなかった。楽しいのだ。怖くないと言えば嘘になる。Sクラスの実力者、《看破》のアクティブスキル持ち。格上の相手。だが、その恐怖の底に、沸き立つような高揚がある。
手にしたカードで戦う。それを証明する舞台が、今日ようやく来る。
「行くぞ」と蒼真は言った。「まずは授業だ」
◇
午前の授業は頭に入らなかった、と言いたいところだが、実際にはそれなりに集中できた。後藤の座学は相変わらず淡々としていて、ダンジョン内の植生調査に関する退屈な話題が教室に眠気を運んでいた。
だが蒼真の意識は、ノートを取る手とは別のところで須藤の動きをシミュレートし続けていた。《看破》は予備動作を察知するアクティブスキル。つまり、こちらの身体が「次の行動」を予告した瞬間に読まれる。
だったら、予告を裏切ればいい。
昨夜ノートに書き込んだ五段階の戦術が、脳裏で何度も再生される。①直射は初手のみ。②煙幕で視界を奪う。③ナイフで距離を保つ。④曲弦射で射線をずらす。⑤そして――《小転移》。
最後の一枚は、まだ誰にも見せていない。
「神代」
後藤の声で意識が戻った。
「聞いてたか?」
「はい。ダンジョン内の植生は魔素濃度によって分布が変わる、と」
後藤が一瞬だけ目を細めた。
「合ってる。まあいい」
紙コップのコーヒーを啜りながら後藤が板書に戻る。蒼真は息を吐いた。悠斗が前の席から振り返り、親指を立てた。航は前を向いたまま、肩を小さく震わせていた。笑っている。
◇
放課後。
屋外スタジアム型演武場は、学院の北東に位置している。楕円形のフィールドを客席がぐるりと囲む構造で、模擬戦や対人演習に使われる施設だ。
蒼真が演武場のゲートをくぐると、予想以上の人数が客席にいた。五十人。いや、百人近い。Sクラスの須藤が一般クラスの弓術士と模擬戦をするという噂は、思った以上に広まっていたらしい。
「結構いるな」
「人気者じゃん」と悠斗が軽口を叩いたが、その声にはわずかな硬さがあった。
「俺じゃなくて須藤が人気者なんだよ」
「まあ、そうだな」
「否定しろよ」航が口を挟んだ。
「お前も終わったら人気者だ。勝てばの話だけど」
「勝つよ」
蒼真は二人に背を向け、フィールドの中央へ歩き出した。和弓を握る左手に力がこもる。右手でスローイングナイフの柄に触れ、触媒の感触を確かめた。
五本。五回の転移。
使い切る覚悟は、もうできている。
◇◆◇
同時刻。客席の中段。
天城凛は、隣に座る白瀬ほのかの声を半分聞き流しながら、フィールドに目を向けていた。
「ねえ凛ちゃん、あの人だよ。弓持ってる」
「見えてる」
「背が高い――わけでもないか。普通? でも姿勢いいね」
凛はフィールドに入ってきた蒼真を見た。濃紺の制服の上から和弓と矢筒を背負い、腰にナイフを下げた姿。探索者学院で弓を武装として持ち歩く人間は、彼の他にいない。
「弓術士、ねえ」
口の中で呟く。入学式のオリエンテーションの日、視線を向けてきた一般クラスの男子だったはず。あの時は特に気にも留めなかった。Sクラスに入れないレベルの生徒が、Sクラスの須藤大河に模擬戦を挑まれている。
挑まれた、のではない。受けた、のだ。自分から。
凛は腕を組んだ。須藤大河の実力は知っている。Sクラスの同級生として、入学初日の自己紹介で彼の適性と素性は把握していた。両親ともに現役の有名探索者。剣士適性にスキル《看破》。間違いなく同学年トップクラスの一人。
その須藤に、弓で挑む。
「どう思う?」とほのかが聞いてきた。
「どうって」
「勝てると思う? あの人」
凛は一瞬だけ目を閉じた。火魔法使いとしての自分の感覚で、弓術という適性を評価する。遠距離攻撃手段。魔力を纏わせた矢。理屈の上では有効だが、接近されれば終わり。剣士の間合いに入られたらどうしようもない。
「普通にやれば負けるでしょうね」
「だよねぇ……」
「でも」
凛の碧い目が、フィールドの蒼真を捉えた。弓を持つ左手。その握りに迷いがない。
「負けると思ってる人間の歩き方じゃない」
ほのかが小さく息を呑んだ。
「凛ちゃん、ちょっと興味ある?」
「別に。ただの観察」
凛は視線をフィールドから外さなかった。
フィールドの反対側のゲートから、須藤大河が姿を現した。片手剣を腰に佩いた長身の剣士。堂々とした足取り。客席がざわめく。
二人がフィールドの中央で向き合う。
――二週間前、入学式の日。あの男子の視線に気づいた時、凛は「一般クラスの子」として切り捨てた。
今日、その判断が正しかったのか。
もうすぐ答えが出る。
◇◆◇
蒼真は須藤と向き合った。
二十メートルの距離。この間合いなら、初手は直射が届く。
心臓がうるさい。だが、手は震えていない。昨夜の布団の中で、弓道場の弦音を思い出しながら眠りに落ちた。今、その弦音が身体の奥で鳴り続けている。
須藤が口を開いた。
「来てくれたな」
「断る理由がない」
須藤の表情が、ほんの僅かに動いた。何かを確認するような目。
蒼真は和弓を構えた。左手で弓を握り、右手で矢を番える。魔力が指先から矢に流れ込む。蒼い光が鏃に灯った。
――勝つ。
「これより一年Sクラス須藤大河と、一年一組神代蒼真の模擬戦を始める」
審判役の教官が手を上げた。
「試合――開始!」
蒼い軌跡が、四月の空を裂いた。




