第10話 GW、世田谷へ
四月二十九日、月曜日。ゴールデンウィーク初日。
神代蒼真は立川駅のホームに立っていた。南武線で登戸、そこから小田急線で下北沢。そこから――と叔父の家までのルートを頭の中で辿る。東京の路線図にはまだ慣れない。地元では電車といえば一時間に一本のローカル線だった。
耳にはイヤホン。スマホの画面には、叔父から朝に届いたメッセージが表示されている。
『美咲と結衣が朝から騒いでる。早く来い笑』
蒼真は口元を緩めた。
須藤との模擬戦から二週間が経っていた。あの日以来、学院での空気が少し変わった。廊下ですれ違う生徒の視線に、以前はなかった色が混じるようになった。嘲笑ではない。かといって尊敬とも違う。好奇心、あるいは困惑。「弓術士がSクラスの須藤に勝った」という事実を、みんながまだ消化しきれていない。
蒼真自身もそうだった。勝利の実感は試合直後よりも、翌日の朝、和弓の弦に触れた瞬間にようやく追いついてきた。
――勝った。手にしたカードで。
その記憶を胸にしまい、蒼真は南武線に乗り込んだ。
◇
世田谷の住宅街。閑静な一軒家が並ぶ通りを歩いていると、蒼真の背後から甲高い声が飛んできた。
「そうまくーん!」
振り返るより先に、膝に衝撃が走った。身長百十センチほどの小さな弾丸。叔父の次女、結衣が蒼真の脚にしがみついていた。六歳。
「よう、結衣。元気か」
「げんき! そうまくん、けんつよくなった?」
「弓だよ。剣じゃなくて」
「ゆみ! ゆみつよくなった?」
「ちょっとだけな」
門の前に、叔父の神代誠二が立っていた。がっしりした体格に、人の良さそうな丸い顔。父・恒一の弟だが、顔つきはあまり似ていない。父が寡黙な祖父寄りだとすれば、叔父は誰に似たのかと思うほど愛想がいい。
「おう、来たか来たか。上がれ上がれ」
「お邪魔します」
玄関を上がると、奥から叔母の声と、もう一人、長女の美咲が階段を駆け下りてきた。九歳。こちらは結衣と違って少し照れくさそうに「こんにちは」と小さく手を振った。
「こんにちは、美咲」
「そうまくん、テレビでみたよ。たんさくしゃのがっこう、かっこいい」
「テレビじゃなくてネットの動画だろ」と誠二が笑う。
「学院の紹介動画な。美咲が『お兄ちゃんのところだ!』って大騒ぎしてたぞ」
蒼真は、つい口元をゆるめた。地元を離れて一ヶ月。家族の空気がこんなに温かかったとは、離れてみて初めて分かる。
◇
リビングのテーブルに、叔母の手料理が並んでいた。肉じゃが、鶏の唐揚げ、ほうれん草のおひたし、味噌汁。蒼真は「ありがとうございます」と頭を下げてから箸を取った。自炊の毎日では出せない味だ。
美咲と結衣に挟まれて食事をしながら、自然と学院の話になった。
「ねえねえ、まものってどれくらい強いの?」
結衣が唐揚げを頬張りながら聞いてくる。
「まだ本物とは戦ってないよ。これからだ」
「えー。じゃあ何してるの?」
「勉強と、訓練と、あと模擬戦」
「もぎせんって何?」
「練習の戦い。ほかの学院の子と、訓練で戦うんだ」
美咲が少し大人ぶった顔で口を挟んだ。「ダンジョンってテレビでやってた。あぶないんでしょ?」
「危ないところもある。でも、学院にいる間はちゃんと管理された中で潜るから、いきなり危険な場所には行かないよ」
「そうまくんは、つよくなるの?」と結衣。
「うん。強くなる」
蒼真が真っ直ぐに答えると、結衣はにぱっと笑った。
「じゃあ結衣まもってね!」
「おう、任せろ」
誠二が缶ビールを開けながら笑った。
「こいつらの質問攻めに耐えるのも訓練みたいなもんだな」
叔母が「もう、子供たちに変なこと聞かせないでね」とたしなめつつ、蒼真の皿に唐揚げを追加した。
◇
食後、美咲と結衣がリビングでアニメを観始めると、誠二は蒼真を庭に誘った。小さな庭だが、手入れの行き届いた芝生と、隅に植えられた紫陽花の若葉が初夏の気配を予感させる。
二人で縁側に腰を下ろした。誠二が缶ビールの二本目を開け、蒼真には麦茶のペットボトルを差し出した。
「それで、どうだ、学院は」
「楽しいよ」
「楽しい、か。兄貴も父さんも、そういう率直な言い方はしないタイプだからな。お前はそこが違う」
蒼真は麦茶を一口飲んだ。
「叔父さんに似たのかも」
「勘弁してくれ」
誠二は恥ずかしそうに笑ったが、すぐに声のトーンを落とした。
「試合があったんだってな。電話で聞いた時は驚いたぞ。入学して二週間で」
「向こうから申し込まれたんだ。Sクラスの、須藤っていう剣士に」
「剣士か。お前は弓だろ。大丈夫だったのか」
「勝ったよ」
誠二が目を丸くした。
「勝ったのか。マジか」
「マジ」
「はー……」
誠二は缶ビールをテーブルに置き、しみじみと蒼真を見た。
「お前、そういうところは兄貴に似てるな。淡々と言うんだよな、すごいこと」
蒼真は苦笑した。
「すごいかどうかは分からない。でも」
「でも?」
「弓でもやれるって、少しは示せたと思う」
誠二は黙って頷いた。それから少しの間、庭の紫陽花を眺めていた。
「なあ蒼真。俺は探索者のことは正直よく分からん。魔石がエネルギーになるとか、ダンジョンから素材が出るとか、ニュースでは見るけど実感がない。この辺、世田谷あたりだと、ダンジョンも探索者も遠い世界の話なんだよ」
「そうだろうね。電車降りてからここに来るまで、探索者っぽい格好した人誰も見掛けなかったし」
「でもな、立川は違うんだろ。あの街は探索者で回ってるって聞く」
「うん。駅前のカフェで探索者がパーティ募集してたり、オークション会場があったり。学院も、ダンジョンも、全部が一つの街の中にある。迷宮都市って呼ばれてる」
「迷宮都市か」
誠二は唸った。
「すごい時代だな。遠い世界の話って感覚だったのに、まさか身内から探索者が出る時が来るとは思いもしなかったよ」
「数十年でここまで変わったんだ。魔石がクリーンエネルギーとして使えるって分かってからは、国も本腰入れて探索者を増やす方針を取ったらしい。学院が各地方にできたのもそのためだって、授業で聞いた」
「ふうん。じゃあお前たちは、国にとっても大事な存在ってことか」
「大げさだよ。それにまだ学生だし」
「学生だろうが何だろうが、お前は探索者になるために東京に来たんだろ」
誠二の目が真っ直ぐだった。蒼真は視線を逸らさなかった。
「うん。そうだよ」
「なら胸を張れ。弓だろうが剣だろうが関係ない。お前が選んだ道だ」
「ありがとう」
喉の奥が少し熱くなったが、飲み込んだ。
◇
夕方、帰り際。玄関で靴を履いていると、結衣がまた脚にしがみついてきた。
「そうまくん、またきてね」
「ああ、また来る」
「やくそく!」
「約束」
美咲は結衣の後ろに立って、小さく手を振った。
「気をつけてね」
「ありがとう、美咲」
叔母が「またいつでもいらっしゃい」と手を振り、誠二が門まで送ってくれた。
「蒼真」
「ん?」
「兄貴にはちゃんと連絡してるか?」
「……たまに」
「そうか。まあ、兄貴は口下手だからな。父さん、お前の爺ちゃんとそっくりだ。言いたいことは山ほどあるのに、『そうか』しか言わねえ」
蒼真は思わず吹き出した。
「遺伝だよね、あれ」
「間違いない。だからまあ、お前が元気でやってるって分かれば、あの二人は安心するよ。たまには写真でも送ってやれ」
「うん、分かった」
誠二が蒼真の肩を叩いた。ぽん、と一回だけ。軽い音だったが、その手のひらの温かさは帰りの電車の中でもずっと残っていた。
◇
帰りの南武線。窓の外が夕焼けに染まっている。
蒼真はイヤホンを外し、車窓を眺めていた。世田谷の住宅街は、立川の迷宮都市とはまるで空気が違う。探索者もダンジョンも遠い、普通の街。叔父の家族が住む、普通の日常。
――でも、あの日常を守るために、探索者がいる。
スタンピードが起これば魔物はダンジョンの外に溢れ出す。立川だけの話じゃない。被害は周辺の街にも及ぶ。後藤が授業で語った氾濫の話が頭をよぎった。
結衣の「結衣まもってね」という声が耳に残っている。
小さな子供の無邪気な言葉。でも、その言葉の重さを蒼真は軽く受け流せなかった。
立川駅に着く頃には、空は茜色から藍色に変わり始めていた。マンションへ向かう道を歩きながら、蒼真はポケットに手を突っ込んだ。
もうすぐ五月。ゴールデンウィークが終われば、初ダンジョン実習の講習が始まる。いよいよ本物のダンジョンに足を踏み入れる。
――強くなる。
結衣との約束を、胸の中で繰り返した。




