第11話 五月、探索の前に
五月の陽射しが教室の窓ガラスを白く灼いていた。
ゴールデンウィークが明けて三日。四月の浮き足立った空気はとうに収まり、一年一組の教室にはようやく「日常」と呼べるものが定着し始めていた。
神代蒼真は窓際最後列の席で頬杖をつき、校庭の向こうに霞む立川ダンジョンの入口方面をぼんやりと眺めていた。
――あそこに、入るのか。
GW前の授業で「初ダンジョン実習は五月中旬開始」と告げられていた。もう十日もない。
「おーい、蒼真。起きてっか」
悠斗が前の席から身体をひねって顔を覗き込んでくる。いつものツーブロックが寝癖で左に跳ねている。今日で三日連続だった。
「起きてるよ。お前こそ寝癖直せって」
「三日目にして言う?」
「二日目で言ったろ。聞いてなかっただけだ」
航が前の席から振り向かずに言った。
「四月三日にも同じ会話してたぞ」
「覚えてんなよそんなの」
「忘れる方がおかしい」
朝のホームルーム前の、いつもの掛け合い。三人揃えばうるさい。周囲の席からは「またやってる」という視線が飛んでくるが、もはや誰も止めようとしない。慣れとは恐ろしいものだった。
◇
三時限目。探索者概論。
後藤喜一郎が紙コップのコーヒーを教卓の端に置き、曲がったネクタイもそのままに教壇に立った。
「今日から初ダンジョン実習に向けた講習に入る。実習は五月中旬に開始予定だが、それまでにお前たちの頭に叩き込んでおかなきゃいけないことが山ほどある」
後藤がホワイトボードにマーカーを走らせる。例によって板書だけはやたらと端正だ。
『魔素・魔力・ダンジョン内戦闘ルール』
教室の空気が変わった。氾濫の授業のときもそうだったが、実戦に直結する話題になると全員の背筋が伸びる。蒼真も頬杖を解いて姿勢を正した。
「まず基本から。ダンジョン内には『魔素』が充満している。肉眼では見えない。だが入った瞬間に分かる。空気が重い、肌がざわつく。お前たちの中にも学院の敷地で薄く感じたやつがいるはずだ」
蒼真は入学式の日を思い出した。正門をくぐった瞬間、産毛が逆立つような感覚があった。あれが魔素の残り香だったのか。
「この魔素を体内に取り込み変換したものが『魔力』だ。お前たちが武器に纏わせたり、魔法として打ち出したりする力の源はこれだ」
後藤がマーカーでホワイトボードに矢印を描く。
魔素(ダンジョン内粒子) → 体内で変換 → 魔力
「魔力を纏った攻撃でなければ、魔物には有効打を与えられない。いや、与えられないは言い過ぎだな。適性なしの人間が剣を振っても魔物は死なないわけじゃない。ただ、途方もなく手間取る」
後藤が紙コップのコーヒーを一口啜った。
「剣の達人でも、適性がなければ魔物との戦闘は非効率だ。逆に言えば、適性を持ったお前たちが適性武器に魔力を纏わせて攻撃すれば、大ダメージだ。これが探索者という職業が成立する根拠であり、国が探索者を増やす方針を打ち出した理由の一つでもある」
蒼真は無意識に右手を開いて閉じた。弓を引く手の感覚。弓術適性。自分だけの手札。魔力を纏った矢を放ったときの蒼い軌跡が、脳裏に焼きついている。
「先生」
誰かが手を挙げた。教室の中ほどの席の男子だ。
「魔法使い系の場合は、武器に魔力を纏わせるんじゃなくて魔法そのものが魔力の塊ですよね。それは適性さえあれば魔物に有効ってことでいいんですか」
「そうだ。魔法攻撃は魔力の塊そのものだ。適性さえあれば魔物に対して当然有効。剣士や槍使いが武器に魔力を纏わせるのと、魔法使いが魔法を打ち出すのは、出力の仕方が違うだけで、魔物に効く原理は同じだ」
後藤がホワイトボードにもう一つ書き足す。
適性武器+魔力 = 有効打
魔法(魔力の塊) = 有効打
後藤はそこで一度、教室を見回した。
「ついでに言っておく。探索者がダンジョンに入る理由は、大きく三つある」
ホワイトボードに、後藤が新しい項目を書き足す。
魔物の間引き。
魔石・素材の回収。
氾濫予兆の調査。
「ダンジョンを放置すれば、魔物が増える。増えすぎれば氾濫――スタンピードが起きる。だから探索者は定期的に潜り、魔物を間引く。これは社会を守る仕事だ」
教室の空気が、少しだけ重くなった。
「同時に、魔物を倒せば魔石が出る。魔石は今の社会を支える新しいエネルギー資源だ。大気汚染のないクリーンな発電が行える。魔導発電所って言葉くらいは聞いたことがあるだろう。プロ探索者にとっては収入源で、現代社会にとっては電力の根幹となって久しい。魔石の他にも、素材やアイテムが落ちることもある。探索者にとっては、それも収入になる。深い階層ほど危険だが、その分、得られるものも大きい」
悠斗が小さく「稼げるってことだな」と呟き、航が「命懸けの仕事だろ」と返す。
「その通り。大金を稼げる仕事ではある。だが、お前たち学生はまだ稼ぎに行くわけじゃない。実習で魔石を持ち帰っても、個人の収入にはならん。学院を通して運営費として処理される」
「ついでに言うと、お前たちが戦闘のたびに魔石を拾って回る必要もない。学院管理下の実習では、討伐地点や経路は記録される。後で学院側の回収担当――資格持ちの探索者が確認して、魔石や素材を回収する仕組みになっている」
後藤はそこで、眠そうな目をしたまま教室を見回した。
「だから、落ちた魔石を見て浮かれるな。拾うかどうかで迷うな。そんなことをしている間に後ろからゴブリンに殴られたら、笑い話にもならん」
後藤は紙コップのコーヒーを置き、少しだけ声を低くした。
「一年生の仕事は、魔石を集めることじゃない。怪我なく潜り、怪我なく帰ることだ。ダンジョンの空気、魔物の動き、仲間との連携。それを覚えるために潜る」
蒼真は、膝の上で右手を握った。
魔石や素材の回収、氾濫の予兆の調査。どれも、社会を守る仕事の一部だ。
その全部が、今はまだ少し遠い。けれど、十日後に踏み込むダンジョンの先に繋がっている。
「だから勘違いするな。初探索で大事なのは、倒した数じゃない。全員で入って、全員で帰ってくることだ」
「次。なぜダンジョン内で銃が効かないか」
後藤の声がわずかに低くなった。
◇
「ダンジョン内では火器、銃・爆発物のたぐいは無効だ。弾丸が魔物の体表面に着弾した瞬間、波紋のような現象が発生して吸収される。爆発物も同様だ」
教室がざわついた。知識としては知っていても、改めて聞くと異様な話だ。
「なんで吸収されるんですか」
悠斗が手を挙げずに聞いた。後藤は咎めなかった。
「正確な理論は解明されていない。研究者の間では『魔素が火薬の化学反応による運動エネルギーを減衰させる』という仮説が有力だが、まだ仮説の域を出ていない」
「じゃあ、弓は?」
今度は航だった。蒼真のほうをちらりと見てから聞いている。
「いい質問だ」
後藤が蒼真を見た。一瞬だけ、あの昼行灯の奥にある鋭い目が覗いた。
「人力による弓・ボウガンはダンジョン内でも飛び道具として有効だ。化学反応ではなく人力、つまり魔力を纏わせた身体から生み出された運動エネルギーは、魔素による減衰を受けない。だから弓矢に魔力を纏わせられれば、魔物に対して有効打になる」
教室の視線がじわりと蒼真に集まった。弓術適性。学院で唯一。須藤戦の記憶がまだ残っているのだろう、好奇と困惑が混じった空気。
蒼真は背筋を伸ばしたまま動じなかった。
――見てろ。
「ただし」
後藤が言葉を継いだ。
「飛び道具の主流はあくまで魔法だ。火球でも氷槍でも、魔法は魔力の塊そのものだから減衰を受けない。射程も柔軟で、複数発の連射も利く。その上、防御魔法なんて便利な手段もある。対して弓は一射ずつだ。矢の補充も必要だし、射線の確保にも気を遣う。魔法使いが後衛の主力、弓使いは極めてレア。これが現状だ」
淡々とした説明だった。弓術を蔑んでいるわけではない。ただの事実だ。
蒼真は唇の端を持ち上げた。事実は知っている。知った上で、ここにいる。
◇
「最後に一つ。ダンジョン内の戦闘では『魔力を纏った攻撃の視覚的な変化』が起きる」
後藤がマーカーのキャップを弄びながら言った。
「剣士が魔力を纏わせて斬れば、剣閃に合わせて蒼白い光の尾が見える。魔法使いが火球を放てば、魔力の残光が軌跡を描く。弓術士なら、矢が蒼い軌跡を引く」
蒼真の心臓が一つ跳ねた。
須藤戦のとき、放った矢が蒼い尾を引いて飛んだ。あの光を目で追ったギャラリーのざわめきを覚えている。
「魔力を纏った攻撃は見た目で即座に判別できる。込めれば込めるほど輝きは強くなる。つまり敵にも味方にも『今の一撃は本気だ』と分かる。これは戦術的に重要な情報だ。覚えておけ」
後藤が紙コップの残りを飲み干した。
「今日はここまで。明日以降、班分け・装備確認・ダンジョン内行動規範と続く。遊びじゃないからな。死にたくなけりゃ、講習は寝るなよ」
最後の一言は教室全体に向けたものだったが、後藤の視線は悠斗のあたりを通り過ぎていった。悠斗が「寝てないっす」と小声で言い訳し、航が「四月に二回寝てた」と即座にカウントを入れた。
◇
放課後。
三人でサンサンロードを歩いていた。五月の風が街路樹を揺らし、歩行者専用道路には探索者やビジネスマン、学院生が入り混じって行き交っている。
「魔力を纏った攻撃が蒼く光るってのは知ってたけどさ」
悠斗が缶ジュースを片手に歩きながら言った。
「蒼真の矢、あの試合で本当に綺麗だったよな。蒼い尾を引いて飛んでくやつ」
「光が綺麗かどうかは知らないけど」蒼真は苦笑した。
「矢の蒼い軌跡は弓術士として嫌いじゃない」
「お、珍しく自分で言うじゃん」
「言ったっていいだろ、自分の武器なんだから」航が缶コーヒーのプルタブを開けながら言った。
「銃が効かないのに弓が効く。理屈を聞くと納得はするけど、弓術適性者が探索者を選ばないって理由も分かるな。魔法のほうが汎用性が高い」
「身も蓋もないこと言うなよ」
「事実だろ。だから蒼真がいる意味がある」
航はそう言って缶コーヒーを口に運んだ。表情は変わらないが、言葉の選び方に気遣いがあった。
蒼真は少し笑って、空を見上げた。五月の空は、どこまでも抜けていた。多摩モノレールの高架が、サンサンロードの上を横切っている。
「いよいよだな」
「ダンジョン」悠斗が呟いた。缶ジュースを握る指に力が入っている。
「ああ。いよいよだ」
蒼真は矢筒の位置を確かめた。緊張はある。それでも、初めて魔物を相手にできる期待の方が大きかった。
あのダンジョンの入口に立つ日が来る。魔素の濃い空気を全身で浴びて、魔物と対峙する。魔力を纏った矢を実戦で放つ。
――やってやる。
五月の風が髪を攫った。蒼真は拳を握り、すぐに開いた。弦を引く形に指が自然と曲がった。
◇
夜。マンションの自室。
いつものノートを開き、今日の講習内容を整理する。
魔素→体内変換→魔力。適性武器+魔力=有効打。
銃無効(化学反応エネルギー減衰論)。弓有効(人力=魔力を纏わせた運動エネルギー)。
魔力を纏った攻撃は蒼い光の軌跡。敵味方双方に視認可能。
書き終えて、ペンを置いた。
ふと机の上のスマートフォンが震えた。画面を見ると、祖父からのメッセージだった。
『体調はどうだ』
蒼真は目を丸くした。いつもの「そうか」ではない。六文字もある。
「爺ちゃん、どうした。六文字もくれるなんて」
声に出して笑いながら返信を打つ。
『元気だよ。もうすぐダンジョンにも入るよ』
既読がつく。数十秒の間。
『そうか』
「結局それか」
蒼真は天井を見上げて笑った。
でも、その前に「体調はどうだ」があった。祖父なりの心配だと分かる。ダンジョンに入ると伝えれば、あの寡黙な老人が六文字を絞り出すくらいには、気にかけてくれている。
ノートを閉じ、和弓を壁から取った。弦に指を添える。引くことはしない。ただ、この手に馴染んだ木と弦の感触を確かめるように。
――十日後には、この弓で魔物を撃つ。
蒼真は和弓を壁に戻し、布団に潜り込んだ。目を閉じても、蒼い軌跡が瞼の裏で尾を引いていた。




