第84話 鷹丸のから揚げ
十月の最終週、金曜日の夕方。
立川市サンサンロード沿いのめしや鷹丸は、いつもの賑わいに戻っていた。
ダンジョンの一時探索中止が解除されてから、一週間ほど経つ。立川の探索者たちが日常の活動を再開し、学院生たちもダンジョン実習に戻っている。鷹丸の暖簾をくぐると、夕方の時間帯特有の定食の匂いと、料理人の仕込みの音が店内に満ちていた。
店主の「おう」といういつもの無愛想な挨拶が、カウンター越しに飛んできた。蒼真が「こんばんは」と返すと、店主は人数を数えて「六人、奥、空いてるよ」と顎で座敷を示した。
話し込みはしない。蒼真が第5班で鷹丸に通い始めて約半年、店主との会話のテンポは、既に常連のものになっていた。
座敷に六人で座る。
悠斗が真ん中、その両脇に航と蒼真。向かいの席に真帆、里奈、紅葉。
悠斗は席に落ち着くなり、左腕をぐるっと大きく回した。肩、肘、手首。三つの関節を順に全可動域で動かす。
「完治、したぞ! 医務室の先生にも太鼓判もらった」
悠斗が得意げに宣言した。
「もう普通に振り回しても大丈夫だって。完全にいつも通り」
「よかったです」
真帆が頬を緩めて、静かに応じた。
「真帆の回復のおかげだよ。医務室の先生も『骨折してないのが奇跡的』って」
「……いえ、それは悠斗さんの槍の柄が、角度を逸らしてくれたからです」
「まあ、そうなんだけどよ」
悠斗が、右手で自分の左腕を軽く叩いた。
「俺、完治したんで、もう悠斗事件は終わりってことにする」
「悠斗事件って」
航が呆れた顔で呟く。
「自分の怪我を自分で『事件』呼ばわりするな」
「だってよう、あれからみんなで気を遣いすぎだったろ。先生も先生で『左腕、大丈夫か?』って毎日聞いてくるし。もう大丈夫。元通り。解決。通常運転に戻ろうぜ」
「悠斗」
蒼真が、静かに呼びかけた。
悠斗が顔を向ける。
「――ごめん」
蒼真は、まっすぐ悠斗の目を見て言った。
座敷が、一瞬静かになった。真帆、里奈、紅葉、航。全員が蒼真を見ている。
「俺が判断ミスしたせいで、お前に怪我させた。改めて、ごめん」
悠斗は一瞬、蒼真の目を見返した。それから、ふっといつもの明るい笑顔を作った。
「もう聞いた」
悠斗の声は軽かった。責める色も、気を遣った色もない。
「あのあと、お前が頭下げて、みんなで立ち直って、主倒して、俺の腕も完治した。もう全部、終わったことだろ」
「……」
「から揚げで、返せ」
悠斗が、右手で拳を作って蒼真に見せた。
「ここで、な。今、注文する。俺のから揚げ定食大盛り、お前の奢り」
「……」
蒼真は一度目を伏せて、それから頬を緩めた。
「分かった。奢る」
「よっしゃ!」
悠斗が、拳を天井に向かって突き上げた。
座敷の空気が柔らかくなった。紅葉が「悠斗、ちゃっかりしてる」と笑い、航が「から揚げ一食で手打ちか。安いな」と呟き、真帆が口元を隠して小さく笑った。里奈も杖を膝の上に置いたまま、肩を揺らしている。
蒼真の中で、張りつめていたものが解けていった。
借りを、返し合う。
悠斗は最初から、そういう形でこの件を終わらせたいと思っていた。蒼真が頭を下げて、蒼真が奢って、悠斗が「もう全部、終わった」と宣言する。
それだけで、良かった。
悠斗が「もう大丈夫」と言ってくれる限り、蒼真は次に進める。
◇
店員が、注文の確認に来た。
悠斗が一番に手を挙げた。
「から揚げ定食、大盛り!」
航が続く。
「カツ丼。あ、うどんの小セットつけてくれ」
「生姜焼き定食、ご飯大盛りで」
蒼真の注文。
男三人組の注文は、いつも通りボリューム重視だった。コスパのいい定食に、ご飯大盛りや小セットを追加する。成長期の男子の食欲を、鷹丸の定食は容赦なく受け止めてくれる。
女性組は、新メニューのお品書きを開いて相談し始めた。
「秋の新作、気になる」
紅葉が指差した。
「きのこグラタン定食。これにする」
「炊き込みご飯膳、美味しそう」
真帆が頷いた。
「季節の食材がいっぱい入ってて、あったまりそうですね。私、これにします」
「里奈は?」
紅葉が里奈に訊いた。
里奈は、しばらくお品書きを見つめていた。
「……」
里奈は杖を膝の上に置いて、お品書きを両手で静かに持っていた。いつもは日替わり定食を頼むのが里奈の定番だった。週替わりで内容が変わる日替わりを、毎回「……日替わりで」と細い声で注文する。
今日は、違った。
「焼き魚定食、お願いします」
里奈は顔を上げて、店員にはっきりと告げた。
声が震えていなかった。芯のある、普通の声のボリューム。
「今日はサンマですね」
店員が確認した。
「はい」
里奈が頷いた。
「里奈、日替わりじゃないの?」
紅葉が、驚いた顔で訊いた。
「……はい。たまには変えてみようかなと、思って」
里奈は紅葉を見て、微笑んだ。
その微笑みは淡いけれど、確かに里奈自身の意思で作られたものだった。気を遣ったものでも、愛想でもない。自分の選択を、自分で良しとしている顔。
「里奈、変わったね」
紅葉がそう言って頷いた。
責めるでもなく、驚きすぎるでもなく、静かな指摘だった。
里奈の頬が赤くなる。
「……そうですか?」
「うん。最近、ずっと見てて、思ってた」
紅葉がお品書きを閉じて、里奈を正面から見た。
「里奈の声、入学したばっかりの頃と比べると、ぜんぜん違う。今もちゃんと細いんだけど、芯があるっていうか」
「……」
「私は、いいと思うよ」
紅葉の言葉は短かった。でも、そこには十分な優しさがあった。
里奈はうつむき加減に、でも確かに頷いた。
「……ありがとう、ございます」
その「ありがとうございます」は、震えていなかった。
蒼真は斜め向かいの席から、里奈の姿を見ていた。
春に逃げ出した少女が、今は自分で選んだ注文を口にしている。その変化が、第5班の半年を静かに物語っていた。
◇
料理が運ばれてきた。
悠斗のから揚げ定食大盛り。お盆の上には、直径三十センチはありそうな大皿に、ごろっとしたから揚げが五個、こんもりと盛られている。大盛りのご飯、味噌汁、漬物、キャベツの千切り、タルタルソースの小鉢。男子高校生が一食で食べきれるのか不安になる量だった。
「よっしゃあ! 神代蒼真様のご厚意のから揚げ定食大盛りを、俺、全力で頂くぞ!」
悠斗が箸を構えた。
「いただきます!」
一口目のから揚げを頬張る。咀嚼しながら、目を閉じて「……んふ」と幸せそうに呻いた。
「うまい」
悠斗が断言した。
「鷹丸のから揚げ、世界一。これが奢りで食えるってのが、また格別」
「お前、奢られる側の遠慮ってもんを知らねえのか」
航が呆れながらツッコむ。
「普通、奢られる側はもう少し控えめな感想を言うもんだろ」
「控えめに『うまい』って言っても、本当にうまいから控えめにはなれねえ」
「論点ずらすな」
「ずらしてねえよ、真実を述べてるだけ」
悠斗と航のいつものテンポが戻ってきた。蒼真は生姜焼きを頬張りながら、二人のやり取りを耳の端で聞いていた。
いつもの、鷹丸の空気。
戻ってきたのだと思った。
イレギュラー対応から二週間が経つ。蒼真たちの日常は、少しずつダンジョンの外側に戻ってきていた。
紅葉のきのこグラタン定食は、グラタン皿の上で、まだ熱を立てていた。
「やばい、火傷する」
紅葉が口の中で舌を回している。
「でも、うまい」
「紅葉ちゃん、ゆっくり食べなよ」
真帆が、自分の炊き込みご飯膳を穏やかに食べながら、紅葉に声をかけた。
真帆の方は、落ち着いた食べ方をしていた。季節の野菜の入った炊き込みご飯を、一口ずつ、ゆっくりと。白魔法使いらしく、食事の取り方にも穏やかさがある。
里奈のサンマは、綺麗に骨を残して食べ進められていた。骨の取り方が丁寧で、家庭でちゃんと魚を食べる習慣があることが分かる食べ方だった。
「里奈、魚、きれいに食べるね」
紅葉が指摘した。
「……田舎、なので。母が、魚、よく焼いていました」
「いいなあ。私、実家で魚の焼き方、ろくに教わってない」
紅葉が恨めしそうに言った。
「うちの母さん、『焼き魚は店で食べるもの』って、自宅で焼いたこと、ほぼ無いんだよね」
「都会、ですか?」
「ううん。都会ってか、母が料理苦手なだけ」
紅葉が笑った。
里奈もつられて笑った。
◇
食事が半分ほど進んだ頃、店の奥のテーブルから大きめの声が聞こえてきた。
第5班の座敷とは、二メートルほど離れた仕切りのない続きの空間。他の学院生らしい男女三人組が、食事をしていた。蒼真たちとは別のクラスらしい。見覚えのない顔ぶれ。
三人組の会話が、断片的に蒼真たちの耳へ入ってきた。
「……って聞いたけど」
「マジで? 一人で?」
「いや、一人じゃなくて、班員ごと、だろ。でも、なんか、『小転移』ってスキルで、広間の奥にいきなり現れたらしいぜ。三組の奴らが話してた」
「それ、本当に一年? 上級生じゃなくて?」
「一年だって。一組の、弓使いの」
蒼真の箸が止まった。
悠斗も、から揚げを口に運びかけていた手を止める。航と紅葉と真帆と里奈も、それぞれ食事の手を止めていた。
店の奥の三人組の声は続いている。
「弓使いって、一年で一人しかいねえんだろ? 適性持ち」
「そうそう。神代、って名前らしい」
「どんな奴なんだろうな」
「三組の奴の話だと、後衛を助けに来たらしいぜ。広間の奥にいきなり『小転移』で現れて、異常個体を矢で一発だって」
「……一発?」
「一発」
「《小転移》って、そういや、入学直後の須藤戦で一瞬消えたやつ、あれじゃねえか?」
「あー、言われてみりゃ。ずっとスキル名は分からなかったけど、あれがそうなら筋が通る」
三人組の一人が、椅子の背もたれに身を預けながら半信半疑の声を出した。
噂が、流れている。
蒼真は箸を静かに持ち直した。
ダンジョンの動員から二週間。他班の目撃情報が、学院生の間でこうして話題になり始めている。蒼真自身の名前も、少なくとも一部には届いている。
紅葉が蒼真の方をちらっと見た。
目配せ。「気にしないで、食べ続けて」の合図。
蒼真は頷き返した。
こちらから反応しない。気づかないフリをして、食事を続ける。店の奥の三人組に、自分が「その神代」だと告げる必要はない。三人組は蒼真の顔を知らないまま、噂の話を楽しんでいる。それでいい。
悠斗が、小声で蒼真にだけ聞こえる音量で呟いた。
「……お前、もう有名人じゃん」
「いやいや」
蒼真は首を小さく横に振った。
「三組の加藤班、だろ。あのとき広間に飛び込んだ後、後衛の二人が『何をされたのか分からない』って顔してたから、『小転移っていうスキルなんだ』って、それだけ教えたんだ。名前だけ。細かい仕様までは話してない」
「あー、それで」
悠斗が納得したように頷いた。
「スキル名だけ分かれば、春の須藤戦を見てた奴は、あのとき消えたのも同じやつだって、すぐ察しがつくよな」
「だろうな」
蒼真は苦笑いした。
「緊急事態だったし、訊かれて黙ってるのも不自然だった。言いふらさないでくれとも頼んでないから、向こうが話すのは自由だ」
「だよなあ」
悠斗が、から揚げをもう一つ口に運んだ。
◇
店の奥の三人組の会話が、もう少し続いた。
「なあ、その弓使いって、どの教室にいるんだ?」
「一組5班の班長だって、三組の奴が言ってた」
「一組……見に行くか?」
「やめろよ、さすがに変だろ」
三人組が笑った。
そのまま、会話は別の話題に流れていく。
蒼真は、ふっと肩の力を抜いた。
「……変、って言われてる」
紅葉が、聞き耳を立てていたらしく小さく笑った。
「でもさ、班長、これ、たぶんもっと広がると思うよ」
「……そうか?」
「三組の後衛二人以外にも、目撃した他班の人、結構いるんじゃない? 動員の日、三十班が同じ階層にいたわけだし。班長が《小転移》使った瞬間を、別の角度から見てた誰か、絶対にいる」
「……確かに」
「で、スキル名が広まると、春の須藤戦の『一瞬消えたやつ』と結びつく。『なんだ、あのときのアレも小転移か』って、学院中の連想ゲームが一気に進む。噂だから効果は誇張される。『瞬間移動で十人倒した』くらいに膨らむ可能性もある」
「勘弁してくれ」
蒼真が肩をすくめた。
「仕様の詳細までは広まらないから、そこは助かる。でも、スキル名とおおよその効果は、今週中に学院の大半に知れ渡ると思う」
「そこは、もう覚悟するしかないな」
「だな」
「でもさ」
紅葉が、蒼真を見て真面目な顔になった。
「噂が広がったとしても、班長の弓は班長の弓だ。私たちの知ってる神代蒼真は、変わらない」
「……ああ」
「だから、あんまり気にせず、いつも通り弓引いてればいいと思う」
蒼真は、紅葉の言葉を受け止めた。
いつも通り。
噂が広がろうと、自分の射撃は変わらない。明日も、明後日も、訓練場で弓を引く。六人で、連携を磨く。それだけ。
◇
食事が終わりに近づいた。
悠斗が、から揚げの最後の一個を、ゆっくり味わうように食べていた。大盛りご飯もほぼ空にしている。
「……ごちそうさま、と」
悠斗が箸を置いた。
「蒼真、ありがとな。マジでうまかった」
「ああ」
「これで、悠斗事件、完全終了。もう何も引きずるなよ」
悠斗の声は、普段通り軽かった。
だが、その「引きずるな」の重みは蒼真に届いていた。
「……引きずらない」
蒼真は、悠斗を見て頷いた。
「次、やらかしたら、もう一回から揚げ奢るからな」
「何回分でも受け取るぞ」
「頼むから、そんな状況作らせるな」
悠斗が笑った。
航と紅葉と真帆と里奈も、それぞれ食事を終えていた。紅葉のグラタン皿は綺麗に空になっていて、真帆の炊き込みご飯膳も小鉢まで全部食べきっている。里奈のサンマの皿は、骨だけが整然と残っていた。
「じゃ、そろそろ帰るか」
蒼真が会計を頼んだ。悠斗のから揚げ定食大盛り分は、蒼真が支払った。他の五人はそれぞれ自分の分。
店を出る前、店主が蒼真の方をちらっと見て小さく頷いた。「また、来いよ」の意味だと、蒼真は受け取った。
「また、来ます」
蒼真は、店主に向かって一言だけ返した。
◇
店の外。
夕方の空は、もうほとんど紫に変わっていた。十月最終週の夕方は、夏の頃より明らかに短い。街灯が、サンサンロードのケヤキの並木をぽつぽつと照らし始めている。
「秋、終わるね」
紅葉が、空を見上げて呟いた。
「もうすぐ、冬」
蒼真は空を見上げた。
夏休みが終わって、新学期が始まって、秋の探索実習があって、イレギュラー対応があって。気がつけば、季節が次のフェーズに差し掛かっている。
時間の流れは早い。
だが、六人で過ごした半年の密度は、確かに濃かった。
「寮、帰るわ。航、行くか」
「ああ」
悠斗と航が、柴崎町の寮方面へ。
紅葉と真帆と里奈は、駅の方へ向かう。女子組で寄りたい店があるそうだ。
蒼真は、一人で錦町方面へ。
「じゃ、また明日」
「また明日」
六人が、それぞれの方向に歩き出した。
◇
蒼真は、南口のケヤキの並木道を一人で歩いていた。
ポケットに手を入れて、ゆっくりと住宅街の方向へ進む。夕方の風が冷たい。制服の上からでも、はっきり肌に触れてくる。
冬が来る。
蒼真は、一人でそう思った。
季節が、明確に変わろうとしている。
夏休みが終わった時に蒼真の中にあったのは、「秋の実習が楽しみだ」という熱意だった。その楽しみは、実習が終わり、イレギュラー対応が終わり、そして今、静かな日常の先へ形を変えている。
次の目標は、後期対人戦。二月。
Sクラスへの昇格をかけた、一般クラスの班同士の対抗戦。
勝てば、Sクラス昇格のチャンスを掴めるかもしれない。負ければ、二年生もまた一般クラスから始まる。
蒼真は歩きながら、右手で拳を軽く握り直した。
次の目標に、視線は既に向いていた。
次の戦いまで、あと三ヶ月。
訓練の日々が、静かに始まる。




