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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第三章 イレギュラー編

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第83話 後藤の報告書

 立川ダンジョンの異変制圧から、五日後の夜。


 東京探索者学院、職員室。

 窓の外はすでに暗く、校舎の大半は人気が絶えていた。正門横の守衛室の明かりだけが、遠くで黄色く灯っている。秋の夜の冷気が、換気のために僅かに開いた窓の隙間から、職員室の中に流れ込んでいた。


 後藤喜一郎は、自分のデスクで、一人、バインダーを開いていた。

 デスクの上には、コーヒーカップが一つ。中身は、もう冷めている。いつものことだ。後藤はコーヒーを「淹れたらすぐ飲む」のが苦手で、大抵、飲み頃を逃して冷ましてしまう。


 そして、コーヒーカップの横に。

 四冊のファイルが、並んでいた。


 その端に、小さな透明ケースが一つ置かれている。

 中に収められているのは、第3層核個体の魔石だった。

 生徒が通常実習で持ち帰る魔石とは、明らかに大きさが違う。拳に近い大きさの濃い土色の結晶は、ケース越しでも、まだ内側に光を抱えているように見えた。

 学院の記録班が行った簡易測定では、同階層のハイゴブリン個体から得られる魔石と比べても、魔力密度が高い可能性がある、という所見が付いている。


 後藤は、そのケースを指先で軽く押さえた。

 報告書だけなら、読まれないこともある。

 だが、これは違う。

 第3層の奥で、実際に異常が形を持って残った証拠だった。


   ◇


 一冊目。

 使い込まれた角、すり減った表紙。一年生の初ダンジョン実習の報告書が入っている。


 表紙の右上の黄色い付箋に、後藤の筆跡で書かれている。

 『第2層 通常種外観差異に関する観察記録(一年生初実習・五月)』

 後藤はファイルの角を、指の腹で軽く撫でた。


 あの五月。春の終わり。学院に入ったばかりの一年生たちが、初めてダンジョンに足を踏み入れた日。第5班の報告書の中に、「角が一本のハイゴブリン」の記述があった。あのとき後藤は違和感を覚えて、すぐに急用で席を立ち、そのまま忘れた。

 書類の山に埋もれたバインダーを、三ヶ月後の七月、後藤は自分の引き出しの奥から引っ張り出した。そのときには、もう「今度は忘れない」の付箋を貼っていた。

 でも、その時点でも、報告書は「未提出」のままだった。


 今、後藤はそのファイルを開き、当時の報告書のページを、じっと見た。

 「ハイゴブリン、推定変異個体、角一本、通常種より大型」。第5班の一年生、神代蒼真の筆跡。淡々とした事実の記録。


 このとき蒼真は、自分が見たものが何なのか、まだ分かっていなかった。

 後藤も、このとき、何が起こっているのか、掴めていなかった。

 ただ、違和感だけが、一本の付箋の形で、残っていた。


   ◇


 二冊目。

 前期実力考査の報告書ファイル。

 表紙の右上の付箋には、こうある。

 『ハイゴブリン変異個体 継続観察報告(前期実力考査・七月)』


 七月。

 第5班が第2層奥で、体色が通常種より暗いハイゴブリンを目撃した。蒼真は即座に、それを「変異」として認識し、先制攻撃を考えた上で、「統率の違和感」からやり過ごす判断を下した。


 後藤はその報告を受けて、探索者協会立川支部を経由して、探索省に報告を上げた。

 返答は、「個体差の範囲」で棚上げ。

 後藤はそのとき、声には出さず腹を立てた。「個体差の範囲」という言葉で、一年生の観察を軽く扱われたことへの憤りだった。だが、探索省に対して後藤一人が何かを動かせる立場ではない。


 だから、付箋を追加した。

 「要再確認」。秋の実習で、もう一度、自分の目で、確認する。

 ファイルを閉じて、後藤は、三冊目に手を伸ばした。


   ◇


 三冊目。

 秋の探索実習の報告書ファイル。

 表紙の付箋に記された文字。

 『変異個体 行動パターン異質化の観察記録(秋の実習・十月上旬)』


 自分で現場に随行して、目で見た。

 第2層奥の広間で、ハイゴブリン一体が他の三体と異なる動きをしていた。外見は通常種と変わらない。角二本。体色は緑。体高は一・二メートル。だが、行動パターンだけが明確に違った。中央奥に位置取りし、短い唸り声で配下を統率する。統率型の変異個体。


 この時点で、後藤の頭の中では、三件が繋がっていた。

 角の数、外見の異常。体色、色の異常。行動パターン、挙動の異常。

 変異の「検出が徐々に困難になる」方向への進化。

 三件を並べれば、これは偶然の個体差ではない。ダンジョン内で、何かが、確実に、進行している。


 報告を上げた。今度こそ、中層からのプロ探索者の報告と連動して、大規模イレギュラー扱いで動いた。

 探索中止の発令。全層調査。動員。


   ◇


 四冊目。

 最新の報告書ファイル。

 表紙の付箋には、まだ何も書かれていなかった。

 後藤は、引き出しから新しい黄色い付箋を一枚取り出して、ペンを握った。

 『立川ダンジョン全層異常個体発生事案 事後総括報告(十月)』

 付箋に、丁寧に、書き込んだ。

 これが、四冊目の完結編だった。


 後藤はファイルを開いた。中には、まだ白紙のページが並んでいる。これから、ここに、今回のイレギュラー対応の総括を書き込む。それが、後藤に課せられた最後の仕事だった。

 ペンを構えた。

 だが、書き出す前に、後藤はもう一度、四冊のファイルを、机の上に並べた。


 一冊目。五月。付箋「今度は忘れない」。

 二冊目。七月。付箋「個体差の範囲。要再確認」。

 三冊目。十月上旬。付箋「事実確認済み。中層の報告と連動」。

 四冊目。十月。付箋「立川ダンジョン全層イレギュラー発生事案 事後総括報告」。


 五ヶ月かかった。

 一冊目で「違和感」を付箋にしてから、ここまで。

 五ヶ月の間に、蒼真の班は一年生として経験すべき戦闘を重ねた。夏の訓練を越え、秋の実習を越えた。そして今回のイレギュラー対応で、第3層の核となる個体を討伐した。


 全員、無事に、帰ってきた。

 ――今度は、忘れなかった。

 後藤は、一冊目の付箋を、もう一度、指の腹で撫でた。

 「今度は忘れない」。自分に向けた、五ヶ月前の誓い。その誓いが、今、形を持った。


   ◇


 ペンを取り直して、後藤は、四冊目の最初のページに、書き始めた。

 『一、事案概要』

 『立川ダンジョンにおいて全層的に魔物の異常個体が発生。原因は立川ダンジョン固有の異常であり、他のダンジョンでは同様の現象は観測されず。学院各学年および探索省の連携による制圧作戦により、全層の異常個体を排除、正常化を確認』


 後藤のペンは、事実を、淡々と書き連ねていった。

 『二、動員体制』

 『一年生約三十班による第1〜3層の掃討、二年生による第4〜6層、三年生による第7〜10層の異常排除確認、プロ探索者による第11層以降の制圧。教員陣は管理棟に待機し、魔導通信機による指揮および緊急時対応に専念。各班の戦闘判断は班長に一任する体制を採用』

 『三、一年生動員の結果概要』

 『一年生全三十班が第1〜3層に投入され、異常個体の制圧を完遂。負傷者は数名発生したが、いずれも応急処置および地上帰還後の治療で回復。死亡者、重傷者はなし』


 淡々と書いていく。

 そして、四項目目。

 『四、第3層核個体の討伐について』

 デスクの端に置かれた透明ケースが、蛍光灯の光を鈍く返している。

 後藤のペンが、一瞬、止まった。

 この項目は、他の項目よりも、丁寧に書くべきだと思った。


   ◇


 『四、第3層核個体の討伐について』

 『第3層最奥部において、角三本・体高二メートル級の変異個体が確認された。この個体は配下のハイゴブリン群を統率する「指揮個体」としての機能を有し、第3層の異常の核となっていたと推定される。同個体の討伐が、第3層全体の異常収束に直結した』

 『討伐は、一組5班(班長:神代蒼真)が初動対応を実施。救援班の派遣を決定したが、到着まで最速十数分を要する見込みであったため、同班が現場判断により核個体の足止めおよび討伐作戦へ移行。六名の連携による三段階の作戦で、核個体および配下六体を撃破。救援班到着前に戦闘終了。所要時間は広間突入から撃破まで約五分。負傷者なし』


 後藤はペンを置いた。報告書の中の「神代蒼真」という名前だけが、妙に重く見えた。五月の夜から今日までを、嫌でも思い出す。


 五月、初ダンジョン実習の帰り道。

 蒼真が独断で第2層に飛び込み、逃げ出した里奈を追ってハイゴブリン変異個体と戦闘になった夜。後藤はあのとき蒼真を叱責した。「お前の班員が、死んでいたかもしれない」。あの日の後藤の声は、今までで一番鋭かった。


 七月、前期実力考査。

 蒼真は六射中、致命打を一本しか取れなかった。「弓術士の壁」にぶつかり、ノートに「仲間の力で撃つ」と書いた。

 横で見ていた橋本教官は言った。「あの弓術士、焦りを表に出さずに五分休憩を指示した。班長として、器は大きい」。後藤は、ほう、とだけ答えた。


 夏休み。

 蒼真は魔力集中射の訓練を自主的に続けた。八月の終わりに安定率八十五パーセントに到達した報告が、ノートで回ってきた。


 秋の実習。

 後藤自身が随行した。蒼真の班はフォーメーションBを実戦投入し、魔力集中射を初実戦で撃った。変異個体を目撃し、記録し、接触せずにやり過ごす判断を下した。あのときの蒼真の判断力は、一年生の水準を越えていた。


 そして、今回のイレギュラー対応。

 判断ミスがあった。悠斗が左腕を負傷した。蒼真は挫折した。里奈の覚醒に救われ、六人で立ち直り、最後は第3層の核を討伐した。


 五ヶ月で、あそこまで来た。

 後藤の頭の中で、もう一つ、言葉が浮かんだ。

 後藤はペンを取り直して、報告書に書き足した。


 『五、討伐を成功させた要因について』

 『当該班の班長・神代蒼真は、適性武器である弓の火力限界を自覚し、班員六名の手札を連携の形で組み合わせる戦術を一年間かけて構築してきた。今回の核個体討伐は、その戦術体系の完成形として機能した』

 『具体的には、魔法使い(中村里奈)が《氷壁(アイスウォール)》で敵を分断し、《氷床(フロストバインド)》で足元を拘束した』

 『白魔法使い(小林真帆)は《光矢(ライトアロー)》で視界を封じた。前衛三名(橘悠斗、宮瀬航、鬼塚紅葉)は主の注意を引きつけ、斥候(鬼塚紅葉)が死角情報を伝達した』

 『これら全てが重なった状態で、班長自身が《小転移》で死角に回り込み、魔力集中射を核個体の右こめかみに貫通命中させた』

 『神代蒼真の弓の火力は、単独では依然として足りない。だが、考える力がある。仲間と撃てる。六人の連携の頂点に、自分の一射を届けることができる。それが、あの弓術士だ』


 後藤はペンを置いて、書いた文字を、しばらく見つめた。

 火力は足りない。だが、考える力がある。仲間と撃てる。

 これが、今の神代蒼真への、後藤の評価だった。

 適性武器の火力不足という、一年生のときから明らかだった構造的な課題を、蒼真は「解決しない」で「乗り越える」方向で向き合ってきた。弓を強化するのではなく、連携の設計で、弓の一射を活かす構造を作り上げた。


 それは、蒼真の才能というより、選択だった。

 何度も悔しい思いをしただろう。何度も、自分の火力不足を呪っただろう。その上で、蒼真は「仲間と撃てる弓術士」になる道を、選んだ。

 ――悪くない、一年生だ。

 後藤は、口元を、ほんの僅か、緩めた。


   ◇


 『六、結論』

 『本事案は、三件の前兆事象とプロ探索者からの中層異変報告が連動したことで、大規模イレギュラー発生として認知された』

 『前兆事象は五月の外観異常、七月の体色異常、十月上旬の行動パターン異常である。観察記録の積み上げが制圧作戦の初動を支えた点は、今後の類似事案への教訓となる』

 『学院における今回の対応では、一年生班による第3層核個体の討伐が制圧の決定打となった。教員陣が随行せず通信機での指揮に徹する運用体制は、一年生班長の判断力を育成しつつ、実戦対応の速度を確保する面で機能した。今後のイレギュラー発生時にも参照可能な運用モデルとして、記録する』

 『以上、立川ダンジョン全層イレギュラー発生事案、事後総括として、報告する』


 後藤はペンを置いた。

 ファイルを閉じて、表紙を一度、撫でる。

 付箋の文字。「立川ダンジョン全層異常個体発生事案 事後総括報告」。それが、職員室の蛍光灯の下で、黄色い光を、静かに反射していた。


   ◇


 四冊のファイルを、引き出しに戻す。

 今度は、奥に押し込むのではなく、取り出しやすい位置に、並べて置いた。

 一冊目、二冊目、三冊目、四冊目。時系列の順に、整列させて。


 後藤は、引き出しを閉めながら、もう一度、一冊目の付箋を思い出した。

 「今度は忘れない」。五ヶ月前に、自分に向けた誓い。

 忘れなかった。

 忘れなかった結果、一件の観察記録は四件の積み上げになった。ダンジョン異常の実態解明につながり、制圧作戦の初動にもなった。そして、六人の一年生の班が第3層の核を討伐する構図に結実した。


 全部が、繋がっていた。


   ◇


 後藤は、コーヒーカップを手に取って、残りを一気に飲み干した。

 苦い。

 だが、今日の苦さは、悪くない苦さだった。

 職員室の窓を閉めて、電気を消した。


 ――次は、冬だ。

 一年生の後期対人戦が、二月に控えている。一般クラスの班同士の対抗戦。勝利した班からはSクラス昇格を手にする生徒が現れるかもしれない試合。

 蒼真たちの班は、間違いなく、上位に食い込んでくる。今回のイレギュラー対応で積み上げた戦術は、対人戦でも確実に機能する。


 後藤は、職員室のドアを閉めながら、口元をわずかに緩めた。

 ――見てやる。あの弓術士が、どこまで行くか。


 廊下を、後藤は、いつも通りの眠そうな足取りで、歩いていった。

 その背中に、秋の夜の冷気が、静かに降りてきていた。

 外の空に、もうじき、冬が来る。

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