第82話 第3層からの帰還
主がいた広間の出口。
蒼真が弓を肩に掛け直し、紅葉が回収した矢を蒼真の矢筒に戻したところで、真帆が「ちょっと待ってください」と声をかけた。
「悠斗さん、左腕、もう一度見せてもらえますか」
真帆の声は、戦闘中の緊張が抜けた、穏やかなトーンに戻っていた。だが、白魔法使いとしての確認は、戦闘前と同じ丁寧さで続いている。
「ん? ああ、おう」
悠斗が、右手で槍を床に立てたまま、左腕の袖を自分でまくった。
真帆は、悠斗の左腕の包帯を一度外して、肌の色と腫れの様子を確認した。真帆の集中治療で完全に引いていた腫れが、戦闘中の動きでいくらか戻っている。包帯の内側の皮膚には、戦闘直後らしい血色の濃さがあった。
「……少し戻っていますね」
真帆がぽつりと言った。
「マジか。俺、ほとんど突きしか使ってねえつもりだったけど」
「さきほどの戦闘で、かなりの反動を受けたんでしょう。主の拳が近かったですし、突きの姿勢自体も左腕に負担をかけています。――地上に戻るまで放置すると、また腫れが悪化する可能性があります」
真帆は、杖を握り直した。
「最後の一回、かけます」
蒼真が、真帆の方に目を向けた。
「真帆、それが最後か?」
「はい。――《小回復》、あと一回分しか、魔力が残っていません」
真帆は、柔らかい声で、しかし明確に、答えた。
「さっきの戦闘で《光矢》を使った分、正直、残りがぎりぎりでした。もう少し節約できていれば、もう一発分くらい余裕があったかもしれないんですけど」
「いや、《光矢》が主の目を焼いてくれたから、俺の転移先が死角として成立した。――真帆の判断は、正しかった」
蒼真がすぐに応じた。
真帆は表情を和らげて、悠斗の左腕に杖先を向けた。
「――行きます」
◇
真帆の杖先から、白い光が流れた。
これまでの《小回復》で見てきた中で、最も濃い光量。魔力の残量を振り絞った一発。
悠斗の左腕に、白い光が深く浸透していく。
包帯を外した皮膚の下で、戻りかけていた腫れが確実に引いていく。血色も健康な色へ近づいた。
筋肉層の奥で血が整然と流れ始める感覚――と、悠斗はあとで真帆に形容した。
約一分の集中治療。
真帆が杖を下ろしたとき、悠斗の左腕は、戦闘前――いや、戦闘前より、さらに調子が良いくらいの状態に戻っていた。
「……おお、これマジで動く」
悠斗が、左腕を何度か回してみた。肘の曲げ伸ばし、手首の回転、指を強く握り込む。全部、スムーズに動く。
「握力はどうです?」
「ほぼ戻った。――戦闘前のあの、集中治療してもらった直後くらいか」
「良かったです」
真帆は、ほっと息を吐いた。
杖を両手で握り直す。だが、その握り方に力は入っていない。
魔力を込めるためではなく、ただ杖を支えているだけの脱力した握りだった。
「――これで、私の魔力、ゼロです」
真帆が、静かに言った。
蒼真と他の四人の視線が、真帆に集中した。
「《小回復》、もう使えません。《光矢》も、魔力が足りなくて出せません。――完全に、空です」
「戻れば回復するんだよな?」
悠斗が訊いた。
「はい。数時間、休めば、ある程度は戻ります。完全に戻るには、一晩は」
真帆は少し照れくさそうに、続けた。
「だから、――帰りは」
真帆は、そこで一拍、間を置いた。
蒼真に、ではなく、悠斗の目を、しっかりと見た。
◇
「悠斗さん」
「ん?」
「私、魔力を使い果たしてしまいました」
真帆の声は、柔らかかった。でも、はっきりしていた。
「帰りの道中で何かあっても、私、誰も回復できません。――逆に、自分の身も守れません」
「……」
「だから、悠斗さん、――帰りは、私を、護ってほしいんです」
広間の出口に、短い沈黙が生まれた。
悠斗が、真帆の目を見つめた。
真帆の頬に、ほのかに色が差した。自分からこういう依頼を出すのが、真帆には珍しい。普段の真帆は、自分の役割を静かに果たして、人に頼るのを最小限にする性格。
――でも、今は、頼まなきゃいけない場面だった。
真帆は、それを、理解していた。
「……真帆」
悠斗の表情が、ふっと、緩んだ。
笑いかけた、のではない。もっと、別の――真剣さと優しさが混ざった顔だった。
「任せてくれ」
悠斗は、右手で自分の胸を、軽く叩いた。
「俺、お前が俺の左腕を完治まで持ってきてくれた。――その分、帰りは俺がちゃんと真帆の横についてる」
「……ありがとう、ございます」
「うるせえよ、そんな改まって言うな」
悠斗が苦笑した。「班員同士だろ。お互い様だ」
真帆が、やっと、ほっとした顔で、笑った。
蒼真は、その二人のやり取りを見ながら、自然と息を緩めていた。
――これが、班だ。
真帆の魔力がゼロになった。代わりに、悠斗が真帆を護る。
今朝までは、悠斗が左腕を負傷した。真帆が悠斗を回復させた。
役割は、局面ごとに入れ替わる。誰かが倒れたら、別の誰かが立つ。支え合いの向きが、固定されていない。
それが、六人の第5班だった。
◇
「――行こう」
蒼真が、改めて号令をかけた。
「隊列を組み直す。航がワントップ。悠斗と真帆は中央寄り。悠斗は真帆の横について護る。紅葉が斥候で先行、俺が後方で射撃援護。里奈は真帆の反対側、中央付近」
「了解」
「了解」
六人が、新しい隊列で、広間を出た。
悠斗が真帆の左側に位置取る。悠斗の左腕は、真帆の集中治療で完治に近い状態に戻っている。右手で槍を、左手で槍の柄を支える両手持ちの構えが、完全ではないが、機能する。
真帆は杖を両手で持ったまま、悠斗の半歩斜め後ろを歩いた。
魔力ゼロの白魔法使いは事実上、護衛対象だ。戦闘になったら、真帆は物理的に逃げる以外できることがない。
悠斗が、時折、歩きながら、真帆の方をちらっと見る。その度に、真帆が小さく「大丈夫です」と応えた。
◇
通路を帰り始めてすぐ、蒼真は、周囲の空気が、明らかに変わっていることに気づいた。
他班の戦闘音が、ほぼ聞こえない。
出撃の朝、第3層は他班の戦闘音であちこち賑やかだった。通路の反響、広間からの怒号、魔法の着弾音――それらが複数の方向から同時に届いていた。
それが、今は、ほぼ無音。
たまに遠くから微かな音が聞こえるが、大抵は戦闘終了後の片付けのような音――矢を回収する音、魔石を拾う音、班員同士の声――そういった、戦闘の「後」の音。
「……静かだな」
悠斗が呟いた。
「主が倒れたから、かもね」
紅葉が前を向いたまま答えた。
「指揮役がいなくなって、配下の異常個体の動きが統制されなくなった。結果、他班の処理が一気に進んだ」
「そういう仕組みか」
「たぶん。――索敵でも、変異個体の反応がほとんど拾えなくなってる。通常種は残ってるけど、イレギュラー個体は激減してる」
蒼真は、紅葉の報告を聞きながら、メンテナンスノートに短く記録した。
『主の撃破後、第3層の変異個体反応が急速に減少。核個体が配下の異常を統率していた仮説、確認』
ペンを止めて、蒼真は通路の先を見た。
第3層から第2層への降り口――いや、今は、登り口――まで、そう遠くない。紅葉の索敵で、そこまでのルートに魔物反応はほとんどない。安全に登れる。
◇
腰の通信機が、鳴った。
通常チャンネル、ではなく――他班連絡用チャンネル。
蒼真は通信機を持ち上げて、耳に当てた。
『一組5班、応答を』
「はい、一組5班、神代です」
『一年三組組3班、加藤だ』
先ほど救援した他班の班長からの通信だった。
『第3層で核個体を倒したのは、お前の班だろ』
「……はい」
『俺の班もそれを知って、第3層の残存処理が一気に楽になった。変異個体が動きを統率しなくなったんだ』
「そうでしたか」
『助かった。――重ね重ね、恩に着る』
「いえ、俺たちの担当区域が、たまたま主のいた場所だっただけです」
『遠慮するな。――神代、お前、いい班長してる』
通信機の向こうで、加藤の声が、少しだけ笑っていた。
『うちの班の後衛、「神代さんが消えて現れた」ってあれからずっと騒いでる。正直、俺もあのスキルが何なのかよく分からん。――まあ、詳しくは聞かん。お前のカードだからな』
「ありがとうございます」
『地上で会ったら、また挨拶する。――じゃ、気をつけて帰れよ』
「はい、そちらも」
通信が切れた。
蒼真は通信機を腰に戻した。
加藤の声には、戦場で互いに助け合った者同士の独特の実感があった。
蒼真と加藤は同じ一年生で、Sクラスでもない一般クラスだ。今日のイレギュラー対応で戦場で出会い、班番号を交換した――それだけの関係。
でも、その「それだけ」の重みが、今日、確かに形を持っていた。
◇
第3層から第2層への登り口。
紅葉が先行して安全を確認してから、六人が階段を登り始めた。
第2層の魔素が、第3層よりも一段、軽く感じる。気温も、第3層より暖かい。
悠斗が、真帆の横を歩きながら、時折、右手で自分の左腕を、確かめるように軽く叩いていた。
「俺、ちゃんと動けてるぞ、真帆」
「……はい、見てます」
「動けてるから、真帆のこと、護れる。安心しろよ」
「……はい」
真帆の頬に、また色が差した。
紅葉が前を向いたまま、「悠斗、それ、ちょっとキザだよ」と笑った。
「うるせえ! 自然な会話だろうが!」
「キザだってー」
「航、お前からも何か言え!」
「……否定はしない」
航の短い返事に、紅葉が吹き出した。蒼真もつられて頬が緩んだ。
悠斗が「くそ、班員全員で俺を敵に回しやがって」と呟いたが、その声には、明らかに楽しそうな響きがあった。
戦闘直後のぴりぴりした空気が、こういう軽口でほどけていく。
里奈が真帆の反対側を歩きながら、ふと杖を持ち直した。そして小さく呟いた。
「……帰れる」
里奈の声は、細かった。でも、その「帰れる」の中には、里奈の今日の全部が、込められていた。
春に第2層で逃げた里奈。
前期の試験で、震えながら《氷矢》を放った里奈。
今日、《氷壁》と《氷矢》と、戦闘中に新規習得した《氷床》を、班の戦いの中で使った里奈。
その里奈が、今、「帰れる」と呟いている。
蒼真は、その里奈の横顔を見ながら、心の中で静かに頷いた。
◇
第2層を進み、第1層への登り口に到達した。
第1層は、ほぼ完全に静かだった。
他班が出撃時に残していた戦闘の痕跡――岩に残る傷、散らばった魔石の破片――が通路のあちこちにあった。だが、新しい戦闘音はない。
第1層を抜けて、ダンジョンの入口ゲートの前に、到達した。
ゲートの向こう――地上の光が、見える。
秋の午後の光。出撃から、約七時間が経っている。
「――戻った、か」
悠斗が、息を吐いた。
六人が、ゲートをくぐった。
秋の空気が、肌に触れた瞬間、蒼真は、制服の下に溜まっていた汗と疲労が、一気に表に出てくるような感覚を味わった。
管理棟広場。
出撃の朝、一年生全百八十名が整列した広場。
そこには既に、戻ってきた他班の姿がちらほら見えた。
Sクラスの青いネームプレート。一組の2班、3班。二組の班。三組の班。
三組の加藤班も広場の一角にいて、後衛の二人と話していた。
管理棟の仮設テントも、まだ動いている。テントの中で、教員たちが通信機を前に、モニターを続けている。
蒼真は、テントの方に目を向けた。
後藤が、テントの端で、バインダーを片手に、立っていた。
後藤が、蒼真の方に気づいた。
目が合った。
後藤は、何も言わなかった。ただ、一度、ゆっくりと、頷いた。
蒼真も、頷き返した。
それだけで、今日一日の出来事が、後藤と蒼真の間で共有された。
◇
「――真帆」
悠斗が、広場に出てから、真帆に声をかけた。
「ちゃんと、帰れたな」
「はい」
「約束、守ったぞ」
「はい。――ありがとうございました、悠斗さん」
真帆が、頭を下げた。
悠斗は、「いえいえどういたしまして」と、わざと大げさな口調で答えてから、急に真面目な顔になった。
「真帆、あとで、医務室、連れてってやる。一緒に行こう。――真帆も、休まないと」
「……はい」
真帆が、柔らかく笑った。
蒼真は、六人を見渡した。
真帆は悠斗と医務室に向かう。悠斗も、念のため左腕の確認。それ以外の自分達四人は各自の装備を片付けて、報告書を書く。
「――解散の前に」
蒼真は、六人の前に立った。
「全員、無事に、帰ってこれた」
五人が、頷いた。
「今日は、俺一人じゃ絶対に無理だった。悠斗、左腕庇ってくれてありがとう」
「航、前衛ワントップはしんどかったと思う。紅葉、索敵と死角の通知、完璧だった」
「里奈、《氷床》で本当に助けられた。真帆、回復の配分は最後までぎりぎりだったのに、誰一人欠けなかった」
蒼真は、一度、言葉を区切った。
「ありがとう。――六人で、帰ってきた」
五人の反応は、それぞれだった。
悠斗が「蒼真、お前、ちょっと、泣いてんじゃねえよな?」と軽口で突っ込み、蒼真が「泣いてねえよ」と苦笑いで応じた。
航が「事実の確認だな。――お疲れ」と短く。
紅葉が「班長、いい感じのシメだったよ」と笑った。
里奈が「……帰れて、よかったです」と、静かに頷いた。
真帆が「こちらこそ、ありがとうございました」と頭を下げた。
◇
悠斗と真帆が管理棟の医務室に向かって歩き出した。
悠斗は真帆の歩くペースに合わせて、ゆっくり進んでいる。
真帆は杖を両手で支え、疲れた足取りで、それでもしっかりと悠斗の隣を歩いていた。
その二人の背中を、蒼真はしばらく見ていた。
――ダンジョン内は温存で、外では全開。
真帆が夏休みから繰り返し言ってきた運用方針。
今日、その方針は完全に機能した。
真帆はダンジョン内で応急処置レベルに留め、魔力を温存した。悠斗の左腕の完治は、今、医務室で行われる。
もちろん、今日は主戦闘前の集中治療で、想定より多く魔力を使うことになった。
「主戦闘後に《小回復》一回分、残るかどうか」という真帆の計算通りだった。本当にぎりぎりの線で残した一回が、最後に悠斗の左腕に使われた。
その分、真帆自身は、帰路の護衛を悠斗に頼む立場になった。
それでも――誰一人、欠けなかった。
それが、第5班の、今日の結論だった。
◇
蒼真は、管理棟のテントの方へ歩いていった。
後藤が、バインダーを持ったまま、蒼真を待っていた。
「――お疲れ様、神代」
後藤の、いつもの眠そうな目が、今日は、いくらか柔らかかった。
通信機越しに聞いた「よくやった」の言葉を、後藤は今、目の前で、「お疲れ様」の六文字に置き換えて、蒼真に届けた。
「……はい。ありがとうございます」
「報告書は、明日でいい。今日は、帰って休め」
「はい」
航が、布で包んだ魔石を差し出した。
「第3層核個体の魔石です」
後藤は一瞬だけ布の膨らみに目を落とし、すぐに近くの教官へ手渡した。
「記録班に回す。……よく持って帰ったな」
それ以上、後藤は魔石について言わなかった。
蒼真は、弓袋を肩に掛け直した。
秋の午後の光が、管理棟広場に長く斜めに差していた。
――帰ろう。
立川ダンジョンの入口ゲートの向こうで、蒼真の錦町のマンションが静かに待っている。




