第81話 決戦・第3層の核
広間の入口。
蒼真はナイフを二本、両手に構えていた。紅葉が壁の凹みの隙間から広間の中を最終確認する。一分ほどの静止。その後、紅葉が音を殺して戻ってきた。
「班長、主と配下、位置変わらず。主はまだ中央で立ったまま。配下六体は半円陣形を維持」
「分かった」
蒼真は五人に目で合図した。
――行くぞ。
広間の入口の左右。段差の陰。それぞれの位置を視界に捉える。距離は約十五メートル。視界内。条件は満たしている。
右手のナイフを右側の段差の陰へ。
左手のナイフを左側の段差の陰へ。
ほぼ同時に二本を投擲した。回転したナイフがそれぞれの段差の岩に小さな音を立てて刺さる。
これで転移先の準備は完了。
残る小転移のナイフはポーチに四本。触媒は全て揃っている。
◇
「――始めるぞ!」
蒼真の号令と同時に、六人が広間に踏み込んだ。里奈の杖が即座に前に突き出される。
「《氷壁》!」
広間の中央を横切るように氷の壁が立ち上がった。高さ二メートル。幅十メートル強。厚み三十センチ。主を中心とした半円陣形を真っ二つに分断する位置。
主と左側の配下三体が壁の向こう。
右側の配下三体がこちら側。
主の視線が《氷壁》の向こうからこちらに向けられた。だが、壁が視界と移動を遮っている。主の腕は組まれたまま。身体が動く気配はまだない。
配下のハイゴブリン三体がこちら側で動いた。一体が棍棒を振り上げ、蒼真たちに向かって走り出す。
その瞬間、真帆の《光矢》が走り出した個体の顔面に命中した。白い光が閃き、ゴブリンの目が焼かれる。動きが一瞬止まる。
続けて、里奈の《氷矢》が別の一体の右足に命中した。足首から冷気が広がり、ハイゴブリンが体勢を崩す。
前衛の悠斗・航・紅葉が、ほぼ同時に動いた。
悠斗は目を焼かれた個体に右手で槍を突き出す。左腕は槍の柄に添えるだけだが、突きの勢いは十分だった。腹部を貫通。ハイゴブリンが粒子化する。
航は足を凍らされた個体に、《斬撃強化》の八割出力で横一閃。首元を裂く。粒子化。
紅葉は残る最後の一体の足元に滑り込み、短剣で太腿を切りつけた。血色の体液が飛び散り、ハイゴブリンがよろめく。そこに悠斗の槍が戻ってきて、心臓に突き立つ。粒子化。
右側の配下三体、処理完了。
所要、約二十秒。作戦の想定より速い。
◇
「《氷壁》、あと十秒!」
紅葉が叫んだ。
《氷壁》の向こうで、主が壁を叩く音が響いていた。ドン、ドン、と鈍い打撃音が続く。壁の一部にはひびが走っている。主の素手が壁の厚みを確実に削っていた。
「全員、フェーズ2の位置に!」
蒼真の号令で、前衛三人が《氷壁》の手前に陣形を組み直す。悠斗が中央やや後方。航がワントップ。紅葉が側面。真帆と里奈は、広間の入口近くで蒼真の前方に位置取る。
蒼真は広間の壁際に沿って移動した。左右の段差のナイフの位置を視界に収めたまま動ける位置へ。
《氷壁》が砕けた。
破片が広間の床に散らばり、その向こうから主と残り配下三体が現れる。
主が初めて動いた。
中央に立ったまま組んでいた腕を、ゆっくりと解く。素手の巨体が前衛三人の方に向き直る。
配下三体は、主を守るように左右に展開した。
指揮、か。
蒼真は即座に理解した。主は配下を指揮している。配下の動きが主の意思に合わせて連動していた。
主の視線が前衛三人に固定される。
主の素手の拳が、広間の床に振り下ろされた。
ドン、という重低音が広間に反響した。床の岩が拳の位置でひび割れる。前衛三人の顔色が変わった。
「棍棒より重い……」
悠斗が小さく呟いた。
「航、距離を詰めすぎるな。紅葉、側面から撹乱」
蒼真が指示した。
「了解」
航が主の正面で、拳の間合いの外に剣を構えた。紅葉が側面から撹乱するため、短剣を構えて動き出す。悠斗は航の二歩後方。槍の突きで援護に入る。
配下三体に対しては、蒼真が通常射で対応を始めた。
矢を三本、立て続けに放つ。一本目。配下の右端のハイゴブリンのこめかみに命中。粒子化。二本目。中央の配下は首を振って避け、矢は耳の上を掠めた。三本目。左端の配下の右目に命中。怯んだ瞬間、紅葉が駆け寄って小剣で首を裂いた。粒子化。
残りは、主の後方に立つ配下一体。
真帆の《光矢》がその一体に向かった。白い光が配下の顔面を焼き、視界を奪う。その隙に、蒼真の四射目。額への通常射で粒子化。
配下、全排除。
広間に主と六人だけが残った。
◇
主の素手が二度目に振り下ろされた。
航が一歩後退して、拳の間合いから身を引く。拳が床に激突する前に、航は既に距離を取っていた。床の岩が砕ける音が広間に響く。
悠斗が槍を主の脇腹に突き出した。右手中心。左腕は添える程度。突きの穂先が主の肌に突き刺さる。
だが、浅い。主の筋肉層が厚く、穂先が深く入らない。
主が悠斗の方を振り向いた。
「――悠斗、下がれ!」
蒼真が叫んだ。
悠斗が即座に槍を引き抜き、後方に跳ぶ。直前まで悠斗がいた位置を、主の拳が薙いだ。風圧で悠斗の髪が一瞬乱れる。
紅葉が主の背後から小剣を突き込もうとしたが、主がその動きを感知して体を半回転させた。紅葉の小剣が、主の腰部の筋肉に弾かれる。
耐久、硬い。
蒼真は主を観察しながら、通常射を一発放った。狙いは主のこめかみ。
矢は主の首の動きで、角の側面に弾かれた。床に転がる。
正面からの通常射では、こめかみに届かない。
想定通りだった。主の角は前方の盾として機能している。こめかみの前に、太い中央の角が張り出している構造。
蒼真は後方の位置で紅葉に目を向けた。
「紅葉、死角!」
「まだ! 主の首がまだ動いてる。固定を待つ」
紅葉の目が、主を捉えて離さない。《視力強化》をフル稼働させて、主の視線と首の動きを観察している。
◇
主の拳が三度目に振り下ろされた。今度は真帆の方を向いている。
真帆の前に里奈がいた。
真帆が《光矢》を準備するために杖を構える。だが、その動作の間、真帆は無防備になる。
「《光矢》!」
真帆が杖を主の顔面に向け、白い光の矢を放った。
光の矢が主の左目に命中する。
主の動きが一瞬止まった。
視界の片側を焼かれ、首を振る。その拍子に主の首が右へ傾いた。
視線が右に流れる。
「班長、右二時の方向、死角あります!」
紅葉が叫んだ。
主の右側。肩口から少し下がった位置。主が左目を押さえて右を向いた、その数秒の死角。
――今だ。
蒼真は右側の段差に向けて魔力の糸を意識した。ナイフは既に投擲済み。触媒の感覚を掴む。
飛べ。
◇
視界が歪み、次の瞬間、蒼真は右側の段差の陰に立っていた。
段差の高さは約一メートル。主との距離、七メートル。
主の右こめかみが、完全に射線に入っていた。
角は頭の反対側を向いている。目の前には、土気色の肌に覆われたこめかみの表皮。その下に主の脳がある。
――ここだ。
蒼真は矢筒から一本抜いた。今日最後の『弐』を込めるための一射。
弦にかける。
魔力を注ぐ。
指先が熱を帯びた。これまでの『弐』の消耗が、指先にまだ残っている。だが、今日の最後の一発分の魔力は確かに矢へ流れ込んでいく。
矢の鏃が蒼白い光を帯び始めた。通常射の二倍以上の光量。光の棒のように輝く矢。
呼吸の底で、蒼真は弦を引き切った。
その瞬間、里奈の声が広間に響いた。
「《氷床》!」
主の足元が一斉に凍った。白い霜の模様が床を走る。
主の両足が氷に張り付いた。動こうとした主がバランスを崩す。体の位置がわずかに蒼真の方へ傾いた。
こめかみが、さらに射線に合った。
蒼真は放った。
◇
蒼い軌跡が広間の一角で閃いた。
距離、七メートル。
『弐』の矢が、主の右こめかみに深く突き刺さった。
通常射の「突き立つ」とは違う。これは「貫く」。
矢の鏃が主の頭蓋骨の薄い部分を貫通し、脳の奥まで到達する。
主の巨体が動きを止めた。
角三本の頭が力を失い、ゆっくりと傾く。
そして――
粒子化が始まった。
足元から胴体、肩、首、そして頭へ。土気色の輪郭が光に変わり、消えていく。二メートル強の巨体が音もなく光の粒子になって散っていく。
広間の中央が、急速に空になった。
主が消え、広間の中央に魔石だけが残った。
それは、これまで第5班が見てきたどの魔石よりも大きかった。ゴブリンやハイゴブリンが残すものとは明らかに違う。掌に収まる小石ではなく、拳に近い大きさの濃い土色を帯びた結晶。内部には、粒子化の名残のような光がゆっくりと揺れていた。
「……でか」
悠斗が息を切らしたまま呟いた。
蒼真も弓を握ったまま、その魔石から目を離せなかった。
第3層の主。
その言葉に、ようやく重さが伴った。
◇
広間が静まった。
深い静寂。
前衛三人の息づかいと、壁の向こうの静けさ。第3層の他の広間からは戦闘音すら聞こえない。
蒼真は段差の陰で、弓を握ったまましばらく動けなかった。
右手の指に『弐』特有の鈍い消耗が深く残っている。『弐』を一日の最後にこう撃った感覚は、今日初めてだった。
――当たった。
主を倒した。
蒼真はしゃがみこんだ。
弓を手放さなかった。
ただ、息を深く吐いた。
◇
五人が、広間の中央の主がいた位置に集まっていた。
航が剣を鞘に戻し、肩で息をしている。
悠斗が槍を床に立て、右手で額の汗を拭う。左腕は鎮痛剤と真帆の《小回復》の集中治療のおかげで、まだちゃんと動いていた。
紅葉が散らばった矢を回収し始めている。蒼真の通常射の矢で、再使用可能な本数を数えていた。
里奈が杖を両手で抱えたまま、主がいた位置をじっと見ている。
真帆は杖の先端に一度だけ軽く触れてから、魔力の残量を体の内側で確認していた。
「蒼真!」
悠斗が蒼真を見つけて手を振った。
「出てこい、もう安全だぞ」
蒼真はゆっくりと立ち上がり、段差の陰から出て五人のところに歩いていった。段差に刺さっていたナイフを回収して、ポーチに戻す。
残ナイフ六本。触媒は三本分。
今日の戦闘で触媒を消費したナイフは、加藤班への救援、挟撃での転移、この戦闘前の右側段差への投擲。計三本分。ナイフは全部で六本。残触媒三本分。
蒼真は一度頭を振り、数字を整理した。戦闘直後で頭がぼんやりしている。
五人の前に立った。
「――終わった」
蒼真は短く言った。
五人が蒼真を見る。
そして、少しずつ顔が緩んだ。
悠斗が右手でガッツポーズを作る。
「やっっったあ!」
悠斗の声が広間の天井に反響した。
紅葉が小さく笑って、「やっぱり、班長の矢、好きだわ」と呟いた。
航が「倒した、か」と、珍しく感情のこもった声を漏らした。
里奈が杖を抱えたまま、頬を緩める。
真帆が「神代さん、すごい」と控えめに笑った。
◇
「……一人じゃ、無理だった」
蒼真はぽつりと言った。
五人が蒼真の方を見た。
「でも、六人でなら」
蒼真はもう一度繰り返した。
「六人でなら、倒せた」
五人が頷いた。
ばらばらのタイミングで、でも全員が頷いた。
蒼真は、内側で張りつめていたものがほどけていくのを感じた。
夏休みからずっとノートに書いてきた言葉。
「弓術士は、一人では仕留められない。仲間の力で撃つ」
頭で理解していた命題が、今は体の一番深いところに定着していた。
判断ミスもした。弓を引けない瞬間もあった。でも、最後は六人で一つの一矢を届けた。
『弐』を撃ったのは、蒼真の右手だった。
けれど、その『弐』が主のこめかみに届いたのは、里奈の《氷床》が主の足を止めたからだ。真帆の《光矢》が主の目を焼き、航と悠斗と紅葉が主の注意を引き続けた。紅葉の索敵が、死角の方向を教えてくれた。
六人全員の手札が、あの一矢のために並んだ。
「一人で仕留めない」。それが、蒼真の弓術だった。
◇
腰の通信機が、一度鳴った。
『第5班、神代。戦闘音が止まった。状況は』
後藤の声。
蒼真は通信機を持ち上げて、口の近くに寄せた。声が少し掠れていた。
「第5班、神代です。第3層核個体、討伐完了」
通信機の向こうで、一拍の沈黙。
普段なら「了解した」と返ってくるタイミング。
だが、後藤の声は違った。
『――よくやった』
蒼真の内側に、後藤の言葉が深く落ちた。
後藤が通信越しに「よくやった」と言うのは、今日初めてだった。
『全員、無事か』
「全員、無事です」
『分かった。今すぐ、手短に状況を報告しろ。手早く記録する』
「はい」
蒼真は息を整え、報告を続けた。
「主の討伐方法。中村の《氷壁》で広間中央を分断。小林の《光矢》で配下と主の視界を焼き、橘・宮瀬・鬼塚の前衛で配下六体を処理。中村の《氷床》で主の足元を拘束し、俺が《小転移》で主の右後方の死角に飛んで魔力集中射を右こめかみに貫通命中。粒子化。あと、魔石が残っています。通常のハイゴブリンよりかなり大きいです」
『……持ち帰れるか』
「はい。回収します」
『無理はするな。拾って持てるならでいい。記録用に学院へ提出しろ』
後藤の声に、一呼吸遅れていつもの言葉が続いた。
『第3層、お前たちの班が担当区域をほぼ制圧した形だ。他班からも変異個体の残存反応が激減しているという報告が入っている。主の討伐で、第3層全体の異常が収束に向かい始めている』
「……そうですか」
『全員で、帰ってこい。これ以上、無理はするな』
「はい」
通信が切れた。
蒼真は通信機を腰に戻した。
全員で、帰ってこい。
今朝、出撃前に後藤が言った訓示。
そして今、もう一度。
ただ今度は、作戦の開始を告げる訓示ではなく、作戦の終了を告げる訓示だった。
◇
「帰ろう」
蒼真は五人に告げた。
「先生が『無理はするな』って。第3層の核は倒した。残存の異常個体処理は、他班に任せていい段階だ」
「いやー、俺、もう動けねえ」
悠斗が右手で槍を床に立てたまま、情けない声を出した。
「ほんとに、もう限界。一歩歩くごとに『帰る、帰りたい』って脳内で連呼してるわ」
「分かる」
航が珍しく即答した。
「斬撃強化を今日は限界近くまで使った。剣を振る気力は、しばらく戻らん」
「私もー」
紅葉が壁に背を預けた。
「索敵、頭使うんだよ。脳みそ疲れた」
里奈は杖を抱えたまま小さく頷いた。
真帆は少しだけ微笑んで、「でも、全員、無事で良かった」と呟いた。
蒼真は六人を見渡した。
みんな疲れている。
悠斗の左腕は、真帆の集中治療のおかげで動いているが、本来なら医務室で完治まで回してから休むべきレベル。航は《斬撃強化》を今日最多で使用。紅葉は索敵フル稼働。里奈は《氷壁》《氷床》《氷矢》の大量投入で魔力消耗が深い。真帆は《光矢》まで使ってしまい、残りは《小回復》一回分のぎりぎり。
そして自分。蒼真は『弐』を今日五発、通常射を十数発、《小転移》を三回。弓を引く右手が、まだ微かに震えていた。
全員、満身創痍。
これ以上、戦場にいるべきじゃない。
「じゃ、帰るぞ」
蒼真は弓を肩に掛け、矢筒を確認した。残矢、八本。
紅葉が弾かれて床に転がった矢と、掠って落ちた矢を回収してくれていた。
「ありがとう、紅葉」
「いいって」
紅葉がにっと笑った。
その横で、航が主の魔石を拾い上げた。
「……重いな」
航の声に、蒼真は思わず視線を向けた。
濃い土色の魔石は、航の手の中でも存在感があった。これまで持ち帰った魔石のように、ポーチの底で転がる小さな欠片ではない。布で包んでも形と重みがはっきり分かる大きさだった。
「学院に提出する。記録用にも、必要になるはずだ」
蒼真が言うと、航は短く頷き、予備の布で魔石を包んで探索用ポーチに収めた。
「了解。落としたら洒落にならんから、俺が持つ」
「頼む」
六人が広間の出口に向かって歩き始めた。
主がいた広間の中央。今は何もない空間に、秋の冷たい空気が静かに流れていた。




