第79話 第3層の主
安全地帯を離れて、通路を八十メートルほど進んだ地点で、紅葉が足を止めた。
「班長、ここから先、慎重に」
紅葉の声が、低かった。
蒼真は隊列の後方から前に出て、紅葉の隣に並んだ。通路はこの先で緩やかに左へ曲がっている。カーブの先では壁がわずかに広がり、広間の入口が近いと分かった。
「気配の圧、さっきより強くなってる?」
「強くなってる。広間が近づいたから、気配がはっきり届くようになった」
紅葉の《視力強化》の瞳が淡く光っている。索敵の集中度は今日一番だった。
「主の位置は」
「広間の中央やや奥。動いてない」
「配下は」
「複数いる。いま数える。……六体。通常の第3層ハイゴブリン六体。主を中心に半円陣形で配置されてる」
六体の配下と主一体。合計七体。
蒼真の背筋が一瞬だけ強張った。
これまでの第3層の広間戦闘は、最大でも四体が相手だった。七体は第5班が挑んできた敵の数の倍近い。
しかも、主。核個体は、配下を半円陣形で配置している。
陣形。
統率型変異個体の上位互換のような挙動。単に集団で動くのではなく、配下を意図的に配置している。
「……見に行こう」
蒼真は短く言った。
「広間の入口から、目だけ出して、地形と敵の配置を確認する。紅葉、先行してくれ」
「了解」
◇
紅葉が壁沿いを音を殺して進み、広間の入口の手前、壁の凹みの隙間から、目だけを出した。
三十秒ほどして、紅葉が戻ってきた。
普段の紅葉にしては珍しく、顔色が青ざめていた。
「班長、見て」
紅葉の指示で、蒼真は壁の凹みの隙間に近づいた。
広間の中を、覗き込む。
蒼真の息が、一瞬、止まった。
◇
広間は、これまで第3層で見てきたものよりさらに一回り大きかった。長径三十メートル強、短径二十メートル弱。天井は相変わらず見上げても光が届かない。壁の色は他の広間より一段暗く、黒に近い岩肌に鈍い金属の光沢が混じっている。鉄分を含んだ岩層か。
広間の中央やや奥に、一つの、大きな影があった。
――大きい。
体高、二メートル程度。通常のハイゴブリンの倍近い巨体。土色の肌に、筋肉の量が異質に多い。胸板が厚く、肩幅が広く、両腕が太い。手には武器を持っていない。素手。
そして、角。
額に、角が三本。
中央の一本が最も太く長く、左右の二本がやや細く短い。三本とも、黒に近い深い色合いで、通常種の角の色とは明らかに違った。
あれが、主だ。
蒼真は、直感的に、確信した。
配下の六体は、主を中心に半円を描いて広間の中央付近に配置されていた。全員が武装しており、外観は第3層通常種と同じだ。角二本で棍棒持ち、体高は一・二メートル。主に比べれば明らかに小さく、威圧感もまるで違う。
配下たちは、ただ広間の中で立っているのではなかった。それぞれが異なる方向を向き、広間の入口を警戒している。主の指示で動いている。そう見えた。
主は、動かない。
中央に立ったまま、腕を組んでいる。まるで、何かを、待っているかのように。
蒼真は、そっと頭を引いた。
「……見たか」
航が蒼真の隣に寄ってきて、短く訊いた。
「ああ」
「あれが、主か」
「間違いない」
蒼真は、壁から離れて、六人の位置に戻った。
◇
五人を振り返って、蒼真は言った。
「紅葉の索敵通りだ。主、一体。配下、六体。主は体高二メートル級、角が三本。配下は通常の第3層ハイゴブリン。武装は棍棒」
「角、三本……」
里奈が小さく反芻した。
「通常種は二本。変異個体は一〜三本の個体差。主の三本は、変異の中でも、一番揃った形に見える」
蒼真はメンテナンスノートを素早く開き、観察したことを書き留めた。
『第3層最奥・広間。主らしき個体。体高二メートル強。角三本、中央一本が長大で左右二本は中程度。土気色の肌、素手、異様な筋肉質。武器なし。配下六体を半円陣形で統率中』
書きながら、蒼真の頭の中では、戦術の再構成が走り始めていた。
広間の長径三十メートル、短径二十メートル。これまでの第3層の広間より広い。射線を取る余地は多い。遮蔽物。段差や岩の隆起は、広間の壁際に数箇所あるが、中央はほぼ開けた空間。
配下六体の半円陣形を崩さずに主に近づくのは、難しい。配下を崩す必要がある。
主は素手。棍棒を持たない代わりに、何をしてくるのか。体高二メートル級の筋肉質の素手。それだけで、通常のハイゴブリンの棍棒の一撃より重い可能性がある。
「先生に、報告する」
蒼真は通信機を腰から持ち上げて、管理棟の通常チャンネルに接続した。
「第5班、神代。管理棟、応答願います」
一拍置いて、後藤の声が返ってきた。
『聞いている』
「第3層最奥に、主と思われる個体を発見。体高二メートル級、角三本の巨大なハイゴブリン変異個体です。配下のハイゴブリン通常種六体を半円陣形で統率しています」
一拍、沈黙。通信機の向こうで、後藤が息を吸う音が微かに聞こえた。
『位置は』
「第3層東方向の最奥部、通路の突き当りに接する広間。他班の戦闘音は、近くに聞こえません。第3層の他の班は、ほぼ制圧を終えつつある段階です」
『確認した。他の第3層担当班は、今、残存の配下個体処理に回っている。核個体討伐は、お前たちの班が一番近い』
蒼真は、通信機の向こうの後藤が、状況を即座に把握して、次の判断材料を整理している気配を感じた。
『神代。どうする』
後藤が、問うてきた。
判断を、蒼真に預ける問い。
「……討伐します」
蒼真は、一呼吸置いてから、答えた。
「主を倒さなければ、第3層の異常は収束しません。俺たちの班が、今、最も近い位置にいます。討伐が必要です」
通信機の向こうで、後藤が、一拍置いた。
『救援班を呼ぶか』
「呼んでください」
蒼真は、ほとんど迷わずに答えた。
「ただ、到着を待てる位置ではありません。救援班が来るまで最速でも十数分。主が動けば、第3層の他班が先に巻き込まれます」
通信機の向こうで、後藤の息がわずかに止まった。
「第5班は、接敵を避けながら観察します。ですが、主が動くなら、その場で止めます。救援班の到着を待つのではなく、到着までの時間を稼ぐつもりで動きます」
蒼真は、五人の顔を見渡した。
悠斗が左腕を庇って立っている。航が剣の柄に手をかけている。紅葉が索敵の目で蒼真を見ている。里奈が杖を両手で握っている。真帆が医療キットのポーチを確認している。
六人は、ここにいる。
主の討伐は、六人でできるかもしれない。
けれど、六人だけで終わらせると決めつけるのは、もう違う。
「救援班を呼んだうえで、第5班が先に対応します」
通信機の向こうで、後藤が短く答えた。
『分かった。救援班を出す。到着まで、十数分は見ろ』
「了解しました」
『神代』
「はい」
『無理に倒そうとするな。止めろ。時間を稼げ。倒せる形が見えた時だけ、倒せ』
蒼真は、息を吸った。
「了解しました。第5班、主の足止め、および可能なら討伐に移ります」
通信機の向こうで、後藤の短い返事。
『分かった。判断は、神代に委ねる』
その一言で、通信が切れた。
後藤の「判断は、神代に委ねる」は、放任ではなかった。
救援班は動く。
だが、最初の十数分をどう使うかは、ここにいる六人に預けられている。
――任された。
今日一日、後藤は何度も蒼真を試してきた。判断ミスの後の「戦線、維持できるか?」。小休止の「焦るな。だが、止まるな」。先程の「進め」。そして今の「判断は、神代に委ねる」。
全てが、蒼真を班長のままに置き続ける教育的判断の連続だった。
蒼真は通信機を腰に戻し、五人に向き直った。
◇
「――討伐する」
蒼真は、明確に宣言した。
「主と配下、合計七体。六人で対処する。作戦は、今から立てる」
五人が、揃って頷いた。
「その前に、一つ、全員に確認しておきたいことがある」
蒼真は一拍置いた。
「今日、俺は二度判断ミスをした。最初は『弐』の先制を読み違えて、悠斗に左腕の怪我をさせた。次は小転移で飛んだ後、弓を引けなかった。二度とも、みんなに助けられた」
「……」
「それを、認めた上で、もう一度、判断する」
蒼真は、五人の目を見た。
「――一人で仕留めない」
五人が、蒼真の言葉を、受け止めた。
「この作戦では『俺が一射で決める』構図は作らない。主は俺一人では絶対に倒せない相手だ。六人の手札を全部並べて主を崩す。俺の矢は最後の一撃を担う。他の五人の連携が、俺の矢を『当てるべき場所』まで運んでくれる」
「小転移は」
蒼真は、ナイフポーチを、軽く叩いた。
「死角を取る最終ピースとして、連携の中に組み込む。出し惜しみじゃない。計画の一部として、使う」
悠斗が、にっと笑った。
「おう、蒼真、いいぞその顔」
「……顔?」
「班長の顔、戻ってきた」
悠斗が、右手で拳を作った。
「さっきまで、ちょっと、暗かったけど。今、戻ってきた」
蒼真は、少し、頬が緩んだ。
悠斗の観察は、正確だった。
先の戦いで弓を引けなかった蒼真。「もう一度、頼む」と頭を下げた蒼真。あの時点では、まだ、自分の中に揺らぎが残っていた。
今、主を目の前にして、蒼真の中で、揺らぎが、静まっていた。
怯えが、消えたわけではない。
でも、揺らぎは、整理されていた。
主を倒す。六人で。
それだけを、胸の真ん中に、置いた。
◇
「じゃ、」
蒼真は、続けた。
「作戦を立てる前に、一度全員の状態を確認したい。怪我の具合、魔力の残量、矢の残り。正直に報告してくれ」
「俺」
悠斗が先に手を挙げた。
「左腕、鎮痛剤が効いてる。突きなら、右手で確実に通せる。振り回すのは無理。動ける」
「航は」
「問題ない。《斬撃強化》は、ここぞで九割まで出せる。全開の十割は、主に使うなら出せるが、一撃限り」
「紅葉」
「体力は問題ない。索敵はフル稼働できる」
「里奈」
「……《氷床》と《氷壁》、それぞれもう一回ずつなら、出せます。《氷矢》は、あと三発程度」
「真帆」
「《小回復》は、まだ何度か使えます。ただ」
真帆が、一度、悠斗を見た。
「悠斗さんの左腕、今の状態のまま激しく動くと、また腫れが戻る可能性があります。次の戦闘の前に、もう一回、《小回復》をかけたいです」
「……?」
悠斗が、自分の左腕を見下ろした。
「今の状態で、突きは通せるぞ?」
「今は通せます。でも、今度は、今までの戦闘より一段、激しくなります。左腕の制約がさらに悪化すれば、前衛の連携に影響が出ます」
真帆が続けた。
「戦闘前の今、ダンジョン内での最後の一回として《小回復》を集中投入します。腫れを引かせて、内部の血腫も可能な限り吸収させる。そうすれば悠斗さんの左腕は、戦闘中にもう一段持ちます」
蒼真は、真帆を見た。
「魔力配分、大丈夫か?」
「……」
真帆が一度、考え込んだ。それから、蒼真を見返した。
「正直に言います。悠斗さんに今ここで追加の《小回復》を一回使うと、主戦闘後に残る魔力は、ぎりぎりです。《小回復》があと一回分、残るかどうか」
「ぎりぎり……」
「でも、やります。悠斗さんの左腕が動かなくなる方が、班全体にとってマイナスが大きい。今使うのが正解だと思います」
真帆の声は、柔らかかったが、判断は明確だった。
白魔法使いとしての、計算された決断。
「……分かった」
蒼真は頷いた。
「真帆の判断を、信頼する。悠斗、真帆の《小回復》、受けてくれ」
「了解」
悠斗が真帆の前に座り直した。
真帆が杖を構え、悠斗の左腕に向けて、白い光を放った。
さっきの三度重ねがけのときより、光が濃かった。魔力の込め具合が、明らかに多い。一回分で、複数回分の効果を狙う運用。
「……あったけえ」
悠斗が呟いた。
白い光が悠斗の左腕にゆっくり浸透していく。包帯の下の皮膚の色が、赤黒い痣から健康な色に近づく。真帆が呼吸を整え、魔力の流れを制御する。
約一分の集中治療。
真帆が杖を下ろしたとき、悠斗の左腕の腫れは、ほぼ完全に引いていた。
「動かしてみて、悠斗さん」
「おう」
悠斗が左腕を、ゆっくり動かした。肘を曲げ、伸ばし、手首を回す。
「……おお、前より全然動く」
「握力は?」
悠斗が左手で拳を握ってみた。さっきよりも、明らかに強く握り込めている。
「七割くらいまで戻った感じだ」
「戦闘に使える?」
「突きは余裕。軽い振り回しなら、できる。全開の振り回しは、まだ無理」
悠斗が、左腕を、もう一度回してみた。
「マジで、真帆、ありがとな」
「いえ」
真帆が、少し恥ずかしそうに、杖を握り直した。
蒼真はノートに書き加えた。
『主戦闘前。真帆の《小回復》集中一回で、悠斗の左腕の可動域、七割まで回復』
『真帆の魔力残量。主戦闘後、《小回復》一回分、残るかどうか』
ペンを止めて、蒼真は顔を上げた。
「真帆、ありがとう。悠斗、しっかり動かせる範囲で、突きを頼む」
「おう」
「全員、状態把握できた」
蒼真は、五人を見渡した。
「じゃあ、作戦会議に入る」
◇
蒼真は、広間の入口から少し離れた通路の隅で、メンテナンスノートを広げた。
図を描く。広間の見取り図。中央の主の位置、配下六体の半円陣形、広間の入口、壁際の段差、遮蔽物の位置。
それぞれの位置に、六人の役割を書き込んでいく。
前衛。航ワントップ、悠斗が右手槍の突きで航をサポート、紅葉が前衛サブ。
後衛。里奈が《氷壁》と《氷床》、真帆が《光矢》と温存した《小回復》。
そして、蒼真。
弓と、ナイフと、『弐』の最後の魔力と、《小転移》。
「――作戦、固める」
蒼真は、ペンを握り直した。
六人の手札を、全部並べて、主を崩す図を、描いていく。




