第78話 もう一度
挟撃を凌いだ地点から三十メートルほど進み、第5班は第3層の安全地帯に辿り着いた。
通路の行き止まり近くに、岩壁が凹んで小さな洞のようになっている場所がある。紅葉の索敵で半径四十メートル以内に魔物の気配がないことを確認してから、六人はそこに腰を下ろした。
真帆が悠斗の左腕を再度確認した。
「腫れは悪化してません。むしろ戦闘中に動いたわりに、ひどくなっていません」
「ほっとするわ」
悠斗が肩で息を吐いた。左腕を膝の上に置き、右手で包帯の上を軽く撫でる。
「痛みは?」
「鎮痛剤が効いてきた。じんじんはまだあるけど、さっきより全然マシ」
「よかった」
真帆がほっと肩を下ろした。
里奈は少し離れたところで、杖を両手で抱えながら地面を見ていた。紅葉がすっと里奈の横に座り、背中を軽く叩く。
「里奈、お疲れ」
「……」
「すごかったよ、さっき。私、斥候の情報しか出せないけど、里奈が《氷床》を出した瞬間、班の空気が変わったのが分かった」
里奈は首を小さく横に振った。
「私ができたのは、班長のおかげで……」
「班長は、自分では引けなかったって言ってる」
紅葉が静かに言った。
「でも、班長が飛んでくれたから、里奈が出せたのも本当。それなら、どっちも本当だよ」
「……はい」
里奈の「はい」は細かったが、今日一番の芯があった。
◇
蒼真は岩壁の凹みの奥に背中を預け、息を整えていた。
メンテナンスノートを開き、書くべきことを書こうとした。だがペンはなかなか進まなかった。
『第3層、挟撃戦闘。前方三体、後方三体、全排除』
『小転移、二度目の投入。転移成功、しかし射撃不可(躊躇)』
『里奈、《氷床》を新規習得・発動。班の救援に直結』
そこまで書いて、ペンを止める。
さらに一行だけ付け加えた。
『道具を持っていても、心が伴わなければ使えない』
蒼真はその一行をしばらく見つめた。
里奈のおかげで生き延びた。
そして里奈のおかげで、自分の限界をひとつ言語化できた。
ノートを閉じた。
◇
蒼真は立ち上がり、五人の方へ向き直った。
「――みんな、ちょっといいか」
五人が同時に蒼真を見る。
蒼真は一度深く息を吸い、吐いた。それからまっすぐ班員の前に立つ。
「さっきの挟撃戦闘、俺の失敗だった」
五人の目が蒼真に集中する。
「《小転移》で後方に飛んだのはいい。そこは判断できた。でも飛んだ後、俺は敵に矢を引けなかった。一拍止まった。里奈の《氷床》がなかったら、俺は敵の一体に襲われてた」
「……」
「原因は、前の戦闘の判断ミスを引きずったことだ。悠斗を怪我させた後で、同じ判断の形に入るのが怖くなった。『また、俺のせいで誰かが』って思った瞬間、指が動かなくなった」
蒼真は五人の顔を順に見た。
悠斗。航。紅葉。里奈。真帆。
誰も蒼真を否定しない。ただ蒼真の言葉を聞いている。
「――だから、もう一度頼む」
蒼真は頭を下げた。深く、はっきりと。
「また班長として判断する。そのとき、指示通りに動いてくれ。俺、今度は焦らない」
岩壁の凹みの中に、短い沈黙が落ちた。
◇
最初に口を開いたのは悠斗だった。
「蒼真、顔上げろ」
「……」
「お前のミスだ。それは間違いない」
悠斗は蒼真の肩を右手で軽く叩いた。
「でも、次があるだろ」
「……悠斗」
「俺の左腕のせいで、俺たちが全滅するなんてありえねえ。次うまくやれば、俺の怪我はただの経験談で終わる。駄目なら俺も浮かばれねえ」
悠斗の声には痛みを堪えている感触が残っていた。それでも、声の底にある明るさは変わっていない。
蒼真は顔を上げた。
「……悠斗、ありがとう」
「礼はいい。あとさ、蒼真」
「ん?」
「今度、地上戻ったら、から揚げで返せ」
「え?」
「俺が庇った分の借り。鷹丸のから揚げ定食、一回分、奢り」
「……」
「え、お前、安い……」
紅葉が横からツッコんだ。
「から揚げ一回分で、命救った借りをチャラにすんの?」
「チャラになんかしてねえよ。俺、ただ、から揚げ食いたいだけ」
悠斗が真面目な顔で言った。
「蒼真の奢りで食う鷹丸のから揚げ、絶対うめえから」
蒼真は思わず吹き出した。
笑った。今日初めて、ちゃんと笑えた。頬の筋肉が自然に動いた。
「……分かった、悠斗。から揚げ、奢る」
「よっしゃ」
悠斗が右手で拳を握った。
◇
航が静かに口を開いた。
「蒼真」
「ん?」
「俺、入学してからお前と何度も戦場に出たが、お前が焦るのを見たのは今日が初めてだ」
「……航」
「初めて焦ったんだ。次は焦らないだろ」
航の言葉は短かったが重かった。
お前は初めて焦った。それは、これまでの蒼真が焦らなかったことの記録でもある。航は蒼真の一年分の戦いを見ていた。その上で、今日が初めてだったと言っている。
「……ありがとう、航」
「礼はいい。事実だ」
航はそれだけ言い、剣の柄を軽く撫でた。
◇
紅葉が、蒼真の弓を指で軽く撫でた。
「班長」
「うん」
「その弓、まだ引けるよ」
「……」
「班長、私、班長の矢、好きだよ。蒼い軌跡って綺麗だし」
紅葉がにっと笑った。
蒼真はその笑顔を見て、呼吸がひとつ整った。
「……紅葉」
「好きな矢、今日もう一本見たい」
「ああ」
蒼真は頷いた。
紅葉の言葉は励ましというより、期待だった。蒼真の矢への、純粋な期待。
◇
真帆が杖を両手で抱えながら、静かに言った。
「神代さん」
「ん?」
「怪我人が一人出ても、みんなで帰ります」
「……真帆」
「それが私の役目です。白魔法使いとして、誰かが怪我しても治します。地上に戻れば全員を完治させます。だから神代さんは、判断に集中してください」
真帆の声は柔らかく、でもはっきりしていた。
「神代さんが自分を責めても、悠斗さんの怪我は治ります。私が治すから。自分を責める時間があったら、次の判断に使ってください」
蒼真は真帆の目を見た。
真帆の目には、穏やかさと医療職としての覚悟が混ざっていた。
「……真帆、ありがとう」
「いえ」
真帆が少し恥ずかしそうに微笑んだ。
◇
そして里奈。
里奈は杖を両手で握ったまま、蒼真の目をしっかりと見た。
「班長」
里奈の声は細い。でも芯がある。
春、第2層で逃げ出した里奈。あの震える声とは、完全に別の声。
「私、五月の探索実習で、逃げました」
「……」
「あのとき、班長たちが助けに来てくれました」
里奈はぐっと言葉を探すように止まった。それから、まっすぐに続ける。
「今日、私、逃げませんでした。班長を、助けられました」
蒼真は里奈の声を、深いところで聞いていた。
「……だから、」
里奈は一度息を吸った。
「次は、逃げない、班長は。私が、一緒に戦うから」
◇
里奈の言葉の順番は、やや逆だった。
次は逃げない、班長は。班長は、が文末。
だが、里奈が言いたかったことは、はっきり伝わった。
次は班長も逃げないで。私が一緒に戦うから。
蒼真の目頭が熱くなった。
春、第2層で泣きじゃくっていた里奈。あの里奈が今、班長の自分に「一緒に戦うから」と言っている。
仲間の力で撃つ。
頭で理解していた命題が、今、腹の底に落ちた。
仲間は、蒼真を助ける道具ではない。
仲間は蒼真と一緒に戦う、同じ班の人間だ。
蒼真が挫折したとき、仲間が蒼真を引き上げる。
それが、六人の班ということ。
「……里奈」
蒼真の声が掠れた。
「ありがとう。俺、逃げない」
「はい」
里奈の「はい」は短かった。
でもその「はい」の中には、一年春からの半年以上の時間と、今日の覚醒の瞬間が全部詰まっていた。
◇
腰の通信機が鳴った。
『第5班、神代。状況は』
後藤の声だった。
「はい、第5班、神代です」
蒼真は通信機に声を入れた。
「第3層の安全地帯で小休止中です。全員、軽症。挟撃戦闘後の戦線を維持しています。班員との確認、終わりました」
一拍、沈黙。
蒼真には、通信機の向こうの後藤が何を考えているか分からなかった。
『神代』
「はい」
『焦るな。だが、止まるな』
その一言が、通信機越しにもう一度届いた。
今日、二度目。
広間での小休止のとき、後藤は蒼真に同じ一言を返した。
今も同じ一言。
だが、今度は重みが違っていた。
一度目は、蒼真が判断ミスの後で進むと決めたときの励まし。
二度目は、蒼真が引けず里奈に救われた後で、再び立ち直ろうとしている今の励まし。
同じ言葉が、違う意味で届いた。
「はい」
蒼真は通信機に向かってはっきりと返事をした。
『進め』
後藤の一言。
通信が切れた。
蒼真は通信機を腰に戻した。
進め。
後藤の一言が、重く響いた。
撤退しろ、ではない。
進め、だった。
後藤は蒼真の「進みます」を信頼している。
応えなければいけない。
◇
蒼真は弓をもう一度握り直した。
震えは引いていた。
完全ではない。まだ奥の方に微かな揺れが残っている。でも、弓を構える動作はもうできる。
次の一矢を引く覚悟は、今、腹の底で固まりつつあった。
蒼真は立ち上がった。
「よし、進む」
五人も順に立ち上がる。
悠斗が右手で槍を持ち直す。
「やる。俺、まだ動けるから」
航が長剣の鞘を軽く叩く。
「やろう」
紅葉がショートソードを腰に戻す。
「やるよ」
真帆が杖を握り直す。
「私も、治療魔法の魔力、まだ余裕あります」
里奈が杖をまっすぐ立てる。
「……班長と、一緒に」
里奈の声は細かったが、はっきりしていた。
蒼真は六人の顔を見渡し、静かに頷いた。
「――もう一度、頼む」
六人分の頷きが、少しだけタイミングをずらして返ってきた。
里奈の頷きだけは、他の誰より遅く深かった。
◇
蒼真は通信機のチャンネルを通常に戻し、班員に向き直った。
「紅葉、前方索敵、頼む」
「了解。通路の先、八十メートルで分岐。分岐の先の片方に、広間の気配あり。魔物反応は……あ」
紅葉の声が一拍止まった。
「どうした」
「広間の反応、重い」
紅葉の眉間に皺が寄った。
「強い反応は一体だけ。でも、周囲の細かい反応はまだ拾い切れない。それに、気配の圧が、これまでの変異個体の倍、いや、三倍くらいある」
蒼真の背筋に冷たい感触が走った。
主反応が一体。しかも、これまでの変異個体とは桁が違う。
第3層の、核となる個体か。
「……来たな」
蒼真は呟いた。
先程の広間の大型変異個体は、単体出現で変異個体の倍の気配だった。
今度はそれのさらに上。
紅葉の索敵が間違っていなければ、これは第3層の最奥に存在する何かだ。第3層全体の異常を統べる、核のような存在。
蒼真は深く息を吸った。
震えはまだある。
でも、今度は引ける。
里奈が、一緒に戦うからと言ってくれた。
悠斗が、次があるだろと流してくれた。
航が、次は焦らないだろと見てくれた。
紅葉が、好きな矢を今日もう一本見たいと期待してくれた。
真帆が、判断に集中してくださいと役割を明示してくれた。
そして後藤が、通信機越しに進めと言ってくれた。
六人と、通信の向こうの一人。
全員の声が、蒼真の中で支えになっていた。
「六人で、行く」
蒼真は五人に告げた。
「――第3層の、核だ」




