第77話 氷の床
小休止地点を離れてから、三十分ほどは静かだった。
第3層の通路の分岐を、紅葉の索敵に従って慎重に選びながら進む。悠斗が左腕を庇いながら歩くため、足取りのテンポが以前より一段落ちている。それでも、班としての進行は止まっていない。
蒼真は後方で、メンテナンスノートを開いたまま、歩きながら思考を整理していた。
『弐』残弾、魔力で一発。最後の一発。
――使いどころを、間違えない。
次の強敵に遭遇したときは、無理な先制はしない。前衛が敵を抑えて、射線が固定された瞬間に、通常射の精度で撃つ。『弐』は、本当の最後の一撃。他の方法で対処できない場面でだけ使う。
先程の判断ミスを、頭の中で何度も反芻した。
『弐』で仕留められると踏んだ時点で、独断だった。
敵の耐久を過小評価した。前腕で矢を受ける積極性を読めなかった。悠斗の庇いで救われたが、あれが数センチずれていたら、もっと酷い結末になっていた。
次は、同じ過ちをしない。
頭で何度も、そう言い聞かせた。
◇
「班長」
紅葉が足を止めた。
声が、硬い。
蒼真の思考が、即座に戦闘モードに切り替わった。
「何が見える」
「前方、三十メートル。通路の先に魔物を確認。三体。ハイゴブリン二体、ゴブリン一体。通常の第3層通常種の気配」
蒼真は一拍、頷いた。三体なら、新しい隊列でも対処可能な数だった。
だが、紅葉の声が、まだ硬い。
「班長、それと」
紅葉が、通路の後方に目を向けた。
「後ろにも、反応」
「後ろ?」
「三体。ハイゴブリン変異個体一体、通常種一体、ゴブリン一体。距離、四十メートル。こちらに向かって、移動中」
蒼真の背筋に、一瞬の警戒が走った。
挟撃。
前後から、六体。そのうち一体が変異個体。
「位置取り、どうする」
航が冷静に訊いた。
蒼真は通路を見回した。通路の幅は約五メートル。左右の壁際に、大きな岩の段差が二つある。遮蔽物として使える。前衛と後衛の位置を分ける余地は、ある。
「悠斗と航は前方対応。俺と紅葉は後方対応。里奈と真帆は通路の中央で、両方の敵に対応できる位置」
蒼真は即座に指示を出した。
「紅葉、後方の変異個体の動きを逐次報告」
「了解」
「里奈、後方の敵に《氷壁》展開の準備。広間じゃなく通路だから、幅は通路一杯に取る。敵の進行を一度止めてくれ」
「……はい」
「真帆は《光矢》を、前後どちらに出すかを戦況で判断。余裕があれば両方」
「分かりました」
「悠斗、航。前方の三体、先制で取れるだけ取ってくれ。悠斗は槍の突きで牽制、航が斬撃で仕留める」
「了解!」
「了解」
六人が配置についた。蒼真は後方を向き、弓に矢をつがえた。
◇
戦闘は、前方と後方で、同時に始まった。
前方。悠斗が槍の突きでゴブリンを牽制し、その瞬間に航が《斬撃強化》で首を斬り飛ばす。悠斗の左腕の制約で突きのリーチが短く、牽制は浅めだが、航との連携で確実に処理を進める。
後方。里奈が《氷壁》を展開した。通路の幅一杯の氷の壁。変異個体と通常種の進路が一時的に塞がれる。
だが、氷壁の向こうから、変異個体が拳で叩いてくる音が聞こえた。第3層の変異個体の腕力は、氷壁を一分持たない、と紅葉が短く伝えた。
「班長、氷壁持って一分。急いで」
「通常射で削る」
蒼真は弦を引いた。氷壁を越えた位置、変異個体の頭が出る瞬間を狙って、矢を放つ。
氷壁の右端が砕けた。変異個体の頭が、一瞬、見えた。
蒼い軌跡。通常射。
右こめかみを狙ったが、変異個体の反応が速い。首を振って矢を避ける。矢が壁に刺さった。
避けた。
「班長、距離詰まる!」
紅葉が叫んだ。
変異個体が氷壁を完全に破壊して、通路を進んでくる。通常種のハイゴブリンも続く。ゴブリンは変異個体の足元をちょろちょろ動いている。
蒼真は二射目。通常射。今度は変異個体の左目を狙った。距離、二十メートル。敵は走って詰めてくる。
矢が、左目に命中する寸前で、変異個体が腕を上げて顔を庇った。矢が前腕に刺さる。痛みに呻くが、足は止まらない。
この展開、見覚えがある。
先程の大型変異個体の動きと、似ていた。前腕で攻撃を受け止めながら進む積極性。
蒼真の身体が、一瞬だけ強張った。
「蒼真!」
悠斗の声が、前方から聞こえた。前方の戦闘は、ゴブリン一体と通常種ハイゴブリン一体が残っている。まだ終わっていない。
後方の変異個体は、あと十メートル。
小転移。
蒼真の頭が、即座に判断した。
変異個体の側面。通路の右壁沿いに、矢の射線が通る角度がある。そこに小転移で飛べば、首の右側を狙える。敵が腕で顔を庇っても、右からの射線なら届く。
「――行く」
蒼真は班員に告げた。
ナイフを一本、ポーチから抜いた。触媒仕込み済み。
通路の右壁沿い、十メートル先の岩の段差の陰。蒼真の視界に入っている。条件、満たす。
ナイフを投擲した。
くるくると回転して、ナイフが段差の陰の岩に刺さった。
蒼真は魔力の糸を意識し。
飛べ。
◇
視界が歪み、次の瞬間、蒼真は岩の段差の陰に立っていた。
目の前。通路を進んでくる変異個体の、右側面。
距離、八メートル。
射線、完全に通っている。
蒼真は弓に矢をつがえた。通常射。魔力を乗せる。敵の首の右側。頸動脈のある位置。
ここを撃ち抜けば、敵は動けなくなる。
弦を引いた。
引き切る。その瞬間。
◇
視界に、光景が、蘇った。
先程の広間での戦闘。『弐』の矢が、敵の前腕に突き刺さっている。敵の突進が止まらない。悠斗の声、「蒼真、下がれ!」。悠斗が蒼真の前に飛び込んでいる。槍の柄で短棒を受ける鈍い音。悠斗の左腕に走る衝撃。悠斗の苦痛の声。
また。
蒼真の頭の中で、声が響いた。
また、俺の判断で、誰かが。
蒼真の指が、弦を、引き切れなかった。
引く動作が、途中で、止まった。
弦は半ばまで引かれている。矢は弦にかかっている。魔力は指先に集まっている。だが、指が、最後の一引きを、しなかった。
撃て。
頭の中で、別の声も響く。
撃てよ、蒼真。お前が撃たないと、みんなが。
だが、指が動かない。
身体が動かない。
小転移で側面に飛んだ。そこまでは、できた。
でも、その先で、矢を撃つことができない。
◇
変異個体が、蒼真の存在に気づいて、首を振った。
蒼真の方に、身体を向ける。突進の向きが変わる。
あと六メートル。五メートル。
俺、死ぬのか。
蒼真の思考が、一瞬だけ空白になった。
小転移を使った。飛べた。でも、弓を引けない。この距離で引けないなら、次に敵がここに来たとき、俺は、やられる。
「班長ーーっ!」
声。
後方から、里奈の声。
いつもの「……はい」ではない。
高く、鋭く、芯のある、里奈の声だった。
◇
その瞬間。
蒼真の足元から前方、変異個体の足元にかけて、通路の床面が、一斉に凍った。
白い霜のような模様が床を走る。
氷の、床。
「《氷床》!」
里奈の声。
杖を前に突き出した里奈が、通路の中央で、息を乱して立っている。
蒼真は、その里奈の姿を、振り向いて、見た。
里奈の目が、鋭かった。
細くて優しい里奈の目が、今、広間の敵を見据えて、まっすぐに光っている。
一年の春、第2層で震えながら逃げた里奈。
七月の前期試験で、《氷矢》を放って「……当たり……ました」と言った里奈。
その里奈が、今、通路の中央で、《氷床》を発動させた。
変異個体の足元が、凍った。
突進の勢いが止まる。足裏が氷に張り付き、変異個体は前のめりに崩れた。通常種のハイゴブリンも転倒し、ゴブリンは氷の上でもがく。
動きが、止まった。
「班長、今です!」
里奈の声が、もう一度、通路に響いた。
――今です。
その言葉が、蒼真の中で、何かを、押した。
蒼真の指が、動いた。
弦を、引き切った。
魔力を乗せ、放つ。
通常射の蒼い軌跡。
変異個体の首の右側、頸動脈の位置。
命中。
粒子化。
続いて、二射目。転倒した通常種のハイゴブリンの左こめかみ。命中。粒子化。
三射目。もがくゴブリンの額。命中。粒子化。
三発連射で、後方の三体が消えた。
◇
同時に、前方。
前方のハイゴブリン一体とゴブリン一体も、悠斗と航の連携で処理が終わっていた。悠斗の右手突きで牽制、航の斬撃で仕留める流れ。航の斬撃強化が八割出力に戻っている。広間での戦いのような九割全開ではない。
通路の前後が、静まった。
◇
「……」
蒼真は、通路の後方、岩の段差の陰で、しゃがみこんだ。
弓を持つ右手が、震えていた。
さっきよりも、強く。
小転移で飛べた。そこまでは、できた。
でも、弓を、引けなかった。
里奈の《氷床》がなかったら、もう少し遅れていたら、敵の一体に間違いなく襲われていた。
道具を、持ってるのに、使えなかった。
蒼真の頭の中で、言葉が、浮かんだ。
道具を持っていても、心が伴わなければ、使えない。
そうか、と、蒼真は、理解した。
《小転移》は、蒼真の切り札だ。半年近く隠し続けた最終手札。それを、やっと班員に開示した。使える条件が揃った。飛ぶことも、できた。
でも、飛んだ後に矢を引く。その一瞬の動作が、広間での失敗の記憶で、止まった。
切り札は、あった。
道具は、揃っていた。
でも、俺の心が、追いつかなかった。
「班長」
里奈が、駆け寄ってきた。
杖の先に、まだ、冷気の粒が残っていた。《氷床》を発動した直後の魔力の残滓。
「……里奈、助かった」
蒼真は、掠れた声で言った。
「いえ、」
里奈は、一拍置いて、続けた。
「班長が小転移で後ろに飛んで、敵の気を引いてくれたからです。だから私が、《氷床》を準備できました」
「……そんな時間、稼いでない。俺、引けなかった」
「でも、」
里奈は、少しだけしっかりした声で言った。
「班長は、小転移で敵の側面に飛んでくれました。敵は班長を見ました。その一秒か二秒、注意が班長に向いていたんです。だから私が詠唱できました」
「……」
「班長が先に飛んでくれなかったら、私は《氷床》を間に合わせられなかったと思います」
里奈の言葉は、ゆっくりと、一つずつ、蒼真の胸に、落ちてきた。
囮、になっていた。
蒼真自身は、「飛んで、引けなかった」としか思っていなかった。失敗した、としか。
でも、里奈から見ると、蒼真の小転移は、敵の注意を自分に引き付ける「時間稼ぎ」として機能していた。
その時間で、里奈が、新しい魔法を、間に合わせた。
「……里奈」
蒼真は、里奈の目を見た。
「《氷床》、新しい魔法だよな」
「はい。……今、戦闘中に、使えるようになりました」
「戦闘中に習得した、ってことか?」
「……はい」
里奈の頬が、少し赤くなった。
「訓練場では使えなかったんです。感覚だけは掴みかけていたけど、完成していなくて。さっき班長が飛んで、敵の動きが止まった瞬間に杖へ魔力を通したら、出ました」
「……出た」
「出ました」
「すごいな、お前」
「い、いえ、そんな」
里奈が、慌てて首を横に振った。
でも、頬の赤みは嬉しさを映して残っていた。
◇
「……ふふ」
蒼真は、思わず、笑った。
いや、笑おうとしたら、頬の筋肉が、うまく動かなかった。笑みの形になりきれない、まだ緊張の残った表情になった。
でも、里奈に救われた事実が、蒼真の中で静かな熱を帯びた。
里奈が、助けてくれた。
俺の失敗を、里奈が、救ってくれた。
初めての探索実習で、第2層で震えながら逃げた里奈。
その里奈が、今、班長の蒼真を、救った。
順番が、逆だった。
でも、正しかった。
それが、第5班だ。
班長が絶対じゃない。誰かが倒れたら、別の誰かが立つ。その役割が、固定されていない。流動的に、局面ごとに変わる。
里奈の成長が、今日、第5班の構造を、もう一段、豊かにした。
◇
紅葉が、蒼真の隣に座った。
「班長」
「ん?」
「引けなかったの、見てた」
「……」
「でも、里奈が間に合わせた」
「……ああ」
「班長、第5班、強くなったね」
紅葉が、細く笑った。
「一人が欠けても、別の誰かが立つ。今日、それが証明された。里奈が、やった」
「……紅葉」
「悔しいでしょ、班長」
「……悔しい」
蒼真は、素直に答えた。
「自分が引けなかったのが、悔しい。でも、里奈が助けてくれたのが、嬉しい。変な感じだ」
「変じゃないよ」
紅葉が笑った。
「それが、班だから」
◇
腰の通信機が、一度、鳴った。
『第5班、神代。戦闘の音が聞こえた。状況は』
後藤の声だった。
「はい、第5班、神代です」
蒼真は、通信機に声を入れた。声が、まだ少し掠れていた。
「第3層の通路で前後から挟撃されました。前方三体、後方三体。後方に変異個体一体。制圧完了、怪我人なし」
通信機の向こうが、すぐには答えなかった。次に届いた後藤の声は、いつもの低い『了解』ではない。
『誰が、変異個体を倒した』
「……」
蒼真は、一瞬、言葉に詰まった。
事実をどう報告すべきか。
蒼真自身の射撃で仕留めた、とも言える。通常射三発で三体を落とした、のは事実だ。
でも、その一発目は、里奈の《氷床》がなければ、出なかった。
蒼真は、事実を、そのまま伝えることにした。
「中村が、戦闘中に、新しい魔法を習得しました」
「《氷床》。地面を広範囲で凍結させて、敵の動きを止める魔法です。俺が一瞬、撃てなくなった瞬間に、里奈がそれを発動して、場を作ってくれました」
「俺は、中村が作った場で、通常射を三連射しただけです」
通信機の向こうで、後藤が、今度こそ、『了解した』と返すかと思った。
だが、後藤の声は、少し違った。
『中村か』
「はい」
『中村に、よくやった、と伝えろ』
「はい」
通信が切れた。
蒼真は通信機を腰に戻し、里奈に顔を向けた。
「後藤先生から」
「はい?」
「よくやった、って」
里奈の頬が、ぱっと、赤くなった。
「……え、私、ですか?」
「ああ、お前だ」
里奈は、一瞬、声を失った。
それから、小さく、でも、はっきりと、頷いた。
「……ありがとう、ございます」
その「ありがとうございます」は、蒼真に向けられたのか、通信機の向こうの後藤に向けられたのか、判然としなかった。
でも、どちらでもよかった。
里奈の声は、震えていなかった。
強く、芯があった。
◇
「進もう」
蒼真が、立ち上がった。
弓を握る右手の震えは、まだ、ある。
でも、震えを抱えたまま弓を構える覚悟は、さっきより強くなっていた。
里奈に、助けられた。
次は、蒼真が、自分で、引く。
道具を持っていても、心が伴わなければ使えない。
この言葉を、蒼真は自分の中にしまった。
心を、追いつかせる。
そのために、次の一矢を、絶対に、引く。
六人が、歩き出した。
第3層の暗がりが、通路の先に続いていた。




