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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第三章 イレギュラー編

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第76話 代償

 広間の反対側の壁際に、六人は後退していた。


 もとの戦闘の広間からは直線距離で二十メートルほど。紅葉の索敵で、周辺五十メートルに魔物の反応がないことを確認した上での小休止地点だった。壁の窪みにもたれる形で座る悠斗の隣に真帆が跪き、他の四人はその周囲で装備を確認したり、息を整えたりしていた。


 真帆は悠斗の左腕の袖を、慎重にめくった。


「神代さん、見て」

 真帆の声に、蒼真は息を詰めた。


 悠斗の左の前腕、肘から手首にかけての部分が、赤黒く腫れていた。皮膚の下に血が滲んで広がっている。直接の傷口はない。短棒の先端が叩きつけられた衝撃が、皮膚の下で血管を破った形。


「……ひでえな」

 悠斗自身が、他人事みたいに自分の腕を見て呟いた。


「痛みは?」

「じんじんしてる。でも、動かせる。指は……」


 悠斗が左手の指を、ゆっくり握ったり開いたりした。全部動く。ただ、握り込む力は明らかに弱い。


「骨折はない、と確認できました」


 真帆が一度、蒼真の方に目を向けてから、悠斗に向き直った。


「《小回復(ライトヒール)》、何度か重ねがけします。腫れを引かせて、内部の血を吸収します」

「頼む」


 真帆の杖先から柔らかい白い光が流れた。悠斗の左腕に魔力が浸透し、赤黒かった肌の色が少しずつ引いていく。


 真帆が一度、呼吸を整えた。《小回復(ライトヒール)》一発の魔力消費を抑えるために、意図的に出力を絞って連打する運用。


「もう一度、行きます」


 二度目の白い光。腫れがさらに引いていく。だが、痣の色はまだ残っている。


「三度目、行きます」


 三度目。腫れはほぼ引いた。だが、痣は完全には消えなかった。


「……ダンジョン内で回せるのは、ここまでです」


 真帆が杖を下ろした。


「地上に戻ってから、完治まで持っていきます。今は応急レベル。痛みは残るし、握力も落ちてるでしょう。でも、動ける状態にはなったはずです」

「十分だ」


 悠斗が頷いた。


「マジで、助かる、真帆」

「……いえ」


 真帆はほっとした顔を見せた。だが、蒼真の方をちらっと見る目には、安堵とは別の感情が混じっていた。


       ◇


 航が医療キットから包帯を取り出した。


「悠斗、固定する。動かしすぎると腫れが戻る」

「任せる」


 航が悠斗の左腕に、包帯を慣れた手つきで巻きつけていく。入学前から応急処置の講習を受けている航の手捌きは、きっちりしていた。ぐるぐると、関節の動きを制限しすぎない位置で、しかし左腕を固定する形に巻く。


「鎮痛剤、飲んでおけ」


 航が医療キットから錠剤を取り出して、水筒と一緒に渡した。


「効き始めるまで三十分くらいかかる。それまでは痛みが残るが、我慢しろ」

「おう」


 悠斗が錠剤を二錠、水で流し込んだ。


「さて」


 航が固定を終えて、医療キットをしまいながら、蒼真を見た。


「隊列を組み直す必要がある」

「ああ」


 蒼真の声は、まだどこか力が抜けていた。


「悠斗の両手槍、片手では振り回せない。突きしかできない」

「分かってる」

「案はある」


 航が冷静に続けた。


「俺がワントップに据わる。悠斗は片手で槍を支えて、俺のサポート。俺が斬り込んだ後の残敵処理や、敵が俺の背後に回ろうとしたときの牽制突き。紅葉が前衛サブに入って、敵の側面を叩く。前衛二枚の強度は落ちるが、三人で前衛一枚+サポート二枚の形でカバーする」

「了解した」


 蒼真が答えた。声が、出た。


「里奈は《氷壁(アイスウォール)》と《氷矢(アイスボルト)》を引き続き。《氷壁(アイスウォール)》の使い方は、敵の動きをさらに絞る方向に。真帆は魔力を節約しつつ、《光矢(ライトアロー)》の牽制と、前衛の後方支援」

「はい」

「はい」

「俺は、これまで通り、後方で射撃。ただし、『弐』の残弾は魔力で一発のみ。通常射の精度で戦う」


 蒼真はそこまで言って、一度、弓を見下ろした。

 弓を握る右手の震えは、今は、ほぼ止まっていた。


 しかし。


「班長」


 紅葉が、蒼真の隣に座った。


「ちょっといい?」

「うん」

「悠斗、見てよ」


 紅葉が蒼真の視線を誘導した。


 悠斗は、水筒を右手で持ち直し、包帯の巻かれた左腕を膝の上に置いて、鎮痛剤の効果を待っていた。痛みはまだある。悠斗の眉間には、僅かな皺が寄っている。

 でも、悠斗は、笑っていた。

 紅葉の話題に合わせて、蒼真の方を見て、「心配すんなよ蒼真、俺タフだから!」と右手で拳を作って見せていた。


 蒼真はその笑顔を見た瞬間、息が詰まった。


       ◇


「班長」


 紅葉が声を低くした。蒼真と紅葉だけに聞こえる音量。


「悠斗、笑ってるでしょ」

「……ああ」

「本当なら、痛いはず。今は鎮痛剤が効き始める前で、一番痛い時間帯。それでも、笑ってる」

「……」

「あれ、班長のためだからね」


 紅葉の声は、優しかった。


「悠斗は、班長が今すごく沈んでるのを分かってる。ここで自分が痛がって見せたら、班長がさらに沈む。だから笑ってるんだよ。痛みを表に出さないように、わざと」

「……」


 蒼真は、言葉が出なかった。


「悠斗だけじゃない。航も、真帆も、里奈も、私も。班長が次の判断をしやすいように、それぞれ支えてる」

「紅葉……」

「班長が、『自分のせいで悠斗が怪我した、だから撤退する』って選ぶことを、悠斗は一番嫌がる」


 紅葉は、蒼真の弓を、指で軽く撫でた。


「今、撤退するのは、たぶん、班長が今日ここまで積み重ねたものを、班長自身が否定することになる」


 蒼真は、しばらく紅葉を見つめた。


 紅葉の瞳の奥に、斥候としての冷静な観察眼と、同じ班の仲間としての共感が、同居していた。

 嘘を言わない紅葉が、今、蒼真を支えるために、悠斗の気持ちを「通訳」してくれている。


「……紅葉、ありがとう」

「いいって。私、班長のこと見てる係だから」


 紅葉が、小さく笑った。


       ◇


 蒼真は、一度深く息を吸って、吐いた。

 判断を、しなければいけなかった。


 進むか、撤退するか。


 選択肢は二つ。

 撤退すれば、悠斗を地上に戻せる。真帆が全開の《小回復(ライトヒール)》で完治まで持っていける。医務室にも直行できる。安全。


 だが、撤退すれば、第5班の担当区域の掃討は途中で止まる。他班に振り分けられる。他の一年生の負担が増える。

 そして、悠斗の痛みを「無駄」にしない形で、今日を終える道が、消える。


 進めば、悠斗の負傷はそのまま。隊列を組み直して先へ進む。第3層の奥にはさらに強い変異個体がいる可能性がある。次の判断ミスが、もっと大きな代償を呼ぶ恐れもある。

 だが、進めば、悠斗の痛みが、六人の戦いの中で、意味を持つ。


 どちらの判断にも、重みがあった。


 通信機で、後藤先生に相談するか。


 蒼真の頭に、その選択肢が、一瞬、浮かんだ。

 通信機の向こうの後藤なら、正しい判断を出してくれるはずだ。「撤退しろ」か「進め」か。後藤が言ってくれれば、蒼真は従える。


 だが。


 後藤は、何を言われて、その判断を出すのか。

 班員の怪我の状態。隊列変更の可能性。蒼真自身の判断力の状態。残り戦力。担当区域の残り。

 それらを通信機越しで全部正確に伝えるのは、難しい。伝えたとしても、後藤が広間にいない以上、最終判断の責任は、やはり。


 蒼真は、頭を小さく振った。

 通信機で相談するのは、最後の選択肢だった。今、蒼真が抱えている問いは、蒼真自身が出すべき問いだった。


       ◇


 蒼真は、五人の顔を順に見た。


 悠斗。痛みを堪えながら、笑顔を作っている。

 航。事務的に次の戦闘の準備を進めている。

 紅葉。蒼真の判断を、黙って待っている。

 里奈。杖を両手で抱えて、蒼真を見ている。

 真帆。魔力の余裕を指で数えている。


 六人で、進む。


 蒼真は、決めた。


「――進む」


 蒼真の声は、さっきより低かったが、はっきりしていた。


「隊列は航の提案通り。『弐』は残り一発として温存。無理な突出はしない。俺は後方から射撃に徹する。小転移は、必要があれば、使う」

「了解」


 悠斗が即答した。左腕を庇いながらも、声には張りが戻っていた。


「了解した」


 航が短く頷いた。


「了解」


 紅葉。


「はい」


 里奈。


「はい」


 真帆。


 六人分の「了解」が、少しずつずれながら重なった。


       ◇


 蒼真は通信機に手を伸ばす前に、もう一度、悠斗の左腕を見た。


「悠斗。正直に答えろ。槍は振れるか」

「振り回すのは無理だな。左で支えようとすると、たぶん痛みで遅れる」


 悠斗は笑おうとしたが、すぐに口元を引き締めた。


「でも、右手主体で突くならいける。前に出すぎなければ、足は動く」

「真帆」

「骨折はありません。《小回復(ライトヒール)》で内出血は抑えました。ただ、左腕で受ける動きは避けてください。もう一度強く打たれたら、今度は止めきれません」

「航」

「悠斗を先頭には置けない。前は俺が持つ。悠斗は半歩下げて、突きと牽制に限定した方がいい」


 蒼真は頷いた。

 進む。

 ただし、さっきまでと同じ形では進まない。


「悠斗は前に出しすぎない。左腕で受ける動きは禁止。槍は右手主体で、突きと牽制だけに絞る。航が前を持つ。紅葉は死角確認を優先。無理なら即撤退に切り替える」

「了解。俺、今日は派手に振り回さない」


 蒼真は、腰の通信機に指を当てた。

 通信機を耳元に持ち上げ、通常チャンネルに口を寄せる。


「第5班、神代。管理棟、応答願います」


 一拍置いて、後藤の声が返ってきた。


『聞いている』


 やはり、さっきの判断ミスからの一連を、全部モニターしていた。


「橘の左腕、骨折なし。小林の《小回復(ライトヒール)》三度重ねがけで応急処置完了。包帯固定と鎮痛剤を投与済み。左腕で受ける動きは禁止、以後は宮瀬を前に出して、橘は突きと牽制に限定します。戦線、維持して先に進みます」


 一拍、沈黙。


 蒼真には、通信機の向こうの後藤が今何を考えているのか分からなかった。撤退を勧められる可能性もある。あるいは、何も言わずに「了解した」で終わるかもしれない。


 返ってきたのは、短い一言だけだった。


 『焦るな。だが、止まるな』


 通信が切れても、その声だけが耳に残る。

 一年の春から後藤が蒼真に繰り返してきた言葉。ノートに何度も書き写した、あの短い一文。

 今日、その一文が、通信機越しに、もう一度蒼真の耳に届いた。

 蒼真は通信機を腰に戻した。

 体の奥で、熱が灯った。


 叱責は、されなかった。


「撤退しろ」も、言われなかった。

 後藤は、蒼真の「進みます」の判断を、「焦るな。だが、止まるな」と、ただ肯定した。

 それは、信頼の形だった。

 後藤は、蒼真を班長のままに置き続けている。第七十五話の戦闘中に「戦線、維持できるか?」と事務的に問うたのも、今の「焦るな。だが、止まるな」も同じ姿勢だった。


 応えなきゃ。


 蒼真は、弓をもう一度、握り直した。

 震えは、ほぼ止まっていた。

 完全ではない。まだ、奥の方に、微かな揺れが残っている。だが、弓を構えられる程度には、握れる。


       ◇


「――行くぞ」


 蒼真は五人に告げた。


「隊列、変更。航ワントップ、悠斗は右手で槍を支えて突きメイン、紅葉が前衛サブ。俺は後方。里奈と真帆は最後尾」

「了解!」

「了解」

「了解」

「はい」

「はい」


 六人が立ち上がった。


 悠斗が左腕を庇いながら槍を右手で持ち直す。その立ち上がり方を、蒼真は目の端で見た。痛みはある。でも、悠斗は、立った。


「悠斗」

「ん?」

「……無理、するなよ」

「うるせえ、班長」


 悠斗が笑った。珍しく、蒼真に向かって軽口を叩いた。


「俺は無理してねえ。痛えけど、槍は右手で振れる。突きなら、一発くらい、ちゃんと通せる」

「ああ」

「だからさ、蒼真、」


 悠斗が、真面目な顔になった。


「お前も、無理すんな」

「……」

「蒼真の顔、さっきまでマジやばかったぞ。今はちょっとマシになったけど、まだ暗い。俺が派手に怪我したんじゃなくて、ただの打撲だ。大騒ぎするほどじゃねえ」

「悠斗……」

「お前が先に潰れたら、俺たち、本当に帰れなくなる」


 悠斗が蒼真の肩を、右手で軽く叩いた。


「だから、進もう。蒼真が、班長の顔で、前を向いてくれ」


 蒼真は、悠斗の目を見た。

 悠斗の目には、痛みと、それでもなお蒼真を心配する色が、混ざっていた。


「……悠斗、ありがとう」

「礼を言うのは、俺の方だ。庇った俺の方が、結果的にちゃんと動けてる。蒼真の矢で、敵を潰すために」


 蒼真は頷いた。

 もう一度、深く頷いた。


       ◇


「紅葉、次の索敵を頼む」

「了解。班長、前方三十メートル、通路分岐。魔物反応は……ない」

「よし。それじゃみんな、進もう」


 蒼真は指示を出した。

 六人が、歩き出した。


 悠斗が右手で槍を持ち直し、航の斜め後ろで歩く。航の左腕を庇う動きと、悠斗の左腕を庇う動きが自然に噛み合っていた。紅葉が前衛サブとして航と悠斗の間に立つ。里奈と真帆が最後尾を固め、蒼真は後方中央で矢筒の残りを確認しながら進んだ。


 矢残、十六本。『弐』を撃てる魔力は、あと一発分。ナイフ六本、触媒五本分。

 第3層の暗がりが、通路の先に続いていた。


 ――焦るな。だが、止まるな。


 後藤の声が、蒼真の内側で繰り返し響いていた。

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