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蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第三章 イレギュラー編

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第75話 班長の過信

 東方向の広間の戦闘は、蒼真の想定より重かった。


 ハイゴブリン三体のうち二体が変異個体だった。紅葉の「角の形が不揃い」という観察は当たっていた。二体は左右の角の長さが違う異形。残る一体は通常種だが第3層の個体であり、第2層の通常種より動きが一段速い。


 フォーメーションBを展開し、里奈の《氷壁(アイスウォール)》で退路を塞ぎ、真帆の《光矢(ライトアロー)》で一体の目を焼いた。悠斗と航が左右から前衛を抑える。蒼真は変異二体のうち一体に『弐』を撃ち込んで仕留め、残る一体と通常種を前衛の連携で処理した。


 所要、約三分。


 時間はかかったが怪我はなかった。


 だが、矢残は十八本。『弐』の魔力消耗も重い。魔力の余裕はあと一発か二発分。撃てば撃てるが、その先はしばらく通常射しか使えない。


「……消耗、重い」


 蒼真は矢筒を指で確認しながら呟いた。


「変異個体が出るたびに『弐』が必要になる。このペースだと、第3層の深いところに行くのは厳しい」

「休憩挟むか」


 航が訊いた。


「少し休もう。二十分くらい」


 蒼真は広間の入口近くの岩の段差に腰を下ろした。『弐』を撃つたび指先に残る消耗が厚くなっていく。夏休みに何度も訓練したが、一戦一発の運用ですら、連戦になると確実に削れていく。


 通信機に一度、軽く触れた。さっきの戦闘の結果は、開きっぱなしのチャンネルで管理棟にも届いているはずだ。あえて自分から報告するほどの内容でもない。順調に進んでいるときは、わざわざ通信で呼びかけない方がいい。


   ◇


 二十分の休憩を経て、六人は再び歩き出した。


 第3層の奥へ。通路の分岐を選び、紅葉の索敵に従って進む。他班の戦闘音は、今は遠い。同じ第3層のどこかで別の班が戦い続けているが、蒼真たちが選んだルートは比較的静かだった。


「班長」


 紅葉が足を止めた。


 前方五十メートル先の広間からの索敵情報が、普段と違う。


「……一体」


 紅葉の声が硬い。


「一体? この階層で、単体出現はないだろ」


 蒼真が反芻した。第3層は集団戦前提の階層。単体出現は本来ない。


「でも、一体」


 紅葉は首を傾げた。


「単体。ハイゴブリン型。けど、他の個体と気配の重さが全然違う」

「重い、って……何か他に分かる情報は?」

「体の大きさが一回りは大きいと思う。気配の圧が、これまでの変異個体の倍くらいある」


 蒼真の背筋が強張った。


 強化された変異個体。


 秋の実習の統率型よりも、さらに上位。第3層の奥に、そういう個体がいるのかもしれない。


「接触、するか」


 蒼真は一拍、考えた。


 迂回する選択肢もある。広間を横切らず、別の通路から第3層をさらに探索する。だが、いずれこの個体はどこかで他の班と遭遇する。放置すれば、他班が犠牲になる可能性もある。


 それに。


 秋の実習の統率型には通常射一発目を避けられた。だが、そのあと里奈の《氷壁(アイスウォール)》で退路を塞ぎ、『弐(に)』で仕留めた。今日も二度、統率型を『弐』で落としている。単体なら、『弐』の一発で仕留められるはずだ。


 ――いける。


 蒼真の判断は、そこに傾いた。


「広間に入る。俺が先制で『弐』を入れる」


 蒼真は班員に告げた。


「単体なら、『弐』一発で仕留めきれる。前衛は念のための控え。通路側の入口付近から俺が射撃で決める」

「了解」


 悠斗が答えた。


 だが、悠斗の返事に、蒼真は一瞬、今思えば普段とは違うテンポを感じた。即応ではなく、一拍の間がある返事。


 蒼真はそれに気づかなかった。『弐』の準備で頭が一杯だった。


 矢筒から次の一本を抜き、弦にかける。魔力を注ぎ始める。指先が熱を持つ。


「紅葉、広間の地形」

「楕円形。長径二十メートル、短径十二メートル。天井高い。敵は広間の中央やや奥。壁際に大きな段差が一つあるけど、戦闘の射線には関わらない位置」

「了解」


 蒼真は広間の入口に立った。弦を引き絞り、呼吸を整える。


 入る。


   ◇


 広間に踏み込んだ瞬間、蒼真は、自分の判断が何か致命的に間違っているのではないかと感じた。


 敵の全貌が視界に入った。


 大きい。


 体高一・五メートル強。通常のハイゴブリンより一回り以上大きい。異様な筋肉質の体。額に二本の角。武器は棍棒ではない。何かの獣の骨を削ったような短棒。それを両手で握っている。


 そして、視線。


 蒼真が広間に踏み込んだ瞬間、すでに敵はこちらを見ていた。

 動き出すのが速い。


 紅葉の索敵で気配は捉えていたが、敵の側も何らかの方法で蒼真たちの接近を察知していた可能性がある。


 敵が走り出した。

 蒼真に向かって真っ直ぐ。


「――蒼真!」


 悠斗の声が、視界の横から飛んだ。


 だが蒼真は、すでに『弐』の構えに入っていた。弦を引き切り、魔力を注ぎ込んだ矢で狙いを定める。


 放った。

 蒼い軌跡の太い光の帯が、広間を切り裂いた。

 距離、約十八メートル。敵の右こめかみ。


 矢が命中する。その直前。

 敵が左の前腕を顔の前に持ち上げた。


 蒼真の『弐』の矢が、敵の前腕に深く突き刺さった。

 こめかみ、ではない。

 前腕。


「ッ」


 蒼真の息が止まった。


 敵は、前腕に刺さった矢をものともしなかった。突進の勢いはまったく落ちない。むしろ、前腕を盾代わりにして、そのまま蒼真に向かってくる。


 『弐』を、前腕で受けた。


 蒼真の指が二射目の矢を矢筒から抜こうとしたが、距離が近すぎた。敵は既に七メートルまで来ている。あと三秒もしないうちに蒼真の前に来る。


 二射目を撃つ時間がない。


「蒼真、下がれ!」


 悠斗の叫び声。


   ◇


 その次の瞬間。


 悠斗が蒼真の前に飛び込んでいた。

 両手で槍を構え、敵の短棒の一撃を槍の柄と左腕で受け止めていた。


 ゴッ、という重く鈍い音が、広間に反響した。


 悠斗の左腕に短棒が食い込む寸前、槍の柄が辛うじて一撃の角度を逸らした。だが完全には防ぎきれず、短棒の先端が悠斗の左腕に横から叩きつけられた。


「ぐうっ……!」


 悠斗の顔が苦痛で歪んだ。

 敵の短棒は、悠斗の受けで弾かれ、わずかに軌道を逸らされた。だが、悠斗の左腕は明らかに強烈な衝撃を受けていた。


「――悠斗!」


 蒼真の声が、悲鳴に近かった。


   ◇


 戦況が動いた。


 航が後方から、《斬撃強化》の全開、通常時の八割出力を超える斬撃で敵の首元を斬った。血色に近い緑の体液が飛び散り、敵が一瞬よろめく。

 紅葉が敵の死角から小剣で右足の腱を切りつけた。

 真帆が《光矢(ライトアロー)》を二発連射し、敵の両目を焼く。

 里奈の《氷矢(アイスボルト)》が、敵の左足を凍結させた。


 そして、蒼真がなんとか気を取り直し、矢筒から通常射の矢を抜いて弦にかけた。敵の右こめかみに、今度は正確に命中する。魔力を乗せきれていない通常射では、こめかみを完全には貫通しない。それでも敵がよろめいた。


 悠斗が左腕を押さえながら後退し、その背中を真帆が支えた。

 五人の追撃で、敵がようやく粒子化した。


 広間が静まった。

 だが静まった後の空気は、これまでの戦闘の「終わった」感覚とは明確に違っていた。


   ◇


「悠斗……」


 蒼真は悠斗に駆け寄った。

 悠斗は左腕を右手で抱え、苦痛に顔を歪めていた。額に汗が滲んでいる。左腕が普通よりも僅かに変な角度で下がっている。


「腕、見せろ」


 蒼真の声が震えた。


「いってえ……これは、いてえよ……蒼真」


 悠斗が苦笑しようとして失敗した。表情が歪む。


「真帆、診てくれ」

「はい」


 真帆が即座に悠斗の隣に跪いた。医療キットをバックパックから取り出しながら、制服の袖をそっと捲る。悠斗が呻いた。


「……骨折は、してない、と思います」


 真帆は腕の形を慎重に確認した。


「打撲、それもかなり酷い。ヒビが入っている可能性はあります。《小回復(ライトヒール)》、かけますね」

「……」


 真帆の杖先から白い光が流れる。悠斗の左腕に魔力が浸透する。


「うわ、沁みる……」


 悠斗が苦笑した。今度は、少しだけ表情が動いた。


「これ、痛みが引いてくるやつだよな?」

「はい、徐々に」

「ならよかった、医務室に直行かと思った」


 悠斗が冗談めかして言ったが、蒼真はその冗談に笑えなかった。


   ◇


 広間の片隅で、蒼真はしゃがみこんでいた。


 弓を握る右手が震えていた。


 ――俺が、焦ったせいだ。


「仕留められる」と判断した。だが実際は、敵の耐久が想定以上だった。前腕で矢を受け止める。そんな積極性を自分は読めていなかった。


 悠斗が前に出て、俺を庇わなければ、俺自身がやられていた。

 そして悠斗は、庇った代わりに左腕をやられた。


 仲間の力で撃つ、じゃなかったのか。


「一人で仕留めない」。頭でずっと言ってきたテーゼを、俺は今、自分で破った。


 『弐』を最初の一撃に使った時点で、もう独断専行だった。

 前衛が敵を抑える前に、俺が一撃で決めようとした。秋の実習までの経験と、魔力集中射の手応えが、俺を過信させた。


 そして、今日。

 今日は、教官が一緒にいない。

 秋の実習なら、後藤が随行していた。何かあれば後藤が動いた。判断が間違っていれば、後藤が補正した。今日は違う。


 後藤は管理棟にいる。通信機の向こうにはいるが、広間の中にはいない。

 班長の判断ミスは、そのまま班員の怪我になる。

 蒼真の頭の中に、一年の春、初ダンジョン実習の帰りに、後藤に叱責された記憶が蘇った。


 お前の班員が、死んでいたかもしれない。


 あのとき後藤が言った言葉が、今、完全に蘇っていた。

 以前と違うのは、今回、本当に班員が負傷したという事実だった。


 悠斗の骨が折れていなかったのは、槍の柄が一撃の角度を逸らしてくれた幸運だった。あと数センチずれていたら、もっと酷い怪我。場合によっては腕そのものを失っていたかもしれない。


 そして、後藤はそれを管理棟で知ることになる。


「……」


 蒼真は唇を噛んだ。

 弓を持つ手が、小刻みに震えた。


「班長」


 紅葉の声が、静かに隣から聞こえた。


「悠斗、大丈夫だって。真帆ちゃんが応急処置してる。《小回復(ライトヒール)》も効いてる」

「……紅葉」

「班長のせいじゃないよ」

「俺のせいだ」


 蒼真は即答した。


「悠斗が怪我したのは、俺が『弐』で仕留められると判断して前に出た結果だ。前衛が敵を抑える前に、俺が一撃で決めようとした。俺の判断ミスだ」

「……」


 紅葉は、しばらく蒼真の横に黙って座っていた。

 何も言わなかった。

 その沈黙が、蒼真にとって何より重かった。

 紅葉が「そんなことない」と否定してくれなかったことが、むしろ、事実がそうであるという証明だった。


 紅葉は嘘を言わない斥候だった。観察したものを観察したまま報告する。今、紅葉が蒼真の判断ミスを否定しないのは、紅葉もそれを事実として観察したからだ。


   ◇


 腰の通信機が、一度小さく鳴った。


 蒼真はそれに気づいて、通信機を顔の近くに持ち上げた。


『第5班、神代。状況は』


 後藤の声だった。

 戦闘中の音は通信機越しに全部入っていたはずだ。悠斗の苦痛の声。蒼真の「悠斗!」という悲鳴。真帆の「骨折は、していない」という判断。後藤は、広間の中で何が起きたかをほぼ把握している。


 それでも、「状況は」と訊いてきた。


 自分の口で、報告しろ、ということだった。


「……第5班、神代です」


 蒼真は通信機に向かって声を入れた。声が掠れていた。


「第3層、広間での戦闘中、強化された変異個体と遭遇。俺が魔力集中射で先制撃破を狙ったが、読みが外れました。橘が前に出て俺を庇い、左腕に酷い打撲を負いました。骨折はなし。小林の《小回復(ライトヒール)》で応急処置中。戦線は維持可能です」


 一拍、沈黙。

 通信機の向こうで、後藤が次の言葉を選んでいる気配があった。


『了解した』


 また、それだけだった。

 叱責も、慰めもない。ただ「了解した」と返ってきた。


 ――叱ってください、先生。


 蒼真は、心の中で祈るように願った。

 一年の春に独断専行を叱責されたときの、あの後藤の真剣な声を、今もう一度聞きたかった。そうすれば、蒼真は「すみません」と頷いて前を向ける。


 だが、後藤は「了解した」だけで切った。

 続きがない。

 その沈黙が、蒼真にとって一番重かった。


   ◇


 だが、通信機が一拍置いてもう一度鳴った。


『神代』


 後藤の声が、もう一度入ってきた。


「はい」

『橘の腕、骨折なし。小林の処置で応急は済む。戦線、維持できるか?』


 状況確認の、事務的な質問。

 蒼真は顔を上げた。


 叱責しない、ということは、後藤が蒼真を「班長として」扱い続けているということだった。


 叱られれば楽になれる。けれど今は、それを待つ立場ではなかった。班長として、次の指示を出さなければならない。


 後藤は、蒼真を班長のままに置いていた。

 教官が一緒にダンジョンに入らない今日、後藤が通信機の向こうで出した判断は「神代に、班長の仕事をさせる」だった。


「……」


 蒼真は、弓を握る手をもう一度見た。

 震えはまだある。

 だが、通信機の向こうで後藤が待っている。

 その視線の前で、その震えを無視した。


「――維持できます」


 蒼真は答えた。声が掠れていたが、出た。


「橘の腕が動く範囲で、隊列を組み直します。少し、時間をください」

『分かった』


 後藤の返事は、それだけだった。

 通信が切れた。

 蒼真は通信機を腰に戻し、もう一度、弓を握り直した。


 震えはまだある。

 でも、震えを抱えたまま立ち上がる。それが、班長の仕事だった。


 後藤は、管理棟の通信機の前で、蒼真の「維持できます」を聞いた。そして「分かった」と返した。あの返答には、後藤なりの信頼があったはずだと、蒼真は自分に言い聞かせた。


 信じよう、と思った。

 通信機の向こうの後藤が、自分を班長のままに置いている。その扱いに応えよう。

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