第74話 隣の班
第3層を東方向に進んで二十分ほど。
通路が緩やかな右カーブを描く途中で、蒼真の耳が戦闘音を拾った。
距離はそう遠くない。壁を隔てた向こうの通路から、複数の声と金属音、魔法の着弾音が重なって聞こえる。その中に、悲鳴に近い短い叫びが混じった。
「紅葉」
「すでに捕捉してる。斥候として先行する?」
「頼む」
紅葉が足音を殺して通路のカーブの先へ進んだ。蒼真と他の四人は壁沿いで待機する。悠斗が槍を構え、航が長剣の鞘に手をかけた。
三十秒ほどで紅葉が戻ってきた。呼吸が速い。普段の紅葉にしては珍しく、声が硬い。
「班長、他班が苦戦してる」
「どこだ?」
「二十メートル先。右の通路奥の広間。六人班、たぶん三組のどこか。男子一人、女子五人」
紅葉が指を立て、状況を図解するように手を動かした。
「前衛二人が敵を抑えきれてない。後衛二人、魔法使いと治癒役が広間の奥に取り残されてる。別の異常個体に追われてて、前衛は手を離せない。斥候と遠距離は距離を取ろうとしてるけど、壁沿いの障害物で射線が通らない」
蒼真は即座に状況を組み立てた。
前衛が釘付け。後衛が孤立。遠距離職は射線を取れない。斥候も距離を稼げない。
この構図で最も早く解決できるのは。
「俺が行く」
蒼真は短く言った。
五人が蒼真を見た。
「小転移で後衛の側面に飛ぶ。『弐』で異常個体を落として、前衛が合流するまでの数秒を稼ぐ」
五人がほぼ同時に頷いた。
悠斗が「了解」と短く答え、航が「合図の後の動きは、通路で合流する準備」と補足した。紅葉は「転移先の視界は確保してる。壁の向こうの広間、入口から三メートル先に岩の段差がある。段差の陰が転移先として安全」と精密な情報を即座に出した。
里奈と真帆は無言で頷いた。言葉はないが、視線に迷いはない。
蒼真は腰の通信機に手を触れた。
管理棟に報告するか。
一瞬、迷った。通信機で「他班救援に入ります」と告げる時間と、今すぐ動き出す時間。どちらを優先するか。
蒼真はすぐに判断した。
報告は、動きながらでもいい。まず動く。
通信機のチャンネルを通常に合わせたまま、蒼真は端末を口元に寄せた。
「第5班、他班救援に入る。場所は第3層、俺たちの位置から東方向の広間」
通信機に返事はなかった。モニターされているはずだが、それを待たない。
「――行く」
蒼真は班員に向かって短く告げた。
◇
蒼真は通路を走った。広間の入口まで約十五メートル。壁沿いを音を殺して進む。
入口の数メートル手前で、広間の中の光景が視界に入った。
前衛二人、剣士らしき男子とメイス持ちの女子が、広間の中央で体高一・二メートルほどのハイゴブリンと交戦していた。角は一本半ほどの不揃いな長さ。第3層の異常個体だ。前腕部で剣を受け止め、斜めに殴りつけてくる積極性がある。紅葉の言う「前衛が抑えきれてない」は、そのまま目の前にあった。
広間の奥、北側の壁寄りに後衛二人が取り残されている。魔法使いらしき女子が杖を構えているが、もう一体のハイゴブリン変異個体がゆっくり近づいていた。治癒役の女子は魔法使いの背後で震えながら、それでも杖を手放さずにいる。
――間に合え。
蒼真は右太腿のナイフポーチから、ナイフを一本抜いた。
紅葉が示した転移先。広間の入口から三メートル先の岩の段差の陰。距離、およそ八メートル。視界内。条件は満たしている。
蒼真はナイフを投擲した。
くるくると回転して、ナイフが岩の段差の陰に刺さる。狙い通り。
蒼真は腰を落とし、ナイフの触媒との魔力の糸を意識した。
――飛べ。
一瞬、視界が歪んだ。
次の瞬間、蒼真は広間の中にいた。岩の段差の陰。後衛二人から五メートルほどの位置。ナイフが足元の岩に突き刺さっている。
視界の正面。後衛を狙っていた異常個体の横顔。
こちらの出現に気づいた個体が、ゆっくりと振り向こうとする。その一瞬前に、蒼真はすでに次の矢を弦にかけていた。
呼吸の底で魔力を注ぐ。指先が熱い。
放つ。
蒼い軌跡の太い光の帯が、広間の一角で閃いた。
距離、四メートル。異常個体の右こめかみ。
貫通。粒子化。
◇
「え……」
後衛の魔法使いの声。呆然としていた。
治癒役の女子が目を見開いたまま、蒼真を見ている。
「無事か」
蒼真が短く訊いた。二人の後衛が、ガクガクと頷いた。
「今、消えて……現れた……?」
魔法使いの女子が、掠れた声で呟いた。
蒼真は答えなかった。答えている時間もない。広間の中央では、前衛二人がまだ一体目の異常個体と交戦中だった。
「前衛の援護、できますか?」
蒼真は訊いた。
「……治癒、は」
治癒役の女子が、震えながら杖を構え直した。
「か、回復、できます」
「魔法は」
「《氷槍》……一発なら」
「じゃ、そっちの一体を合わせて落とそう。俺が側面から通常射を撃つ。《氷槍》を同時に撃ってくれ」
「はい」
魔法使いの女子が、蒼真の気迫に押されたように杖を構えた。治癒役の女子も蒼真の隣で、白い光を前衛の男子へ放つ。《小回復》。距離はあるが、届く。
蒼真は広間の中央寄りに移動し、射線を取った。前衛の男子と異常個体のちょうど側面の角度。通常射。矢をつがえ、呼吸の底で放つ。
同時に、魔法使いの《氷槍》が飛んだ。
二発がほぼ同時に異常個体へ命中する。蒼真の矢がこめかみ、《氷槍》が胸。粒子化。
「っし!」
前衛の剣士の男子が、振り返って肩で息をした。メイス持ちの女子も荒い息をつきながら、剣士の男子の肩を叩いた。
広間の中央が静まった。
◇
「……すまん、助かった」
前衛の剣士の男子、短髪に鋭い目の生徒が、蒼真の方に歩いてきた。
「一年三組、3班、班長の加藤だ。今、何が起きた? お前、急に広間の奥に現れたよな?」
「説明は後で。一組、5班、神代蒼真です」
蒼真は短く名乗った。詳細を話す時間はない。近くに他の異常個体がいるかもしれない。
「神代。覚えた」
加藤は頷き、班員の方に振り返った。
「全員、無事か? 朋香、美希、大丈夫か?」
「……大丈夫、です」
「助けてくれた人のおかげ、で」
後衛の二人が、震えながら答えた。
加藤はもう一度蒼真に視線を戻した。
「神代、お前のおかげで全員助かった。何かお礼がしたいが、今は時間がない」
「お互い様です」
蒼真は即答した。
「教官も一緒に入ってないんで、誰も助けに来てくれない。助け合いは、俺たち自身でやるしかない」
「ああ」
加藤は一瞬、蒼真の目を見据えた。それから、一つだけ頷いた。
「一組、5班の神代だったな。恩に着る」
「一年三組、3班の加藤さん。お互い、気をつけて」
二人は握手を交わした。短く、しかし確かな力で。
加藤班が広間の反対側の通路へ歩き出した。後衛の二人が歩き出す前に、もう一度蒼真の方を振り返った。
「あの……神代さん」
「はい」
「さっき、消えて現れた……のは」
蒼真は一瞬迷ったが、正直に答えた。
「スキルです。詳しくは、またいつか」
後衛の二人は目を見開いたまま、「……ありがとうございました」と頭を下げて、加藤班の後を追った。
蒼真は広間の岩の段差の陰に刺さっていたナイフを回収した。触媒は一回分消費したが、ナイフ本体は無事。ポーチに戻す。残弾はナイフ六本、触媒は五本分。
◇
蒼真が広間から通路に戻ると、第5班の五人が待っていた。
「戻った」
蒼真が息を整えながら言った。
「全員無事。加藤班、って名乗ってた。一年三組の3班」
「覚えといた」
紅葉が短く言った。斥候としての記録。
通信機から、後藤の声が返ってきた。
『第5班、他班救援、確認した。加藤班の無事も把握した』
一拍置いて、もう一言。
『神代、悪くない判断だった』
蒼真は少しだけ目を見開いた。
後藤の「悪くない」は、普段ならまず出ない言葉だった。大抵は「了解」の二文字で終わる。今のはわざわざ一言、追加したものだ。
「……ありがとうございます」
蒼真は通信機に向かって短く応じた。
通信機の向こうで、後藤が何か言いかけて、すぐに切ったような気配があった。それ以上の言葉はなかった。
◇
「蒼真」
悠斗が近づいてきた。普段の悠斗らしからぬ、少し興奮した表情。
「初めて見たけど、えげつねえなそれ」
「えげつない、って表現は……」
「褒めてるぞ」
悠斗が肩を叩いた。
「あれ、確実に何人か助けられる。後衛が取り残されたときの切り札。マジで、すげえ」
「確かに、須藤戦で使ったのがこれか」
航が冷静に補足した。
「須藤のところでは敵の背後への転移だったが、今回は味方の側面への転移。使い方の幅が広い」
「班長、やっぱりずるい」
紅葉がにやりと笑った。
「壁を越えられる遠距離職なんて、ずるい以外の何物でもないよ」
「ずるいは褒め言葉じゃねえだろ」
「褒め言葉だよ。私たちの切り札が一枚増えたってことだから」
紅葉の笑顔に、蒼真もつられて頬が緩んだ。
里奈が、蒼真の隣にすっと立った。
「班長」
「ん?」
「……助けに行く判断、かっこよかったです」
里奈の声は細い。だが、言い切っている。
蒼真は里奈の目を見た。
「……ありがとう、里奈」
「私たちも、他の班が困ってたら、同じことを、したいです」
「ああ」
蒼真は深く頷いた。
真帆は杖をきゅっと握り直して、「私の魔力、まだ余裕あります。他の班が怪我人を出してたら、届く範囲なら使います」と静かに言った。
◇
蒼真はメンテナンスノートを広げ、今日の記録を短く書いた。
『第3層・他班救援。小転移初実戦投入。救援用途。ナイフ投擲→転移→側面から「弐」で異常個体撃破』
『加藤班(一年三組3班)と班番号交換。後衛二人が「消えて現れた」と目撃。今後、他の生徒にも噂として伝わる可能性』
『ナイフ消費一本、回収済み。触媒は一本分消費。残触媒五本分』
『管理棟より「判断、悪くない」の一言。後藤先生が通信の向こうでモニターしている』
ペンを止めて、蒼真は一度、通路の先を見た。第3層の暗がりが続いている。だが、この暗がりの中で、自分と他の班との繋がりが一本できていた。
学年全体で、戦っている。
派遣官が講堂で言った「実戦」の意味が、今はっきりと輪郭を持った。他の百七十人の一年生と、同じ目的で同じ階層を進み、同じ敵と戦う。その中で助け合う場面が生まれる。自分の切り札が、他の班の命を救う場面が生まれる。
これが、実戦だ。
訓練では経験できない種類の、明確な「実戦の空気」。
そして、教官が視界にいない今、助け合いの判断は完全に生徒の手に委ねられている。後藤の「悪くない」は、その判断を肯定する声だった。
◇
「さて」
蒼真はノートを閉じ、六人を振り返った。
「加藤班が反対側の通路に行った。俺たちは別の方向を歩く。紅葉、次の索敵、頼む」
「了解。東方向、五十メートル先に広間。魔物は……三体」
「種類は?」
「ハイゴブリン三体。うち一体、角が二本で太い。他の二体は、角の形がちょっと不揃い」
紅葉の報告に、蒼真の背筋が僅かに締まった。
角が不揃い。第3層の異常個体の特徴の一つ。
「変異個体か」
「たぶん。しかも、多い」
三体中の何体が変異かは、接近しないと分からない。だが、紅葉の「角の形が不揃い」の観察は、変異個体の可能性を強く示唆していた。
「フォーメーションB、行く。変異の数によっては、『弐』の配分を慎重に」
蒼真は六人に指示を出した。
『弐』を撃てる魔力は残り二発程度。配分は慎重に。
六人が配置に向かって歩き出した。第3層のさらに奥へ、足が進む。
他班の戦闘音は、相変わらず通路のあちこちから聞こえていた。学年全体で、ダンジョンを塗りつぶしている。その音が、蒼真の耳に、今日は心強く響いていた。




