第73話 第3層の戦場
第2層。
階段を降り切った瞬間、魔素の密度が肩に乗ってくる。第1層の倍。体感で明確に変わる空気の重さ。だが、今朝は蒼真もそれに驚かなくなっていた。これまでの探索実習で何度も歩いた場所だ。三ヶ月前、前期実力考査で初めて降りたときのような衝撃はない。
蒼真は腰の通信機を、一度、指先で確かめた。ゲートをくぐってから通信機の感度は維持されている。管理棟との接続は、少なくとも第1〜3層の範囲では切れないと、出撃前のブリーフィングで説明されていた。
「紅葉、前方」
「前方、通路。五十メートル先で分岐。反応は……あ、二体」
「種類は?」
「ハイゴブリン二体。通常種、角二本。ちょっと距離を置いて歩いてる」
蒼真は一拍、頭の中で地形図を再生した。第2層の通常種ハイゴブリン二体。フォーメーションBが最初に嵌まった相手だ。秋の実習でも同じ構成で戦い、一分十秒で処理した。
今日は実戦。試験のような戦闘評価はない。倒すべき敵がいれば、倒す。それだけだ。
「フォーメーションB」
蒼真が短く指示すると、五人が即座に配置に入った。
◇
広間ではなく通路での遭遇だったため、里奈の《氷壁》は敵の後方、通路の奥に展開された。退路遮断。真帆の《光矢》が左側のハイゴブリンの肩口を掠め、意識を散らす。悠斗と航が左右に分かれて突撃。通路幅五メートルを活かし、二人が距離を取って敵を挟んだ。
蒼真は通路の中央やや後ろに位置を取り、悠斗と航の間に射線を確保した。
通常射。左のハイゴブリンの右こめかみ。蒼い軌跡。命中。粒子化。
右のハイゴブリンに、航の斬撃強化の一閃が入る。首元を裂く。よろめいた瞬間、蒼真の二射目、通常射が左こめかみを貫いた。粒子化。
所要、五十秒。
秋の実習より速い。相手の条件がほぼ同じでも、六人の動きが一段、慣れている。
「よし」
蒼真は床に落ちた二射目の矢を回収しながら短く言った。残二十本。最初の一射は粒子化に巻き込まれたが、二射目は貫通して回収できた。
「悠斗、ダメージは?」
「ない。避けきった」
「航は」
「問題ない」
「里奈の《氷壁》、効いてた。敵の後ろの通路を塞いでくれたおかげで、二体が前を向き続けた」
「……はい」
里奈の「はい」は、三ヶ月前とはもう別物の芯を持っていた。
蒼真は腰の通信機に軽く触れた。通常チャンネルは開きっぱなしで、班の行動音声と蒼真の指示が管理棟に流れている。今の戦闘も、通信機越しに後藤が聞いていたはずだ。
だが、向こうからの声は入ってこなかった。
口を出さない。それが後藤の姿勢だった。
◇
第2層の奥へ。
通路の途中で、別の班の戦闘音が断続的に聞こえる。遠い音、近い音。壁を隔てた先で、一組のどこかの班も二組か三組の班も、同じ時刻に同じ敵と戦っている。
「……なんか、不思議な感じだな」
悠斗が歩きながら呟いた。
「何が」
「同じ階層に、三十班もいるってこと。今この瞬間、百八十人が同じダンジョンで戦ってるんだぜ」
「数えてんのか」
「数えてねえけど、計算すりゃそうなる」
「計算してるじゃねえか」
航が冷静にツッコむ。悠斗が「細けえな!」と笑った。三人のテンポは、どれだけ緊張した状況でも変わらない。
紅葉が途中で足を止めた。
「班長、前方の広間に四体。うち一体、反応が他と違う」
「動き?」
「うん。他の三体は通路側に向かって歩いてるけど、一体だけ壁際に立って、何かを待ってるみたいな」
秋の実習で遭遇した統率型の変異個体の動きと、似ている。
だが、今日は実戦だ。観察だけで済ませるフェーズは終わっている。
「接触する。フォーメーションBで、統率型を先に落とす」
蒼真は判断した。
「真帆、牽制は統率型に集中。通常三体は後回し」
「分かりました」
「里奈は広間奥の通路口を《氷壁》で封鎖。統率型が下がれないように」
「はい」
「悠斗と航で左右展開。通常三体を抑えつつ、俺の射線を開ける」
「了解!」
「了解」
「紅葉、統率型の位置を常時把握」
「任せて」
◇
広間への突入と同時に、六人が動いた。
里奈の《氷壁》が広間の奥、北側の通路口に立ち上がる。真帆の《光矢》が広間中央やや後ろにいる統率型の肩に命中し、白い閃光でその視線をこちらに引いた。
その一瞬に、蒼真が通常射。左こめかみを狙うが、統率型は首を振って避けた。矢が耳の上を掠めて、後方の壁に刺さる。
「――避けた」
蒼真の背筋が強張った。統率型は通常種と違う。反応速度が明らかに一段上。
「『弐』を使う」
蒼真は即座に切り替えた。矢筒の別仕切りから鏃の重い矢を抜き、弦にかける。魔力を注ぎ込むと、指先に負荷が集まった。
統率型はさらに後ろに下がろうとするが、里奈の《氷壁》に阻まれて後退できない。位置が広間の中央に固定される。
その一瞬を、蒼真は弦の底で受け止めた。
『弐』。
蒼い軌跡が、広間を横切る。通常射の二倍以上の光量。
統率型の右こめかみに命中。貫通。粒子化。
同時に、悠斗が一体目のハイゴブリンに突きを入れ、航が二体目を斬撃で倒している。残る三体目のハイゴブリンに、真帆の《光矢》が牽制で入り、蒼真の通常射三発目が左こめかみを貫いた。
四体、処理完了。
所要、約一分四十秒。
◇
「……消耗、重いな」
蒼真は弓を下ろし、右手を握り直した。『弐』を一発撃った直後特有の、指先の痺れと腕全体の疲労。夏休みの訓練で何百回と経験した感覚だが、実戦で撃った後の重さは、訓練の比ではなかった。
「統率型が一発目を避けたの、でかかったな」
航が冷静に分析した。
「秋の実習で見たやつより、反応が速い。動員が始まってから、変異のレベルが上がってる可能性がある」
「可能性じゃなく、たぶんそうだ」
蒼真はノートに素早く記録した。
『第2層・広間一戦目(動員初日)。ハイゴブリン変異個体(統率型)一体+通常種三体。統率型、通常射一発目を首振りで回避。「弐」が必要だった。反応速度が秋の実習時の統率型より上』
ペンを止めて、蒼真は一瞬考えた。
『弐』を一戦で一発使った。魔力の残量から計算して、今日使える『弐』は、あと四発程度。連発は無理だが、一戦に一発ずつなら、第3層の核に相当する強敵まで温存できるはず。
蒼真は一度、通信機に指を触れた。管理棟への報告を、短くまとめる。
「第5班、第2層の広間一戦目、制圧完了。統率型の変異個体を含む四体。『弐』一発使用、全員無傷で進行」
通信機に向かって声を入れると、一拍だけ遅れて、後藤の声が返ってきた。
『了解した』
それだけだった。
指示も、質問も、何もない。ただ「了解した」という声だけで。
蒼真は少し、苦笑した。後藤らしい。
だが、その返答だけで、後藤がちゃんとモニターしているのが分かる。通信機の向こうに後藤がいる。報告は届いている。その事実が、班長としての判断を支えてくれた。
◇
「よし、先に進む」
外れた一本と、貫通して床に落ちた二本を紅葉が拾い集めていた。
蒼真はそれを受け取り、矢羽根を確認して矢筒に戻す。残二十本。『弐』の魔力消費は重いが、この戦闘で矢そのものの損失はなかった。
第2層をさらに奥へ。
二度の戦闘を経て、第3層への降り口に到達した。前回の秋の実習で降りた、あの階段状の通路。足元から昇ってくる空気が冷たい。
「第3層、降りる」
蒼真は号令をかけた。
紅葉が先行し、階段を降りる。六人が続いた。
第3層。
降り立った瞬間、肌の表面に冷たさが広がる。秋の実習のときと同じ、体感での明確な気温差。息を吸うと、わずかに吐く息が白くなりかける。天井は相変わらず見上げても暗がりの奥にしか届かない。
通路の幅は第2層より一段広く、約五メートル。三方向の分岐が入り組み、方向感覚を奪う構造だった。
そして、他班の戦闘音が、すでにあちこちから聞こえていた。
第2層では距離があった戦闘音が、第3層ではより近くに感じる。通路の反響が違うのかもしれない。あるいは、第3層を担当する班の数が、体感で多い。
「紅葉、半径は」
「五十メートル範囲で索敵。反応は複数。少なくとも四方向に魔物の気配。うち一方向は他班の戦闘中。残り三方向は、まだ戦闘に入ってない魔物の気配」
「他班の戦闘、何班くらい」
「気配の揺れ方で見ると、たぶん六人の班が一つ。三十メートル先の左通路。優勢に戦ってる」
紅葉の索敵情報が、これまで以上に密度を持っていた。動員が始まってから、紅葉の斥候としての切替速度が一段上がっているように、蒼真には感じられた。
蒼真は通信機のチャンネルを一度、切り替えた。他班連絡用チャンネル。どこかの班が緊急の援軍要請を出していれば、このチャンネルに声が入る。
今のところ、何も入っていない。
どの班も、自分の区域で戦っている。
通信機のチャンネルを通常に戻して、蒼真は口を開いた。
「俺たちは、右通路。戦闘反応ない方向」
蒼真は判断した。他班が戦っている場所に割り込む必要はない。まずは自分たちの担当区域を歩く。
◇
右通路を五十メートルほど進み、第3層で最初の広間に到達した。
広間の中央に、ハイゴブリン二体。右手奥にゴブリン一体。合計三体。
第3層のハイゴブリンは、外見だけなら第2層の通常種と変わらない。角二本、体高一・二メートル、棍棒持ち。だが紅葉の索敵が告げた通り、棍棒を持ち替えるテンポは第2層のそれより明らかに速い。体の動きにキレがある。
「秋の実習で偵察した、第3層の通常種……か?」
紅葉が壁の隙間から広間を覗きながら呟いた。
「たぶんな。変異じゃなく、第3層の通常種。それでも、第2層の通常種より動きが一段上」
蒼真は六人の配置を指示した。
「フォーメーションB。里奈、奥の通路口に《氷壁》。真帆、右のゴブリンに《光矢》。ゴブリンを先に牽制で落とす方針」
「ゴブリンは私の《氷矢》で仕留めます。《光矢》と重ねれば一発で」
里奈が自ら提案した。蒼真は思わず目を見開いた。里奈が「自分の役割」をこういう形で提示してくるのは、今日が初めてだった。
「――頼む」
「はい」
蒼真は配置を組み直した。
「里奈、退路遮断の《氷壁》を先に。そのあと《氷矢》でゴブリンを仕留める。真帆の《光矢》と重ねて」
里奈が頷いた。
「悠斗と航はハイゴブリン二体を左右に引き剥がす。俺は通常射で削る。『弐』は温存」
「了解」
「了解!」
六人が広間に突入した。
◇
戦闘は、蒼真の想定通りに進んだ。
里奈の《氷壁》が広間の奥の通路口を塞いだ。同時に里奈の《氷矢》と真帆の《光矢》がゴブリンに命中。ゴブリンは光に目を焼かれ、氷の矢に胴を貫かれて粒子化した。一発で処理。
悠斗と航がハイゴブリン二体を左右に引き剥がす。蒼真の通常射が一体目の左こめかみを貫通。ただし、敵の動きが速く、首を振って半分避けられる形になった。矢が耳の上に掠め、こめかみを浅く裂くに留まる。
削り。
だが、削りでも十分だった。ハイゴブリンがよろめいた隙に、悠斗の槍が胸を突き、航の斬撃が脇腹を裂く。前衛の二人で一体を仕留めた。
蒼真の二射目。もう一体のハイゴブリンの左こめかみ。今度は航が斬撃で牽制した直後、角度の良いタイミングで命中した。粒子化。
三体、処理完了。
所要、約一分三十秒。
◇
「第3層、第2層より、確かに一段上だな」
蒼真は息を整えながら言った。
「通常射一発でこめかみに当てても、避けられる時がある。秋の実習で遭遇した通常種でも、棍棒のテンポが第2層の一・五倍ってデータが出てた。実戦で撃ち合うと、反応速度もそれに近い」
「だからフォーメーションBの前衛の役割が重要になる」
航が整理した。
「敵の動きを前衛で抑えつけて、射線の角度を固定する。それが蒼真の矢が避けられないための条件だ」
「『弐』ならどうだ」
悠斗が訊いた。
「『弐』なら、たぶん避けられない。貫通力が通常射の段違いだし、放たれてから命中までのラグが短い。でも、『弐』を第3層のハイゴブリン通常種に使うのは、コストが重すぎる」
蒼真はノートに書き込んだ。
『第3層通常種への射撃。通常射は避けられる可能性あり。前衛の動きで敵の反応速度を遮断する必要。「弐」は強敵用に温存』
『「弐」の残弾。魔力は体感で三発分。矢の残数と右手の消耗を考えても、今日あと二、三発が限度』
ペンを止めて、蒼真は広間を見渡した。天井の高さ。壁の段差。床の岩の隆起。奥の水溜まり。秋の実習で記録した地形要素が、今日の戦闘判断に反映されている。
「里奈」
「はい」
「さっきの《氷矢》、ゴブリンを一発で仕留めたな。前より威力が上がってる?」
「……たぶん。夏休みの訓練で、《氷矢》の密度を上げる練習をしていました」
「次も頼む」
「はい」
里奈の「はい」は、今日一番の芯を持っていた。
真帆も、蒼真の方を見て静かに笑った。
「《光矢》、役に立ちました?」
「立った。里奈の《氷矢》と重ねる発想、助かった。真帆の《光矢》と里奈の《氷矢》が同時に当たって、一発で仕留められた」
「よかった」
真帆が胸を撫で下ろした。
◇
広間の戦闘を終え、六人は次の通路へと進んだ。
歩きながら、紅葉が小声で言った。
「班長、さっきの里奈、なんか、前と違わない?」
「違う」
「『氷矢でゴブリンを仕留めます』って、自分から言ってきたの、初めてじゃない?」
「たぶん、初めてだ」
「なんかさ、いいよね」
紅葉が目を細めて笑った。
「里奈、ちょっとずつ前に出てきてる。秋の実習の時より、さらに」
「ああ」
「……班長」
「ん?」
「《小転移》、話したこと、良かったね」
紅葉はそう言って、少しだけ蒼真を見上げた。
蒼真は、その言葉を黙って受け止めた。
里奈が自分から口を開いた。小転移を話したからか、単に彼女が積み重ねてきたからか。理由は一つに決められない。ただ、その声が前へ出ていることだけは確かだった。
どちらでもいい、と蒼真は思った。里奈が前に出てくれるなら、班長としての自分も、その一歩に応えなければいけない。
◇
第3層のさらに奥へ。
紅葉の索敵で、二つ目の広間に魔物が確認された。四体。ハイゴブリン三体とゴブリン一体。
そして、そのうち一体のハイゴブリンが、他の三体と違う動きをしていた。
壁際に立って、周囲を見回している。短い唸り声を上げる。配下の三体がその声に反応して、位置を変える。
統率型の変異個体。
秋の実習で第2層で目撃した個体と、同じタイプ。
「――また出たか」
蒼真が低く呟いた。
紅葉が頷いた。
「前と同じ動きのパターン。秋の実習のときよりは……反応速度がさらに速い感じ」
やはり、変異が進行している。航の見立てと一致する。
「ここも、フォーメーションB。統率型を『弐』で落とす。残弾の配分、問題ない」
蒼真は判断した。
指示が飛び、六人が配置についた。
広間への突入と同時に、里奈の《氷壁》が後方を塞ぎ、真帆の《光矢》が統率型の肩を焼き、悠斗と航が左右に展開する。
統率型が蒼真の方に振り向いた瞬間、蒼真の『弐』が飛んだ。
蒼い軌跡の太い光の帯。
統率型の右こめかみに命中。貫通。粒子化。
残る三体を、六人の連携で三十秒ほどで処理した。
四体、処理完了。所要、約二分。
◇
「……フォーメーションB、第3層でも通用するな」
蒼真はノートに記録した。
『第3層・広間二戦目。ハイゴブリン変異個体(統率型)一体+通常三体+ゴブリン一体。統率型は「弐」で先制撃破。通常種との連携はフォーメーションBで対応可能』
『「弐」残弾。矢二本、魔力残量で二発程度』
矢残、十九本。『弐』は今日すでに複数回使用。ナイフ六本、未使用。
蒼真は通信機に、もう一度、短く報告を入れた。
「第5班、第3層・広間二戦目、制圧完了。統率型含む四体。全員無傷で進行中」
一拍置いて、通信機から後藤の声が返ってきた。
『了解した』
今度も、それだけだった。
蒼真は小さく笑った。「了解した」だけを聞くために報告している面もある。それでもいい。報告が届いているという事実そのものが、班長の判断の裏付けになる。見てくれている人が、地上にいる。
「蒼真、『弐』結構使うな」
悠斗が槍を肩に担ぎ直した。
「統率型が出るたびに一発必要だからな。でも、大丈夫。俺たちが第3層の担当区域を歩き切るまでに、強い変異が何体出るかによる」
「紅葉、次の広間、反応あるか?」
「あるけど、ここからはまた通路の分岐があるから、先の情報はちょっと不鮮明。五十メートル以内の反応は、東方向と南方向に、それぞれ複数」
「東に行くか」
「東の方が、今のところ反応が少なめ」
蒼真は紅葉の判断を採用した。
「東、行くぞ」
六人が、再び歩き出した。
第3層の戦場は、まだ始まったばかりだった。




