第72話 出撃
金曜日の朝、七時半。
立川ダンジョン入口ゲート前の管理棟広場は、これまで蒼真が見たことのない光景になっていた。
一年生全班、約百八十名が装備を整えて集結している。Sクラスの青いネームプレートと一組から五組までの色違いのネームプレートが、朝の斜光の下で入り混じっていた。
広場の端には仮設テントが組まれている。白い天幕の下に長机が並び、何台もの魔導通信機が置かれていた。一年生の担任六人と学院の戦闘担当教官数名が、通信機の前で準備を進めている。
今日、教官たちの戦場はここだった。ダンジョンの中ではなく、地上の仮設指揮所。
蒼真は静かに息を吸った。
いつもなら、ダンジョンに入る前の装備確認で後藤が目の前に立つ。今朝は違う。後藤は管理棟前のテントでバインダーを開き、何かを確認していた。蒼真たちは自分たちで装備を確認する側だ。
秋の朝の空気が冷たい。制服の下の肌にしっかり触れてくる。だが蒼真は、すでに汗をかき始めていた。緊張の汗。ダンジョンに入る前から身体が戦闘モードに切り替わり始めている。
「全員、集まったな」
蒼真が班員を見渡した。
「装備、確認していく。紅葉から順に、自分で言ってくれ」
「斥候装備、確認完了。ショートソード、短刀、索敵用の小物、問題なし」
「剣、問題なし」
航が続いた。
「槍、穂先と石突き、確認済み」
悠斗が槍を軽く回した。
「杖、魔力通り、確認済みです」
里奈の声には、一年の春とは明確に違う芯があった。
「杖と医療キット、確認しました。キットの中身、包帯・消毒液・鎮痛剤、全部そろってます」
真帆がバックパックから医療キットの白い蓋を一瞬見せた。
「水筒、携帯食。全員、持ってるな」
蒼真の確認に、五人がそれぞれ頷いた。
「俺は、弓」
蒼真は弓ケースから和弓を取り出し、弦を一度弾いて音を確認した。澄んだ弦音が広場に広がる。矢筒二十四本。すべて新品に補充済み。
「ナイフ、六本。触媒仕込み済み」
蒼真は腰のポーチを軽く叩いた。昨日の夜、触媒の状態を指の腹で確認してある。問題なし。
「煙幕粉末、ポーチの内ポケット。全員、異常なし」
蒼真の確認に、五人が頷いた。
自分たちで確認する。
秋の実習では、後藤が同じ流れを主導していた。今朝は自分が主導している。それだけの違いなのに、肩に乗るものが一段増えていた。
◇
広場の奥から、魔導通信機のテストアナウンスが流れた。
「各班、通信テスト開始。班番号順に、応答をお願いします」
一組1班から順に、班長が腰に装着した魔導通信機へ「一組1班、確認」「一組2班、確認しました」と声を入れていく。
学院の魔導通信機は、班単位で腰に装着する小型の端末だった。通常の実習ではダンジョン外との連絡用として使う。今日はそれに加えて、他班との通信チャンネル、管理棟の指揮所との専用チャンネル、緊急救援要請用のチャンネルが割り当てられていた。
「第5班、問題なし」
蒼真が通信機を腰に装着し、マイクに向かって声を入れた。管理棟のテントから応答が返ってくる。
『第5班、感度良好。神代、指揮所、後藤だ』
後藤の声だった。
ダンジョンの中に後藤はいない。だが通信機の向こうにはいる。その事実だけで、蒼真の肩から余計な力が一つ抜けた。
「先生、おはようございます」
『おはよう。出撃前に、一点だけ言っておく』
「はい」
『通信機は全チャンネルでモニターする。お前が通常チャンネルで俺に相談してくれば応じる。緊急チャンネルは即応優先で受ける。だが、判断を預けるな。通信の向こうの俺は、お前の目の前の戦場を見てない』
「……はい」
『お前の班は、これまで、よく判断を重ねてきた。今日もそれをやれ。以上』
通信が切れた。
蒼真は通信機を腰に戻した。
「判断を預けるな」。後藤らしい、突き放すようで信頼の混じった一言だった。
◇
広場を見渡すと、他の班のネームプレートが目に入った。
Sクラス。青。そして、その中にいた。
須藤大河。隣には金色のツインテールの天城凛。さらに隣に白瀬ほのか。他にSクラスの三人。
須藤が蒼真の視線に気づき、軽く頷いた。蒼真も頷き返した。凛はこちらを見なかった。杖を手に、自分の班の装備確認に集中している。横顔だけが朝の光に浮かんでいた。
Sクラスも、教官なしで入る。
当たり前のことだが、蒼真は今それを改めて認識した。須藤たちも自分たちだけで第1〜3層を歩く。同じ条件で同じ一年生として戦場に出る。
その視界の中で、須藤が出撃前に一度だけ蒼真の方を振り返った。
「――楽しみにしてる」
須藤の口元が、かすかにそう動いた。音は聞こえなかった。距離がありすぎたからだ。
それでも、蒼真には確かに伝わった。頷き返す前に、須藤は顔を正面へ戻し、ゲートの方に向き直った。
◇
管理棟の放送スピーカーから、派遣官の声が響いた。
「一年生、各班、編成確認。出撃は、八時半より、班番号順に時間差で開始します」
時間差出撃。三十班が同時にゲートをくぐれば、入口付近で渋滞する。各班の突入時刻をずらし、階層への展開を管理する設計だった。
「Sクラスから順に1班から5班。続いて一組1班から5班。そのあと二組、三組、四組、五組」
派遣官の声が続く。
「第5班は、一組の五番目だな」
航が確認した。
「Sクラスの五班と、一組の1〜4班の後。突入時刻は、八時四十分か四十五分くらい」
「そのくらいだな」
蒼真は矢筒をもう一度確認した。もう必要がないほど繰り返しているのに、指が勝手に動いていた。
紅葉が蒼真の隣にすっと来た。
「班長、他の班の班番号、控えてきた」
紅葉がメモ用紙を見せた。Sクラス五班の班長、一組1〜4班の班長、二組・三組・四組・五組の班長の名前。戦場で合流したとき、名乗り合うための参考資料だ。
「さすが、紅葉」
蒼真は素直に感心した。紅葉はこういう細部を準備してくる。
「これ、コピー、みんなにも配った方がいい?」
「配ろう。みんな、紅葉からもらってくれ」
紅葉が五人にメモを配った。里奈も真帆も真剣な顔で受け取り、制服の内ポケットにしまっていた。
◇
八時半。
派遣官の声で、Sクラスから順に出撃が始まった。
Sクラス5班が順番にゲートへ歩いていく。須藤の班は殿。Sクラスのトップ班として最後の出撃。須藤が歩き出す前に、凛が少しだけ後ろについた。金色のツインテールが朝の光に揺れ、ゲートの向こうへ消えた。
Sクラスが全班突入した後、一組の1班から順に出撃が始まった。第5班は一組の殿。やはり最後の出撃組。
「……緊張するな」
悠斗がぽつりと呟いた。
「でも、いい緊張だ」
「悠斗、よく分かってんじゃん」
紅葉が肩を叩いた。
「俺、戦いの前に震えるとか嫌いだから。でも今は、やりたいって気持ちの方が強い」
「それで、いい」
蒼真が頷いた。
「不安の中に、楽しさがある。俺の性分と同じだ」
「蒼真、それ言ってたよな、春に」
「覚えてたのか」
「覚えてるよ、あれはなんか、カッコよかったから」
悠斗が軽く笑った。蒼真もつられて笑う。緊張で張っていた背中が、そこでいくらか楽になった。
◇
八時四十三分。
第5班の番が来た。
ゲート前に六人が並ぶ。管理棟のテントの方を、蒼真は一度だけ振り返った。後藤が通信機の前に立ってこちらを見ていた。目が合う。後藤は何も言わず、ただ一度だけ頷いた。
蒼真も頷き返した。
「――行くぞ」
蒼真の声で、六人が歩き出した。
ゲートをくぐる。秋の空気から、ダンジョンの魔素の重い空気へ。その境界を、今日は特にはっきりと感じた。
そして背中で、ゲートの光が閉じていく音を、蒼真は確かに聞いた。
管理棟は、もう後ろにある。
俺たち六人だけの、第1層。
◇
第1層。
蒼真が最初に驚いたのは、通路の奥からすでに戦闘音が聞こえていたことだった。
先行した班が、第1層の中で異常個体と交戦している。岩壁が反響させる棍棒の音。叫び声。魔法の着弾音。それらが別々の方向から重なって聞こえてくる。
「……賑やかだな」
悠斗がやや強張った声で呟いた。
「一年生全部が、この階層を塗りつぶそうとしてる」
紅葉が冷静に補足した。
「私たちは、私たちの担当区域をやるだけ」
「そうだ」
蒼真は頷いた。
「紅葉、前方」
紅葉の目の奥が淡く光った。《視力強化》のアクティブ状態。
「前方、魔物確認。ゴブリン三体。四十メートル先の通路。うち一体、動きが速い。変異個体かも」
蒼真の背筋に緊張が走った。
異常個体との初接触。
秋の実習で第2層の統率型変異個体は遠巻きに観察しただけだった。今回は、戦闘するために来ている。
「やろう」
蒼真は短く言った。
「三体。通常個体は悠斗と航で。変異個体は俺が通常射で狙う。反応速度が速いなら『弐』を使うかもしれない。紅葉は変異個体の位置を常に把握しておいてくれ」
「了解」
紅葉が頷いた。
蒼真は弓に矢をつがえ、通路の前方に意識を集中した。
通路の暗がりの奥に、三つの影が見えた。二体は通常のゴブリン。体高一メートル、角なし、棍棒持ち。もう一体は。
――違う。
一体だけ、動きが違う。棍棒ではなく、折れた骨のような鋭い武器を持っている。そして他の二体よりも明らかに速いテンポで、こちらに向かって走ってきた。
変異個体。
「悠斗、航、通常の二体を頼む」
「了解」
「俺は変異の方」
蒼真は呼吸を整えた。通常射の矢を弦にかけ、狙いを絞る。
変異個体の走るテンポが速い。通常のゴブリンの倍近い速度で距離を詰めてくる。距離、三十メートル。二十メートル。
十五メートルになった瞬間、蒼真は弦を離した。
蒼い軌跡。
変異ゴブリンの額に命中。粒子化。
同時に、悠斗と航がそれぞれ通常ゴブリンを処理していた。悠斗の突きで一体、航の斬撃で一体。ほぼ同時に粒子化。
三体、処理完了。
所要、約八秒。
◇
「速いな、今日は」
悠斗が槍を肩に担ぎ直した。
「変異ゴブリン、反応速度が通常の二倍くらいあったけど、額一発で粒子化した。個体の耐久は通常種と変わらないらしい」
蒼真はノートに短く記録した。
『第1層・変異ゴブリン。反応速度二倍、武器は骨片状。個体耐久は通常種と同等。額命中で一射粒子化』
腰の通信機に軽く触れた。通常チャンネルが開きっぱなしになっている。全班の戦闘状況が、雑談レベルの音声で管理棟側に流れているはずだった。
「……先生たち、忙しいだろうな」
悠斗が通信機をちらっと見た。
「三十班分の通信、同時モニターしてるんだろ。凄い量だよな」
「だからこそ、俺たちから相談するのは、本当に判断に迷う場面だけにしたい」
蒼真は言った。
「先生たちの注意を分散させたくない」
「賛成」
航が頷いた。
「基本的には、自分たちで判断する。通信機で指揮所に相談するのは、最後の選択肢として残しておく」
この方針も、班としての暗黙の合意になった。
矢は変異ゴブリンの粒子化に巻き込まれて消えた。残二十三本。
「進もう」
蒼真は号令をかけた。
六人が通路の奥へと歩き出した。
◇
第1層を進む中で、さらに二度、異常個体を含む魔物との遭遇があった。
一度目はゴブリン四体、うち変異一体。通常射と前衛の連携で一分以内に処理。
二度目はハイゴブリン一体、通常種とゴブリン二体。ハイゴブリンが第1層に出現する。これ自体がイレギュラーだった。本来、第1層にはゴブリンしか出ない。変異ではなく、単純に「出現層が変わっている」個体。蒼真は通常射二発でハイゴブリンを仕留め、前衛がゴブリンを処理した。
通路の途中で、別の班と一度合流した。
「一組、5班、神代です」
蒼真が名乗った。
「二組、3班、佐伯です」
二組3班の班長である前衛らしい剣士が返した。
「こっちの通路、十メートル先に広間。ハイゴブリン二体。これから仕掛けます」
「うちはそのまま先に進みます。広間は任せます」
「了解。お互い気をつけて」
短いやり取り。戦場での実戦的な会話。訓練では経験できない種類の、明確な「実戦の空気」。
佐伯班が広間に入っていくのを横目で見ながら、蒼真は自分の班を別の通路へと導いた。
学年全体で戦っている。
その実感が、蒼真の中に強く残った。
自分たち六人だけじゃない。Sクラスも一組の他の班も、二組も三組も四組も五組もいる。全員が同じ階層で同じ敵と戦っていた。百八十人の一年生が第1〜3層を一日で塗りつぶそうとしている。そして全員が、教官なしで自分たちだけの判断で動いている。
その一部に、第5班もいる。
◇
第1層の奥にある第2層への降り口に到達したのは、突入から約一時間後だった。
通常の実習なら三十分で着く距離だが、今日は異常個体を探し、排除しながら進んでいる。
『第1層戦闘計。変異ゴブリン二体、通常ゴブリン五体、異常出現ハイゴブリン一体。計八体を排除』
矢残、二十一本。『弐』は未使用。ナイフ六本、消費ゼロ。
「第2層、降りるぞ」
蒼真は号令をかけた。
第2層への階段。秋の実習で何度も歩いた降り口。
だが、今日は違う。
偵察ではなく、掃討。しかも、後ろに教官がいない。
蒼真は腰の通信機を、指先で確かめた。通信機は胸に当たる位置にしっかり収まっている。この小さな端末の向こうに後藤がいる。それだけが、今朝の第5班と秋の実習の第5班の唯一の繋がりだった。
蒼真は弓を握り直し、先頭の紅葉に目で合図した。
「行くぞ」
六人が階段を降りていった。
第2層の、もう一段重い魔素が足元から昇ってきていた。




