第7話 四月十五日の申込み
入学から十日余り。四月の陽気が立川の街を柔らかく包む頃には、探索者学院での生活にもいくらか慣れが出てきていた。
朝、錦町のマンションを出る。駅前を通り抜け、多摩モノレールに乗り込むか、天気がよければそのまま歩く。四月の空気はまだ冷たさを残しているが、学院に近づくにつれ肌を撫でる感覚が僅かに重くなる。ダンジョンの気配だ。もう何度も通った道なのに、その感覚にだけはまだ慣れない。毎朝、肌がぴりっとする。それが嫌いじゃなかった。
一時限目の座学が始まるまでの時間、蒼真は窓際最後列の席で弓のメンテナンスノートを開いていた。昨日の訓練で気になった点。訓練用の弓と自前の和弓の引き味の違い。弦の張力、握りの太さ、矢を番えたときの手の収まり。箇条書きで書き留めていく。
ちなみに自前の和弓を訓練でも使って良いか担任の後藤に確認中である。
「おはよーっす」
悠斗が鞄を机に投げるように置いて、隣の席に滑り込んだ。ツーブロックの髪がまだ少し寝癖で跳ねている。
「今日の二時限目、何だっけ。迷宮概論?」
「……武器学概論」
前の席から、ノートを開いたまま航が訂正した。
「あー、そっちか。教科書忘れた」
「毎日何か忘れてないか、お前」
「忘れてないこともある」
「それフォローになってないだろ」
蒼真がノートから顔を上げて笑った。
「つーか悠斗、昨日も体操着忘れてなかった?」
「あれは忘れたんじゃなくて干し忘れて濡れてただけだ」
「もっとダメじゃん」
航が呆れた顔で前を向いた。悠斗が「うるせーな二人して」と笑いながら鞄を漁り、教科書の代わりにコンビニのおにぎりを取り出す。
「おい、まだ一時限目前だぞ」
「腹が減っては戦はできぬ」
「戦って何と戦うんだよ、武器学概論か?」
三人でいるときの空気は、もうすっかり形ができていた。悠斗がボケて航がツッコむ。蒼真はそこに乗っかって、たまにツッコミ側に回る。声が大きくなって周りの席からちらちら視線が飛んでくることもあったが、まあいい。楽しいんだから仕方ない。
◇◆◇
四月十二日。五時限目が終わった直後のことだった。
蒼真が教室を出て廊下を歩いていると、前方に人だかりが見えた。いや、人だかりというほどではない。ただ、廊下を歩く生徒たちの視線が一点に集まっている。
その視線の先に立っていたのは、Sクラスの制服を纏った長身の少年だった。
須藤大河。
整った顔立ちに浮かぶ表情は穏やかだが、その佇まいには周囲を自然と引き寄せる力がある。両親ともに有名探索者という血筋。入学時点で「Sクラスの実力者」として名前が挙がる人物。
その須藤が、蒼真の前に立った。
「――神代蒼真だな」
声は静かだった。威圧するでもなく、見下すでもない。ただ確認するように。
「……そうだけど」
蒼真は足を止めた。心臓がひとつ、強く打った。Sクラスの生徒が一般クラスの廊下に来ること自体が珍しい。まして、名指しで訪ねてくるとなれば。
周囲の空気が変わったのが分かった。立ち止まる生徒、足を緩める生徒。好奇と緊張が混じった視線が蒼真と須藤の間を行き来する。
「弓術適性で入学した唯一の学院生。それがお前だと聞いた」
須藤の目が蒼真を見据えた。真っ直ぐな視線だった。
「模擬戦を申し込みたい」
廊下がさざめいた。囁き声が波紋のように広がる。
蒼真は須藤の目を見返した。その視線の奥にある感情を読み取ろうとしたが、分からなかった。嘲りではない。挑発でもない。かといって敬意というには空気が違う。
何を考えてる、こいつ。
読めない。だが。
指の先まで血が巡るように、蒼真の中で何かが熱を持った。Sクラスの実力者が、わざわざ蒼真を指名して来た。理由が何であれ、逃げる選択肢はない。そもそも逃げたくない。
――上等だ。
蒼真は返事をする前に、弓を握る左手へ力が入った。断る理由は一つもなかった。
「分かった。受ける」
声に力みはなかった。だが、さっきまでとはトーンが違う。自分でも分かるくらい、声が前に出ていた。
須藤の眉が、ほんの一瞬だけ動いた。けれどすぐ、いつもの無表情に戻る。
「いい返事だな。日程は学院に申請する。来週の月曜、四月十五日の放課後でどうだ」
「構わない」
「会場は屋外演武場を押さえる。詳細は追って連絡する」
それだけ言うと、須藤は踵を返した。Sクラスの棟へ戻っていくその背中を見送りながら、蒼真は自分の心臓がまだ速く打っているのに気づいた。
怖いか? いや、違う。これは――。
楽しみだ。
拳を軽く握った。手のひらが少し汗ばんでいる。
「……蒼真」
振り返ると、悠斗と航が教室の入り口に立っていた。悠斗の顔は珍しく真剣で、航は眉をわずかに寄せている。
「聞こえてた」
航が視線を上げて言った。
「Sクラスの須藤大河。入学時点で実力者って評判のヤツだ」
「知ってる」
蒼真は頷いた。頬の強張りがまだ戻らない。
「……断れなかったのかよ」
悠斗が口を開いた。いつもの軽い調子ではなかった。
「断る?」
蒼真は首を傾げた。本気で意味が分からなかった。
「なんで断るんだよ。Sクラスの実力者と戦えるんだぞ」
悠斗が目を丸くした。航も少しだけ眉が上がる。
「……お前、なんかちょっと楽しそうだな」
航が呆れたような、感心したような声で言った。
「楽しいよ。めちゃくちゃ緊張もしてるけど」
蒼真は笑った。今度は小さくではなく、歯を見せて。
悠斗が何か言いかけて、やめて、それから大きくため息をついた。
「……分かった。じゃあ応援には行くからな。絶対行くからな」
その声は、少しだけ強かった。蒼真の笑顔がもう少し大きくなった。
「ありがとう。頼りにしてる」
◇
夜。錦町のマンション。
弓のメンテナンスノートを机に広げたまま、蒼真はスマートフォンの着信音で手を止めた。画面に表示された名前は「叔父さん」。
叔父の神代誠二。父の弟にあたる。世田谷に一軒家を構え、奥さんと娘二人の四人暮らし。蒼真が探索者学院への進学を決めたとき、「どうせ出てくるなら東京に来い」と背中を押してくれたのがこの人だった。入学してからも週に一度は電話をくれる。
「もしもし」
『おう、蒼真。元気にしてるか』
低いが温かみのある声。父に似ているが、父より少し声が高い。
「元気元気。今日もがっつり訓練してきた」
『おお、いいねえ。飯はちゃんと食ってるか。カップ麺ばっかりじゃないだろうな』
「最近はファミレスが多いかな。友達と」
『友達と! いいじゃないか、いいじゃないか』
電話越しに声が弾んだ。叔父はこういう反応をする人だ。些細なことを大げさに喜んでくれる。蒼真の頬が自然と緩んだ。
『それでな、GWの話なんだが。こっちに来られるか? 美咲と結衣が蒼真に会いたがってるんだよ』
美咲と結衣は叔父の娘、蒼真にとっては従姉妹だ。確か小学四年と一年。前に会ったのは去年の正月だったか。
「GWか。行きたい。ただ、来週ちょっと試合があって」
『試合? もう何かあるのか』
「うん、模擬戦。Sクラスのヤツに申し込まれた」
『えっ、Sクラスって選抜の? 大丈夫なのか?』
「大丈夫かどうかはやってみないと分かんないけど」
蒼真は少しだけ間を置いて、笑った。
「負ける気はないよ」
『はは! 言うねえ。さすが兄貴の息子だ』
叔父の笑い声が電話越しに響いた。探索者の世界に身を置いていない人間の、素直な反応。それが心地よかった。
『まあ無理はするなよ。GW、待ってるからな。智子も張り切って飯作るって言ってたぞ』
「ありがとう。試合終わったらすぐ行く。楽しみにしてる」
電話を切った。
スマートフォンを机に置いて、ふう、と息を吐く。叔父と話すと肩の力が抜ける。家族ってのはありがたいもんだ。
最後に、祖父にメッセージを送った。
『試合を申し込まれた。来週の月曜。Sクラスの剣士と模擬戦することになった』
数分後、返事が届いた。
『そうか』
三文字。いつも通りだ。
蒼真は声を出して笑った。
「そうか、って。もうちょっと何かあるだろ、爺ちゃん」
画面に向かって独り言を言って、それからスマートフォンを充電器に置いた。だが口元はまだ笑っている。この三文字の裏に「頑張れ」が入っていることを、蒼真は知っている。
窓の外、立川の夜景が静かに光っている。
――来週の月曜日。
拳をぎゅっと握って、開いた。手のひらにじんわりと熱が残る。
Sクラスの実力者。剣士。入学時点で名前が挙がるサラブレッド。相手にとって不足なし。いや、不足があるのは向こうから見たこっちの方か。
――だからどうした。
弓術適性で入学した唯一の学院生。その肩書きを、嘲笑じゃなくて驚嘆に変えてやる。
来週、それを証明する。
「来週の月曜、か」声に出すと、それだけで指がうずいた。




