第6話 探索者学院の日常
四月三日。授業二日目の朝は、昨日より少しだけ足取りが軽かった。
教室に入ると、航がすでに席についていた。蒼真が「おはよう」と声をかけると、航は顎を引いて応じた。視線は手元の本、探索者協会が発行している年次報告書のようだ。
「朝から真面目だわな」
「暇だっただけ」
そう言いながらも本を閉じない航を見て、蒼真は笑った。この男は素直に「興味がある」と言わないタイプだ。
「おはよー!」
教室の扉が勢いよく開いて、悠斗が飛び込んできた。今日は寝癖が左側だ。右に傾いた世界のバランスを取るかのように、昨日とは反対側の髪が跳ねている。
「今日の教科書は全部持ってきた!」
「当たり前のことを誇るな」
航のツッコミに蒼真が噴き出す。悠斗は胸を張ったまま「いや昨日のことがあるからな!」と笑っている。朝の教室に三人の声が響いて、近くの席の生徒が呆れたように振り返った。
◇
三時限目。探索者概論。
後藤が教壇に立った。今日も紙コップコーヒーを片手に、ネクタイが曲がっている。だが板書を始めると、やはりチョークの運びは端正だった。
「今日は氾濫――スタンピードの話をする」
教室の空気が変わった。悠斗が机に突っ伏しかけていた身体を起こす。蒼真も背筋を伸ばした。
「氾濫とは、ダンジョンから魔物が地上に溢れ出す現象だ。発生条件は現時点で解明されていない。数カ月放置で起きるダンジョンもあれば、数年放置でようやく起きるものもある。一定の法則はまだ見つかっていない」
後藤が黒板に「予兆」と書いた。
「ただし予兆は知られている。三つある。一つ、通常より強い個体が出現する。二つ、ユニーク個体――外見が明らかに異質な魔物が出る。三つ、魔物の数が異様に増える。この三つのいずれか、もしくは複数が観測された場合、氾濫の前兆として扱われる」
蒼真はノートにメモを走らせた。強個体、ユニーク個体、異常増加。三つの予兆。
「予兆が確認された場合、エリート探索者が大量に投入されて調査と間引きが行われる。同時に自衛隊と警察がバックアップ体制を敷く。危険度が上がれば避難勧告も出る」
後藤がコーヒーを一口飲んだ。紙コップの中身はもうほとんど残っていないようだった。
「ここで覚えておけ。ダンジョン外での戦闘ルールはダンジョン内とは違う」
黒板に新しい行が加わる。
「ダンジョン内には魔素が充満している。探索者の身体はこの魔素によって受動的に強化されている――無意識のうちにだ。ダメージの減衰もある。だがダンジョンの外では、この受動的な身体強化が働かない」
教室がざわついた。蒼真も一瞬、手が止まった。
「魔力で能動的に防壁を張ったり防御スキルを展開すれば、銃弾だって防げる。だが、常時展開は消耗が激しくて現実的じゃない。つまりダンジョン外で不意打ちを食らえば、一流探索者でも銃弾一発で死にうる。勿論、お前たちもだ」
教室が静まり返った。
「逆に言えば、ダンジョンの外に溢れた魔物には火器が有効だ。ダンジョン内では弾丸の威力が吸収される魔物でも、外に出れば通常兵器が通る。だから氾濫時には自衛隊の火力が活きる。探索者が前衛で魔物と交戦し、自衛隊が後方から火力支援と退路確保を担う。相互補完だ」
後藤がチョークを置いた。一拍の間。
「――俺が現役だった頃にも一度あった」
声のトーンが変わった。蒼真は咄嗟に後藤の目を見た。一瞬だけ、飄々とした昼行灯の奥に鋭い光が走った気がした。
「ここ、立川でだ」
教室の空気が凍りついた。
「昭和記念公園が今も残っているのは、あの広大な敷地がスタンピード時の空間的余裕を確保するためだ。美しい公園を残したわけじゃない。万が一に備えて、魔物と市街地の間に緩衝帯を置いてるんだ」
後藤はそこで言葉を切り、紙コップをゴミ箱に放り込んだ。
「――まあ、今すぐどうこうって話じゃない。ただ、探索者を目指すなら知っておけ。お前たちが将来守る側に回る可能性は、ゼロじゃない」
いつもの気だるい口調に戻っていた。だが蒼真は見逃さなかった。後藤の目が鋭くなったあの一瞬を。この人は、知っている。教壇の上から語る知識ではなく、現場で肌に刻まれた記憶として。
◇
午後。屋内訓練場。
体育館三つ分はあろうかという巨大な空間に、一年一組の生徒たちが散らばっていた。衝撃吸収壁面に囲まれた訓練場の床は魔道具処理が施された特殊素材で、魔力を纏った攻撃の衝撃を吸収する設計になっている。
適性武器別にグループが分けられ、それぞれの担当教官のもとで基礎訓練が行われた。
剣士、槍使い、魔法使い。適性ごとに固まる輪の中で、弓術はただ一人、蒼真だけだった。
訓練場の端、的射レーンに蒼真は立っていた。教官が用意した訓練用の弓を手に取り、弦を引く。
「軽いな」
呟きが漏れた。引き味が違う。自前の和弓は手に吸い付くような重さと張りがある。この訓練用の弓は悪くはないが、どこか他人の手を借りているような感覚がある。
それでも矢は放つ。
蒼真は一人で的を射続けた。隣のレーンには誰もいない。弓術適性は自分だけだから当然だ。慣れている。地方の弓道場でも、祖父以外に弓を引く人間はいなかった。
慣れてるんだ、こういうの。
そう思いながらも、弦を弾く指先に祖父の弓道場の記憶が重なった。
少し離れた場所で、悠斗がランニングをしているのが見えた。槍使いグループの基礎訓練は走り込みから始まるらしい。悠斗の走りが妙に軽い。《脚力強化》が無意識に効いているのだろう。地面を蹴る脚が、他の生徒よりも明らかに弾んでいた。
剣士グループでは素振りが行われている。航の姿を見つけた。長剣を構え、振り下ろす。
「宮瀬、だったか。振りが重いな」
教官が足を止めた。
「お前、確か《斬撃強化》だったか?」
航が頷く。教官は腕を組んで少し考え込み、「型は悪くない。ただ、スキル頼みにならないよう基礎は固めろ」と付け加えた。
航は「はい」とだけ答え、また素振りを再開した。「振りが重い」。それは航自身も自覚していないスキルの恩恵だった。
蒼真は矢をつがえ直し、的に向き直った。
いつかは――いつかは、あのグループの中に弓術士のレーンが並ぶ日が来るだろうか。
いや、そんなことを考えてる暇はない。
弦を引く。矢を放つ。的の中心に吸い込まれるように刺さった。
一人でいい。一人で強くなる。そして、いつか立つ側になる。
◇
放課後。三人でサンサンロード沿いのファミレスに入った。
窓際の席に並んで座り、ドリンクバーだけを注文する。学院生にとってはありがたい価格帯の店だった。
「お前ら、スキルって実感ある?」
蒼真がアイスコーヒーのストローを咥えながら聞いた。午後の訓練を経て、気になっていたことだ。
「俺はあるぜ。気合入れると脚が軽くなる感じ。ギアが一段上がるっていうか」
悠斗がオレンジジュースを振り回しながら答える。
「航は?」
「正直、よく分からない。普通に振ってるつもりだが、教官に『重い』と言われた」
「それがスキルの恩恵だろ。自覚なしってある意味すごいな」
蒼真が感心すると、航は少しだけ眉を寄せた。
「自覚がないのは、コントロールできていないということでもある。課題だ」
真面目だな、と蒼真は思った。当たりスキルを引いておきながら、それに甘えない。航の誠実さは、こういうところに出る。
話題が変わった。
「今日の氾濫の話、結構きつかったな」
悠斗の声が少しだけ低くなった。さっきまでの陽気さが抑えられている。
「後藤先生、立川で経験してるって言ってたよな。マジでこの街で起きたってことだろ」
「起きた。そして今も起こりうる」
航がコーヒーから顔も上げずに言った。
「俺たちは一年生だ。今すぐ対処に駆り出されることはない。だが三年後にはプロだ。その時に何ができるかは、今から積み上げたもので決まる」
「お前、冷静だな。怖くないのかよ」
「怖いかどうかは関係ない。やるかやらないかだ」
蒼真は黙ってコーヒーを飲んだ。航の言葉が胸に落ちた。怖いかどうかは関係ない。やるかやらないか。それは、蒼真が弓術適性を受け入れた時にも思ったことだ。
重い空気を振り払うように、悠斗が身を乗り出した。
「あ、話変わるけどさ。お前ら、一組に栗色ポニテの可愛い子いるの気づいた?」
「急にどうした」
「いや! 気になって! 訓練の時、魔法使いグループにいたんだけど、めっちゃ可愛くなかった?」
蒼真が「さあ」と首を傾げる横で、航が。
航の視線が一瞬だけ泳いだ。ほんの僅かだが、蒼真はそれを見逃さなかった。
「航、知ってるのか?」
「知らん」
「嘘つけ。今、顔に『心当たりあります』って書いてあったぞ」
悠斗が机に身を乗り出す。航が露骨に顔を背けた。
「小林真帆。白魔法使い。席は中央列の前から三番目」
「詳しいな!?」
「たまたま名簿を見ただけだ」
「名簿で席まで覚えるか普通!?」
蒼真が声を出して笑った。航の耳が僅かに赤い。このむっつりめ。
「お前、もしかしてむっつりか?」
悠斗が追撃を仕掛けた。航のこめかみがぴくりと動く。
「次にその言葉を使ったら、明日から一人で昼飯を食え」
「怖ぇ! でも否定はしないんだな!」
ファミレスの窓際で三人の笑い声が重なった。近くの席の客が振り返ったが、蒼真は気にしなかった。
◇
マンションに帰り、蒼真は制服のままベッドに腰を下ろした。
スマートフォンを開く。祖父へのメッセージ。
『今日、ダンジョン氾濫の話を聞いたよ』
送信。すぐに既読。
『そうか』
三文字。
蒼真は画面を見つめて、小さく息を吐いた。安心する。この三文字がいつも通りであることが、何よりも安心する。
スマートフォンを枕元に置き、天井を仰いだ。
後藤先生の目。あの一瞬だけ鋭くなった視線が、まぶたの裏に残っている。くたびれたスーツにネクタイの曲がった昼行灯。だが、あの目は――あの目は、戦場を知っている人間のものだった。
――強くなりたい。
氾濫が来た時に逃げる側ではなく、立ち向かう側に。弓術士として、一人でも多くの命を守れるように。
――いつかは立つ側になる。
その思いは、午後の訓練場で感じたものと同じだった。一人きりの的射レーン。隣に誰もいない静寂。それでも矢を射続けた手の感触が、まだ指先に残っている。
蒼真はベッドから立ち上がり、窓を開けた。四月の夜風が頬を撫でる。立川の街灯が遠くまで続いている。この街でかつて氾濫が起きた。そしてこの街で、蒼真は探索者になる。
「よし」
声に出して、拳を握った。指の骨が鳴る。
明日もある。明後日もある。弓を引いて、矢を放って、少しずつ前に進む。三人でうるさく笑って、一人で黙々と鍛えて。
その繰り返しの先に、頂がある。
蒼真は窓を閉めて、ようやく制服を脱いだ。シャワーを浴びて布団に入り、目を閉じる。
後藤の鋭い目。悠斗の裏返った声。航の赤い耳。的の中心に刺さった矢。今日も、悪くない一日だった。
明日が来るのが、少しだけ楽しみだ。




