↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼弓の軌跡 ~探索者学院唯一の弓術士は静かに頂を狙う~  作者: 七夜灯
第三章 イレギュラー編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
69/139

第69話 後藤の確信

 秋の実習から三日後の夕刻。


 東京探索者学院、職員室。

 後藤喜一郎(ごとうきいちろう)のデスクの上には、空になったコーヒーカップと三冊のファイルが並んでいた。


 一冊目。角がすり減ったバインダー。表紙に何も書かれていない。中には五月の初ダンジョン実習時の第5班の報告書が挟まれている。角一本のハイゴブリン。第2層降り口付近で蒼真たちが遭遇した、通常種とは異なる外見の個体。あのとき後藤は「……一本?」と違和感を覚えたが、急用で呼ばれ、そのまま忘れた。


 表紙の右上に、黄色い付箋。


「今度は忘れない」


 二冊目。七月の前期実力考査の報告書ファイル。体色が通常種より暗いハイゴブリン変異個体。蒼真が目撃し、後藤が探索者協会立川支部経由で探索省に報告した件。返答は「個体差の範囲」。棚上げ。


 表紙の右上に、黄色い付箋。


「個体差の範囲。要再確認」


 三冊目。今回の秋の探索実習の報告書ファイル。後藤自身が現場で直接確認した統率型の変異個体。外見は通常種と差異がなく、行動パターンのみが異質。短い唸り声で配下の動きを制御していた。


 表紙の右上に、黄色い付箋。


「事実確認済み。中層の報告と連動」


 後藤はコーヒーカップを持ち上げた。空であることに気づき、そのまま下ろす。

 三冊を順に、手のひらで撫でた。


   ◇


 五月の角一本。外見の異常。

 七月の暗色個体。体色の異常。

 今回の統率型。行動パターンの異常。


 一件ずつ見れば、どれも「個体差の範囲」で押し切れる程度のものだった。角が一本足りないゴブリンなど、ダンジョンの歴史の中では珍しくない。少なくとも、探索省の担当者はそう判断した。


 だが、三件を時系列で並べると見え方が変わる。

 変異は、時間が経つほど「見つけにくくなる」方向に進んでいる。


 一件目は角の本数。誰が見ても分かる外見的差異。

 二件目は体色。注意して観察すれば分かる差異。

 三件目は行動パターン。外見的には通常種と区別がつかず、一定時間の観察が必要な差異。


 ――これは、偶然の個体差の散らばり方ではない。


 後藤は頭の中で、元探索者時代に叩き込まれた判断基準を走らせた。ダンジョンの異常は、必ず兆候から始まる。兆候を拾えるかどうかが、探索者の生死を分けることがある。


 三件の報告が、後藤の頭の中で一本の線になった。

 ダンジョン全体で、何かが起きている。


   ◇


 職員室のドアがノックされた。


「後藤先生、お時間よろしいですか」


 入ってきたのは、探索者協会立川支部の連絡担当、早川(はやかわ)という三十代の女性職員。後藤が七月に報告を提出した際の窓口でもあった。


「早川さん。何か」

「急ぎの通達です。本部から正式文書が来ました」


 早川は封筒を後藤のデスクに置いた。探索省の公印が押された厚手の封筒。


「立川ダンジョンの一時探索中止、および全層調査の開始が発令されました。明日付けで発効します。学院生徒の探索実習は当面停止です」

「出たか」


 後藤は封筒を手に取った。指先がかすかに強張る。


「動きましたね」

「中層からの報告と先生の三件の報告が、決定打になりました。前の担当者が外され、本部筋の判断で『大規模異変発生』の扱いに格上げされています」

「前の担当者が外された、か」

「ええ。『個体差の範囲』で押し切ったことが、結果的に対応を遅らせたと判断されたようです」


 後藤は封筒を開き、中身を確認した。公式通達文書。立川ダンジョン全層の一時探索中止。調査のためのプロ探索者投入。そして。


「早川さん、もう一点、聞いておいていいか」

「はい」

「調査の結果、探索省が『討伐』判断を下した場合、学院生徒の動員は」


 早川は一拍置いて、声を低くした。


「可能性はあります。立川ダンジョンの上層、第1層から第10層は学院のカリキュラム範囲です。プロ探索者は通常、第11層以降を担当します。上層の異常個体排除は、学院側に委ねられる公算が高い」

「学生に、実戦を、やらせるのか」

「学院側の判断が尊重されますが、断りづらい規模になるかもしれません」


 後藤は封筒をデスクに静かに置いた。


「分かった。校長には俺から上げる」

「よろしくお願いします」


 早川が一礼して、職員室を出ていった。


   ◇


 後藤は椅子の背もたれに体を預けた。

 天井を見上げる。職員室の蛍光灯が、白い光を落としている。


 ――動員。


 頭の中で、第5班の六人の顔が浮かんだ。

 神代の弓を引く姿。橘の槍を担いで笑う顔。宮瀬の冷静な目。鬼塚の索敵報告の声。中村の杖を握り直す仕草。小林の白い光。


 あの六人が、実戦に出る。


 後藤は自分の左膝を、無意識にさすっていた。元探索者時代の古い怪我が、こういうときに疼く。仲間を危険に送り出す。あるいは、危険に巻き込まれることを黙認する。その場面で味わった鈍い重さが蘇った。


 あの六人は、一年生にしては仕上がっている。


 フォーメーションBは機能する。魔力集中射『弐』は実戦で通用する。鬼塚の索敵は正確だし、中村の氷魔法と小林の白魔法の幅も広がった。


 それでも。

 訓練と実戦は違う。制御された環境と、制御されない環境は違う。

 後藤はコーヒーカップをもう一度持ち上げた。空であることに気づき、また下ろす。


 まあ、俺が心配してもしょうがない。


 決めるのは探索省だ。学院がどう対応するかは、校長と教務課の判断だ。俺にできるのは、報告を積み上げることと、生徒に「覚悟しておけ」と伝えることだ。


 後藤は三冊目のファイルを開き、最後のページにペンを走らせた。


『中層からの報告との連動を確認。探索省、一時探索中止を発令。全層調査を開始。三件の報告が一本の線として認知された。動きが出るまでに五ヶ月かかった。もっと早く動けていれば、とは、今さら言うまい』


『今後のために記録する。初動の遅れは、学院側の報告だけでは探索省を動かせなかったことが原因。プロ探索者側からの報告が重なったことが転機。上層と中層の双方から同時に上がる報告体制が、今後の早期対応の鍵となる』


 書き終えて、ファイルを閉じた。


 ――今度は、もみ消されなかった。


 五月に忘れた一件目。七月に棚上げされた二件目。そして今回の三件目。

 三つが揃って、ようやく探索省が動いた。


   ◇


 翌朝。

 一年一組の教室。始業チャイムが鳴り終わり、後藤が教卓に立った。

 黒板に一行だけ書いた。


「立川ダンジョン 当面の探索中止」


 教室が、一瞬で静まった。


「探索省からの正式通達だ。学院生徒の探索実習は当面停止する。理由は、ダンジョン内の全層で異常個体の発生が確認されたため、原因調査と排除対応が行われる」


 ざわめきが小さく起きて、すぐに収まった。


「学院生が動員されるかは、まだ決まってない。決まったら、その時にまた話す。それまでは、通常授業と訓練を続けろ。慌てるな」


 後藤は教室を見渡した。三十人の一年生の顔。不安、緊張、困惑。様々な表情が混ざっていた。


「ただ、一つだけ言っておく」


 後藤の声色が変わった。


「お前たちが、この一年でここまで来たのは、教員の指導とお前たち自身の努力の両方があったからだ。それは、誇っていい」


 教室の空気が、張り詰めた。


「だが、自信過剰にはなるな。イレギュラーは、訓練じゃない」


 後藤の目が、教室を一度、静かに撫でた。


「以上だ。一限、始めろ」


   ◇


 ホームルームが終わった直後。


 蒼真の席に、悠斗と航が寄ってきた。


「……動員、来るかな」


 悠斗の声は、珍しく沈んでいた。


「たぶん、来る」


 蒼真が静かに答えた。


「先生があれだけはっきり『覚悟しておけ』って匂わせたってことは、学院の上の方じゃもう想定が始まってる。決まったら、早い」

「……そっか」


 悠斗が、拳を膝の上で握った。


 蒼真は悠斗の肩を軽く叩いた。


「鷹丸で言ったろ。六人で、やる」

「ああ」


 悠斗が蒼真を見て、笑った。


「やるしかねえよな」

「やるなら、作戦を練る時間が欲しいな」


 航が後ろから会話に入った。


「それは、動員が正式に出てからだ。条件が分からないうちに作戦を組んでも仕方ない。条件が出たら、一気に組む」

「了解」


 航が短く頷いた。


 蒼真は自分の席で、メンテナンスノートを開いた。新しいページに、一行だけ書いた。


『後藤先生が動いた。今度は、忘れないんだ』


 その一行の下に、何も書き足さなかった。ペンを置いて、窓の外に目を向ける。


 秋の空は澄んでいた。遠くに、立川ダンジョンの管理棟の屋根が見える。あの奥に、ダンジョンの入口がある。今は探索中止で、ゲートは閉められているはずだ。


 ――次にあのゲートをくぐるとき、六人は実習ではなく、実戦に向かうのかもしれない。


 そう思っても、蒼真の手は震えなかった。


 震える代わりに、弓を握る仕草だけが、膝の上で小さく繰り返された。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。