第67話 第3層へ
変異個体のいた広間を大きく迂回してから二十分ほど。紅葉が足を止めた。
「班長」
「何が見える」
「右の壁沿い、通路が下に続いてる。階段状。空気の流れが、ちょっと冷たい」
蒼真はその場所に近づいた。
通路は緩やかに下向きへ傾斜していた。岩の段差が不規則に続き、階段のような形を作っている。足元から昇ってくる空気は、たしかにひんやりしていた。
第1層から第2層への降り口と似た構造だったが、一つだけ違う。上級生の実習レポートにあった「気温の低下が体感できる」という記述は、降り口の段階ですでに現れていた。
蒼真は矢筒の矢を確認した。残十九本。矢羽根の状態を指先で撫で、湿気がないことを確かめる。気温が変われば湿度も変わる。矢羽根が湿れば飛翔時の抵抗が変わり、軌道に狂いが出る。弓術士としてこういう細部を気にする習慣は、入学前から祖父に叩き込まれていた。
「紅葉、降り口の先、どのくらい見える」
「十五メートルくらいまでは見えてる。その先は岩壁がカーブしてて、見通しが利かない。魔物の気配は近場にはない」
「よし」
蒼真は六人を振り返った。
「第3層に降りる。偵察のみ。交戦は極力避ける」
五人が頷いた。悠斗は槍を肩に担ぎ直し、航は長剣の柄に手をかけた。里奈が杖を握り直す。真帆が《光球》の光量を上げた。紅葉が先頭に立つ。
後藤が最後尾で、静かにバインダーを閉じた。
「降りるぞ」
蒼真の号令で、七人が階段状の通路を降り始めた。
◇
足が第3層の地面に着いた瞬間、蒼真の肌が変化を拾った。
冷たい。
第2層まではなかった。あったとしても、気づけないほど弱かったのだろう。ここでは空気の冷えがはっきりと肌に触れてくる。
息を吸い込む。鼻腔を通る空気が冷たく、吐く息が白くなりかけた。完全な白い息とまではいかないが、「低い」どころではない。体感では外の秋の夜よりも冷えていた。
蒼真は腕を一度擦った。制服の下の肌に鳥肌が立っている。
「……寒いな」
悠斗が呟いた。
「ダンジョンの中でこんなに気温差があるのか」
「第3層以降は環境が変わると教本にあったが、想像以上だな」
航が短く返した。
天井を見上げる。
高い。
第2層でも「高い」と感じた天井が、ここではさらに遠い。真帆の《光球》が最大光量で照らしても、天井の面は見えない。暗がりがどこまでも上に続いている。
そして通路の幅。約五メートル。第2層の四メートルよりさらに広い。弓の射線を左右に振る余裕が、一段増える。
だが、通路の構造が複雑だった。
降り立った地点から先へ進むと、通路がすぐに三方へ分岐していた。左、正面、右。それぞれの通路が緩やかにカーブしていて、十メートル先も見通せない。
「……迷路みたいだ」
蒼真は呟いた。
第1層は比較的直線的な通路が多かった。第2層も分岐はあるが、広間と通路の繰り返しで地形の把握は難しくなかった。第3層は、入り組み方のレベルが違う。
「方向感覚、持ってかれそう」
悠斗が左右を見渡す。
「紅葉の索敵がないと、ここでは目が利かないな」
蒼真は紅葉を見た。
「紅葉、全方位索敵、どこまで届く」
「半径五十メートルくらいまでは安定して取れる。班長、右の通路の先に広間がある。三十メートルくらい」
「魔物反応は」
「三体。ハイゴブリン二体、ゴブリン一体。あ」
紅葉の声が、一段低くなった。
「どうした」
「ハイゴブリン、第2層の通常種と外見は同じに見えるんだけど……動きが速い。棍棒を振るテンポが、第2層のやつらの一・五倍くらいある」
蒼真の背筋が引き締まった。
上級生のレポートにあった通りだ。外見は同じ。だが動きが一段速い。
「あと、三体がまとまって広間の中を歩いてる。巡回してるみたいな動き。集団行動だ」
「単体で出ないって情報、当たってたか」
「当たってる。バラバラに散ってない。三体がセットで動いてる」
蒼真は一拍考えた。
交戦は極力避ける。後藤の設定した実習目標だ。しかし、第3層の戦闘データは取りたい。実際に撃ち合わなくても、観察だけで価値はある。
「広間に入らない。遠巻きに目視で確認する。紅葉、壁際から覗ける位置まで行ってくれ」
「了解」
◇
紅葉が壁沿いを音もなく進み、広間の入口手前で壁の隙間から目だけを出した。
蒼真と他の五人、そして後藤は、三十メートル離れた通路の奥に身を潜める。
一分ほどして、紅葉が戻ってきた。
「三体、確認。ハイゴブリン二体は角二本。体格は第2層の通常種と変わらない。棍棒持ち。ゴブリンは一体、ハイゴブリンの後ろについて歩いてる。動きのテンポは、さっき言った通り明らかに速い」
「知能はどうだ」
「分からない。ただ、巡回行動してる時点で、少なくともゴブリンよりは賢い。広間の中を決まったルートで歩いてるように見えた。通路を警戒してる感じ」
蒼真はメンテナンスノートを開き、紅葉の報告をそのまま走り書きした。
『第3層・広間一(右通路の先)。ハイゴブリン二体+ゴブリン一体。巡回行動。棍棒のテンポ一・五倍。外見は第2層通常種と差異なし。集団行動。後方警戒の動きあり』
「戦わなくても、情報は取れたな」
蒼真はペンを止めて、六人を見渡した。
「もう一つ、別の通路の広間を覗いて、地形の傾向を把握する。それから帰ろう」
◇
正面の通路を五十メートルほど進み、別の分岐を経て、二つ目の広間を見つけた。こちらは魔物の気配もなく、紅葉の索敵で安全を確認してから、六人が中に入った。
第3層の広間。
楕円形の空間だが、第2層の広間よりもさらに広い。長径三十メートル以上。天井は相変わらず見えない。壁は第2層よりも色味が暗く、ところどころに水が染み出して小さな水溜まりを作っている。床は平坦ではなく、大きな段差や岩の隆起が点在していた。遮蔽物として使えそうだ。
「……ここ、戦闘になったら、遮蔽物が多い」
蒼真が小声で言った。
「弓にとっては、いい面と悪い面がある。射線を取りやすい角度がある一方で、敵も隠れやすい」
「紅葉の索敵が活きるな」
航が頷いた。
「隠れた敵を先に見つけられれば、先制が取れる」
「里奈の《氷壁》も使えそう。段差と段差の間を氷壁で塞げば、敵の移動ルートを制限できる」
「……はい。やれると、思います」
里奈が頷いた。声に迷いはなかった。
後藤が広間の壁際を歩きながら、バインダーに地形のスケッチを描いていた。教員としての観察と、元探索者としての地形分析。その二つが同時に進んでいるのが見て取れた。
「神代」
「はい」
「この広間は覚えておけ。第3層で戦闘が発生した場合、広間の地形が第2層よりも戦術に影響する。段差、遮蔽物、水溜まり。全部、お前の矢の軌道計算に関わる」
「了解です」
蒼真は広間の中を歩き回り、主要な段差の位置と高さをメンテナンスノートに記録した。北壁の段差は高さ一メートル。ここに立てば、広間全体を俯瞰しながら射撃ができる。東側の岩の隆起は射線を阻害するが、小転移でこの隆起の裏に飛べば。
いや。
蒼真は頭の中で浮かびかけた配置図から、小転移のピースを外した。まだ、その段階じゃない。
◇
第3層に滞在した時間は、合計で約二十分。
二つの広間と三つの分岐通路を確認した。ハイゴブリン三体とゴブリン一体を遠巻きに観察し、地形情報をノートに記録した。それ以上の深入りはしなかった。
「帰るぞ」
蒼真が号令を出すと、六人の表情が少し緩んだ。偵察任務を無事に完了した安堵と、未知の階層に足を踏み入れた達成感が混ざっていた。
降り口の階段を登り、第2層に戻る。気温が一段上がるのが肌で分かった。第3層の冷たさに慣れた身体には、第2層の空気がぬるく感じる。
「第3層、行ったな俺たち」
悠斗が息をついた。
「Sクラス以外の一年生で第3層に足を踏み入れたのは、たぶん俺たちが最初だぞ」
「言い過ぎだ、悠斗。他の班も秋の実習で来てる可能性がある」
「いや、うちの組では間違いなく最初だろ」
「それは認める」
航がほんの僅かに笑った。
「行けた、ってだけで、嬉しいです」
真帆が控えめに、でも確かに笑った。
里奈は杖を胸に抱えたまま、静かに頷いていた。その頷きははっきりしていた。
蒼真は六人を見渡した。
六人で、第3層に立った。
五月に初めてダンジョンへ入ったとき、第2層は「迷い込んだ場所」だった。七月の前期試験では「挑みにいった場所」になった。そして今日、第3層は「偵察しにいった場所」として記録された。
同じ六人が、三ヶ月ごとに一段ずつ深く降りている。
次にここに来るとき、六人はどんな形で戦うのだろう。
蒼真は弓のケースを肩にかけ直し、帰路を歩き始めた。
第2層を戻り、第1層を抜ける。地上のゲートが見えたとき、秋の午後の空気が眩しいほど鮮やかだった。
「帰還します」
蒼真が後藤に報告した。
後藤は頷いた。
「よし。帰るぞ」
ゲートを抜けた七人の影が、立川の秋の光の中に長く伸びていた。




