第61話 秋の実習概要
九月第三週、月曜日の一限目。
始業チャイムが教室のスピーカーから鳴り終わるのを待たず、後藤喜一郎は一年一組の教室に入ってきた。
いつものように、後藤は靴音を殺して教室に入ってきた。肩を丸めた足取りはだるそうなのに、蒼真には足元だけが妙にぶれていないように見えた。教卓にバインダーとチョーク箱を置く手つきも、普段とは違う。雑に放るのではなく、置く場所を一度見ていた。
「じゃ、ホームルーム」
後藤がチョークを手に取った。
「秋の探索実習の話だ」
教室の空気が変わった。三十人の生徒が、制服の襟を無意識に正す程度には引き締まる。窓際の蒼真の一つ前の席で、航の首の角度が変わった。
後藤が黒板に文字を書く。字は相変わらず雑だが、読めないほどではない。
「第2層:戦闘評価」
「第3層:偵察的到達」
「前期の実力考査で、お前たちは第2層まで降りた。今度はその先だ。第2層での戦闘を正式に評価する。併せて、第3層の偵察的到達が目標になる」
後藤はチョークを置いて、教室を見渡した。
「第3層はカリキュラム上、一年生の到達限界だ。行けること自体に価値がある。ただし、交戦は極力避けろ。入って、見て、環境を記録して戻る。それができれば満点だ」
真ん中の列の前寄りから、悠斗が手を挙げた。
「先生、第3層ってどんな感じっすか?」
「気温が第一・2層より低い。通路が入り組んでいて、天井はさらに高い。魔物はハイゴブリン系が基本だ。第2層より動きが速く、一撃も重い。しかも単独では出ない。必ず集団で動く」
「集団、ですか……」
里奈の声が、教室の真ん中あたりから聞こえた。
「だから、第一・2層以上に警戒に重きを置くこと。後衛組は後方からの奇襲に備えること。集団戦闘の経験はお前たち自身にとって価値のあるものとなるだろう」
後藤は一拍置いて、付け加えた。
「それと、今回の実習には、俺も参加する」
教室のざわめきが、一瞬だけ止まった。
後藤が蒼真に目を向けて告げる。
「各班に随行教官が一人ずつつく。これは前期実力考査と同じだ。前期のお前たちの随行は橋本教官だったな。今回、第5班は俺が随行する」
蒼真は椅子の背もたれに体重を預けていた姿勢を、無意識に正した。
後藤が随行する。それだけで、教室の空気は普段と違った。担任が外で待つのではなく一緒に潜る理由を、蒼真はまだ測りかねていた。
「先生、志願っすか?」
悠斗が訊いた。
「ああ、志願した。他の教員と差し替えてもらった」
「なんで」
「……お前たちの班は、見ていて面白い。弓術士の班長に前衛二枚。斥候、氷魔法、白魔法も揃っている。バランスがいい。動きも読みにくい。第3層偵察にどう対応するかも、担任として間近で見たい。それは嘘じゃない」
後藤がバインダーを軽く叩いた。
「だが、もう一つ、理由がある。ま、それはホームルームの範疇じゃねえ。気になるなら、放課後にでも聞きに来い」
蒼真は、後藤がそう言った瞬間、既に心の中で「行く」と決めていた。
◇
四限目が終わった直後。蒼真は悠斗と航に「ちょっと職員室行ってくる」と告げ、階段を二段飛ばしで降りた。
職員室の後藤のデスクは、いつ来ても書類の山で散らかっている。だが散らかり方には法則があるらしく、後藤自身はどの山のどこに何があるか把握しているようだった。冷めたコーヒーカップが山と山の谷間に挟まっている。
「早いな、神代」
後藤がこちらを見ずに言った。バインダーに何かを書き込んでいる。
「先生。もう一つの理由、聞きに来ました」
「座れ」
来客用の丸椅子を指で示される。蒼真は腰を下ろした。
後藤がペンを置き、デスクの引き出しを開けた。
中から、一冊のバインダーが出てきた。使い込まれた角、何も書かれていない表紙。後藤はそれをテーブルの上に置いた。表紙の右上に、黄色い付箋が一枚。
後藤の筆跡で。
「今度は忘れない」
蒼真の目が、その付箋に釘付けになった。
「五月の、お前たちの初ダンジョン実習の帰りだ」
後藤はコーヒーカップに手を伸ばし、一口飲んで、顔を僅かにしかめた。冷めすぎたらしい。
「お前たちの報告の中に、『角が一本のハイゴブリン』という記述があった。あのとき俺は、何かが引っかかった。ハイゴブリンの角は二本が基準だ。一本は――通常、見ない」
蒼真は黙って聞いた。五月の初探索実習の帰還後。あのとき後藤が「……一本?」と呟いた場面は、蒼真の記憶にも残っている。
「で、そのまま急用で呼ばれて、忘れた」
後藤の声に、ほんの僅かだが、自嘲が混じった。
「七月の前期実力考査で、お前が体色の暗いハイゴブリンを目撃して報告してくれた。そのとき、ようやく五月のことが繋がった。で、俺は探索者協会経由で探索省に報告を上げた」
「結果は」
「『個体差の範囲』で棚上げだ」
後藤が付箋を指先で軽く撫でた。
「学院の一年生が見た異常個体なんぞ、プロの現場感覚からすれば些事にすぎない。『よくある話です、報告ありがとうございました』で、終わった」
蒼真の拳が、膝の上で握り込まれた。
「だから」
後藤がバインダーの付箋をもう一度、ゆっくり撫でた。
「秋の実習は、俺が行く。第2層で自分の目でもう一度確認する。五月の角一本と、七月の暗色個体。それらが『個体差』じゃないことを、証拠を積み上げて証明する。――そのためにお前たちの班に随行を志願した。それがもう一つの理由だ」
「……」
蒼真はしばらく後藤を見つめた。後藤の目は、普段の昼行灯のそれではなかった。薄暗い職員室の蛍光灯の下で、静かな鋭さを帯びていた。
「先生」
「なんだ」
「俺、先生がそうしてくれるの、嬉しいです」
後藤の目が、一瞬だけ大きくなった。
「何でだ」
「忘れなかった、ってことだから」
蒼真は自分の膝を見下ろした。五月のあの日、後藤が「……一本?」と呟いた瞬間のことを、蒼真は覚えている。そのまま急用で席を立った後藤の背中も、覚えている。
あの「一本」が、今日、この付箋になって、引き出しの中で待っていた。
「……そうだな」
後藤は唇の端を、ほんの僅かに動かした。笑ったとも苦笑いとも判断しがたい程度に。
「今度は、忘れない」
後藤はバインダーを引き出しに戻した。付箋の角をきちんと整えて、引き出しを静かに閉めた。
閉まる直前、蒼真の目にもう一度、「今度は忘れない」の文字が入った。
◇
職員室を出て、廊下を歩く。
四限目と五限目の間の短い休憩時間。窓の外では中庭を一年生たちが横切っていく。
蒼真は歩きながら、呼吸をゆっくり整えていた。
後藤が秋の実習に随行する。その理由が分かった。
第2層で変異種の有無を確認し、記録し、探索省に三度目の報告を上げる。後藤はそのために来る。
同時に、第5班の実習目標もある。第2層での戦闘評価。第3層の偵察的到達。新連携のフォーメーションBの実戦試行。魔力集中射『弐』の初投入。
全部が、秋の実習に重なっている。
――盛りだくさんだ。
蒼真は自分が笑っているのに気づいた。不安がないわけじゃない。だが不安よりも先に、「やってやる」という高揚が足を前へ進ませる。
「神代」
渡り廊下の先から、声が飛んできた。
須藤大河だった。
Sクラスの教室は別棟の方にあるはずだが、須藤はなぜか一般クラスの棟の廊下を歩いていた。長身の剣士が、渡り廊下の窓を背にして立っている。秋の日差しが逆光で須藤の輪郭を削っていた。
「須藤、こっちの棟に何の用だ」
「職員室に出す書類がある。秋の実習、そっちも同じ日程だと聞いた。第3層偵察まで」
「ああ。Sクラスも同じか」
「同じだ。Sクラスは別の区域を探索するから鉢合わせはないだろうが」
須藤が渡り廊下の手すりに背中を預けた。腕を組んだ姿勢が、どこか余裕を感じさせる。
「お前たちの随行教官は?」
「後藤先生」
「後藤先生?」
須藤の片眉が上がった。
「担任が随行するのは珍しいな」
「志願したらしい」
「…………そうか」
須藤はしばらく蒼真を見つめていた。何か察しているのか、ただの好奇心なのか、蒼真には読めなかった。
「楽しみにしてる」
須藤が短く言った。
「何がだ」
「実習の結果。お前がダンジョンでどう動くか、一度くらい見てみたいと思ってたんだ。今回は同じ日程だから、結果の報告書くらいは目に入る」
「見ても面白くないと思うぞ。弓でチマチマ射ってるだけだ」
「嘘つけ。お前のチマチマは、他の奴のチマチマとは違うだろ」
須藤が短く笑った。悪意はない。純粋な好奇心から来る笑いだった。
蒼真はそれに苦笑で返した。
「じゃ、実習でいい結果出せるようにする」
「ああ。期待してる」
須藤が身を翻し、別棟の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、蒼真は秋の実習への期待がまた一つ増えたのを感じた。
◇
教室に戻ると、悠斗が「何の話してきた?」と訊いてきた。
「実習のこと。あと、先生が来る理由」
「理由?」
「説明はするけど、長くなるから放課後の作戦会議でまとめて話す。とりあえず後藤先生は、俺たちの味方だ」
「知ってるよ、そんなの」
悠斗がからからと笑った。
「先生、酒飲むとだらしねえけど、やるときはやる人だよな」
「飲む場面見たことあるのか」
「想像。雰囲気的に」
「否定はしない」
航が後ろから会話に入って、三人同時に吹き出した。




