第59話 九月の弓道場
本日より、第三章イレギュラー編の開始となります
九月の朝の空は、夏よりも一段、遠くまで抜けて見えた。
夏休みの間に何度も通った屋内訓練場の入口を、神代蒼真は制服姿のままくぐった。新学期初日の朝、始業式を終えた直後、真っ先にここに来たのは蒼真が一番だった。
床の特殊素材が靴底を静かに受け止める。天井まで十メートル以上ある空間に、わずかな魔力の気配が漂っている。壁面の衝撃吸収素材が蒼白い光を帯びて、訓練場全体をぼんやりと照らしていた。
――ここから始まる。
蒼真は弓のケースを下ろし、ファスナーを開けた。和弓の握りに手をかけた瞬間、指先に弦の張力が伝わってくる。夏休みの間に何千回と引いた感覚が、手のひらに染みついていた。
弓を取り出し、一度だけ、的に向かって素引きする。弦を引き、止める。魔力を乗せない、ただの確認。
――いい。
五ヶ月前、入学して初めてこの訓練場に立ったときとは、引く力がまるで違う。夏を越えて、身体が一つ、弓に近づいた。
「うぉーす! 蒼真、一番乗りかよ!」
橘悠斗の声が、訓練場の入口から響いた。
振り返ると、橘悠斗が槍を肩に担いでこちらに歩いてくる。その半歩後ろで、宮瀬航が長剣を鞘ごと腰に佩いた状態で、ポケットに片手を突っ込んでいた。
「始業式終わった瞬間に消えてたもんな、お前」
航がため息まじりに言った。
「先に訓練場の空気を確かめたくてさ」
「弓術士っぽい理由で来られると、反論できねえんだよなあ」
悠斗が槍を回しながら笑う。
「反論もなにも、お前だって直行してんだろうが」
「俺は蒼真が行くっていうから来ただけ」
「嘘つけ。始業式の挨拶が終わった瞬間に立ち上がったのはお前だ、悠斗」
「航、記憶力が無駄にいいぞ」
「事実だろ」
三人の声が訓練場の天井に反響する。五月に初めてここで顔を合わせた頃に比べれば、声の張り方も、テンポも、完全に噛み合っている。三人揃うとうるさい。担任の後藤喜一郎に言われたのは、もう何回目だったか。
「で、他の三人は?」
蒼真が訊いた。
「紅葉が来るって返信してた。里奈と真帆も、たぶん」
悠斗がスマホを振る。
「じゃ、揃うまで待つか。いや、待ってる間にちょっと引いとくわ」
蒼真は弓を構え、的に向かって正対した。
◇
十分後。
鬼塚紅葉が黒髪ショートカットを揺らして訓練場に飛び込んできた。
「お待たせー! あ、班長もう引いてるし」
「おう。五本だけ」
「的のど真ん中、五本とも。ブレてないじゃん」
紅葉が的を覗いて目を丸くする。蒼真は矢を回収しながら「夏休みの仕上がりを見たかっただけだ」と答えた。
その後ろから、中村里奈と小林真帆が並んで歩いてくるのが見えた。里奈はボブカットの髪をきっちり耳にかけて、杖を右手に握っている。真帆は栗色のポニーテールを揺らして、白魔法使い用の杖を腰に差していた。
「おはようございます、班長」
里奈がぺこりと頭を下げた。声はまだ小さい。けれど、五月に第5班が編成された頃のように、手が震えてはいない。杖を握る右手も、背筋もまっすぐだった。
「おはよう、里奈。真帆も」
「おはようございます、神代さん」
真帆が柔らかく笑った。
「じゃ、揃ったな」
蒼真は弓を一度立てかけ、六人を見渡した。
「恒例の、夏休みの成果報告会といこう」
◇
訓練場の端の休憩スペース。充電ステーション横の長椅子とテーブルに、六人が円を描くように座った。
「じゃ、俺から」
蒼真はメンテナンスノートを開いた。夏休みの間に書き込みすぎて厚みが一・五倍になったノートの、最後の集計ページを示す。
「魔力集中射『弐』、安定率、八十五パーセント」
言葉にした瞬間、五人の視線がノートの数字に集中した。
「六月に始めた頃が六十パーセントだったから、二ヶ月半で二十五ポイント上がった。一発撃つごとに記録して、最終週の百発中八十五発が『弐』の威力に到達。通常射の命中率は九十六パーセントに戻した」
「九十六パーセントって、百発で外れるの四発だけってことか」
悠斗が身を乗り出す。
「まあ、的が動かなけりゃ、の話だけどな。実戦だともっと落ちる」
「それでもヤベえよ、蒼真」
悠斗の目がきらきらしている。
「『参』は?」
航が冷静に訊く。
「――二十パーセント」
蒼真は苦笑した。拳を軽く膝の上で握り直す。
「正直、制御できる気がしない。魔力の込め方が『弐』の倍近くなるんだけど、矢にうまく乗り切らなくて、弦から離れた瞬間に軌道がブレる」
「つまり、まだ先の話か」
「ああ。探索実習じゃまだまだ使えない。実戦投入できるのは『弐』まで」
「消耗は?」
航が続けて訊く。
「重い。『弐』一発で、通常射の、体感で何発分もの魔力が飛ぶ。連発は物理的に無理」
「じゃあ、通常射で削って、ここぞで『弐』か」
「そう。緩急で撃つ」
航が顎に手を当てて頷く。「蒼真の戦術コンセプトと、俺の《斬撃強化》の出力調整の考え方が揃ってきたな」
「ああ」
蒼真は拳を握りながら笑った。
「で、俺の番な!」
悠斗が手を挙げた。
「《脚力強化》、持続三十秒!」
「おお」
「一分の壁の半分まで来た! これ、夏の走り込みが効いた。航と一緒に毎朝三キロ走ったんだぜ」
「つきあわされた側の俺の方が体重減ったけどな」
航がぼやく。蒼真は思わず声を出して笑った。
「航は?」
「《斬撃強化》の出力調整。八割出力で安定的に戦える状態まで持ってきた」
「八割って、なんで全力じゃないの?」
紅葉が首を傾げる。
「全力をずっと出したら、三戦目で握力が落ちて剣を持てなくなる。前期試験のときにそれが課題だった。八割を基本にして、ここぞで全開。蒼真の魔力集中射と同じ考え方だ」
「確かに、連携のコンセプトが合ってきてるな」
蒼真が頷く。
紅葉が次に手を挙げた。
「はいはい、私の番。索敵の切替速度、広域から目標への切替を二秒から一秒に縮めた」
「一秒?」
「そ。実戦だとこの一秒がでかいの。広域で周囲を見渡して、『いた』ってなった瞬間に目標に切り替える。そのタイムラグが半分になった」
紅葉が自信ありげに胸を張る。蒼真は素直に頷いた。紅葉の索敵情報は第5班の目だ。目が速くなれば、班全体が速くなる。
「すげえよ、紅葉。お前の索敵、俺たちの戦術の起点だからな」
「班長に褒められると照れるやつ」
紅葉がにっと笑った。
◇
里奈の番。
杖を膝の上に置き、里奈は背筋をそっと伸ばした。
「私は……《氷矢》の精度を、上げました」
声はまだ細い。それでも最後まで、一度も途切れなかった。
「五十メートル先の、十センチ四方の的に……八割、当てられるようになりました」
「八割!?」
悠斗が叫んだ。
「五十メートルで十センチって、ほぼスナイパーじゃん!」
「い、いえ、そこまでは……」
「いや、すごいぞ里奈」
蒼真の声は、自分でも驚くほど強く出た。
「《氷矢》は着弾時に凍結効果がある。八割の精度で五十メートル先の急所に撃ち込めるなら、それは立派な火力だ」
「火力……」
里奈が呟いた。自分で「火力」と形容されたことに、少し戸惑っているようだった。
「お前の《氷矢》がなきゃ、前期試験のハイゴブリンの足を止められなかった。あれがなかったら、俺の二射目のこめかみ命中もない。里奈の精度向上は、班の戦術の精度向上と同義だ」
里奈の頬が、わずかに赤くなった。杖を握る指先に力が入っているのが、蒼真の位置からも見えた。
「……ありがとう、ございます」
里奈の「ありがとう」は、五月のそれとは違って聞こえた。語尾はもう震えていない。杖を握る指先にも、逃げ出しそうな力みはなかった。
最後に真帆。
「私は、《小回復》の回復量を三割ほど向上させました。傷口への魔力集中の効率を見直して、無駄な拡散を減らすイメージで……」
「三割は大きいな」
「前期の試験で俺の右腕に使ってくれたとき、回復がすっと入ってくる感じだったけど、あれが三割速くなるってことか」
「たぶん、そういうイメージです」
真帆がくすっと笑った。
「あと、もう一つ。実は、新しい魔法の話もあるんですけど、それは明日以降で、いいですか?」
「新魔法?」
蒼真が目を見開いた。
「里奈ちゃんも、です」
真帆が里奈に目配せした。里奈が小さく頷く。
「明日、訓練場で見せます」
真帆が話を一日だけ先へ送る。蒼真は「分かった、楽しみにしてる」と応じながら、ペンを持つ指に力が入るのを感じた。
◇
六人分の成果が出揃った。蒼真はメンテナンスノートの新しいページに、今日の日付を書き入れた。
『九月一日。新学期。第5班成果確認。全員の夏の成果。確かに上がっている。秋の実習が楽しみだ。』
書いているうちに、ペン先がいつもより軽く走っていた。書き終えると、蒼真は顔を上げて五人を見渡した。
悠斗が槍を回して笑っている。航が長剣の鞘を撫でている。紅葉が腰のショートソードの新しい鞘を見せびらかしている。里奈が杖を胸に抱えて静かに目を伏せている。真帆が里奈の肩を軽く叩いている。
――この六人で、もっと上に行ける。
その確信が、腹の底からゆっくり押し上がってくる。蒼真は無意識に、弓袋の肩紐を握り直していた。
◇
午後の下校時間。始業式後の半ドンで、蒼真は悠斗・航と学院の北門で別れた。二人は柴崎町の寮方面、蒼真は立川ダンジョン駅から多摩モノレールで立川駅へ、そこから南東へ歩いて錦町のマンションに帰るいつものルート。
立川駅の南口を出て、見慣れたケヤキの並木道を歩く。九月の午後、夏の残照がアスファルトに薄く広がっている。セミの声はもう聞こえない。代わりに、秋の虫の声が住宅街の草むらから聞こえ始めていた。
五十メートルほど先に、見覚えのある背中があった。
金色のツインテールが、歩くたびにわずかに揺れている。
天城凛。
蒼真の歩幅が、ほんの一歩分、乱れた。
夏休みの終わり、錦町のコンビニの前で偶然遭遇した。初めて一対一で会話した相手だ。「もっと上に行くつもりだよ」と蒼真が言い、凛は「まあ、努力はしてるみたいだけど」と返して去った。あの会話は、まだ耳の奥に残っている。
追い越すか、後ろを歩き続けるか。
蒼真は結局、速度を変えなかった。自然体で歩き続ける。歩幅の差で、徐々に距離が詰まっていく。
住宅街の角を曲がったところで、凛が肩越しに振り返った。
「……神代」
碧い瞳が、蒼真を一瞬、捉えた。
「天城。久しぶり」
「夏休みの終わりに会ったばっかりでしょ」
「それもそうなんだけど、学校が始まると、なんか、改めて『久しぶり』って言いたくなるんだよな」
「意味わかんない」
凛はすぐに前を向いた。だが、歩く速度は蒼真と同じまま。横に並ぶ距離感を、凛の側から拒絶していない。
数十秒、二人の足音だけが並んだ。
信号で止まったとき、凛が前を見たまま口を開いた。
「……夏、どのくらい引いたの?」
蒼真は少し驚いた。矢の話だ。
「百射メニューを、だいたい、五十五日くらい」
「五十五日で五千五百射?」
「いや、百射は最低ラインで、調子がいい日は百五十から二百。合計は……一万二千くらいか」
「一万二千」
凛が一瞬、こちらを見た。碧い瞳が鋭さを増す。評価するような、計量するような目。
「……相変わらずバカみたいな量ね」
「バカみたいって言うな」
「事実でしょ。普通の弓使いは――いないけど――そこまで引かない」
「普通の弓使いがいないから、普通が何本か分からないんだよ」
蒼真は苦笑した。凛の口元が、ほんの僅かに動いた。笑ったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
「魔力集中射の方は」
「八割五分、安定した」
「ふうん」
凛はそれ以上、言葉を足さなかった。けれど、その「ふうん」は前より素っ気なく聞こえなかった。蒼真はそう受け取って、勝手に少しだけ背筋を伸ばした。
信号が青に変わった。
凛が先に踏み出す。蒼真も続く。次の角で凛が左に曲がる。蒼真の家は、もう一本先を左。
「じゃ」
「ああ、じゃあな」
凛がすっと角を曲がっていく。金色のツインテールが夕方の光を反射して、一瞬、蒼い軌跡のように見えた。さすがに蒼真の思い過ごしだった。
角の先で凛の姿が消えた後、蒼真はしばらくその場に立っていた。
さっきメンテナンスノートに書いた一行が、頭の中でもう一度走った。
「秋の実習が楽しみだ。」
その「楽しみ」の中身に、凛との短い会話の余韻も混ざっていた。
――秋が来る。
自分の弓で、どこまでいけるのか。
蒼真は弓のケースを肩にかけ直し、自宅への最後の角を曲がった。




